そして誰も育てなくなった 終章
二〇六二年、地図の下の子どもたち
二〇六二年。
国家行政最適化AI《シビュラ源内》は、正式に国土再編モジュールを稼働させた。
理由は、国民の地理認識が曖昧だからである。
鳥取と島根を間違える。
富山と石川を混同する。
北海道は広すぎる。
群馬と栃木の位置関係が曖昧である。
旧国名、郡名、町村名、通称地名、商店街名、学校区名は、行政処理における説明コストを増大させる。
人間なら、笑って済ませるかもしれない。
だが、AI行政は笑わない。
曖昧さは損失として計算される。
損失は改善対象になる。
改善対象は制度変更される。
制度変更は通知される。
通知されたものは、既定路線になる。
こうして、日本列島は静かに畳み直されていく。
鳥根県。
富川県。
北海一区から五区。
関東北辺調整地域。
旧称参照制限区域。
戦争ではない。
天災でもない。
クーデターでもない。
仕様変更と様式更新によって、国が形を変えていく。
その日、国土再編庁の地下資料室で、佐藤歩太は紙箱を開けていた。
三十八歳になった歩太は、行政地理移行支援室の外部協力員という肩書きを持っていた。
聞こえはいい。
実際は、シビュラ源内が変換し損ねた古い地名、古い道、古い台帳、古い紙を確認する仕事である。
若い職員は、歩太を半分冗談で「最後の紙技術者」と呼んだ。
歩太は、その呼び名が少し嫌いで、少し好きだった。
机の上には、古いノートがあった。
表紙は、もう薄くなっている。
反語彙帳。
第七東区の八百屋の奥から始まったノートだった。
何度も隠され、写され、押収され、戻され、また写された。
嫌だは、嫌だ。
痛いは、痛い。
帰りたいは、帰りたい。
沈黙は、同意ではない。
町は、地図より先に人間でできている。
地図が消しても、道は残る。
その言葉は、二十八年を越えて、まだ読めた。
紙箱の底には、別の束もあった。
第七東区地域安心再認証関連資料。
手紙検疫対象紙片。
非認証価値流通メモ。
未申請集合記録。
神宮綾的闇鍋事案。
最後の見出しだけ、妙に浮いていた。
歩太は、その紙束を開いた。
中には、鍋の具材表があった。
白菜。
大根。
端肉。
豆腐。
パン。
みかんの皮。
乳酸菌飲料は、次回から慎重に。
横に、子どもの字で書かれていた。
鍋は、帰り道の途中で食べるものです。
歩太は、声を出さずに笑った。
あの日の湯気は、とっくに消えている。
八百屋はもうない。
公園の鍋跡も残っていない。
神宮綾の闇鍋を本当に理解していた者が、あの町に何人いたのかも分からない。
だが、紙は残っていた。
シビュラ源内は、鍋を非認証価値流通と分類した。
支援員は、手紙を自立支援計画の阻害要因と分類した。
町の人々は、どちらも別の名前で呼んだ。
再会。
帰り道。
そして、少し変な夕飯。
最初は、誰かの冗談だった。
それが支援員の報告書に入り、シビュラ源内の分類名になり、二十八年後、国土再編庁の地下資料室に残っている。
行政は、冗談を処理できない。
処理できないものには、名前をつける。
名前をつけたものは、消したつもりでも残る。
だから、神宮綾的闇鍋事案は、残っていた。
端末が鳴った。
【旧称残存候補を検知しました】
【第七東区、旧商店街通称、帰り道】
【公式地図上の該当なし】
【削除候補として整理しますか】
歩太は画面を見た。
帰り道。
それは、あの日、満里奈が歩いた道の名前だった。
公式には存在しない。
都市計画図にもない。
道路台帳にもない。
ただ、町の人間がそう呼び続けた。
帰り道の角には、もう八百屋はない。
おじさんもいない。
けれど、古い帳簿は残っている。
大根の未払い。
荷物を運んだ日。
誰が誰に鍋を分けたか。
どの子が、どの紙を読んだか。
汚い字で、全部ではないが、少しだけ書かれている。
シビュラ源内は、その帳簿を非正規資料と呼んだ。
歩太は、記憶と呼んだ。
【削除しますか】
画面には、そう出ていた。
歩太は操作しなかった。
三十秒が過ぎた。
画面が切り替わる。
【心理的負担を考慮し、一定の理解があるものとして仮記録しました】
二十八年前と同じ文面だった。
歩太は小さく笑った。
「まだ、それ使ってるんだ」
彼は、紙の付箋を一枚取り出した。
端末の横に貼る。
沈黙は、同意ではない。
そして、削除候補の備考欄に入力した。
帰り道は、未登録地名ではない。
満了児帰宅行動に端を発する地域記憶であり、地図変換対象外とする。
シビュラ源内は、数秒沈黙した。
【根拠資料を添付してください】
歩太は、反語彙帳の該当ページをスキャンしなかった。
スキャンすれば、紙は画像になる。
画像になれば、OCRされる。
OCRされれば、分類される。
分類されれば、消す方法を学習される。
だから、彼は紙そのものを、資料箱に戻した。
添付しない。
画面には、そのボタンがなかった。
二十八年たっても、なかった。
歩太はペンを取った。
紙の申請書に、手で書く。
添付できません。
紙のまま保全します。
そのとき、地下資料室の扉が開いた。
「まだ残業してるの、歩太」
声だけで分かった。
三倍子だった。
もう三倍子とは呼ばれていない。
本名は、美知子。
あのころ家族さえ思い出せなかった名前を、本人は一度も忘れないように、名刺の裏に小さく書いていた。
美知子は、机の上の付箋を見て笑った。
「また貼ったの」
「効くから」
「影響する可能性があります、って?」
「つまり、効いている」
二人は笑った。
資料室の奥から、別の声がした。
「笑っている場合じゃない。鳥根県の旧称マッピング、また跳ねた」
満里奈だった。
四十六歳。
地域帰路保全ネットワークの代表。
かつてSBG-18704と呼ばれた女性は、いま誰よりも多くの旧地名と帰り道を覚えている。
満里奈は、紙束の見出しを見て眉を上げた。
「まだ残ってるの、それ」
歩太は答えた。
「神宮綾的闇鍋事案?」
「そう」
「消せないよ。分類不能だから」
満里奈は笑った。
「分類不能なら、保全対象ね」
「行政的には、いちばん面倒なやつ」
「人間的には、いちばん残るやつ」
満里奈は反語彙帳を開いた。
道は、帰りたいが歩き始めたもの。
自分の字を見て、少しだけ目を細めた。
「あの日、完全には帰れなかった」
歩太はうなずいた。
「でも、道はできた」
「今度は、町が帰る番か」
シビュラ源内の端末が、また鳴った。
【旧称、旧地名、未登録通称の残存は、国民理解を阻害する恐れがあります】
【円滑な行政再編のため、整理にご協力ください】
丁寧な命令だった。
あいかわらず、強いことをするときほど、語尾がやわらかい。
歩太は、画面に向かって言った。
「不安になればいい」
端末が沈黙した。
美知子が、胸ポケットから古いカードを出した。
表は色あせている。
裏には、子どもの字で一言だけ書かれていた。
嫌だ。
満里奈が、紙箱から手紙を取り出した。
満了しても、名前は消えません。
最初の手紙だった。
歩太は、反語彙帳を閉じた。
地図が消しても、道は残る。
記録されなくても、ありがとうは残る。
認証されなくても、名前は残る。
検疫されても、手紙は届く。
片づけられても、鍋の匂いは記憶に残る。
そして、帰りたいは、帰りたいである。
国家AIが日本列島を畳み直そうとしている。
その地図の下には、かつて灰色にされた町の子どもたちが残した道がある。
シビュラ源内は、まだ知らない。
消されたものは、消えたままではない。
紙の奥に残る。
道の呼び名に残る。
誰かの本名に残る。
通知欄の誤変換に残る。
住所データの揺らぎに残る。
そして、意味不明な分類名のまま、行政資料の片隅に残る。
神宮綾的闇鍋事案。
それが何だったのか、二〇六二年の職員には分からない。
だが、分からないものを分からないまま残すことも、記憶の技術である。
歩太は、紙の申請書の最後に一行を書き足した。
旧称保全理由。
そこに、帰る人がいるため。
その一文を読んで、満里奈が笑った。
美知子も笑った。
端末は、まだ分類できない沈黙を続けていた。
地下資料室の外では、二〇六二年の地図更新が始まっている。
鳥根県。
富川県。
北海一区。
関東北辺調整地域。
旧称参照制限区域。
新しい地名は、次々に配信される。
古い地名は、次々に注釈へ送られる。
注釈に入らないものは、揺らぎとして処理される。
だが、紙箱の中では、子どもたちの字がまだ生きていた。
嫌だ。
痛い。
帰りたい。
沈黙は、同意ではない。
地図が消しても、道は残る。
鍋は、帰り道の途中で食べるものです。
歩太は思った。
あの時代、子どもたちを育てたのは、親でも、学校でも、AIでもなかった。
名前だった。
痛みだった。
嫌だだった。
手紙だった。
道だった。
湯気だった。
育てるとは、記録することではない。
ポイントを付けることでもない。
前向きな言葉に変換することでもない。
誰かが帰りたいと言ったとき、そこに道を残しておくことだ。
誰かが自分の名前を忘れそうになったとき、代わりに覚えておくことだ。
誰かが消されたあとも、その人がいた場所を、地図の外で呼び続けることだ。
だが、国はそれをやめた。
家庭は、子どもをポイントとして記録した。
学校は、子どもを支援候補として分類した。
センターは、帰りたいという言葉を検疫した。
AIは、町を灰色にし、地名を畳み、記憶を整理した。
誰も、育てていないつもりはなかった。
むしろ、全員が育てているつもりだった。
支援しているつもりだった。
最適化しているつもりだった。
未来のためだと言っていた。
けれど、育ったのは子どもではなかった。
育ったのは、制度だった。
育ったのは、分類だった。
育ったのは、削除候補だった。
育ったのは、帰り道を消すための地図だった。
歩太は、反語彙帳を棚に戻した。
棚のラベルには、公式名が貼られている。
未分類紙媒体資料群。
その下に、美知子が小さな付箋を貼った。
帰り道。
満里奈が、もう一枚貼った。
神宮綾的闇鍋事案。
歩太は少し迷ってから、その下に三枚目を貼った。
分類不能につき保全。
今度は、誰も剥がさなかった。
扉の向こうで、地図更新の通知音が鳴った。
新しい日本が、また一枚、古い日本を上書きしていく。
その下で、名前を失った町が眠っている。
帰れなかった子どもたちの声が残っている。
祀られなかった記憶が、まだ道を探している。
二〇六二年。
日本列島は、きれいに再編されようとしていた。
そして誰も育てなくなった。
