最後の技術者たち:ポイ活難民編(3)
第三話 検索される生活
人間は、検索しているつもりだった
文・武智倫太郎
あらすじ
消えゆくIT伝統芸を記録するはずだった。
だが、電子マネーとポイントが日常を覆った瞬間、物語はホラー小説へ変わった。
第一話では、元決済インフラ技術者の太田健二郎が、レジ横に並ぶ決済ロゴを「決済帝国の軍旗」と呼んだ。人々は得をしているつもりで、購買履歴、移動履歴、通院の影、薬局で出したポイントカードまでを経済圏へ差し出していた。
第二話では、自治体窓口がLINE役所へ移行していた。申請は便利になった。通知も早くなった。だが、任意のはずの民間アプリは、いつの間にか標準ルートになっていた。使えない者は遅い者として処理され、拒否した者は面倒な者として記録された。
その場で、元自治体基幹系システム技術者の山崎奨は言った。
「内容を見なくても、輪郭は見える」
その言葉の意味を、太田健二郎はまだ完全には理解していなかった。
理解することになったのは、翌朝である。
検索窓に、まだ誰も入力していないはずの言葉が浮かんでいた。
「ポイ活難民 認定条件」
本文
検索窓は、白かった。
白いから、人間は安心した。
そこには何も書かれていない。まだ何も入力していない。だから、その空欄は自分の意志で満たされる場所だと、人間は信じていた。
だが、検索窓は空白ではなかった。
そこには、すでに太田健二郎がいた。
前日に現金で支払った喫茶店の会計があった。薬局でポイントカードを出さなかった履歴があった。自治体のLINE申請ページを途中で閉じた記録があった。病院予約アプリの入力欄で止まった指先があった。高齢者向けスマホ講座の案内を開封せずに捨てた通知があった。
そこには、石橋トミもいた。
かつて石橋米穀店の女将だった八十二歳の女である。町内会の餅つきに米を出し、小学校の炊き出しに米を出し、商店街の祭りでは赤飯を炊いた女だった。だが、検索窓の中で彼女は、米屋の女将ではなかった。
高齢者。
紙申請希望者。
キャッシュレス未対応者。
地域ポイント未活用者。
支援対象候補。
それが、検索窓の中にいる石橋トミだった。
人間は、検索しているつもりだった。
だが、検索窓の側は、入力される前から人間を検索していた。
その朝、太田健二郎はスマホを手に取り、「ポ」と入力しかけた。
候補が出た。
「ポイ活難民 認定条件」
「ポイ活難民 給付対象外」
「ポイ活難民 LINE未連携」
「ポイ活難民 地域帰属ポイント」
太田は、その言葉を検索していない。
ポイ活難民という言葉は、昨日、商店街の喫茶店で口にしただけだった。記事になっているわけではない。メモに打ち込んだわけでもない。SNSに投稿したわけでもない。誰かにメールで送ったわけでもない。
喫茶店で話しただけである。
人間は、ここで安心のための呪文を唱える。
気のせい。
偶然。
アルゴリズム。
この三語を唱えれば、現代人はほとんどの怪異を見なかったことにできる。冷蔵庫が牛乳を勧めても、動画アプリが昨日話した映画を出しても、広告が体調不良の気配に反応しても、地図アプリが行き先を先回りしても、すべてはその三語で処理される。
気のせい。
偶然。
アルゴリズム。
昔なら、狐か狸の仕業にされた。現代では、アルゴリズムの仕業にされる。狐と狸にしてみれば、ずいぶん濡れ衣が減った時代である。
だが、太田は呪文を唱えなかった。
古い技術者は、怪異を怪異のままにしておかない。まずログを見る。次に再現条件を探す。最後に、誰が仕様書を書いたのかを疑う。
太田は山崎奨に電話した。
挨拶はなかった。
「出た」
それだけだった。
山崎も、挨拶を求めなかった。
「検索候補ですか」
「そうだ」
「入力語は」
「ポ、だ」
「候補は」
太田は読み上げた。
「ポイ活難民 認定条件。ポイ活難民 給付対象外。ポイ活難民 LINE未連携。ポイ活難民 地域帰属ポイント」
山崎は黙った。
その沈黙は、知らない者の沈黙ではなかった。
知っている者が、まだ口に出したくない時の沈黙だった。
「太田さん」
「何だ」
「昨日の喫茶店に来られますか」
「今から行く」
「端末は、そのまま持ってきてください。履歴は消さないでください。再起動もしないでください」
「分かっている」
それだけで通じた。
古い技術者同士には、説明の前に通じる不吉さがある。
商店街の喫茶店は、昭和から生き残ったような店だった。
入口には食品サンプルがあり、ナポリタンの赤が永久保存されていた。レジには現金トレーがあり、横にはキャッシュレス決済のステッカーが貼られていた。しかし、端末は奥に置かれていた。客に言われたときだけ、店主が面倒そうに出す。
現金が、まだ呼吸している店だった。
太田が着くと、山崎奨はすでに窓際に座っていた。
山崎は、元自治体基幹系システム技術者である。
住民基本台帳、税、国保、介護、福祉、給付金、本人確認、証明書発行、庁内端末、外部委託、データ連携。役所の表玄関には出てこないが、止まれば市民生活が沈む領域を見てきた男だった。
山崎は、機関長という言葉の似合う男だった。
役所の窓口が艦橋なら、基幹系システムは機関室である。市民が見ているのは、窓口の笑顔と、申請画面と、受付番号だけだ。だが、その下では住民記録、税情報、保険資格、給付履歴、本人確認、委託先システムが配管のようにつながっている。どの弁を開くか。どの弁を閉じるか。どのデータを流すか。どこで止めるか。間違えれば、市民は窓口で「該当なし」と表示される。
該当なし。
行政における、もっとも静かな死刑宣告の一つである。
山崎は穏やかな男だった。
若い職員にも丁寧に話す。新しい技術にも頭ごなしに怒らない。知らないことは知らないと言う。だが、基幹系の危険な扱いを見た瞬間だけ、別人になる。
その顔は、機関室の異音を聞いた男の顔だった。
太田はスマホを渡した。
山崎は画面を見た。
驚かなかった。
驚かない技術者は、二種類いる。
何も分かっていない者。
分かりすぎている者。
山崎は後者だった。
「太田さんの端末だけですか」
「分からん」
「同じ候補が、他の端末にも出るか確認しましょう」
山崎は、自分の古いノートパソコンを開いた。天板には擦り傷があり、キーボードの一部が光っていた。長く使われた機械には、持ち主の癖が残る。山崎のパソコンは、まるで古い制御盤のようだった。
山崎は、同じ検索語を入れた。
「ポ」
候補は出た。
だが、太田の端末とは違った。
「ポイ活」
「ポイント還元」
「ポータルサイト」
「ポイ活難民」
四つ目に、問題の言葉があった。
山崎の指が止まった。
「出ますね。ただし順番が違う」
「俺の方は一番上だった」
「そこが嫌です」
「広告か」
「広告ではありません」
山崎は即答した。
「なぜ分かる」
「音が違います」
太田は黙った。
普通の人間なら、音など聞こえないと言うだろう。検索候補に音があるはずがない。画面に表示される文字列である。音はしない。
だが、太田は笑わなかった。
山崎の言う音とは、機械音ではない。挙動の癖である。タイミング、順位、表示の差、端末ごとの揺れ、ログイン状態、位置情報、通信回線、過去履歴。古い技術者は、そういうものを音と呼ぶことがある。
山崎はコーヒーを一口飲んだ。
「広告なら、売りたいものに寄せます。検索候補なら、入力語に寄せます。行政案内なら、手続きに寄せます。これは、そのどれとも違う。人間をどこかへ押し出す音がします」
「どこへだ」
「まだ分かりません」
山崎は紙ナプキンを一枚取った。
そこに丸を描いた。
一つ目の丸に、決済と書いた。
二つ目の丸に、行政と書いた。
三つ目の丸に、検索と書いた。
四つ目の丸に、ポイントと書いた。
中央に、人間と書いた。
「昔の検索は、情報を探す道具でした。今の検索は、人間の行動を先に燃やすエンジンです。波動ではない。行動です。行動エンジンと言った方が近い」
「行動エンジン」
太田が低く繰り返した。
「検索窓に言葉を入れているのは人間です。しかし、その前に、検索窓は人間を読んでいます。何を買ったか。どこで止まったか。何を怖がったか。何を諦めたか。どの手続きで戻るボタンを押したか。それらを燃料にして、次の行動を押し出す」
「だから、検索していない言葉が出る」
「ええ。本人が探す前に、制度が本人を分類している可能性があります」
太田は、紙ナプキンの中央に書かれた人間という字を見た。
ひどく小さく見えた。
その時、喫茶店のドアが開いた。
入ってきたのは、石橋トミだった。
八十二歳。
小柄な女で、季節に関係なく毛糸の帽子をかぶっている。昨日のスマホ相談会で、LINE役所の申請画面につまずいていた女である。本人確認の写真撮影で止まり、通知許可で止まり、利用規約で止まり、最後には紙の申請書をもらうために職員へ頭を下げていた。
頭を下げる必要など、本来はなかった。
だが、制度は人間に頭を下げさせるのがうまい。
任意です。
便利になります。
皆さん使っています。
この三つを並べるだけで、人間は自分の不便を自分のせいだと思う。
石橋トミは、太田たちに気づくと、申し訳なさそうに近づいてきた。
「すみませんね。昨日の方ですよね」
山崎が席を立った。
「どうされましたか」
「ちょっと、これを見てもらえませんか」
石橋は、手帳型ケースに入ったスマホを両手で差し出した。
画面には検索結果が出ていた。
検索語は、石橋米穀店。
結果の上位には、米屋は出ていなかった。
代わりに出ていたのは、こういうものだった。
高齢者向けスマホ講座。
給付金申請サポート。
認知機能セルフチェック。
キャッシュレスはじめてガイド。
地域ポイントで健康づくり。
石橋は、画面を指で押さえた。
「うちは、米屋だったんです」
その声は怒りではなかった。
もっと乾いたものだった。
「主人と四十年、ここで米屋をやっていました。もう店は閉めましたけど、商店街のページに昔の記事があったんです。小学校の炊き出しに米を出した記事とか、町内会の餅つきとか、そういうのが出ていたんです。でも、昨日から出ないんです」
「昨日からですか」
山崎が尋ねた。
「はい。昨日、役所のスマホ相談へ行ってからです。私の名前を入れても、店の名前を入れても、スマホ教室とか、介護とか、ポイントとか、そういうのばかり出るんです」
太田の顔が変わった。
怒りの顔だった。
山崎の顔も変わった。
機関室の異音を聞いた顔だった。
「端末をお借りしてもよろしいですか」
「はい」
山崎は石橋のスマホを受け取った。
検索語を消し、もう一度入れ直した。
石橋米穀店。
結果は同じだった。
山崎は自分のパソコンで検索した。
古い商店街の記事が三番目に出た。
太田のスマホで検索した。
出なかった。
山崎のスマホで検索した。
出た。
石橋のスマホで、石橋トミと入力した。
出なかった。
山崎のパソコンで同じ語を入力した。
出た。
太田のスマホで入力した。
出なかった。
検索結果は、情報ではなく、人物に合わせて変わっていた。
もちろん、それ自体は現代では珍しいことではない。位置情報、検索履歴、ログイン状態、広告識別子、端末、過去の閲覧、アプリの利用状況。検索結果は、人によって変わる。だから、多くの人間はここで安心する。
普通のことだ。
問題ない。
便利になっているだけだ。
山崎は、その普通を怖がった。
普通になった怪異ほど、発見が遅れる。
「石橋さん」
山崎は静かに言った。
「何か変なことをしたわけではありません」
石橋は、少しだけ安心した顔をした。
「そうですか」
「はい。ただし、検索結果の方が、石橋さんを別のものとして扱っている可能性があります」
「別のもの?」
「米屋の女将ではなく、高齢者支援の対象としてです」
石橋は黙った。
太田は拳を握った。
その場で一番冷静に見えた山崎だけが、一番深く怒っていた。
検索結果から消えることは、現代では小さな葬式に似ている。
墓はある。記録もある。覚えている人もいる。だが、検索して出てこない。すると、社会的には少しずつ死んでいく。
店がなくなる。
町内会がなくなる。
餅つきがなくなる。
炊き出しに出した米がなくなる。
代わりに残るのは、高齢者向けスマホ講座と、認知機能チェックと、キャッシュレス移行支援である。
石橋トミという人間は、米屋の女将ではなくなった。
制度が支援すべき高齢者になった。
それが検索結果だった。
山崎は、同じ検索を複数条件で試した。
ログインあり。
ログインなし。
位置情報あり。
位置情報なし。
通信回線変更。
ブラウザ変更。
履歴削除前。
履歴削除後。
シークレットモード。
別端末。
別アカウント。
作業は古かった。
だが、古い切り分けは強い。
新しい怪異ほど、古い手順に弱いことがある。
十分後、山崎は手を止めた。
「傾向は見えました」
太田が身を乗り出した。
「何だ」
「石橋さんの端末だけではありません。太田さんの端末にも同じ傾向があります」
「俺もか」
「はい。現金利用、紙申請、LINE未連携、薬局ポイント未利用、病院予約アプリ未完了。このあたりが、おそらく分類に効いています」
「分類」
太田は、その言葉を嫌った。
人間は、分類されると静かに物になる。
「困りごとタグ、支援対象タグ、行動補助タグ。正式名称は分かりません。ただ、結果の出方を見る限り、検索語そのものより、利用者の分類が優先されています」
石橋は聞いた。
「私は、何に分類されているんですか」
誰もすぐには答えなかった。
山崎は、言葉を選んだ。
「支援が必要な人です」
「支援」
石橋は小さく笑った。
「私は、米を売っていただけなんですけどね」
それは冗談ではなかった。
太田は立ち上がりかけた。
怒りは、行き場を失うと身体を立たせる。
その時、喫茶店のドアがまた開いた。
若い男が入ってきた。
昨日のLINE役所の会場にいた市職員だった。名札には佐伯とある。デジタル推進課の職員である。まだ三十代前半だろう。真面目そうで、悪人には見えなかった。
悪人には見えない人間が、制度を前へ進める。
佐伯は太田たちに気づき、軽く頭を下げた。
「昨日はありがとうございました」
山崎は丁寧に返した。
「こちらこそ。少しお尋ねしてもよろしいですか」
佐伯は警戒した。
だが、表情には出さなかった。若い行政職員は、苦情対応の研修を受けている。困った顔をしない。否定から入らない。相手の不安に寄り添う。必要に応じて担当部署へ確認する。
そういう研修は、悪意から市民を守る役には立つ。
しかし、善意で動く仕組みの暴走を止める役には、あまり立たない。
「何でしょうか」
山崎は、石橋のスマホ画面を見せた。
「市のスマホ相談会のあと、検索結果や候補に、高齢者支援、キャッシュレス移行、地域ポイント関連の表示が強く出ることがあります。市として、検索事業者や地域ポイント事業者との連携はありますか」
佐伯の目が、一瞬だけ揺れた。
一瞬だった。
だが、山崎は見た。
技術者は、言葉だけを見ない。
間を見る。
佐伯はすぐに笑顔を作った。
「市民の利便性向上のため、関連情報の周知強化は行っています」
「検索結果を変えていますか」
「検索結果を直接操作しているわけではありません」
「直接ではない」
山崎が繰り返した。
佐伯は言葉を選び始めた。
「市民の方に必要な情報が届きやすくなるよう、地域情報プラットフォームと連携しています。あくまで一般的な案内です」
「個人別ですか」
「個人情報を目的外利用しているわけではありません」
「質問に答えてください。個人別ですか」
佐伯の笑顔が少し固くなった。
「属性に応じた情報提供です」
太田が低く笑った。
「出たな。属性」
佐伯は太田を見た。
「誤解のないように申し上げますが、これは市民サービスです。スマホ操作に不慣れな方にはスマホ講座を、給付金の対象になり得る方には申請案内を、健康づくりに関心のある方には地域ポイント事業を表示する。市民にとって有益な情報です」
佐伯は、嘘をついているつもりはなかった。
市民の利便性向上。
高齢者支援。
地域ポイントによる健康増進。
行政手続きの効率化。
どの言葉も、庁内会議では正しかった。資料に載せれば、さらに正しく見えた。補助金の申請書に書けば、完璧に正しくなった。
だが、正しい言葉は、人間を救うとは限らない。
正しい言葉は、人間を分類するのにも使える。
佐伯は、そのことをまだ知らなかった。
いや、知る必要がない部署に配属されていた。
山崎は穏やかに言った。
「便利と安全は別です」
佐伯は黙った。
「案内と誘導も別です。検索と分類も別です。支援と上書きは、もっと別です」
「上書き?」
佐伯が聞き返した。
山崎は石橋のスマホを指した。
「この方は、ご自身の店を検索したいだけです。ところが、検索結果はこの方を高齢者支援の対象として扱っている。石橋米穀店という人生の記録より、スマホ講座や認知機能チェックが上に出る。これは案内ではありません。本人の文脈の上書きです」
佐伯は困った顔をした。
彼は本当に困っていた。
本当に困っている善人は、制度の恐怖を倍にする。悪人なら止めればいい。だが、善人は止まらない。正しいことをしているからである。
「でも、仕様上は問題ありません。個人名を市が検索事業者に渡しているわけではありませんし、同意も取っています。利用規約にも」
「仕様書を読んで安心するな」
山崎の声が変わった。
喫茶店の空気が止まった。
穏やかだった山崎の目に、機関長の火が入った。
「仕様書は、事故の前には祈祷書です。事故の後には遺書です。どちらにしても、人間を助けてはくれません」
佐伯は言葉を失った。
山崎は続けた。
「若いの、言葉を混ぜるな。本人確認と信用判定は別だ。行政案内と行動誘導は別だ。地域ポイントと住民評価は別だ。検索補助と生活の書き換えは別だ。別々に扱うべきものを、一つの便利に押し込めるな」
佐伯は小さく言った。
「私たちは、市民のためにやっています」
「分かっています」
山崎の声は、また静かになった。
「だから怖いのです」
誰も、石橋トミから米屋の記録を奪おうとは思っていない。
誰も、太田健二郎を現金派の迷惑老人にしようとは思っていない。
誰も、検索窓で市民の人生を消そうとは思っていない。
ただ、便利にした。
ただ、必要な情報を届けた。
ただ、混雑を減らした。
ただ、同意を取った。
ただ、ポイントを付けた。
ただ、検索を最適化した。
その結果、人間は自分の過去へたどり着けなくなった。
佐伯は、しばらく黙っていた。
やがて、鞄から一枚の資料を取り出した。
「内部資料ではありません。市の公開資料です」
そこには、実証事業の概要が印刷されていた。
市民利便性向上のための地域情報連携実証。
高齢者支援。
地域ポイント。
行政手続き案内。
健康増進。
キャッシュレス普及。
検索連動型情報提供。
言葉は、どれも柔らかかった。
柔らかい言葉は、人間を包む。
包んだまま、動けなくする。
資料の下の方に、小さな文字でこう書かれていた。
将来的には、地域帰属情報、生活圏データ、行政手続き履歴等を活用し、住民に最適な行政案内を実現する。
山崎の指が、その一文で止まった。
「地域帰属情報」
太田がつぶやいた。
「何だ、それは」
佐伯は答えなかった。
答えられなかったのか、答えたくなかったのかは分からない。
答えないことは、行政ではしばしば答えである。
いや、この場合だけは違った。
佐伯自身も、まだ答えを知らなかった。
彼は歯車だった。
歯車は、機械全体の行き先を知らない。
知っている必要がないように設計されている。
その時、石橋が小さく声を上げた。
「あら」
全員が石橋のスマホを見た。
検索窓に、新しい候補が出ていた。
石橋トミ 仮所属自治体。
旧町名 帰属確認。
地域帰属ポイント 不足。
鳥根県 申請。
鳥根県。
まだ、そんな県はない。
少なくとも、太田健二郎と山崎奨が知っている日本にはない。
佐伯の顔だけが、白くなった。
その白さを、山崎は見逃さなかった。
「佐伯さん」
山崎は静かに言った。
「鳥根県とは何ですか」
佐伯は答えなかった。
喫茶店の壁時計が、一つ鳴った。
石橋トミは、スマホを見つめたまま言った。
「私は、どこの人間になるんでしょうね」
誰も答えなかった。
検索窓は白かった。
だが、その白い欄の向こう側で、もう何かが彼女たちを検索していた。
人間は、検索しているつもりだった。
実際には、検索されていた。
それも、まだ存在しない地図から。
山崎奨は、ゆっくりスマホを伏せた。
「太田さん」
「何だ」
「これは、検索の問題ではありません」
「何の問題だ」
山崎は窓の外を見た。
商店街の古い看板が並んでいる。
米屋。
金物屋。
写真館。
文具店。
どれも、まだそこにある。
だが、検索結果の中では、もう別のものに置き換わり始めている。
山崎は言った。
「所属の問題です」
その日の夕方、太田健二郎は自宅に戻った。
古い集合住宅だった。郵便受けには、チラシがいくつも入っていた。地域ポイント加盟店募集。スマホ教室無料相談。健康アプリ登録キャンペーン。自治体手続きオンライン化のお知らせ。
どれも、太田に親切だった。
親切は、量が増えると脅迫に近づく。
太田はチラシを抜き取り、部屋に入った。
スマホの電源を切ろうとした。
その前に、検索窓が開いていた。
何も入力していない。
それなのに、候補が出ていた。
ポイ活難民 第四話。
未帰属者たち。
日本再編 地域帰属ポイント。
太田はスマホの電源を切った。
部屋が暗くなった。
その暗さの中で、郵便受けが小さく鳴った。
何かが投げ込まれた音だった。
太田は玄関へ向かった。
封筒が一通、落ちていた。
差出人はない。
宛名は、今の住所ではなかった。
合併で消えたはずの旧町名で書かれていた。
郵便番号も古い。
文字は、墨で書かれていた。
中には、擦り切れたポイントカードが一枚入っていた。
磁気面は剥がれ、角は丸くなり、バーコードは読めなかった。
だが、裏面には一字だけ、黒々と書かれていた。
還。
その字は、太田を見ていた。
検索されていたのは、生きている人間だけではなかった。
消された地名も。
閉じた商店も。
廃止された窓口も。
紙の申請書も。
現金トレーも。
石橋米穀店も。
検索結果の底で、まだ息をしていた。
そして、戻ってこようとしていた。
第四話 未帰属者たちへ続く。
