千鳥居のもとで(2)── 銀色の影
【前回までのあらすじ】
祖母・京子の遺した京都・伏見の家。あかりは祖母の書斎で、革表紙の日記を見つけた。 『彼の名前は、玖夜という』 その名前が、なぜか、あかりの喉の奥で震えた。聞いたことのないはずの音だった。 雨の庭の桜の下に、銀色の人影が立っていた。目が合ったと思った瞬間、消えた。 『その名を呼ぶ時は、覚悟をしなさい』 祖母の文字が、机の上の日記に、短く残されていた。
本編
夢で片づけるには、頬の雨が、まだ冷たすぎた。
あかりは窓ガラスから額を離した。桜の下には、もう誰もいない。それでも銀色の人影の残像が、目の奥に焼きついて消えない。
原稿なら、と職業の癖で考えてしまう。
死んだ祖母の家で、開かれた日記、雨の庭に立つ銀の男。
——こんな筋を持ち込まれたら、狙いすぎですね、と赤を入れる。
けれど赤を入れる相手がいない。
書いたのは現実で、現実は校正を受け付けていない。
名前だけが、胸の奥でまだ静かに鳴っていた。
玖夜、という音。聞いたことのないはずなのに、舌がその音を覚えている。
夢かどうかは、確かめればわかるだろう。
あかりは立ち上がった。これだけのことを六十年も書き残した祖母なら、どこかに続きの手がかりを残しているはずだ。
——そう思えたことが、せめてもの足場になった。
押し入れの襖を開けると、京子の着物がぎっしりと積まれていた。
色も季節も違う着物が、一枚ずつ丁寧に畳まれ、奥の段まで続いている。
草履も帯も半襟も、京子の手で整えられたまま、静かに眠っていた。
百三歳まで自分の身のまわりを自分で整えてきた人の収納だ。
しまいきれない冬服がいまも床に積んである東京の自分のクローゼットを思い出して、あかりは少しだけ気おくれした。
いちばん下に、古い桐の箪笥があった。引き出しを引くと、もう一冊、手帳が入っている。革表紙ではなく、茶色く色褪せた薄い和紙の表紙に、震える字で書かれていた。
『愛子へ』
愛子。その名は、日記の最初の頁にもあった。
——その目に、一瞬、愛子の魂を見た気がしたから。
母の名は路子だ。では、愛子とは誰なのか。
あかりは手帳を開いた。
『愛子。あなたは二歳で、ダバオで死んだ。マラリアの熱だった。私はあなたを抱いたまま引き揚げ船に乗ったけれど、あなたの魂は、あの島に置いてきてしまった気がする。毎晩、思い出します。路子も、あかりも知らない、私だけの娘』
指が、頁の上で止まった。
母・路子の前に、もうひとり娘がいたということか。
ダバオで死んだ二歳の子のことを、祖母は誰にも話さなかった。
いつか酔った母が、一度だけ言ったことがある。私は、二番目の娘なのよ、と。あのときのあかりには、意味がわからず、母の唇の動きだけをぼんやり見ていた記憶がある。二番目という言葉の向こうに、もうひとり誰かが立っていたことを、あの夜のあかりは知らなかった。考えが及びもしなかった。
手帳の頁のあいだに、桐の小さな箱が挟まれていた。
蓋に、京子の手でこう書いてある。
『あかりへ。これは、彼女の祈り』
私へ?
あかりは、蓋をそっと開けた。
中には、桜の意匠を彫った古い銀の簪が入っている。八重桜の花弁が幾重にも重なり、銀の艶が深い時を吸い込んでいた。持ち上げると、見た目より、ずっと重い。

挿してはいけない、とどこかで声がする。
けれど、祖母が「あかりへ」と書いて残したものを、確かめずにはいられなかった。髪をゴムで簡単に結い、簪を後ろへ挿す。
挿してはいけないと知っていて、それでも指は止まらなかった。
簪が髪に触れた瞬間、絹の擦れる音がした。あるはずのない音だった。
墨と、雨に濡れた絹と、湿った土の匂いが立ちのぼり、何百年も前の京都の空気を運んでくる。
声を上げる間もなく、世界が白く白く消えてゆく。
冷たい雨が、肌を打っていた。
気がつくと、夜の竹林に立っていた。
緑の濃い、雨の山だった。身につけているのは薄い白の小袖で、足には何も履いていない。苔の冷たさが、足の裏から這い上がってくる。
知らない場所のはずなのに、肌のほうが、ここを覚えていた。
目の前に、銀髪の若者が立っていた。髪が雨に貼りつき、表情は見えない。それでも、彼が震えていることだけはわかる。
「逃げてくれ。頼む」
逃げる場所など、もうなかった。
口のなかに、鉄と墨の味が広がっている。
胸には、見たことのない黒い線が走りはじめていた。
あかりの意志とは関係なく、この身体のほうが次の言葉を知っていたようだった。
「私は、後悔しない。あなたを愛したことを」
声は、あかりの喉から出たが、あかりのものではなかった。
「あなたは、生きて。私の分まで」
若者が、ゆっくり首を横に振る。
その頬を、雨が流れていた。
雨だけではないと気づいた瞬間、胸がぐっと痛んだ。若者は泣いている。

おぼつかない指で、頬に触れようとした。雨と涙を拭いたかった。けれど指は届かず、銀色の青年をすり抜ける。
触れる前に薄れていくのは、あかりのほうだった。
「行かないで」
声を絞り出したのと、身体が雨のなかでほどけていくのが、同時だった。
最後に見えたのは、雨に濡れない目でまっすぐこちらを見ている彼の視線だけだった。
頬に、畳の冷たさ。
あかりは、書斎の畳の上に倒れていた。
簪は、まだ髪に挿さっている。
窓の外では、雨がガラスを激しく叩き続けていた。
立ち上がろうとしたが、膝がずいぶん笑っている。
いまのは何だったのか、と問う前に、口のなかにまだ墨の味が残っていることのほうがこわかった。
曇ったガラスを、内側から手でぬぐう。

桜の下に、銀色の影がある——気がした。
けれど今度は確かめる前に、あかりは自分の手を止めた。
窓を開ければ、呼んでしまう。
その名を呼ぶときは、覚悟をしなさい、と祖母の文字が言っていた。
覚悟が何を指すのか、まだわからない。
わからないものに、名前で触れてはいけない気がして、あかりは窓から手を離した。ガラスの向こうの銀色は、ゆっくり揺れ、雨の線に溶けていった。
翌朝になっても、雨は止まなかった。
あかりは、伏見稲荷大社の千本鳥居の麓までいくことにした。
パンプスでは滑りそうな苔の石段を、傘の下から見上げる。朱色の鳥居が、奥へ奥へと無限に続いている。雨に濡れた朱は、火を灯したように深い。
祖母が六十年、毎日通い、玖夜と初めて会った場所だ。
ゆうべは、あの名を呼ばなかった。
けれど、確かめないままでは、もういられない。
あかりは傘を握り直し、最初の鳥居をくぐった。
朱の柱の下に入ると、雨の音が変わる。
木の屋根を打つ低い音に包まれ、頭の上だけ雨が止んだ。
二十八年生きてきて、この場所に立つのは初めてだった。
祖母は何千回、ここに立ったのだろうか。
私は、誰のために生きているのだろう。
大輔のためか、祖母のためか、ゆうべ夢で見た知らない誰かのためか。
それとも、自分のためか。
答えを考えていたら、連なる鳥居のずっと奥で、誰かが立っている気配がした。

朱の柱の奥で、銀色の人影がまっすぐこちらを見ている。
逃げも、消えもしない。
ゆうべ窓の外で揺れて溶けたものが、今朝は雨の奥で、あかりを待っていた。
あかりは傘を畳んだ。濡れるのもかまわず、その奥へもう一歩踏み込む。
雨の音が、また深くなっていく。
今度は、近づいても銀色は消えなかった。
第2話・了
桜木愛子(Aiko Sakuragi)
▶ 第3話:千鳥居のもとで(3)── その名を呼んではならない
▶ マガジン:異界恋慕
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