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千鳥居のもとで(3)── その名を呼んではならない

(前回のあらすじ)
祖母の遺品から、震える字で「愛子へ」と書かれた手帳を見つけたあかり。
祖母には、ダバオで死んだもう一人の娘がいた。
その事実を、あかりはその夜初めて知った。
桜の銀の簪を髪に挿した瞬間、あかりは見知らぬ夜の山に立っていた。
雨の竹林。
薄い白い小袖。
裸足の足元。
銀髪の若者の前で、胸に見たことのない黒い線が走り、自分の唇から、覚えのない言葉が零れた。
「あなたを愛したことを、後悔しない」
夜、庭の桜の下に、銀色の輪郭が立っていた。
けれど雨に溶けるように、その姿は消えてしまった。
朝になっても、雨は止んでいなかった。

2話までのあらすじ


雨の伏見稲荷を、革のパンプスで登ってはいけない。
あかりが三十七段目でそれを思い知ったときには、もう、引き返すには上りすぎていた。

朱色の鳥居が、雨に濡れるほど色を深くして、青く煙る参道の奥へ、無数の火を灯したように続いている。
火なのに冷たく、冷たいのに、どこか人の体温に似ていた。
祖母は、ここにいたのだ。
六十年ものあいだ、誰にも言えない祈りを抱えて、この朱色の奥を見つめていた。そう思った瞬間、足元が急に頼りなくなる。

髪に挿した銀の簪が、雨を吸って少しずつ重くなっていく気がした。

今朝、洗面台の前で抜こうとした。
指先が桜の飾りに触れた瞬間、ゆうべの雨の山も、胸に走った黒い線も、銀髪の若者の濡れた横顔も、息ができないほど鮮やかに蘇ってきた。
怖い。それでも、あかりは抜けなかった。
これを抜けば、祖母との最後の繋がりまで指の間から落ちてしまう気がして、幻よりも、そのことのほうが、ずっと怖かった。

「ちょっと、お嬢さん」

背中に、低い女の声が刺さった。
振り向くと、参道脇の小さな茶屋から、白髪の老婆が顔を出している。
小柄で痩せているのに、目だけが妙に若く、雨粒を弾くようにぎらぎらと光っている。

「顔色が悪いわ」

いきなり言われて、あかりは返事に困る。

「雨なので」

「雨のせいにしたら雨が気ぃ悪うするわ」

老婆はそう言って、あかりの顔をじっと見た。

「あんた、京子さんの孫やろ」

息が止まる。

「……はい。どうして」

「顔。顔いうか、目ぇやな。ここにおるのに、ここにおらん。目だけが、どっか遠いところ見とる」

あかりは返す言葉を失った。老婆は悪びれもせず、にやりと笑う。

「京子さんも若い頃、おんなじ目しとった。ここにおるのに、どこにもおらん、いう目や」

雨の音が、急に近くなった。

「お吉といいますわ。京子さんの、長年の悪友や」

悪友。その言葉が、胸の奥に小さな灯を点した。
家族のなかでは、祖母はいつも静かな人だった。
昔のことはほとんど語らず、庭の桜の下でひとり過ごすことが多かった。
けれど、この京都には、祖母の若い頃を知り、悪友と笑って呼ぶ人がいたようだ。そのことが、なぜかたまらなく嬉しい。

お吉の視線が、ふと、あかりの髪に止まる。笑みが消えた。

「あんた、それ。京子さんの簪やな」

あかりは髪に手を当てた。

「祖母が、私に、と」

お吉の目が、ほんの一瞬、暗く沈んだ。けれど次の瞬間には、また屈託のない顔に戻っている。

「あの簪、あんまり外で挿さん方がええ」

「どうしてですか」

「古いもんや。雨で錆びる」

「銀って、そんなに簡単に錆びます?」

「口の立つ子やな。まあ、京子さんの孫やしな」

あかりは、持っていたショルダーバッグを胸元にギュッと押し付けて言った。

「祖母のこと、何かご存じなんですか」

お吉はすぐには答えず、朱色の鳥居の奥を見つめた。
その横顔は、さっきまでの陽気な老婆とは別人のようだった。

「京子さんはな、待つのがうまい人やった」

「待つ?」

「六十年や。あの人は、六十年待っとった」

誰を、何を、と問いかけようとした瞬間、お吉が先に口を開いた。

「お嬢さん、お山、行くんか?」

「はい」

「眼力社、知っとる? 奥社の、もうちょい奥にある小さな社や。眼の力で、先を視る力。けどな」

お吉の目が、まっすぐあかりを捉えた。

「眼力社から先は、行ったらあかん。京子さんも晩年、そう言うとった。あの子が来ても、奥までは行かせるな、て」

「え、祖母が……?」

「そうや」

雨が、軒を叩いている。

「けどな」
お吉は苦そうに笑った。
「京子さんは、あんたが行くことも、わかっとったんやと思う」

「どういう意味ですか」

「待っとき」

お吉はそれ以上答えず、店の奥へ引っ込んだ。
しばらくして、古い番傘を抱えて戻ってくる。
黒に近い深い赤で、ところどころ色は褪せ、骨には年月の艶があった。
それでも、不思議なほど美しい傘だった。

「これな、京子さんが置いてったんよ。いつか、あの子が京都に来たら渡してくれ、言うてな」

あの子。祖母は、確かにあかりをそう呼んだのだ。その三文字が、祖母の口のなかでどれほど長く転がされてきたのかと思うと、雨に濡れた指先が、急に温かくなった。

お吉は番傘を押しつけるように渡した。

「ええか。私は奥まで行くな言うたし、京子さんもそう言うた。それは本気や。それから——狐を見ても、追いかけたらあかんで」

「追いかけません」

「みんな、そう言うんや」

あかりが眉を寄せると、お吉はにやりと笑った。

「特に、黒い狐はあかん。まあ、見えたらの話やけどな。見えへん人には一生見えへん。見える人は、見とうない時に限って見る」

忠告なのか、怪談なのか、ただの冗談なのか。
あかりには判別できなかった。
店の奥へ戻りかけたお吉が、一度だけ振り返った。

「お嬢さん。京都の男には気ぃつけや。遠い目をしてる男は、だいたい面倒や」

そう言い残して、お吉は暖簾の奥へ消えた。

雨は、いっそう強くなっていくので、あかりは番傘を開いた。
古い和紙が雨を受け、低く柔らかな音を立てる。東京から持ってきた軽いナイロンの傘とはまるで違う。和紙に染み込んだ油の匂い、骨がぱきりと鳴る音、掌にかかる確かな重み——ただの傘ではなく、祖母が六十年の時間の向こうから、あかりの手に押し戻してきたもののようだった。

鳥居を、二つ、三つ、四つと数えて、四つ目でやめた。
数えていたつもりが、多すぎていつのまにか忘れていた。朱色の柱が無限に続いていく。柱と柱の間隔は、ところによって長く、ところによって短く感じられた。雨のなかで、時間も伸びたり縮んだりしている気もした。祖母は六十年、何度ここを通ったのだろう。

観光客の声が、ところどころであかりを現実に連れ戻した。若い男女が鳥居の前で笑いながら自撮りをしている。

その横を、黒いものが音もなくすっと過ぎっていった。

あかりは足を止めた。低く、太く、雨に濡れた毛並みは、犬にしてはしなやかすぎ、猫にしては大きすぎる。太い尾と尖った耳を持ち、濡れているのに闇を吸い込んだように黒い。狐だ。そう気づいた瞬間、うなじが、ひやりとした。

黒い狐は、奥社の脇の石灯籠の下で足を止めた。逃げる気配はない。雨粒が毛先からぽたりと落ちているのに、その目だけが妙に乾いている。あかりが一歩近づくと、狐は一歩下がる。もう一歩近づくと、また一歩下がった。遊ばれている。そう思った瞬間、狐がふいに首を傾げた。まるで、よくできました、と言うみたいに。

「……なに」

思わず声が出た。近くにいた観光客の女性が振り返る。

「え、何が?」

「狐が」

「どこに?」

女性はあかりの視線の先を見た。けれどその目は、黒狐の身体をすり抜けて、濡れた石段のほうへ流れていった。見えていない。黒狐は口元をわずかに上げた。狐が笑うはずがない。それでもあかりには、確かに笑ったように見えた。

次の瞬間、黒狐が跳んだ。髪の銀の簪が、ちり、と鳴る。狐の牙が、桜の飾りに触れたのだ。

取られる——!

そう思ったときには、あかりは番傘を握りしめ、黒狐を追っていた。


狐を見ても、追いかけたらあかんで。お吉の声が耳の奥で響く。それでも足は止まらない。止まれなかった。黒狐は奥社の脇から細い参道へ入り、濡れた石段を音もなく駆け上がっていく。革のパンプスは苔に滑り、番傘は枝にぶつかり、息はすぐに上がる。それでも、不思議と転ばなかった。足を滑らせるたび、番傘の重みが掌に戻ってくる。祖母が、まだ行け、と言っているようにも、もう戻れ、と言っているようにも思えた。

やがて、雨の音が変わった。鳥居や石畳を叩く明るい音ではない。もっと低く、もっと深く、森の奥で誰かが古い記憶を叩いているような音だった。鳥居の数は少なくなり、朱色はところどころ剥げて、木の地肌が覗いている。杉の幹は黒く濡れ、苔むした石が息をしているように見える。

黒狐は、少し先で一度だけ振り返った。その目が、あかりの髪の簪を見て、それから胸元を——ゆうべ黒い線が走った場所を見た。
あかりはすかさず息を呑んだ。
狐の目に、ほんの一瞬、人のような痛みがよぎった気がした。
けれど次にはもう、からかうような細い笑みに戻っている。

「待って」

なぜそんな言葉が出たのか、あかり自身にもわからなかった。黒狐は尾をひるがえし、さらに奥へ消える。その先に、小さな鳥居が立っていた。朱色というより、黒に近い深い赤をしている。雨に打たれ、時に削られ、それでも倒れずに立つ鳥居の額に、文字が掲げられていた。

眼力社。

お吉が言っていた社であり、ここから先は行ったらあかん、と言われた境目だった。

あかりはしばらく額を見上げていた。雨が番傘を打つ音が、急に遠くなる。戻るなら、いま。ここで引き返せば、ただの奇妙な一日で済むかもしれない。祖母の過去に少し触れて、怖くなって帰ってきた、ということで終わりにできる。

けれど、あかりは簪に触れた。冷たい銀の感触が、指先に返る。
その瞬間、みぞおちが、かすかに疼いた気がしたが、昨夜見た雨の山の意味を、桜の下に立っていた銀色の輪郭の正体を、祖母が六十年この場所で何を待ち続けていたのかを、知りたいと思った。
ここまで来て、何も知らないまま東京へ戻ることは、もうできなかった。

戻れなくても、いい。

その言葉は、祖母でも、母でも、死んだ大輔でもなく、あかり自身の奥から、初めてはっきりと立ち上がってきた声だ。

あかりは、思い切って鳥居をくぐった。

空気が変わった。雨の中なのに、音が消えたように静かだ。
世界の表面から薄い膜を一枚めくった場所に、入り込んでしまったような感覚がある。苔むしたお塚が、いくつも並んでいる。
低く丸い石は、何百年も雨に洗われ、苔に包まれた古い祈りの跡だった。
黒狐の姿は、もうない。ただ、濡れた苔の上に、闇を落としたような毛が一本だけ残っていて、あかりが瞬きをした次の瞬間、それも雨に溶けて消えていった。

その奥に、誰かが立っていた。

雨のなかに立っているだけなのに、そこだけ世界が別の温度を持っているように見えた。肩に流れる銀色の髪は、白でも灰でもなく、月光を糸にしたような色をしている。そして、これだけ雨が降っているのに、その髪も、白い衣も、一滴も濡れていなかった。
細い背中に、人間離れした静けさを感じた。


そこに立っているだけで、森も雨も石も、すべてがその人を避けているようだった。

立ち入ってはならない場所に、自分は立ち入っている。

その自覚はある。それでも、足はもう引き返せなかった。
引き返せないというより、ここで引き返せば、東京へ帰ってももう生きていけない気がした。

「ここに、人は入ってはいけない」

低い声が、雨を貫いた。その人は振り向かない。

「早く戻れ」

あかりは答えられなかった。口を開けたのに、声が出ない。銀髪の男は、ようやく振り向き、あかりを見た。

その瞬間、彼の目が止まった。長い、何秒か。いや、秒で測れる時間ではなかった。雨の音が戻ってくる。苔を叩く雨、番傘に当たる雨、あかりの呼吸——それらが、二人のあいだの沈黙を満たそうとしていた。男の目は、銀色の髪と同じ色をしていた。月光のような、冷たく澄んだ銀。その目が、あかりを見つめている。見つめているというより、何かを思い出そうとしているようだった。

ふと、男の視線があかりの背後へ流れた。そこにはもう、何もない。雨に濡れた苔と、古いお塚があるだけだ。けれど男の顔から、わずかに血の気が引く。

「……あれに、会ったのか」

黒狐のことだと気づいたときには、男の視線はもう、あかりの髪に戻っていた。唐草のなかに小さな桜が散る、古い意匠の銀の簪を見て、男の表情が、一瞬で強張ったのがはっきりとわかる。

「お前は…」

低い声だ。けれど、その奥がかすかに震えている。

「お前は、誰だ」

あかりは自分の名前を言おうとした。桜井あかりです、と答えればよかった。けれど唇は、言うことを聞かなかった。喉の奥から、別の誰かの声が上がってくる。知らないはずの名、昨夜、祖母の日記の上で震えた音。あかりは、自分の唇が動くのを止められなかった。

「クヤ──」

その名が零れた瞬間、雨の音が消えた。銀髪の男の顔から、すべての色が失われる。驚きでも、恐怖でもない。長いあいだ墓の下に埋めていた傷を、素手で抉り返されたような顔だった。

男は一歩、後ずさった。

「……なぜ」

声は低く、静かだった。けれどその静けさの奥で、何かが壊れる音がする。

「なぜ、お前が、その名を知っている」

あかりには答えられない。なぜその名が自分の口から出たのか、自分でもわからなかった。ただ、胸が焼けるように熱い。昨夜の黒い線が、皮膚の下でゆっくりと目を覚ます。あかりは思わず胸元を押さえた。男の銀の瞳が、その動きを追った。そして、表情が変わる。

「まさか」

それは声というより、息だった。

「戻ってきたのか」

雨が、再び降り出した。苔の上に、銀の髪のすぐそばに、あかりの頬に落ちてくる。二人のあいだの距離は、ほんの五歩ほどだ。けれど、その五歩には、どれほど歩いても越えられない隔たりが横たわっているように感じる。男は、あかりを見つめたまま、もう一度だけ囁いた。

「お前は、本当に……」

その先の言葉は、雨に消える。けれど、あかりにはわかっていた。祖母が六十年待ち続けていたものは、この雨の向こうでも、この男そのものでもない。それは、名だった。呼んではならない名が、もう一度、誰かの口から零れる瞬間で、その口が自分のものだった。

皮膚の下で、黒い線がまた疼いた。その疼きが自分のものなのか、自分のなかのもう一人の誰かのものなのか、あかりにはまだわからない。

ただ、雨の向こうで、さっき消えたはずの黒狐が、低く笑ったような気がした。

第3話・了

桜木愛子(Aiko Sakuragi)

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プロの作家さんの酒本先生が感想を書いてくださいました。嬉しいです。

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桜木愛子 読んでくださってありがとうございます。チップは今後の執筆や本づくりの励みにさせていただきます💛