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千鳥居(せんとりい)のもとで(1)── 彼の名前は、玖夜(クヤ)という

『玄夜(げんや)には会うな』——祖母の日記の最後の頁に、震える指で、血で綴られた一行があった。婚約者を喪って一年。編集者の桜井あかりは、亡き祖母の遺品整理のため、京都・伏見稲荷のふもとの家を訪れる。人の物語ばかり読んで、自分の話は一行も書けないまま。千本鳥居のいちばん奥で出会ったのは、写真に写らず雨にも濡れない銀の髪の青年・玖夜(くや)。千二百年、お山に在りつづけた、神の眷属。彼に残された時間は、四十九日だという。母娘三代の祈りと、千年越しの恋。和風ロマンタジー、開幕。

あらすじ

本編

「お山の白い狐は、ご飯を見守ってくれてるんだよ」
愛子の分まで、生きなさい、と。
──京子(祖母)のノートより

──京子(祖母)のノート

京都へ行かない理由なら、あかりは三年分そろえてあった。

編集者という仕事を続けていると、断り文句にも見出しがつくようになってしまう。
混雑、繁忙期、観光公害。夏の盆地は人の住む温度ではない。
——どれも本当で、どれも嘘だった。見出しだけ立派で中身のない原稿を、あかりは毎日のように見ていた。自分への言い訳も、ちょうど同じ種類のものだった。

本当の理由は一行で済む。あの街で、大輔が死んだのだ。

新幹線が名古屋を過ぎると、窓に雨が走りはじめた。ガラスの向こうで、ビルも線路も遠い山も、濡れるそばから色を失っていく。

ガラスの内側に、自分の顔がうっすら映っていた。肩までの黒い髪は、発つ朝に櫛を通しただけで、化粧はもう何か月もしていない。

——あんた、目がずるいよ。ちゃんと化粧して、ドレスでも着たら、私なんか隣に立てないんだから。もったいない。

親友の美咲はいつもそう言い、あかりはそのたびに笑って受け流してきた。自分の顔には、あまり興味がなかった。人の原稿は一字一句直すのに、自分のことだけは、いつも後回しになる。

ガラスのなかの目が、こちらを見ている。その目だけは、昔から、母にも、大輔にも、よく褒められた。きれいな目だ、と。けれど今は雨に滲み、どこか遠い。頬のふくらみも以前より薄くなっている。痩せたね、と母なら言うだろう。二十八歳の顔は、自分のものというより、知らない誰かのもののように見えた。

あかりは膝の上で、左手の薬指を右手の親指でそっと回した。細い銀の指輪には、小さな桜の彫りが入っている。これは一年前からの癖で、もう、回していることにも気づかない。

大輔が選んだ婚約指輪だった。
買った店を出てすぐ、彼は「やっぱり、今つけて」と言った。結婚式まで待つはずでしょう、と返すと、待つのは向いてない、と笑う。背が高く、いつも少しだけ前のめりに歩く人だった。笑うと目尻にやわらかい皺が寄り、冗談ばかり言うわりに、その目の奥だけは本気だった。冗談のかたちを借りて本当のことを言うとき、彼はいつも、あの顔をした。そして、その三か月後に彼は京都で死んだ。

スマートフォンが震えた。母だった。

『あかり、本当に大丈夫? おばあちゃん、寒い夜はよく咳をしてたから、仏壇の前にストーブ置いてあげて。あと台所の上の棚の海苔は食べないでね。たぶん平成の海苔だから』

祖母の死と、仏壇と、平成の海苔が、ひとつの画面に並んでいる。母の心配は、いつも少しだけ生活に寄りすぎる。あかりは『了解。海苔は見なかったことにする』と返した。すぐに既読がついて、短い返事が来る。

『見つけたら捨てて』

見なかったことにはさせてくれないらしい。あかりは小さく息をつき、窓の外へ目を戻した。雨がガラスを斜めに走っている。あの夜も、雨だった。

大輔はジャーナリストで、地方取材から東京へ戻る深夜、山道で対向車と衝突した。警察の説明では、即死だったという。

その電話を受けたとき、あかりは編集部にいた。午前二時十七分。デスクには校了前の原稿が積まれ、冷めたコンビニのコーヒーが手のそばにある。受話器の向こうで警察官が何かを説明していたが、耳に入ったのは「即死」の三文字だけで、あとの言葉は雨水のように耳の奥を流れていった。電話を切ったあと、あかりはそのまま原稿を読み続けた。十分なのか、一時間なのか、いまでもわからない。気づけば、右手が左の薬指の指輪を回している。それが、その日からの癖になった。

最後に大輔と話したのは、その日の夕方だ。

「明日、京都で会えない? 取材の最終日でさ。いい店教えてもらった」

「ごめん、明後日校了だから」

「校了って、毎回そんなに偉いの」

「偉いよ。編集部では神様に近い」

「じゃあ神様、抹茶だけでも」

「神様、いま、かなり荒れてるから無理」

電話の向こうで大輔が笑った。お土産買って帰る、と言うので、八ツ橋以外で、と注文をつける。京都に来て八ツ橋を否定するのかよ、と彼はまた笑う。否定じゃない、選択肢を広げてるの——そんな、どうでもいい会話だった。どうでもいい会話だったから、最後になったことが、いまでも信じられない。

切りぎわに、大輔は言った。

「あかり、雨が降りそうだよ。気をつけて帰りなね」

気をつけるべきだったのは、彼のほうだ。その言葉を、あかりは何度も心のなかで返した。何度返しても、彼はもう届かない場所にいた。


京都駅は、世界中から集めてきたような人で溢れていた。
キャリーケースの車輪が床を鳴らし、頭の上を知らない言葉が飛び交い、どこかの子どもが「トリイ!」と嬉しそうに叫んでいる。伏見へ向かう人たちだろう。あかりは奈良線に乗り換えた。稲荷駅に近づくと、窓の外に朱色がよぎる。雨に濡れた鳥居は、晴れた日よりずっと深く見えた。

駅から五分、細い道を曲がると、祖母の家が見えた。古い木造の二階建てで、軒先に風鈴がひとつ揺れている。

四月の雨に、薄い銀色の音が鳴った。四月に風鈴を出すのは祖母だ、とあかりは思う。京子はいつも季節を少しだけ先回りした。三月に麦茶を作り、八月の終わりに「もう秋ね」と言い、十二月には正月飾りを出して家族を置いていく。季節のほうが、祖母に合わせていたのかもしれない。

鍵を出すと、また母からメッセージが来た。
『鍵、癖があるから。右に回して、左に戻して、少し押して、もう一回右。開かなかったら鍵が悪いんじゃなくて、あかりの気合いが足りない』

あかりは言われたとおり、右に回し、左に戻し、少し押して、もう一度右へ回した。開かない。雨のなかで深呼吸して、
「……私の気合いが足りない」
と声に出してからもう一度回すと、嘘みたいに鍵が開いた。
腹が立つほど、祖母の家だった。

玄関を開けた瞬間、伽羅の匂いがした。
いま焚かれているわけではない。祖母が亡くなって、もうすぐ二か月になる。それでも家には、毎朝かならず香を焚いた京子の習慣が、まだ染みついていた。靴を脱ぐと、古い床板が足の下で小さく鳴る。畳と、古い紙と、雨に濡れた木の匂いが、いちどに押し寄せてきた。六歳までこの家で暮らし、それから二十二年。いつのまにかこの家は、あかりにとって「知っているはずの、知らない場所」になっていた。

廊下の奥の仏壇に、線香をあげる。

「来たよ、おばあちゃん」

言ってから、気づいた。「ただいま」ではなかった。六歳まで暮らした家なのに、口は「来たよ」を選んでいる。二十二年のあいだに、家のほうが、もうあかりを覚えていない。返事はない。当然だ。けれど、返事がないということが、今日は少しだけ重かった。

台所の戸棚からは、母の言うとおり海苔の缶が三つ出てきた。
ひとつは平成、ひとつは令和、ひとつは賞味期限の印字が薄れすぎて、もはや時代を超越している。あかりは三つとも、そっと見なかったことにした。見つけたら捨てて、という母の声がすぐに浮かぶ。
「……はい」
と、誰もいない台所で返事をした。

祖母の寝室では、布団がきれいに畳まれていた。部屋の空気が止まっている。二か月前まで、ここで呼吸をして、眠り、朝に布団を畳み、香を焚いていた人がいた。百三歳まで自分の身のまわりを自分で整えた人が残した、静かな沈黙だった。

紙のめくれる音がして、あかりは隣の書斎へ入った。小さな机と古い本棚には、俳句集、民俗学の本、京都の地図、料理本が並んでいる。その隣に『一週間でわかるスマートフォン』が立っているのは、わかっていない側の本という感じがした。祖母は結局スマートフォンを持たず、最後まで黒電話のような手つきで電話を使った。

机の上に、革表紙の日記が開かれていた。置かれている、というより、開かれている。あまりに物語の始まりめいていて、あかりは少しだけ腹が立った。編集会議なら「狙いすぎですね」と言うところだ。
けれど祖母の死後、祖母の家の、その机の真ん中で、祖母の日記が口を開けている。
狙いすぎなのは、現実のほうだった。日記は本来、閉じておくものだ。それを机の中央で開いておく人がいるとしたら、もう「読んでください」と同義だろう。問題は——もし祖母がそれを意図していたなら、校了前のどんな著者より手強い、ということだった。

あかりは椅子に座り、最初の頁を開いた。

『一九六二年四月十七日』。祖母が四十歳の春に、伏見稲荷で銀色の髪の若者を見た、と書かれていた。

——彼は人ではないと思う。でも、私は彼を恐れない。その目に、一瞬、愛子の魂を見た気がしたから。

愛子。あかりは、その名を知らない。母の名は路子だ。では、愛子とは誰なのか。頁をめくると、祖母の日記はそこから六十年も続いていた。

祖母・京子。母・路子。名前も知らなかった愛子。この家の女たちは、それぞれに、言えないものを抱えていた。そして今、その続きに、自分がいる。

銀色の髪の若者は、千二百年生きているという、人ではないものらしい。けれど祖母を見守っていたものでもある。文字は年を追うごとにほどけていき、硬い警戒が、やがて親しみになり、ときどき少し拗ねたようになる。

——今日は返事をしてくれなかった。神様のくせに、機嫌が顔に出る。

あかりは思わず手を止めた。おばあちゃん、あなた、神様相手にもその調子だったのか。呆れながらも、さらに頁をめくる。

——玖夜は、いつか消えてしまうのだという。神様にも、終わりがあるらしい。それを知ってから、私はかえって、足しげく山へ通うようになった。

あかりは、その一行で指を止めた。さっきまでの拗ねた調子が、嘘のように消えている。消えるとわかっている相手に、毎日会いに行く。その行為にどんな名前をつければいいのか、このときのあかりには、まだわからなかった。

——彼の名前は、玖夜という。

クヤ。その三文字を見た瞬間、喉の奥がかすかに震えた。聞いたことのない名前のはずなのに、知らない音ではなかった。

窓の外で、雨が強くなり始めた。
庭の桜が、四月の雨に打たれて、花びらを濡れた土へ落としていた。そのとき、窓の外、雨の向こうから視線が刺さった気がした。
あかりはガラスを内側から手でぬぐって目を凝らす。

桜の下に、誰かが立っていた。銀色の輪郭が、雨をすかして人の形をとっている。長い髪と白い衣は、降る雨に濡れもせず、光の残像のように庭にとどまっていた。

息が、止まった。
その人影がこちらを見た——目が合った、と思った瞬間に、
消えた。

雨の音だけが残る。あかりはしばらく、窓ガラスに額をつけていた。桜の下には、濡れた土と落ちた花びらと、雨に揺れる枝のほかには、何もない。それなのに、たったいま、確かに誰かがそこにいた。誰もいない庭を見ているのに、残された気配だけが、雨のなかではっきりと形を持っている。いないということが、これほど確かに残るのだと、あかりはこのとき初めて知った。

机の上の日記が、雨に吹かれたようにかすかにめくれた。祖母の文字で、短く書かれている。

——その名を呼ぶときは、覚悟をしなさい。

あかりは、もう一度、誰もいない庭を見た。それから口のなかで、ひとつだけ、音を転がした。

玖夜。

その音を、唇から外へは出さなかった。出してはいけない、と祖母の文字が言っている。それでも舌の上には、その名が残っていた。

雨の向こうで、銀色の気配が、ふっと、こちらを振り返った気がした。
第1話・了


▶ 続き:千鳥居のもとで(2)── 銀色の影
▶ マガジン:異界恋慕

桜木愛子です。

この物語の最初の1話を、お届けします。

旅行が好きで、世界をいろいろ歩いてきました。
未知の地を踏む刺激は、いつも素晴らしい。
でも、あるとき気づいたのです。

日本国内を旅するとき、私たちは、
その土地を舞台にした小説、ドラマ、映画と、一緒に歩いている。
物語が、旅の楽しみを何倍にもしてくれた。
例えば、松山に遊びに行くときに、司馬遼太郎さんの坂の上の雲を読んで思いを馳せたり。鹿児島に行って、知覧の特攻隊記念館で特攻隊のお手紙を読みながら、百田尚樹さんの永遠の0のストーリーを考えたり。

でも、海外を旅するとき、
日本のように「物語と一緒に歩く」感覚は、得られなかった。
AIもなかったし、ITインフラが整っていない時代だったのいうのもあるだろうけど、私には簡単にはみつけられなかった。

そして逆に、日本にはたくさんの素晴らしい物語があるのに、
そのほとんどが、きっと世界の言語に翻訳されていない。

だから、ちゃんと自分の手で永遠に残る作品を書こうと思いました。
世界中の日本を訪れる旅人たちにも届くように、
若者たちも日本を好きになってもらえるように、恋愛小説にしようと考えました。史実に基づいた、日本の土地の小説をしっかり書きたい。

世界中のみなさまの旅のお供にしてもらえたら、嬉しいです。

毎日21時に更新予定です。
よろしくお願いいたします。

桜木愛子(Aiko Sakuragi)


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桜木愛子 読んでくださってありがとうございます。チップは今後の執筆や本づくりの励みにさせていただきます💛