ぐひんの山 第四章 首吊り鉄塔 ①
布団の中に潜り込んで寝ていたはずなのに、陽菜は足裏に湿った感触を覚えて目が醒めた。
一寸先も見えない闇のように思えたが、自分の前にそびえ立つ鉄塔の存在を視覚ではなく強い圧を感じて認識した。
闇に包まれ、風もなく、虫の声も聞こえず、足裏の湿った黒土の匂いと感触だけが陽菜の五感を支配している。
あの鉄塔の立つ空き地にいるのだ、と陽菜は思った。どうやって自分がここにいるのか、理解できないまま、呆然と受け入れるしかない。
このまま山を下りて家に戻ろうと脚を動かそうとするが、ちょっとも動かせない。困惑して必死に体を捩るけれど、一ミリも動かせず、焦り始める。どうして体の自由が利かないのかわからず、陽菜は自分の視線も固定されていることに気付いた。
嘘、何? という叫びを虚しい呼気とともに吐き出す。叫びたくても、肺が気の抜けた風船のように頼りなく、喉は弁のないホースのように空気を漏らすだけだった。
しんと静まりかえる空き地のどこからか、突然ザザザザという何かが擦れあう音が聞こえ始めた。凝視する先に、何故かあの甕が浮き上がる。土に埋めたはずなのに、半分ほど地面から突き出して、どこから差しているかもわからないわずかな鈍い光を受けて、甕の表面が照り返している。
甕の蓋が開いていると自然に察した。あの封は開け放たれたのだと直感する。甕の口から、徐々に現れる影を陽菜は見つめることしかできない。
尖った口吻が闇に浮かぶ。濡れた雑巾のような獣の臭いが辺りに漂い始める。やがて獣の頭が甕から現れた。甕の口ギリギリの大きな頭部の次に現れたのは幼子のように小さな、伸ばされた腕だった。ずるりと甕の口から滑り落ちて、上体を起こす。つばを飲み、それらを見つめるしかなかった。
操り人形のように、甕から出てきた小さな体がぐにゃりと起き上がる。それと同時にザザザザという音が重なり、徐々に音は数を増しているようだ。気付けば、四方を囲むようにザザザザという音が迫ってくる。
陽菜の心臓が恐怖にぎゅっと締め付けられ、呼気が荒くなっていく。耳元の太い血管が心臓の鼓動に合わせてズキズキと痛む。空気を浅く吸い込むたびに、ひゅっひゅっと喉が鳴った。全身にじっとりと汗がにじみ出る。背中を伝って臀部へ流れ落ちる。膝が得体の知れないものの前で震えるが、倒れることも動かすこともできない。
目の前の頭でっかちな化け物が骨のない人形のように手足を動かしながら、左右に体を揺らし、近づいてくる。鉈のような刃物を握る細い腕を振り上げ、まっすぐに陽菜めがけて迫ってきた。
逃げたくても逃げられない。目を見開き、口を大きく開けて、陽菜は絶叫した。
気付くと、ほのかに朝日が差し込む六畳間の仏間に仰向けで寝ていた。陽菜の視界に木板の天井が映る。
「夢……」
声に出さずに呟いた。生々しい感覚が目を覚ました今も消えやらない。ゆっくりと上体を起こすが、じんわりと体に残る疲れで瞼が重たい。ハッとして、客間にいるはずの母親のことを思い出し、飛び起きた。
急いで客間に駆け込むが、布団はもぬけの殻で母親はいなかった。玄関に行くと、母親の靴がない。陽菜を起こさず、弥生の捜索隊に参加するために寄り合い所に行ったのだろう。腕時計を見ると、七時を少し回ったところだった。外に出ると開けた東側から朝陽が昇り、まだ涼しい山間の空気を熱し始めていた。
自分も捜索隊に加わったほうがいいか悩んだあげく、着替えたあと、村の寄り合い所に足を向ける。寄り合い所にはもう人気はなかった。村の男達はみんなかり出されたのか、畑や田んぼには誰もいない。道すがら通り過ぎた家の庭で、年老いて山に登ることも不自由な老人が、たまに庭いじりをしている。
寄り合い所にいくのが遅すぎたのだ、と諦めて家路についた。
ただ、どうにも今朝の夢のことが頭にこびりついて離れない。
無性にあの甕が気になり、鉄塔の空き地に埋めたはずの甕を見に行きたくてたまらない。
弥生が行方不明だというのに陽菜の脳裏を大学院進学のための論文が掠める。掘り当てたとき、幼馴染みが一緒だったせいでよく観察できなかった。封に使われた札のようなものもよく見ることもできず、他の幼馴染みが気味悪がって、さっさと埋められてしまった。陽菜は持って帰りたい、とその時強く思いながら、何度も空き地を振り向いた。取り憑かれたように陽菜は甕のことで頭がいっぱいになった。やっぱりあの甕をもう一度見てみようと思い至った。
もしも、甕がこの村独自の何かに使われていたとしたら、甕を調べることで解明できるかもしれない。限界集落における民間信仰や習俗を理解するための端緒になるかもしれない。それに、平良須山に伝わる山神様、いわゆるぐひん様に関わるものであれば、あの甕は入ってはならない禁忌の山の秘密を解き明かすための重要なヒントになるだろう。そう考えただけでこんな状況にもかかわらず、心が浮き立った。
甕から動物の頭と子供らしき体が出てくる夢を見たけれど、それは陽菜に関わる不吉な予兆かもしれない。それなのに、陽菜は自分の好奇心を止められなかった。
一人で入ってはならないと言い争いになったこともあるし、今ここで山に入れば、後々面倒かも知れないと思い至り、真弓にメッセージを送った。真弓から暇だったのかすぐに返事があった。陽菜の家の前で待ち合わせ、二人で山に登ることになった。
庭の納戸からシャベルを持ち出し、約束通り来てくれた真弓と二人で、平良須山の坂道を歩いていく。捜索隊は鉄塔の道より山頂に移動したようで、誰もいなかった。呼ばわる声だけがこだまのようにかすかに聞こえる。
「甕を掘り起こしたいって、陽菜、まじで言ってるの?」
真弓が道の両脇にある林の向こう側へ、しきりに視線を泳がせた。
陽菜は真弓にもシャベルを持たせ、黙々と坂道を上がっていく。山道を進んでいく先に、ようやく開けた場所にたどり着いた。
鉄塔の立つ空き地に立った二人は、昨日甕を埋めた場所を掘り始めた。泥のようになった黒土は掘りやすく、すぐにシャベルの先が甕に当たってガツッと音がした。
「わたしが掘る」
真弓を制して、陽菜は慎重にもっと深く穴を掘り下げていく。甕の全容が見えたので、シャベルを置き、しゃがみ込んで甕の縁を掴むと、力一杯穴から引き抜いた。十キロの米袋を持ち上げたときと同じ重さだった。そのくらいなら陽菜でも持てる。
蓋に封が貼ってある。蓋を無理矢理開けたせいでボロボロだった札がさらにちぎれている。
蓋を開けようとする陽菜に、青い顔をした真弓が震える声で言う。
「止めようよ、陽菜。気持ち悪い」
それでも、陽菜は真弓の言葉を無視し、ドキドキしながら蓋を開けてみた。
「え?」
「骨がない……」
陽菜が唖然として呟くと、真弓が薄目で甕の中に目を向ける。
骨がないのだ。甕の一部が地上に出ていて、警察が持っていったかもしれない。甕の中を嗅ぐと金物が錆びたような悪臭が鼻孔を突き、「うっ」と呻く。
「臭い!」
真弓が甕の中から漂う臭いに顔をしかめた。
内心、陽菜は落胆した。骨と甕の二つがあれば、充分研究対象としての価値がある。陽菜の憶測だが、この甕に入っていた骨はおそらくまじないの一種だろう。骨を調べたら、この山に隠された秘密を知ることが出来るのではないかと思っていただけに、残念でならない。
肩を落とす陽菜の背中に、真弓が手を掛ける。
「大丈夫?」
真弓の声すら耳に届かないほどだったが、突然頭上で響くカラスの声に陽菜は我に返り、頭上に目をやった。釣られて真弓も空を見上げる。首つり鉄塔の脚組全部に黒いカラスがひしめき合っている。まるで、そこで命を落とした人々の魂が、カラスに具現化したように見えた。
「なにあれ? 気味が悪い……」
真弓の言うとおり、それは異様な光景で、陽菜は急に寒気を感じて腕をさすった。思わず周囲に目をやるが、行方不明者を呼ばわる声も虫の声も聞こえない。あれほど毎日鳴き続けている蝉の声も静かだ。空き地だけが別世界のようだ。理由はわからないが、何者かの声が自分の名を呼ぶことはなかった。
それが全て甕のせいに思えてならない。甕は何のまじない使われたのだろう。いつ頃、術を掛けられて埋められたのだろう。祖母が拝んでいた存在はもしかすると祠に封じられたこの甕に対して、だろうか。だとしたらあの祠は……、ぐひん様を祀っていた、もしくはあの骨をぐひん様に見立てていたのだろう。それを父親が祠を廃棄してしまったせいで機能しなくなったあと、土に埋まったまま残っていたのだろうか。辛うじて札のおかげで装置は生きていたが、破れかけて腐ってしまった札では効力が薄まったのか。とりあえず湿った土で黒ずんだ蓋を嵌めて、甕を持って下りることを考える。この甕の謎を解けば、絶対に大学院に入ることができる。
「よいしょ」
陽菜は服が汚れるのも気にせず、甕を抱え上げた。
「よしなよ、陽菜。そんな甕、持って帰ってどうするのよ」
真弓が眉をしかめた。
「大学に持っていって調べる。何か重大なことが発見できるかも知れないから」
真弓が陽菜を呆れたような目で見る。
「行こう」
陽菜の言葉を合図に真弓が二本にシャベルを手にして、二人は逃げるようにして甕を抱えて山を下りた。
山を下りると、そのまま真弓は帰っていった。
陽菜は裏戸から庭に入り、甕を庭に一旦置き、仏間に置いたボストンバッグからボイスレコーダーを持って来て、再び庭に降り立った。植木の水やりに使うホースを持ち出して水栓に繋げると、庭で甕の表面に付いた泥土をきれいに洗い流しながら、ボイスレコーダーに向かって、「おそらくこの甕は平良須山中腹にある祠に祀られていたのだろう」と吹き込んだ。
祠を拝んでいたのは祖母だけだった。山神であるぐひん様を祀ってあるんだよと言っていた祖母は、甕の中身が何か知っていたのだろうか。父親のせいで祠がなくなったあと、祖母が急速にぼけて最期に首を吊って死んだのは、姑いびりだとか山神様の祟りだとみんながそう噂していたのを耳にした。
村民の知っている平良須山のタブーと、祖母が知っていたタブーは同じものだったのか。それを知りたくてうずうずする。村民の老人にそのことを聞きたいけれど、今、弥生と聡の母親が行方不明になり、それどころではない。反対に顰蹙を買ってますます村民の心が閉ざされてしまう。
それに甕と夢は無関係ではない気もしている。あの夢の意味が自分自身の潜在意識にあるかもしれない。それを探り当てたい。
山で甕の夢のことを話すのは躊躇われた。もし、あの甕が自分に何らかの干渉をしたのならば、幼馴染みも同じ夢を見ている可能性がある。早速、グループ通話をかけてみた。
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