ぐひんの山 第二章 癖山 ①
青々とした木々から聞こえてくるミンミンゼミやアブラゼミの声が、古民家の広い庭に照りつける真夏日を、より一層際立たせている。縁側の雨戸と掃き出し窓を開け放った板間の囲炉裏に、陽に熱せられた風が吹き込んでくる。型式の古い三台の扇風機が、熱気をかき混ぜるように首を振る。
陽菜はレクリエーションで集った学生達のディスカッションを聞くでもなく、ぼんやりとしていた。
このまま就活をして就職するのか、または希望するテーマで論文を書き、大学院に進むか。そのことで今は頭がいっぱいだった。業績が良かった父親の会社が今年に入ってから右肩下がりになったのを知ったため、もうこの先好きにはできないだろうなぁと漠然と思っていた。両親は何も言わないが、特に父親は進学よりも就職を望んでいるだろう。
陽菜自身は大学院に進みたいと強く願っている。
大学に入学した当初に勧誘された民俗学研究部の影響で、陽菜は民俗学の中でも特に昔話や伝承などに興味を持っていて、大学院に進むためにそれをテーマにした論文を書こうと思っている。まだまとまってはいないけれど、資料は少しずつ集めてきた。特に自分の出身地である饗庭村の昔話を集めているところだ。今から十二年前も昔のことなので、祖父母から聞いた昔話はほとんど忘れている。だから、饗庭村に行って聞き取りをしたいのだが、村民との間で齟齬(そご)があり、論文制作は膠着していた。饗庭村ではなく、町の図書館で調べたり、郷土史家に取材したりと、できる限りのことはしてきたつもりだが、手がかりがあっても村民が協力的ではないことが多かった。そのたびに饗庭村がかなり閉ざされた村なのだと思い知らされた。
だから、二年前に平良須山から持ち帰った甕についても全くとっかかりがなく、研究室の隅で埃をかぶっている始末だ。とりあえず、独自でつてを頼り調査して分かったことは、内面にこびりついたものと甕自体の種類や製造された年代くらいだった。それ以上のことはまだわかっていない。
「桐野君」
不意に名前を呼ばれて、陽菜は顔を上げて、声がしたほうに目を向けた。
天然パーマでいつも困ったような顔をした男と、陽菜の目が合った。
教授の助手をしている院生の白は、この民俗学研究部のOBだ。一年に四度あるレクリエーションに参加しては後輩にアドバイスをくれる。しかも、限界集落における民間信仰や習俗、禁忌に興味を持っていて、限界集落出身の陽菜を白は特に目を掛けているようだ。
白がまた話し始める。今回、レクリエーションのテーマにしたのは入山禁忌についてだった。事前にテーマを告知しておいて、グループに分かれてレポートを作成し発表するのだ。
「桐野君は入山禁忌について何を調べてきた?」
「入山禁忌というか、入山を忌避した山についての昔話を蒐集しました」
「じゃ、発表してみて」
車座になって座っている学生達の視線が、陽菜に集中する。いつものことながら、陽菜は少し緊張した面持ちで語り始める。
「発音があってるかわかんないですけど、話者の語っているままに話しますね」
昔々ずっと昔。鹿ば撃とうと一人の猟師が山ば入ったと。その山は悪さする山神様ばおったけ、他の猟師は怖くてよう入らん山やったと。猟師はずんずん山ん中さ入っていった。そりゃあもう大きな雄の鹿ば見つけて鉄砲で撃ったと。そしたら、森の奥から猟師を呼ぶ声ばしたと。猟師ははて?と思うて、声のするほうば行ったと。ずんずん山ん中さ入っても誰もおらんけ、鹿の所さ戻ったら、大きな鹿がまるごとおらん。こりゃあ、山神様が悪さばしたとやっち思うて、でかい声でおれの鹿ば盗る悪い山神さおるやろが、おれの名前ば呼ぶ悪さする山神ばおるとやろ。おれがこん鉄砲で懲らしめてやる。覚悟せぇ。そうしたら、山の奥からなんやら声ばすると。こりゃ山神さ来てしもうた。こん鉄砲で懲らしめてやろうっち、鉄砲ば構えたと。そんで猟師ば山神さめがけて鉄砲ば撃ったと。やけど猟師ば呼ぶ声はどんどんどんどん近づいてきて、目の前まで来たときにはあっちゆう間に猟師ば一飲みにしてしもうたあとやったと。やけん、こん山には入ったらいかんち、山神様に祟られるち、今でも猟師らは話とうと。そりばっかり。
「以上です」
語り終えて、陽菜は一息ついた。郷土史家を頼って昔話をよく知っている老人に聞き取りしたのだ。
「それはどこら辺の昔話なの?」
「福岡と熊本の県境です。あ、でも少し福岡北部の方言も見られます。多分、聞き取りをさせていただいたかたの出身がそっちのほうなのかも」
「入山禁忌に中には、山の神が出現する日のみ禁忌とする話もあるね。そういう山は割と全国に見られる。例えば、桐野君の田舎にも入山禁忌の山があったよね?」
白が陽菜に話を振った。
「そうですね。裏山の名前が平良須山なんです。確か、一人で山に入ってはならないって言われてました。多分、平良須山もイラズ山からハイラズ山、それが訛ってヘエラズ山になって、今の平良須山に変化したんだと思います」
白がウンウンと頷く。
「そういう山を不入山(いらずやま)と呼んで、山に入ると神隠しに遭う、祟りに見舞われる、その山には天狗がいると言い伝えられている。他にも禁忌の理由があったんじゃないかと思うけど」
「ありましたよ。ぐひん様に呼ばれるから絶対に一人で山に入るなときつく言いつけられましたね」
「各地方で『癖山』『バチ山』『イラズ山』『イワイ山』『トバ山』と呼称が変わるんだ。禁足地でもあるし、単純に土地が悪いからという理由もある。他にも定められた日に山に入ってはならないとする慣習もある。これは山の神に関することかな。神の怒りに触れて祟りや神隠しに遭う、そういう山を癖山と呼んで、里の人たちは忌避したそうだ。実際、山は危険な場所でもある。その危険性を祟りや神隠しという言葉で説明したんじゃないかな。もしくは山岳信仰と結び合わせて、神聖な山として山の民が崇めていたという可能性もある。でも、大概は山に入ったものに不幸があるために、入山を禁止したと言ってもいい」
白が熱弁を振るっている。
「そこでだ、せっかく山の民の話が出たんだから、桐野君、山の民が信仰する山の神について調査してみるのも良いんじゃないかな? それがさっき君が話した民話に繋がるかも知れないじゃないか」
「山の神……、ですか?」
「うん、ここで僕が蘊蓄を垂れるよりも、君自身で調べた方が、レポートに奥行きが出来るかも知れないしね」
「はぁ……」
気のない返事をしたものの、確かに先ほどの民話を深掘りしてみるのは良いことかも知れない。
それだけではない。陽菜は平良須山で見つけた甕のことを思い起こす。甕の謎も解明できるかも知れないではないか。二年前、分析に出したところ、甕の内側にへばりついていたのはヒトと動物の二種類の血液だった。甕自体はそれほど古くはなく、江戸末期に作られた小石原焼に似ているとのことだった。
最初に発見したとき、甕の中には骨があった。何か生け贄的なものなのだろうか。それとも、十三年前まであった祠に祀っていたものなのだろうか。改めて山に登り、甕を回収したときには中身は空になっていたので、あの骨がなんだったのか、今ではわからない。
平良須山を所有していたのは元々桐野家の本家だったが、継嗣の男児がいないとか、当主が亡くなったとか、いろいろと不幸が重なって、巡り巡って陽菜の祖父が相続したのだ。だから、本当ならば平良須山の伝承や禁忌については祖父母が一番詳しかったのだろう。饗庭村の村民が何か知っているか聞ければいいのだろうが、二年前に起こったことを考えるとなかなか田舎の実家に帰る勇気が削がれるのだ。
白の熱弁を聞きながら、陽菜は昔のことを思い出していた。
あれは五歳の初夏だった。雨ばかり降って退屈していたと記憶している。その頃はまだ祖父母と両親は同居していて、両親は村外に車で通勤していた。
その日、両親ともに仕事に出ていて、祖父も寄り合いで留守にしており、祖母と陽菜は留守番をしていた。その祖母も午前中の涼しいうちに畑仕事をしようと、陽菜を連れて山の麓にある畑まで出掛けることにした。地面が雨でぬかるんでいたので、陽菜のお気に入りの赤い長靴を履いた。
平良須山への坂道は、軽トラが通れるか通れないかくらいの細い林道で、昨日降った雨で水たまりができていた。
農作物を植えた畑にはキュウリ、茄子、トマトといった野菜がたわわに実っている。大半は日本農業組合を通して町のスーパーで売ることができた。残りは家で食べるため、毎日収獲した野菜が食卓に上り、陽菜は食べ飽きていた。
「陽菜ちゃん、トマト食べるかい?」
と、祖母が優しく勧められても、すぐに「やだぁ」と我が儘を言ったものだ。そのたびに祖母は笑った。
「じゃあ、陽菜ちゃん。茱萸食べるかい?」
と言って、畑の脇にたくさん赤い実が実っているうちの一つをもぐと、陽菜に手渡した。
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