呪願の代償 第五章 地獄 4 ハッピーエンド分岐
月乃がそう言って、井戸の中に消えた。夕季も井戸の中に飛び込んだ。残された涼々はラムネ瓶を握ったまま、井戸の縁を越えて、そのまま飛び降りようとした。
井戸に落ちようとする涼々の腕を、だれかが不意に摑んだ。
涼々は驚いて、振り向く。
そこには息を切らして涼々を引き寄せる槙人がいた。肩で息をしている。走って、涼々の元まで来たようだった。
「ま、間に合った」
涼々は落ちようとした井戸の底を見る。暗い井戸の底には、黒い泥が溜まっているように見える。そこに月乃と夕季の姿はなかった。
「ママ、お姉ちゃん」
涼々の目に涙が溜まる。
「やだ、離してよ! 私、ママ達といっしょに行くんだから!」
優しいおじさんを若くしたような風貌の男の人が、涼々の体を引き寄せて抱きしめた。
「ダメだ。父さんから頼まれたんだ。君を死なせたらいけないってね。そのラムネ瓶、離してはいけないよ。割れないように封印しよう」
涼々は片手に持った黒いラムネ瓶を見つめた。月乃のことを思い浮かべて、さらに涙が流れ落ちる。
「ママとお姉ちゃんといっしょにいたい」
「うん、君の気持ちはわかるよ。でも、君は父さんが地獄に落ちるところを見ただろう?」
涼々はおじさんを見上げた。こくりと頷いた。
「父さんは君を地獄に、何もない場所に落としたくなかったんだ。それに君には力がある。父さんと同じ力が」
涼々は抱きしめられた体から力を抜いた。
「優しいおじさんを知ってるの?」
「ああ、優しいおじさんは僕の父さんだ。父さんから君のことを頼まれた。それに君は死んで終わったらダメだ」
死んではいけない?
涼々は井戸に飛び降りるつもりだったことも忘れて、おじさんを見つめた。
「君は贖わないといけないんだ。そのラムネ瓶が透明に変わるまで」
涼々は手の中のラムネ瓶に目をやった。
「あがなう?」
「そうだ。君はそのつもりじゃなかったとしても、その中には呪いが詰まっている。人を殺した罪が詰まっているんだ。それを浄化しないといけないんだよ。だから簡単に死んではいけない」
「呪い」
クラスメイトが、涼々に言った言葉を思い出した。
「私、みんなのこと呪ってないよ」
そう言いながらも涼々は自信がなかった。そんなつもりではなくても、ラムネ瓶の中の灰色のむちむちとした腕がクラスメイトを殺したのは事実だった。クラスメイトの魂を吸い込んでいった。そのせいでクラスメイトは死んだのだから。
「そんなつもりはなくても、結果的に君は罪を犯したんだよ。だから、君は生きなきゃいけない。父さんは自分と同じ力がある、君のことを心配していた。でも、その力を使って君自身にかかった呪いを浄化することは出来る」
私の、力?
「君は霊体に触れることができる。父さんに触《さわ》れたように、悪霊を触ることができる。その代わりあっちも君に触れる。君はその力をコントロールして扱わなきゃいけないんだ」
涼々は優しいおじさんのことを思い出す。おじさんも同じ事を言っていた。
「私、そんな力なんて要らない。ママとお姉ちゃんがいる場所に行きたいから」
おじさんが首を振って、困ったように微笑んだ。
「君はママ達といっしょの場所には決して行くことは出来ない。君は魂を食われて、消えてしまう。ラムネ瓶にお願い事をしただろう? いつもいっしょにいたいって」
「うん。いつもいっしょにいたいってお願いした。だから」
「それはまやかしなんだ。君は騙されている。このままだと君はそのラムネ瓶に喰われてしまうだろう。安らかな死が君に訪れることはないんだ」
涼々は抱きしめられた体を捩り、離れようとした。
井戸の周りに寄り集まってきた灰色の塊が目の端に見えた。
「私、お姉ちゃんみたいに天国には行けないの?」
おじさんが真剣な顔をする。
「いけない。君は消滅する。もしくは、その手足のない赤ん坊の亡霊みたいに、この世を彷徨って成仏することも出来ないだろう」
涼々は目を大きく見開いて、今まで猫みたいな何かだと思っていた塊をまじまじと見つめた。
手足をもぎ取られた赤ん坊が寄り集まって、か細く泣いていた。
「この亡霊は、父さんが地獄に落とした悪霊が生きていた頃に食べて殺した赤ん坊たちだ」
人喰い婆。あの話は本当のことだったんだ
思わず、涼々は赤ん坊の群れから目をそらした。
「わかったかい?」
じゃあ、どうしたらいいの?
戸惑って、ラムネ瓶を見つめる。これに詰まっている灰色の腕は、この赤ん坊の亡霊のものだったのだろうか。それまで頑張って気を張っていたが、あっという間にぐらぐらと揺れた。
「涼々はどうしたらいいの」
井戸の中に落ちると覚悟を決めていた気持ちが萎えて、涼々はおじさんに訊ねた。
「おじさんと行こう。おじさんにも力はあるけど、父さんや君ほどじゃない。だけど、君が力を使えるように手伝うことは出来る」
どうしたらいいかわからず、おじさんに支えられて、地面に立った。このおじさんについていったら、もう二度と月乃達に会えないかもしれない。そう思った途端に、また涙腺が緩む。ポロポロと涙が頬を濡らす。
『大丈夫だよ』
突然、夕季の声がした。
涼々は慌てて顔を上げた。井戸の縁に夕季が座っている。
『そうよ』
歪んだ体を揺らしながら、月乃が井戸から顔を出す。
「ママ、お姉ちゃん」
おじさんが月乃に目をやる。
「ママの姿を元に戻そうか」
涼々の目が輝く。
「戻せるの?」
「僕の力は、霊を見ることと治癒だ。見ててごらん」
そういって、おじさんが月乃に手のひらを向けた。
手のひらから、ふわっと光の粒子が迸り、霧のように月乃を包み込んだ。
光の霧が晴れると、生きていた頃の月乃が井戸から顔を出して、涼々を優しい瞳で見つめていた。
『涼々、いつもいっしょにいるから』
『そうだよ、わたしもいつもいっしょだよ』
二人が涼々の体を手を回した。
『涼々が死ななくて良かった』
涼々の望みが叶ったら、涼々は魂をラムネ瓶に食べられてしまうところだったと、月乃が説明した。呪いにお願いをしても、月乃達とともにいることは出来なかったのだ。
『その人は信用出来るから。ラムネ瓶を浄化して、罪を償うんだよ。私達も手伝うから』
涼々は順繰りに、月乃と夕季、最後におじさんを見た。
おじさんが優しいおじさんみたいに微笑んだ。
「僕の名前は久世槙人だ。これからは僕が君の保護者になる。さ、行こうか」
「どこへ?」
「まずは警察と病院だね。お父さんは死んでしまった。君が殺した。少しずつ贖うしかないんだ」
警察と聞いて、涼々は不安になる。
「刑務所に行くの?」
槙人が今度は声を出して笑った。
「いいや。呪いで人を殺したとしても、生きている人間にそれを裁くことは出来ない。君は君の方法で罪を償わないといけない。その方法を俺が教えてあげよう」
さ、行こうと、槙人が涼々の手を握った。
涼々は井戸を振り向いたが、もう月乃も夕季も姿を消していた。それでも、温かなものが涼々を包み込んでいるのがわかる。
涼々には自信がない。本当にこの黒いラムネ瓶の呪いが消えるのだろうか。自分に力があるとは思ってない。だから、これから何が自分の身に起こるかもわからない。
手を引かれて、涼々は呪われた家の門から外に出た。
遠くからサイレンの音が聞こえてくる。
音を聞いて涼々は体を縮こまらせた。
槙人が涼々を握る手に、ぎゅっと力を込める。
ハッとして、槙人を見上げた。涼々は自分には選ぶ道がないのだと悟った。槙人についていかなければ、施設に行くしかないし、ラムネ瓶の呪いにいつか魂を食われてしまうだろう。そうなると、もう二度と月乃にも夕季にも会えなくなる。
だから、涼々は静かに息を吐いた。
救急車とパトカーが家の前に止まり、ガヤガヤと車から救急隊員と警察官が降りてくる。
担架を持った救急隊員が家の中に入っていく。槙人と涼々は警察官に囲まれた。
槙人が事情を話し始め、別の警察官が涼々に話しかける。
「大丈夫?」
「はい、大丈夫です」
不安を堪えるために、手に力を込めて槙人の大きな手を握る。すると、槙人が涼々の手を握り返してくれた。
「ご同行を願います」
警察官が槙人を連れて行こうと涼々から引き離した。涼々は、槙人の服の裾を掴み、
「槙人おじさんといっしょにいる」
と、警察官に告げた。
警察官が相方と顔を見合わせ、どうするべきか考えているようだった。
「お父さんについていったほうがいいんじゃないかな」
涼々は首を振った。
「槙人おじさんといる」
二人の警察官は困ったような表情を浮かべると、槙人といっしょに涼々をパトカーに乗せた。
涼々は、車窓から外を眺める。暗い景色の中、車のライトが辺りを照らしているのが見えた。
救急車が去って行く。死んでしまった夏生に未練はなかった。冷たいかもしれない。いつか、夏生との楽しく優しい思い出が涼々の心の中に蘇るだろうか。そうしたら、初めて父親の死を悼み、後悔することになるかもしれない。
片手に握り閉めたラムネ瓶が綺麗になる時、涼々は思い出す。きっと、家族が幸せだった頃のことを。
ハッピーエンド
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