ぐひんの山 第十二章 弥生 ①
「弥生ちゃん!」
母親に引き合わせてご飯を食べさせるために妹を台所に連れていった。
うつろな目をして椅子に座っていた母親が、妹を目にした途端、バネが跳ねるように立ち上がり、駆け寄って抱きしめた。
「どこにいたの……? お母さん、毎日探してたのよ。とっても心配してたのよ。どこにも怪我はない?」
母親の問いかけに、妹は一言も答えない。ひとしきり抱きしめてようやく母親は落ち着いたのか、体を離して妹の頭を撫でつけた。
母親の目から滝のように涙がこぼれる。母親は鼻を赤く染めて、無表情で見返す妹の頬に両手を添えた。
「誰に連れていかれたの?」
母親が犯人捜しを始めた。行き場のない憎しみが牙を剥いて相手に噛みつく準備をしている。けれど、妹は母親の期待に応えない。
「遊んでたよ」
「誰と?」
母親がうわずった声で問うた。
「男の子と遊んでたんだよ」
「大人の男のひとよね?」
饗庭村に小さな男の子はいない。二年前、子供が祖父母に会うために帰省したという話も聞いていない。隣町からわざわざ饗庭村に遊びに来たという噂話も耳にしていなかった。けれど母親は犯人捜しをやめようとせず、何度も尋ねた。
「男の子って誰?」
埒があかないと思ったのか、今度は男の子の名前を聞いて、その両親を捜し当てることに専念し始めた。
「遊んだの……」
妹はそんな母親をうつろな冷めた目で見つめた。
「じゃあ、その男の子の名前はわかる?」
妹が口をつぐんでしまったのを見て、困り果てた母親が陽菜を見上げる。
「こんなに傷ついて、酷い目に遭ってきたから、弥生ちゃんはおかしくなっちゃったの?」
陽菜にはそうだよと答えられなかったが、今、弥生に必要なことならわかる。
「お母さん、弥生をお風呂に入れて、ご飯を食べさせよう」
母親が今気付いたという顔をして、妹の夏服から伸びた腕に手を添える。その腕が凍えて氷のように冷たかった。妹はあのときと同じ服装のまま、半袖のワンピースを着ている。
「すごく冷たくなって……。気付かなくてごめんね、寒かったね。お風呂すぐに沸かそうね」
母親が妹を椅子に座らせた。
母親が台所を出たあと、陽菜は弥生の目の前にお菓子の袋や箱を並べる。
「おなか空いたでしょ? 好きなお菓子があったらたくさん食べていいんだよ」
「お姉ちゃん、遊ぼ?」
弥生がお菓子に見向きもせず、陽菜の顔を見つめた。遊びたい割に、その目は暗く虚ろで生気に欠けていた。
「遊びたいけど、今は何か食べたほうがいいと思うよ?」
そこへ母親が大きな声で呼びかける。
「弥生ちゃん! あと少しでお風呂入られるから待っててね。それにしても着替えがないわね……」
「わたしの寝間着ならあるよ」
陽菜は自分の服を取りに仏間に行った。母親の声が廊下を隔てた仏間まで聞こえてくる。一人ではしゃいだり心配したりしている。か細い弥生の声は全く聞こえない。
弥生の言う男の子が一体誰かわかれば、二年前の事件がわかるはずだ。それなのに、弥生は深く傷ついているのか絶対に当時のことを話そうとしない。話せば殺すと脅されているのだろうか。他にも男の子が拉致されていて、座敷牢に閉じ込められているのだろうか……。
考え出したらきりがないのに、その考えが脳裏に渦を巻く。犯人に酷いことをされているのは確かだ。あれほど快活だった妹が無気力でまともな話が全く出来なくなっているのだから。そのことで陽菜は心の底から怒りが沸いてきた。
陽菜はスウェットの上下を持って、台所に戻った。
「今からお風呂に入れてくるから」
スウェットを受け取った母親が、妹を風呂場に連れていった。
風呂場から洗面器のカポンという音が聞こえ始めたので、母親が妹を隅々まで洗っているのがわかる。
そろそろ父親が帰ってくる時間だ。弥生が見つかって一番驚くのは父親かも知れない。思いも寄らない場所に弥生がいた事実に動転するかも知れない。
そんなふうに考えていると、車が砂利道に入ってくる音がした。
陽菜はおもむろに立ち上がり、玄関に出た。引き戸を開けて父親を出迎える。
「ただいま」
両手いっぱいに買い物袋を持った父親に陽菜はまくし立てた。
「お父さん、弥生が見つかったよ! 今お母さんと一緒にお風呂に入ってる」
それを聞いて父親が目を大きく見開いた。
「弥生が?」
陽菜に買い物袋を手渡すと、バタバタと足音を立てて、風呂場に行ってしまった。風呂場から「弥生!」と言う父親の声が聞こえてきた。
少なくとも父親も彼なりに弥生のことが心配だったのだろう。
陽菜が台所で父親が買ってきたものを袋から出し冷蔵庫に入れる。そのとき、妹と両親が風呂場から戻ってきた。
「ハラペコだろう? 好きなものがあったら食べていいんだぞ」
父親が妹を椅子に腰掛けさせて、目の前にサンドウィッチやいなり寿司を差し出した。いつもなら、好物のいなり寿司を見せられたら、小踊りしながら喜んでいたのに、じっと凝視するだけで食べようとしない。
「どうした? 弥生の好物だぞ」
父親が箸と一緒に弥生の口元に弁当を持っていった。
「遊びたい」
妹は頑なに、「遊びたい」を繰り返した。
父親も閉口したようで、陽菜に向かって言う。
「陽菜、弥生と遊んでやってくれ」
父親に言われて、二人は縁側のある座敷に行った。
弥生はクマと木箱をまだ腕に抱きかかえている。陽菜はどうやったらそれを取り戻して木箱が開けられるだろうと考えていた。
日はすっかり暮れ、雲一つない空に満月が浮かんでいる。異様に赤く大きな月は禍々しい予兆に思えた。開け放たれた掃き出し窓の縁側に座って、弥生と一緒に月を見上げる。
「弥生、今までどこにいたの?」
「暗いとこ」
俯いた弥生がぼそりと呟いた。
「座敷牢? さっき弥生がいたとこ?」
「男の子と遊んでた」
そっか、としか返せない問答に、陽菜はそこはかとない不安を感じた。
弥生がどこにいたとして、正常な場所ではない感じを受けた。弥生は本当に神隠しに遭ったのかも知れない。記憶が偏っているのも、神隠しに遭った後遺症なのだろう。時間の流れもない暗い場所で、同い年くらいの男の子と一緒に閉じ込められていたとしたら、陽菜だって弥生と同じ状態になる。
弥生はあれから二年経ったから九歳のはずなのに、姿形背格好も七歳の時のまま変わらない。それが余計に痛ましく見えた。弥生を失いたくない気持ちは母親と一緒だった。だから変化のない妹に嬉しさも感じるが、説明の出来ない恐れもあった。
昔、妹くらいの年の頃、兄弟が欲しくて堪らなくて、兄弟がいたら、きっと友達のいない生活にも耐えられると思ったことがあった。弥生が再び戻ってきたことで、うっすらと消えかかっていた思い出が蘇る。
「思い出した……」
陽菜は口に手を当てた。
「お姉ちゃん、本当に妹が欲しかったんだよ、弥生」
陽菜のまなじりに熱い涙が溜まった。その様子を弥生がじっと見つめている。
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