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ぐひんの山 第十二章 弥生 ③

 妹がガラス戸を閉めた掃き出し窓の前に立ち、大きな木箱を片手に抱えて、左手に持ったクマのぬいぐるみでガラス戸を叩いた。

「遊ぼおおう!」

 まるで地面の深いところからせり上がってくるうめき声のように聞こえた。

「弥生!」

 陽菜はガラス戸を叩き続ける弥生の背中を後ろから抱きしめた。

「お願い」

 男なのか女なのかもわからない低いうめき声を、弥生が小さな口から吐き出している。

 陽菜は弥生を抱きしめながら確信に近いものを感じる。

 弥生はもしかしたら、いなくなっていた二年間、ずっとぐひん様と『かんすさび』をしていたのではないか。陽菜のようにたった一晩だけの『かんすさび』であったなら、なんともなかったのだ。二年間かんすさびを続けた弥生はすでに人ではなく、ぐひん様の世界の存在になってしまったのだ。これはもはや弥生ではない。

 低い声で、「遊ぼおおお」と呻き続ける弥生から木箱を取り上げて、声を振り絞った。

「弥生! もうかんすさびしなくていいんだよ! ぐひん様はもういないんだよ。弥生はこっちの世界に帰ってきたんだから!」

 泣きながら、陽菜は取り上げた木箱を頭上高く持ち上げた。涙がポロポロと頬を流れ落ちる。弥生が得体の知れないものになってしまったことに対して泣いているのか、その弥生自身が恐ろしくて泣いているのか、もっと前に気付いて弥生を救えていれば良かったのにと後悔しているのか、何が引き金になったのかすらわからないけれど、弥生を失ってしまったことだけは変わらない。帰ってきたからもういいのだという考え自体が、陽菜をおぞましく震わせた。

 弥生は帰ってきてはいけなかったのだ。

 木箱を取り上げた途端、弥生が叫び始めた。まるで狂犬病にかかった野良犬のような目で口から涎を垂らして、ものすごい力で陽菜に飛びついた。陽菜はバランスを崩して倒れた。陽菜の体に弥生が馬乗りになって木箱を持つ陽菜の腕に噛みついた。

「弥生を返して! 弥生、戻ってきて!」

 腕の痛みを耐えつつ、陽菜は叫んだ。

 ギリギリと弥生の歯が、陽菜の腕に食い込み、血がにじむ。耐えがたい痛みに陽菜は叫び、木箱を持つ手が緩んだ。

 呻き声に驚いて客間にやってきた両親は、なすすべもなく側につっ立っていた。

 弥生が陽菜の手から木箱を奪って、客間から出ると廊下を渡り、玄関から走り出ていった。あまりにも素早い行動だったので、誰も弥生を追いかけられなかった。塀の向こう側にある坂道を、信じられない速度で平良須山めがけて駆けていった。

 誰もすぐに妹の後を追えなかった。しばらく体が固まったまま動けなかったが、陽菜は噛まれた腕の痛みで、我に返る。すぐさま立ち上がり、玄関に向かった。

「お母さん、わたし、弥生を追いかける!」

 急いで靴を履き、表に出ると、脇目も振らずに自分も山への坂道を登っていった。

「待って!」

 遠くから母親の声が聞こえた。後ろを振り返らずに追いかけ、両親がついてくるのを背中で感じながら、陽菜は立ち止まることもしなかった。

 弥生からどんどん引き離されていくが、向かっているのは多分鉄塔だ。

 息が切れ、肺に火が付いたように熱く、きりきりと喉が痛くなっても足を止めず、鉄塔の空き地を目指した。

 鉄塔の空き地にたどり着いて、陽菜はヒューヒューと喉を鳴らしながら息を整えようと深呼吸を何度もした。

「陽菜」

 父親の声で背後に両親が追いついてきたのがわかった。

 薄暮が過ぎ、山の夜の闇が這い寄ってくる。日が沈んだせいで、より一層寒くなってきた。鉄塔も黒々と影を纏い、闇に紛れていく。

 厚い雲の隙間から月が顔を出す度に、空き地の様子が見える。足下を見るとクマのぬいぐるみが落ちていた。陽菜はそれを拾い、顔を前に向ける。

 ちらほらとぼた雪が舞い始める。汗ばんだ体に、雪の冷たさがより一層感じられた。雪が降っているが、雲間から月が覗いており、空き地に月光が差す。見えなかった闇の奥が見え始める。

 しんと静かな山はなんの音も立てない。音が雪に吸い込まれているのか、それとも音がしない異常な空間にいるのか、陽菜は息を整えながら、弥生を探す。

「弥生、おいで!」

 母親が大きな声を上げて弥生を呼んだ。陽菜は慌てて、「お母さん、あれは弥生じゃない」と叫んだ。

 目をそらした途端、何かが襲ってきそうな嫌な予感がした。

 目が慣れるまで相当な時間がかかったけれど、そのうち空き地の鉄塔に寄り添うように、弥生が立っているのが見えた。ぼた雪が次第に酷くなっていく。弥生は寒くないのか、ワンピース姿で土を弄っているようだ。

「弥生―!」

 叫びながら母親が妹に駆け寄ろうと走り出した。それを陽菜が慌てて止める。

 無音の中にかすかな音が聞こえ始める。

 ザザザザと、まるで降り積もる雪を無視するように乾いた音を立てながら、空き地に入った陽菜たちをとぐろを巻き囲んでくる。四方八方を遮られて、陽菜は怯んだ。音を警戒して、思わず弥生から目を離してしまう。

 もう一度、弥生に目を移すと、弥生の横にいぬあたまがいた。頭が大きく、体がぐんにゃりと小さい。まるで三歳児に不格好なマスクをかぶせているようだ。光源もないのに両手に持った二本の鉈がギラリと輝く。よく目をこらせば、腕自体が鉈そのものに見える。蟷螂のように鉈で威嚇されているようだ。

 両親にも見えているのか、恐怖が伝染し、背中から忍び寄り、体をがんじがらめにして覆い被さってくる。動けないまま、視線はいぬあたまと弥生に向けられた。相変わらず陽菜たちを囲むザザザザという音が鳴り止まない。異常な事態に恐怖で体中の毛がそそけ立つ。

 両手に木箱を持った弥生が立ち上がり、うつろな目で陽菜たちを見つめ返した。風で雪が渦を巻き、髪が嬲られて揺れたと思ったら、髪の先からその形が崩れていくのが目に入った。

 何が起こっているのかわからないまま、陽菜は目をこらす。

 髪だけでなく、頭部まで吹雪に煽られてもろもろと崩れて消えていく。土か何かが崩れているように見えた。それが、黒い蝿や百足が弥生の体を構成しているのがわかった。弥生を形作る虫の集合体だった額が、眉が、目が欠けていき、鼻から上がなくなってしまったのに、妹は平然としている。何も出来ず見ている間に、妹の頭部が雪の上に落ちたかと思ったら、黒々とした虫になって四散した。

 とっさに陽菜は悲鳴を呑み込んだ。声を出してはいけないと感じたからだ。

 頭部のない妹の両手が器用に木箱をくるくると回して組み木の謎を解いていく。そのうち、ドサリと雪の上に何かが落ちた。

 頭部が異常に大きなヒトの頭蓋骨と動物の首から下の骨。ようやく陽菜は木箱の中身を知ることが出来た。さらに座敷牢の存在の理由も理解した。妹から目をそらすことも出来ず、狗頭の首がいきなり地面に落ちた。

 そのとき、月光を受けて雪の降り積もる太い丸太のような何かが浮かび上がり、一瞬、陽菜の視界に入って消えた。

 ボトッと音を立ててぐにゃぐにゃの子供の体が雪の上に転がる。

 その途端、背後で悲鳴が上がり、父親が走り出した。空き地から出ようとするが、脚が絡まって転んだ。

 ザザザザと、周囲を囲んでいた音が父親めがけて飛び掛かった。何が父親の首をねじ切ろうとしているのか、鉈のような顎肢で父親の首が切り落とされているのか、陽菜は見ないようにした。

 それを見た母親が叫ぼうとするのを、陽菜は防ぐのに間に合った。そろそろと音を立てないように後ずさる。静かに化け物から離れていく。周囲は静けさを取り戻したが、それはつかの間のことだった。黙っていれば助かる。本能的にそう感じて、陽菜と母親は息を潜めた。

 じっとたたずんでいると、不意に服の袖を引かれた。母親を見るが、母親は口元に両手をあてている。すぅっと陽菜の背筋に怖気が走った。

 陽菜の横に頭のない弥生が立っている。

「お姉ちゃん、遊ぼう」

 口もないのに弥生の声がその体から聞こえてくる。その声に混じってブブブと羽虫の音が混じる。

「お姉ちゃん、遊ぼう」

 妹の声に反応して、目には見えないが、化け物が陽菜たちに向かってくるのがわかった。

 陽菜はとっさに手に持っていたクマのぬいぐるみを、自分たちとは正反対の方向へ力一杯投げた。それにつられて首のない妹が走っていく。妹が立てた音に気付いて、ザザザザという音を立てて歩肢も遠ざかる。

 陽菜はその間に母親の手を引いて、空き地から飛び出した。母親は陽菜に抵抗して、空き地に戻ろうとする。

「弥生ー!」

 あれほどヒトではないところを見せつけられても、母親は弥生を愛しているらしい。あの弥生を取り戻したところで、無駄なのだ。弥生は生きてない、ぐひん様と同じ狂った空間の生き物になってしまったのだ。

 母親が叫ぶのを無視して、母親の手を固く握りしめ、全速力で坂道を下りていった。

 畑を越え、砂利を敷いた敷地に入ると、開け放たれた玄関の引き戸を内側から閉めた。玄関の上がりかまちに座り込んで、二人ともぜぇぜぇと息をする。息が落ち着くまでにしばらくかかったが、母親が呻くように声を出して泣き崩れた。

 陽菜は母親にかける言葉も思いつかず、とりあえず、寝かしつけることにした。肩を貸して母親を部屋に連れていく間、あれはなんだったのか、弥生と思っていたものがどうなったのか、そして二年前、何が起こったのか。それらが走馬灯のように頭の中でぐるぐると回る。

 客間に布団を敷き、母親に寝るように言いつけると、家中の窓や戸を閉めて鍵を掛けた。

 夜が明けるのを待つために、陽菜は玄関の上がり框に座り込んだ。

#創作大賞2025   #ホラー小説部門

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