忌み地 第五章 結花子 ④
週末になり退院した後、結局、谷地の家に戻った。
結花子は自分の眼前にある不気味な家の前に立ちすくんだ。入りたくなくて仕方ない。夫が強引に結花子の腕を掴み引っ張る。半ば引きずられるようにして玄関に上がった。
いきなり鼻をつくカビの臭いに驚く。たった三日間空けただけなのに、家の中に異臭が充満している。この臭いも何もかも井戸ではなく、人形に関わるものなのだ。井戸は埋めてしまったし、赤ん坊の骨は供養してもらった。それでもなお異変が起こるならば、それは人形のせいとしか考えられない。
また、怪異が日常に戻ってきた。いや、怪異の中へ結花子が戻ってきたと言うべきか。どちらにしても、谷地の家の玄関をくぐり、中に入った時点で呪詛から逃げ出せなかったのだ。再び、毎日怯えながら生活しなければならなくなった。
早めに床についたのだが、激しい猫の鳴き声に目が覚めた。一度起きると目が冴えて仕方ない。隣を見ると、夫が静かに寝息を立てている。猫の鳴き声がまだ聞こえてくるので、結花子は様子を見ようと思い、耳を澄ませる。縁側に出て、外へ頭を出して覗いてみるが、反対に猫の鳴き声が遠くなるのに家に入ると大きくなる。結花子は声を辿り、雪見障子を開けて居間に入った。どうも猫の鳴き声は家の中から聞こえてくる。まさか仏間にいるのだろうか、と不安になる。嫌なのに、雪見障子を開けた。ふすまの向こうから、猫の鳴き声がする。見たくもないのにふすまに手をかける。そっと数センチだけふすまを開いた。
着物姿の知らない男の背中が見える。腕を振り下ろし、ダンッダンッと音を立てていた。手に握られた鉈を畳に打ち付けているのがわかった。鉈を振り下ろすたびに空気が生臭くなる。辺りにビチビチと何かが飛び散っている。耳が痛くなるほど猫の大きな鳴き声が響いている。
何をしているのだ。鉈で何を切っているのだ。男が覆い被さるように隠しているものの正体を知りたくて、もう少しふすまを開いた。男の足下に水たまりがある。水は鮮明に赤く彩られていた。なぜ真っ暗なのに、男と血だまりが見えるのか、結花子は気付かなかった。しかし、男が鉈で切っているものがなんなのか、はっきりと見えた。
激しく泣いている赤ん坊の指を男は無残に切り落としている。
猫の鳴き声じゃなかった。結花子は込み上げてくる吐き気に口元を手で押さえた。
目を開けると、なぜか自分は布団で寝ていた。昨夜のことは鮮明に覚えている。あれは幻だったのだろうか。しかし、あまりにも生々しくて思い出すだけで嘔吐いてしまう。夫はまだ隣で寝ているので、そっと起き出してパジャマを着替えた。
昨夜のことが脳裏にこびりついて忘れられそうにない。井戸の底に捨てられた赤ん坊たちはあの男に切り刻まれたのだろうか。だとしたらなんのためにそんなことをしたのか見当もつかないが、尋常でないことだけはわかった。あんな残虐な仕打ちをされれば、赤ん坊も恨みの念を強めるだろうと思えた。だから壱央はあの画像を見て削除しろと言ったのだ。もしかすると住職も良くないものへと変化した赤ん坊に殺されたのかもしれない。
だとしたらこの怨念をどうすれば鎮められるのだろう。壱央とは連絡は取れないし、頼みの綱だった住職は事故で亡くなった。あとは……。
結花子はふと思い出した。隣家の悦子がすごい霊媒師を知っていると言っていたではないか。藁をも掴む思いで、夫が家を出たあと、悦子の家を訪ねた。
「霊媒師の先生を紹介してほしい? いいわよ。なぁに? 何かあったの? 井戸を埋めたって聞いたけど、それ関係?」
しつこく聞きたがる悦子の好奇心をなんとかはぐらかして、先生の電話番号を教えてもらい、実家の狭い庭から電話をかけてみた。家の中から電話をかけたら赤ん坊の霊や人形に聞かれるのではないかと恐れたからだ。
「はい。三宮祈祷所です」
電話口に出た女性の声に緊張しながら、結花子は家を視てほしいと申し出た。
「一度、うちに来なさい。先生に霊視していただくから」
女性の言う住所をメモに書き留めて、今すぐでもいいかと訊ねると、予約が詰まっているから今すぐは無理だと断られた。それでもなんとか一週間後に予約を取り付けることが出来た。
早る胸の鼓動を感じながら、電話を切った。きっとこれで終わる。結花子は自分に言い聞かせ、なんとかこの一週間を乗り切ろうと気持ちを強く持った。
約束の日になり、結花子は祈祷所のある住所を訪れた。祈祷所は一見、普通の民家にしか見えない。ただし普通の民家と違うところは、木板に墨か何かで書いた、「三宮祈祷所」という看板が門扉に掲げられている。インターホンを鳴らすと、女性の声がして玄関が開けられた。玄関の三和土にたくさんの靴が並べられていた。すでに大勢の依頼者が集まっているようだ。
「よろしくお願いします。先生だけが頼りなんです」
結花子は必死の思いで頭を下げた。
「私は先生じゃないです。弟子の一人です」
てっきり出迎えた女性が先生かと思った。
予約の時間通り来たのだが、結構な人数の依頼者が八畳ほどの座敷で待っている。霊力のすごい人なのだ、と待ち人を数えて思った。予約時間を大幅に過ぎて、やっと、結花子は座敷の隣室に案内された。
案内された座敷には、白と赤い布で飾られた祭壇がある。鏡と幣、ご供物などが飾られ、仰々しい空気が漂っている。先生が祭壇の前に座っていて、左右に一人ずつ弟子らしき女性が控えている。先生と呼ばれる霊媒師は小柄な老女で、結った白髪に白い顔、白い巫女姿に首から丸い鏡を提げている。先生が眼光鋭く結花子を見つめた。
「おまえ! 家に人形があるだろう」
先生がいきなり大きな声を上げた。その声に驚いた結花子は目を見開き、先生を凝視した。
「人形があるだろう!」
「は、はい」
気圧されて声がうわずった。開口一番に人形のことを言い当てられて、結花子は言葉をなくした。
「その人形が祀られることを求めておるぞ! 神として崇められていたのに、ぞんざいに扱われて祟りをなしておる!」
「祟りですか……? でも井戸はちゃんと供養したんです」
「井戸に潜む悪霊も鎮められてはおらん。だが安心するがいい。この私が収めてやろう」
先生が甲高い声を上げた。
結花子は先生の言葉にすがりつくように訴えた。
「お祀りすれば、変なことは起こらなくなりますか? どうしたらいいですか」
「おまえの家に長らく繁栄をもたらした人形だ。以前の通りに祀ってやれば、鎮めることもたやすい。まずはお供物を捧げて、神として扱うのだ」
「あの……、お供物というのは何を捧げればいいんですか」
「米と酒と塩だ。これを朝晩と毎日続ければよい」
「ありがとうございます。やってみます」
先生が力強く告げてくるので、結花子も疑問を抱くよりも頼る気持ちが強くなった。しかし、そのあとすぐに結花子は祭壇のある座敷から次の間に通され、「お気持ち」を求められた。
「どのくらい包んだらいいんですか」
「十万円をお気持ちでいただいております」
「十万円……」
覚悟はしていたが、何に困っているか一言で当てたのだから仕方がないと思った。夫の給料から出すことは出来ないので、結花子自身の貯金を崩すことにした。帰りの道すがら、酒屋とスーパーに寄り、高い日本酒と塩と米を買った。帰ってからすぐに小皿に米と塩を盛り、お猪口に酒を注いで、人形の前に置く。手を合わせて、心の底から強く祈った。
「お願いします。もう変なことをしないでください。お祀りしますからお願いします」
ひとしきり祈ったあと、結花子は腰を上げた。毎日、朝晩、これを続けるだけで怪異は起こらなくなるのだ。先生を信じるしかない。
谷地の家に戻って夕食の準備をしていると、玄関口から呼ぶ声がする。
「井野さーん、ごめんくださーい」
隣家の悦子の声だ。どうしたのだろう、悦子から訪ねてくるのは初めてだ。
結花子は急いで玄関へ走って行った。
「はーい」
悦子が手に容器を持って立っていた。
「これ、このあいだのお礼。作りすぎたからどうぞ食べて」
差し出された容器はこのあいだ自分が悦子に手渡したものだった。今度は悦子が作ったおかずが入っている。
「ありがとうございます」
すると、玄関の三和土に立っていた悦子が中まで入ってきた。
「ねぇねぇ、今日、先生のところに行ったんでしょ? どうだった?」
好奇心旺盛に悦子が身を乗り出して聞いてきた。なぜ、今日行ったことを知っているのだろう。
「アドバイスをいただきました」
結花子は無難な受け答えをした。
「あの先生、すごく当たるでしょ?」
「そうですね」
「私も最初驚いちゃったんだから! 何も話してないのに当てちゃうでしょう」
確かにその通りだ。先生は千里眼の持ち主なのかと思うくらいに当てた。
「また行きたくなるわよ」
「そうですか?」
「そうよぉ、悩みは尽きないじゃない」
とうとう、玄関の上がりかまちに悦子が座り込んで、おしゃべりを始めた。
結花子はそんな悦子を持て余して、困ってしまった。もうすぐしたら夫が帰ってくる。帰ってきたときに夕食を準備しておきたいのに、悦子はお構いなしで喋り続けている。
八時を過ぎた頃、夫が帰ってきて、ようやく悦子は家に帰っていった。
「なに、佐賀さん、どうしたんだ?」
「ううん、おかずのお裾分けをしてくれたの」
「夕飯なに?」
「ごめん、まだ作ってないからちょっと待ってて」
「しょうがないなぁ」
結花子は急いで台所へ戻った。居間で夫がテレビを見出した音が聞こえてくる。夫が夕食が出来てないことに怒ってなくて良かった。ほっと胸をなで下ろした。
翌朝、お供え物を新しく替えるために仏間に入ってみると、昨日きちんと盆に載せておいた小皿やお猪口が手で払ったように転がっていた。結花子はしゃがみ込んで小皿とお猪口を手に取る。夜中、仏間に入った夫がお供え物を見て、足で払ったのかもしれない。それ以外の可能性は考えたくもない。
自分に目を向ける四十一体の人形たちを負けじと見返すが、お供物をひっくり返されるよりも、もっと恐ろしいことが待っているような気がして不安に駆られる。先生が井戸の悪霊は鎮められていない、と言っていたが、ここで怯んだらおなかの子供を人形に奪われてしまう。引っ越しという現実的な解決が出来ないのであれば、先生の言うとおりにしたほうがいい。それしか方法はないのだと胸中で反芻する。改めてお供物を捧げると、結花子は急いで仏間を出た。
本当なら閉め切った仏間を開けて明るくすればいいのだろうが、どうしても生理的に拒否してしまう。神として祀らなければいけないのに、心がそれを認めていない。どんなにご供物を捧げようと、結花子の中で人形は不気味で害のあるものにしか見えていないのだ。
まるでそのことを見透かすように、雪見障子に女の影が立つ。台所にいようと居間にいようと関係ない。障子の向こう側の廊下から、ベタッベタッと濡れた裸足の歩く音が聞こえ、くもりガラスの向こうに人影が映る。背を向けていてもその姿が鮮明に脳裏に浮かぶ。影の気配を感じ、結花子はつばを飲んだ。うなじの毛がそそけ立つような恐怖が込み上げてくる。叫び出したいのを堪えて、必死に念仏を唱えた。目をぎゅっとつむって何度も唱え続けているうち足音が遠ざかっていったが、影は廊下から居間には入れないのか、雪見障子の前に立ったままジッとしているだけだ。
その代わり子供の足音は日に日に激しくなった。小さな手形が、障子のくもりガラスの廊下側から付けられる。拭っても拭ってもまた付いている。
廊下のカビも何度掃除をやり直しても生えてくる。一日中、掃除をしているが綺麗にならなかった。
井戸を埋めても最初の頃と比べて一ミリも状況は変わらない。悪夢で見る女が少しずつ自分に近づいてくるのが不気味だ。
いいなと思ったら応援しよう!
面白かったら、応援よろしくお願いします。いただいたチップは小説家としての活動に使わせていただきます!