1-7-第7部:立ち上がり揺れる炎は誰の為【ファンタジー小説:黎明の器たち】

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序章:笑い合う未来を託された者は| 精霊術ファンタジー/黎明の器たち


 ――スタビナング王国王宮。


 晴れ渡るの窓の外を、重たい沈黙が這っていた。玉座の間の空気は冷えきっている。王は、背もたれに身を預けたまま、書類を一枚ずつ捲っていた。震える手。干からびた目。


 その傍らに控えていたのは、ただ一人残った忠臣、先代から王家を支えてきた宰相タトゥークだった。


「……これが、最後の頼みだ。お前しかおらぬ。誰にも知られぬよう、この文を……隣国ガムトーへ届けてくれ。」


 王が差し出したのは、蝋で封じられた漆黒の密書だった。タトゥークがその重みを手のひらに受け取ると、王はようやく、わずかに視線を上げた。


「我が血筋は……ガムトーと遠き過去につながりがある。ゆえにこそ、助けを求められる唯一の道なのだ。……もう、この国の中に“正気”は残っておらぬ。」


 その声は、王というよりも、ひとりの人間の切実な頼みだった。


 タトゥークは黙って頭を下げた。


「……陛下のご意思、確かに。」


 それだけを言い、宰相は衣の裾を翻した。


 彼の歩みは、王宮を出るまで一度も迷わなかった。


 王城から外へ抜けるには、いまや教会の騎士団――かつて王国の誇りだったはずの兵たち――が立ち塞がる。だが、タトゥークの足取りは一切のためらいも見せなかった。


 わしを知っているはずだ。今はまだ、“完全には”粛清されてはおらぬ。……だから、平然と、誇り高く。


 彼は杖を手にしながら、騎士団詰所を通過した。鋭い視線をいくつも浴びる。誰も声をかけぬ。だが、その沈黙には警戒があった。


「……お早いお戻りを、宰相閣下。」


 ――師よ。その道を選ばれましたか……


 通路の先で、鎧をきしませながら一人の若き騎士が道を空けた。名をクレシュノリア。タトゥークが以前育てた若者だった。


 かつて王の近衛として仕えていた頃、礼節と騎士道を厳しく教え込んだのが他ならぬ宰相だった。恩義を交わした時間は短くなかったが、今、クレシュノリアは精垂篤会の一員として教会軍の鎧をまとっている。


 チュモリマングの目に留まり、正式な手続きを経て配置換えがなされたとはいえ、王と王国に背を向けたことに変わりはない。


 国家を見限ったのか、それとも別の何かを選んだのか。今となっては、互いの胸の内にしか答えはなかった。


「務めを終えた帰り道だ。余計な詮索は無粋というものだぞ、クレシュノリアよ。」


 宰相は目を細め、あえて何も言わない。クレシュノリアが己を試していることに気づきながら、昔と変わらぬ口ぶりで静かに通り過ぎた。


 ばれてはいない。だが、すでに嗅ぎつけられてはいる。


 心に感じる不安を押し殺しながら、タトゥークは王城の外、厩舎の小屋へと辿り着いた。


 厩舎にひとけはなく、空はすでに東の端から白み始めていた。


 彼は素早く扉を開け、老いた旅マグニペスの背に鞍をかけた。マグニペスは年老いていたが、かつてタトゥークが数々の外交を共にした、最も信頼する相棒だった。


「……風よ、どうか道を切り開いてくれ。我が主の名誉を、まだ捨てさせるわけにはいかぬ。」


 唇を引き結び、宰相は手綱を引いた。


 老いたとはいえ、身体の奥にはまだ外交の道を駆けた記憶が息づいている。静かに目を閉じれば、かつて友国の言葉をそらで覚え、笑顔で策を回した自分の声が蘇る。


 蹄鉄が朝霧を裂き、彼は疾風のように王都を離れた。


 その様子を、さらに高みから別の影が捉えていた。

 ツァグナ――かつて王国の翼と呼ばれた密偵は、今やただの伝令ではない。

 老宰相が密書を携え国を離れ、若き団長は己の利を選び、王は書類に縛られたまま動けない。

 教会は財と兵を束ね、商人は流通を押さえ、元帥は煽動の舞台に立とうとしている。

 その一つ一つが絡み合い、大河の流れのように未来を形作っていくのを、彼の眼は正確に読み取っていた。


 ――この流れを誰が制するか。

 民ではない。王でもない。

 情報を制する者こそが、次の国を制する。


 ツァグナの眼差しは冷ややかに、それでいて確かな確信を帯びていた。

「……時が動き出したな。」

 低く呟き、彼は記録者でありながら操者の匂いを漂わせて、黒衣の翼が屋根を飛び立ち、時計が象徴的な精垂篤会の聖堂へと消えていった。




 精垂篤会精堂の塔の陰に降り立った、ツァグナはいつも通り、その側近に言葉少なく情報を提供し、また飛び去った。

 報は、潤精導チュモリマングのもとへ即座に届く。


 上座の間。灯のまわりで薄金の飾紐が静かに揺れ、文机の上には施策案が重ねられていた。チュモリマングは手のひらを文に置いたまま、目を閉じる。民は飢えている。救いは、誰かの決断を待っている。王はもう、歩けない。ならば自らが歩を進める。悪名ならば自分が被る。救済のための権力は、奪ってでも握り切る――胸にその言葉を落とし込むと、彼は低く合図をした。


 扉が開き、チェルニッケが入ってくる。余裕のある笑み。手に持った帳簿の束。

「時は熟しましたな。」


 チュモリマングは視線だけで応じる。彼の献身と欲望は、常に“民を救う”一点へ向いている。だが道を通すには力が要る。金と物流の網――それはこの男が握る。利用するだけで飲み込まれはしない、と自らに言い聞かせる。


「壇を用意せよ。元帥パシュナルジムに中央を歩ませる。鐘は鳴らすな。騎士団は槍を伏せ、術士は拍手で応えよ。刃で焼かず、”声”で燃やす。」


 チェルニッケが頷き、囁きを落とす。

「恩義と責務は、もう充分に積まれております。閣下の一歩に、街はついてくるでしょう。」


 チェルニッケとチュモリマングは、すでに王命を外へ伝える要職――「勅伝官」を金と恩義で抱き込んでいた。

 その勅伝官を通じて「国王の勅命」として元帥パシュナルジムへ伝えさせる。王の名を冠した命であれば、元帥が拒む理由はどこにもない。

 こうして彼が民衆の前に立つ段取りは、すでに盤上に置かれていた。


「彼はどなたでしょうか?」

 そう言って右手を扉の前に立つ男に向ける。


「あぁ、お初でしたか。彼は私の近衛騎士団長として使えてくれることになったクレシュノリア君ですよ。」

「ほう、そうでしたか。いや、余りにも目が鋭いものですから目に留まりましてな。」


 その様子を横目で伺いながら、彼等の声をつぶさに捕らえている。


 ――師よ。あなたの選んだ道は、やはり愚策だ。

 密書を抱えて王宮を離れた宰相タトゥークの姿が、脳裏に浮かぶ。

 国家も、王も、民衆も救うつもりなのだろう。しかしその行動は、既にこの国を覆う力の流れを変えることなどできない。

 教会の掌に兵も財も落ち、商人は国を縛り、王は名ばかりの人形と化した。未来図は明白だ。


 ――やはりこの選択しかなかったか。師に従っていたままでは……

 王は枯れ、宰相は老い、民は怒号しか残せぬ。救うという大義に縋るより、勝つ側に身を置くことこそ理だ。


 そう思い直すたびに、胸の奥に残る棘が小さく疼く。

 拳が鎧の縁でかすかに鳴ったが、次の瞬間にはもう、凛とした顔に戻り、静かに敬礼を送っていた。




 軍本部。パシュナルジムは勅伝官から勅命を受け、黙然と立ち上がる。老いた膝が、なお正面を向く。

 王が出られぬのなら、誰かが前に出る。己の誇りは、民に向けて掲げられるためにある。救いを口にする声が、煽動の炎と見なされるなら――その火中に足を入れる覚悟だけが残る。


「……行く。戦ではない。国の呼吸を整えるための声を、ここで上げる。」


 外に出ると、朝の光が甲冑の縁で光がきらめいた。石畳の先で、ざわめきが潮のように揺れる。

 舞台は整っている。誰も止めない。止める者が、もういない。




 スタビナングの街路に、人々の呻き声が広がっていた。

 干からびた井戸の底、値を吊り上げられた穀物の市。日ごとに増す飢えは、民の力を奪い、荒れ果てた畑をさらに打ち捨てていった。すでに幾つもの場所で略奪が起こり、街は今にも暴動に呑まれようとしていた。


 殺気立った民衆が今日も多く集い、国政への抗議を叫んでいた。広場の四方から騎士団が続々と進み出て整列し、鎌や鍬を手にした農民や労働者をじりじりと取り囲む。その物々しさに驚いた人々がさらに集まり、人が人を呼び、広場は波打つように膨れ上がっていく。恐怖と好奇心と憤怒が混じり合い、息を呑む気配が群衆を包んだ。


 その頃合いを計ったように、一人の男が護衛に囲まれて人垣を割り、中央の壇上へと進んだ。国軍元帥パシュナルジム。幾多の戦で名を馳せたその巨躯は、群衆にとって頼れる楯のように映った。


「我が国の旱魃はなぜ起きたのか!」

 雷鳴のような声が広場を支配する。ざわめきがすっと止み、群衆の目が壇上に集まる。


「それは決して国王の失政ではない! ましてや、我らが精霊への思いが薄れたからでもない!」

 緊張の中で「そうだ」「そのとおり」と声がわずかに重なった。


「では、なぜ我らの水は涸れたのか!」

 声が石壁に反響する。


「あの山々がすべての流れを遮っているからだ!」

 パシュナルジムは西の高峰を指差し、民衆の視線を誘った。


「では、なぜ我らが飢えねばならぬのか!」


「ガムトーが物資を独占し、我らを飢えさせているからだ!」


「近ごろ関所をくぐった商人が居れば問いたい、前へ。」


 壇上近くにいた、何人かが手を上げた。


「そこの二人でいい。儲けはどうなった。」


 当てられた二人は、驚きながらも答える。

「減った!」

「食っていけない!」

「それでも民に回すために仕入れている!」


 群衆はざわめき、やがて怒号を重ねる。

「聞いたな。わが国の商人は飢えた街に回そうと踏ん張っている!」


 壇上で紛穀の袋を持ち上げる。「去年は同じ額でこの袋がいっぱい買えた。ところが今はどうだ!」


 広場のざわめきは、さらに大きなうねりとなった。


「なぜこんなことが起きるのか――市場では穀紛の値がつり上がり、門では銭を余計に取られ、食料が店先に並んでも手が出せぬ!」


「誰の仕業だ! ――ガムトーだ!」


「我々はこのままガムトーの横暴を赦しただ死んでいくだけでいいのか!」


「違う!」「悪いのはガムトーだ!」「ガムトーを倒せ!」


 パシュナルジムは手を高く掲げ、群衆を制した。

「ならば我らは民の為に今こそ立ち上がろう! 我々の正しき権利を行使しようではないか!」


 一斉に右手が掲げられ、歓声が轟いた。怒号は憎悪の形をとり、街を覆い尽くす。騎士団の若き団員たちが槍を突き上げ、その金属音に呼応するように精垂篤会の術士たちが頭巾を脱ぎ捨て、拍手を打ち鳴らした。


 その様子をこぶしを握り締め、ただ眺めるだけの者たちが輪の周囲に居たが、その声は上がらない。輪の周囲には槍を構えた騎士団員がその声を封殺していた。


 歓声が街を覆い尽くす中、パシュナルジムは胸の奥に熱を覚えていた。己の声がこれほどまでに人々を動かす――その手応えは、幾多の戦で得た勝利にも似ていた。


 しかし……これほどまでになるものなのか……


 騎士団の囲い、精霊術団の拍手、手渡れた資料と民衆との掛け合い。

 これは果たして王の望んだことなのか。あの勅令は、本当に玉座から下されたものだったのか。


 高揚と疑念がせめぎ合い、心の奥に影を落としたまま、彼は群衆の叫びを見据えていた。


 かつては同盟国だったはずのガムトーを敵と定める言葉が、そうして民衆の胸に棘のように突き刺さっていく。


 民衆の鬱屈は、今や誰もが口にする合言葉へと変わった。

「困窮はすべてガムトーのせいだ。我らが救われるには奴らを倒すしかない!」


 その声は夜の酒場から朝の市まで繰り返され、街に浸透していった。協商連会の高塔の窓辺で、チェルニッケはその光景に頬を緩めていた。


 そしてチュモリマングはその渦の中心で、騎士団と精霊術団の動員を密かに整えていた。

「決戦は近い。パシュナルジムは民を燃やし、精垂篤会は術を燃やす。我らは手筈通り彼らを導くだけだ。」


 熱狂の奔流を、王家の塔の高窓からひとつの影がじっと見下ろしていた。国王は、その場に立ち尽くしていた。

 しかしその眼差しには、歓喜も安堵もなく、ただ静かに押し寄せる戦の潮流を見据える冷たい光が宿っていた。街の石畳を震わせる怒号さえ、もはや止め得ぬ奔流の一部に過ぎなかった。


 日の暮れたスタビナングの繁華街に、不釣り合いな二人の商人が豪奢な料理店へ入っていく。着古した上衣の裾を気にしながら、落ち着かぬ様子で腰を下ろす姿を瞳に捉えた。

 やがて店の奥から見覚えのある――”役人”が現れ、ひそやかに言葉を交わすと、二人の顔は見る間に明るみに変わる。帰り道、手にしていたのは行きにはなかった何かの袋。その歩調には、先ほどまでの苦悶は消えていた。

 この町は、もう抜き差しならないところまで来ている。

 その光景を遠目に収めた黒衣の翼は、ただ純粋な観察眼で冷ややかに測り取った。

 それを見収めると、杯を静かに置き、酒代を払って扉を跨いだ。

 次の瞬間、その影は街灯の明かりを振り切り、夜気を切り裂いて飛び去っていった。

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