1-13-第6部:見えない中で掴んだ答え【中世ファンタジー小説:黎明の器たち】
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序章:笑い合う未来を託された者は| 精霊術ファンタジー/黎明の器たち
風が止み、森が息を潜めた。
焦げた木の匂いが喉を刺す。
遠くの空で、あの四頭が最後に放った咆哮が、まだ胸の奥に残っている。
ゴズドバルは七つの影の前に立っていた。
それぞれの瞳に、何年も共に暮らした夜の焚火が映っているように見えた。
草の上に落ちた灰を指で払う。その指が震えた。
「……もう我が子をお前たちを八頭も喪った……帰ってこなかった……」
低く笑う。笑うことで、胸の底の何かを押しとどめた。
「なのに、お前らはまだ立ってる。立ってくれている。」
チシルが鼻を鳴らし、バヌーバがその肩を小突いた。
ゴズドバルはその二頭の頭を順に撫でる。毛に残った灰が手に移り、黒く汚れた。
「チシル、バヌーバ……お前らを行かせたくねぇ。だけど俺は命じる立場にいる。こんな命令を出す俺を、どうか……許してくれ。」
息が詰まり、喉が軋む。
言葉を続けるたびに、心が削がれていくのが分かる。
「みんな、お前たちのおかげで、俺はここまで来られた。寒い夜も、お前らが傍にいた……そんなお前たちを、送り出差なきゃならない。俺は何のためにここに立ってるんだろうな。」
誰も答えない。応えられない。後ろに控える獣遣士たちも、風も息を潜めていた。
ただ、十四の瞳が彼を見ていた。責めず、怯えず、ただ静かに。
「……ありがとう。こんな俺のもとに残ってくれて。」
ゴズドバルは深く頭を下げた。
その姿を見た獣遣士たちの目に、涙が浮かぶ。誰も声を上げない。
傍らには治療を終えたワッファーが伏せていた。最後まで周りをうろつくチシル、バヌーバたち。
顔を摺り寄せ、ワッファーが舐める。皆分かっている。死地に行くことを。
「なんて言えばいい……お前たちを送り出さなきゃいけねぇ俺はなんて言えば……。いや、違う違うんだ。返って来たらみんなであの崖を見に行こう。皆であの山の頂まで駆けよう。な……お前たち……」
チシルが地を踏み鳴らした。バヌーバがそれに続く。
七頭が同時に息を吸い込み、地面がわずかに沈む。
ゴズドバルはその姿を見て、わずかに笑った。
もう止められない。見送るしかない。
分かっている全て。
立ち上がるゴズドバル。合わせて立つ七頭たち。手を挙げる。目を瞑る。唇を噛み天を仰ぐ。
「お前たちを、待っている。」
それだけを言った。そして手を降ろした。
叫びではなかった。祈りのような声だった。
七頭が地を蹴る。森を割り、炎の匂いを裂いて進む。
その背が揺れ、灰が舞い、空が鳴る。
チシルが先頭で台車を駆け上がり、バヌーバが続いた。
後の五頭が風を追い、重なる咆哮が城壁を揺らした。
ゴズドバルは立ったまま、拳を胸に当てる。
風が頬を打ち、熱いものが目を焼いた。
「帰ってきてくれ……頼む。」
その声は、誰にも届かぬほど小さかった。
ただ、森の奥で、微かな風が応えるように鳴った。
足元の草がわずかに震えた。
「チシル、先頭だ。バヌーバ、支えろ……あとの者は息を合わせろ!」
七つの咆哮が重なった。
ガヌラムたちは一直線に走り出した。体の線が緊張で細り、土の上を滑るように駆け抜けていく。
空気が焼け、脚が叩くたびに鈍い雷のような音が続いた。
その時だった。
森の右手――木々の陰を抜けて、硬い何かが擦れる音が響いた。
鎧と鎧がこすれ合うような、金属の低い軋み。
さらにその下で、石畳を踏む規則正しい音が加わる。
人の歩く音。だが、数が多すぎる。
「……聞こえるか?」
ゴズドバルの声に、隣の獣遣士が身を固くした。
「鎧の音……どこからだ……?」
次の瞬間、森の外に白い闇が垂れ込めた。
霧が、まるで命あるもののように森の枝をすり抜けてくる。
冷たい。肌にまとわりつくほど濃い。
「視界が……っ!」
誰かが叫ぶ。
白が一気に世界を覆い、地と空の境が消えた。
足元の泥がわずかに沈み、呼吸が奪われる。
ガヌラムたちの咆哮が霧の中で轟いた。
彼らは止まらない。霧の抵抗を押し裂くように突き進み、森の縁を抜けた。
湿った空気が急に乾き、足元の感触が石に変わる。
七つの巨体が同時に石畳を掴み、爪が火花を散らした。
「チシル、左へ! 裂け目に向かえ!」
ゴズドバルの叫びに応え、先頭のチシルが身体を傾ける。
重い躯が石を削りながら旋回し、後続がその跡をなぞる。
霧の中で白い波が生まれ、彼らの影が飲み込まれていった。
――その時。
霧の向こうから、どんどんと音が近づいてきた。
甲冑の擦れる金属音。だが先ほどよりも重く、湿り気を帯びている。
足音が、確かにこちらへ迫っていた。
「誰だ……味方か……?」
視界の端、霧の隙間が一瞬だけ裂けた。
そこに、人影が見えた。
青黒い鎧。重装の輪郭。
肩から垂れる布の隙間からこぼれる硬質な鱗。
「……なんだあれは!」
叫んだ声が霧に飲まれる。
「リゴスキアです!」
獣遣士のひとりが声を振り絞った。
ゴズドバルの背が硬直する。
「リゴスキア……? なぜだ、右手は……領主の陣があったじゃねぇか!」
霧がまた流れ、別の影が浮かぶ。
倒れ伏した者たちの輪郭。破れた旗。
土に沈んだ金具の反射。
「……まさか……」
声が震えた。
喉の奥が焼けつくように痛む。
誰かが呟いた。
「まさか、領主軍が……やつらの奇襲を受けて……全滅……?」
ゴズドバルは拳を握り締めた。
爪が掌に食い込み、血がにじむ。
「そんなはずが……奴らは何人いるんだ!」
言葉の途中で、遠くから鈍い音が響いた。
鉄と石のぶつかる重い音。
「見えません!十、十五……いや二十を超えています!」
木陰に身を潜めながら、通りゆく者らの足音を聞こうとする最前の獣遣士は苦悩の顔を見せる。
霧の奥で、何かが崩れ落ちていく。
城壁か、陣か。音だけでは分からない。
ただ、そのたびに地面がわずかに震えた。
ゴズドバルは霧の中を見据えた。
七頭のガヌラムはすでに霧の先、裂け目の方へ駆けていったはずだ。
その咆哮が、まだかすかに聞こえる。
「……リゴスキアが……あの右手の陣を……!」
言葉を失い、拳を下ろす。
胸の奥に、焦げたような痛みが広がる。
霧がその表情を覆い隠した。
灰と血の匂いが混ざり合い、空気が息を拒むように重く沈んでいた。
灰を含んだ風が、城壁の上をうねるように流れた。
随分傾きを増してきたとは言え、まだあるはずの昼の陽は、翳りを強くしていった。
気が付くと北側は霧覆い尽くし、城下のすべてを飲み込んでいた。
さっきまで見えていた森も、三両目の高射台車の姿も、僅かに見え隠れするだけだった。
「……なんだこれは、真昼なのにこんなことが。下が何も見えんぞ。」
フェルバンが矢狭間から身を乗り出し、呻くように言った。
「この霧……自然じゃないな。風は北東からだ。誰かが流してる。」
「あぁ、間違いねぇ。」
アズスロックスは霧の白さを睨みつけた。
肌の毛が逆立つ。空気がざらついている。
「誰かの術だ……。上流で行使されたか。」
そのとき、下層から地を這う息と石畳を掻く音が伝わった。
霧を押し上げるように、低く腹の底を打つ振動。
次いで、幾重にも重なった咆哮が空を裂いた。
「……来たな。」
アズスロックスの声が低く震える。
「まさか……本当に来るのか!? この霧の中をか!」
フェルバンが叫び、周囲の騎士たちも一斉に構えた。
下は見えない。だが、足音だけが確かに聞こえる。
地を割るような、七つの巨体の蹄音。
霧の海が渦を巻く。
下から吹き上げる風が石畳を叩き、灰が舞った。
その中で、木骨の軋む音が響く。
高射台車の枠が、何か巨大なものに踏み抜かれるように震えている。
綱が張り詰め、湿った空気が一瞬止まった。
霧の向こうで、木骨を砕く音と獣の咆哮が交じり合う。
アズスロックスは綱を握りしめ、声を張った。
「今だ、引けぇっ!」
四人の腕が一斉にのけ反り、綱が唸りを上げた。
巨石がふわりと浮き上がり、次の瞬間、空気を裂いて霧の中へ飛び込む。
音は聞こえない。ただ、胸の奥に鈍い衝撃が響いた。
「命中したか!?」
誰も答えられない。霧が全てを呑み込んでいた。
だが、その数呼吸ののち――
地の奥から、何かが崩れ落ちる音がした。
「……当たったか?」
フェルバンが息を潜める。
「いや……違う。まだだ!次を乗せろ!」
アズスロックスの声が震えた。
霧の下から、さらに大きな咆哮が重なった。
震動が石壁を伝い、足元を揺らす。
突如、爪の掻く音が変わった。
形を持たぬほど速い。
何かが、高射台車の斜面を駆け上がっている。
城壁の縁で見張りが声をあげる。
「……見えるか? あれ……!」
「奴らだ!!」
巨体が、霧の中階段を駆けている。
「いそげ……呼吸を合わせろ!」
アズスロックスが叫ぶ。
投石手たちは視界を奪われたまま、今まで感覚で台車の位置を探った。
綱を引き、石を乗せ、力を溜める。
「いくぞ! 一二の三!」
四人が同時に綱を引く。
石が宙に弾け、霧の中へ飛び込んだ。
音も見えもせず、ただ風を裂く鈍い音だけが返ってくる。
「いったか!」
霧が石の軌跡に跳ねあがったその時――
白い膜の中から黒き猛獣が跳び上がってきた。
高射台車を登り切り大跳躍を成功させた大きな黄色い二つの瞳が見張りの目の前まで迫って来た。
高く掲げられた黒く太い足から鋭い爪が光っていた。
その爪は城壁の割れ目の縁を捉えたが、無情にも足の裏は石を踏み込むことはできず、爪痕を縦に長く残し城壁下に落下していった。
その爪音と同時に、投石の木床を捉えた衝撃音が霧の中から届いてきた。
砕けた木骨が波のように折れ、足場が崩れた。
轟音。
木と鉄枠が砕ける音が、霧の中で鈍く響いた。
その衝撃が城壁を震わせ、足元の砂が跳ね上がる。
フェルバンは拳を握り、天に突き上げた。
「……やったぜ!石が貫いた!」
フェルバンの叫びが、歓声とも悲鳴ともつかぬ声に変わって空気を震わせた。
歩廊では誰もが息を荒げ、霧の底を見下ろしたまま、次の瞬間の沈黙に怯えるように叫びを重ねた。
伴徒たちは運んでいた石を次々と投げ落とし、腕は震え、誰かの笑い声が喉の奥でひしゃげて消えた。
三人の投石手は綱を握ったまま石畳に崩れ落ち、荒い呼吸の合間に何かを確かめるように互いの肩を掴んだ。
立ち上がったアズスロックスは、何も言わず、濁った白の底を見つめ続けていた。
風が灰を運び、霧の向こうでわずかな振動が続いている。
その音は、倒れた巨体の息か、それともまだ動く何かのうなりか――誰にも分からなかった。
丘の上から伝令の影が糸を引くように坂を駆け下りた刹那、左翼の水色の陣形がざわめき、ざらついた空気が波のように押し寄せていた。
丘に渡る風が、不穏な重さを帯び始めていた。
「……左翼が遂に動きました。」
ワタオパが呟いた瞬間、遠くの陽が一気に翳った。
水の術者たちの頭上で、次々と繰り出される水精霊術は雨を降らし、冷風を吹かし、目に見えぬ膜がひび割れるように揺らぎ、霧が生まれた。
それは白ではなく、青白く光を帯びた霧だった。息をするごとに肺の奥が冷え、風の流れさえ遅く感じる。
ハルキシミルの号令が聞こえたかと思うと、周囲の術者たちが一斉に振り返った。
同時に、霧が渦を巻き、丘を包み、全方位へと膨れ上がっていく。
「何が起こっている……!?」
チュモリマングが唸る。
彼の眼下、左翼陣の中心に立つハルキシミルが右腕を掲げていたのを最後に霧が呑み込んだ。
霧の中から爆発するような轟音が届いてくるが白い幕は何も教えてはくれない。
「どうなっている……!」
ワタオパの声が震えた。
チュモリマングも息を呑み、手にしていた精霊器を握りしめる。
白い奔流は、丘を飲み込みながら南西へと流れ、やがて戦場全体を覆った。
やがて左翼の霧が晴れる頃、鬨の声が上がった。
川向のガムトー国領主連合が矢を放ち渡河を敢行していた。
右翼に目をやると流れ着いた霧が南西城壁面の割れ目に設置された高射台車を包み始めていた。
やがてその三両目の高射台車の方角から、重い炸裂音が響いた。
丘が震え、灰が舞う。
チュモリマングは思わず両足を踏ん張り、霧に覆われた城を睨んだ。
「……今のは……なんだ!?」
ワタオパが物見台から身を乗り出す。
霧の厚みが増しすべてを覆い尽くす瞬間に、一瞬だけ煙がわずかに空に向け走った。
その後、視界の奥で何か複数の影がもがくのが見えた。
輪郭もわからぬまま、確かに動いていた。
「まさか……右翼陣を突破されたのか……?」
森と霧が覆う見えぬ先へ、ワタオパの呟きが漏れた。
霧はなお南西へと流れ続ける。
その流れの奥で、誰かの咆哮のような音がかすかに混じった。
それは風のうなりか、それとも戦場が息づく音か――。
丘の上の二人は、言葉を失ったまま、灰の匂いを含んだ風の中に立ち尽くしていた。
台車を破壊され行き場をなくしたガヌラムたちの後背から、低い地鳴りとともに影が迫っていた。霧を切り裂くように、鎧の擦れる音が近づく。姿を現したのは、全身を硬質の鱗で覆ったリゴスキア隊――その先頭に立つのは、青黒鉄の兜を戴いたシュシュリャントだった。
左翼でハルキシミルが起こした霧が、風に乗って流れ込み、辺りを完全に覆い尽くしていく。霧は重く、湿りを帯び、肌に触れるたびに冷たさが染みた。
前方の城壁に集中していたガヌラムたちの周囲を、リゴスキア隊が音もなく取り囲んでいた。鎧が擦れ、霧の粒が揺れる。
シュシュリャントは円陣の中央に立ち、片腕を高く掲げる。
「我らが盟友ベルムートの敵を、今こそ討ち晴らさん。掛かれぇ!」
「うおぉぉ!」
咆哮が霧を震わせた。轟音のような雄叫びに気付いたガヌラムたちは、闇の中から影を捉え、それぞれが定めた標的に向かって一斉に躍りかかった。
ガヌラムの爪が鎧の隙間を裂き、金属の破片が飛ぶ。しかし、リゴスキアの兵は怯まず、逆に体を押し出すように大剣を振り下ろした。刃が閃き、獣の肩口を断ち割る。霧に血が散り、鈍い音が地面を打った。
霧が城壁付近を完全に呑み込むと、リゴスキアたちは互いの位置を見失いはじめた。どこからともなく混乱の声が上がる。
白く濁る霧は、視界を奪うだけでなく、距離も音も曖昧にしていく。風がないのに、草が揺れた。咆哮が響いたかと思えば、その方向からは影が現れず、代わりに静寂の背後から死が跳ねた。
ガヌラムたちは獣の王。その肉体は風のように滑り、霧の中でも足音を立てない。敵を見ずとも嗅ぎ、気配を読み、息づかいひとつで距離を測る。
人間にとって地獄のような光景も、彼らには違って見えていた。霧が匂いを変え、空気のわずかな流れが皮膚をなぞる。音ではなく、空気の震えと温度の揺らぎが敵の輪郭を描く。リゴスキアたちはそれを”感じ取る”。霧の中でも目を閉じたまま、そこに在る気配を確かめるように。
鎧の軋み、汗の落ちる音、空気のうねり――それらのすべてが合図だった。彼らは互いの間隔を詰め、息を合わせて呼吸する。迷いはなかった。獣の牙より早く、彼らの筋肉が動く。
目の前の闇がわずかに揺れた瞬間、シュシュリャントが声を張り上げる。
「お前ら、三人一組になって互いの背中を守り合え!」
その声に呼応するように霧が波打つ。音を聞きつけたガヌラムが跳んだ。
白の裂け目を突き破るように、巨大な影が現れ、刃のような牙を光らせて襲い掛かる。
リゴスキアの一人が咄嗟に左腕を上げた。次の瞬間、牙が鎧を裂き、肉を噛み砕く。血が霧に散った。だが兵は倒れない。
腕を喰われたまま、顔を歪め、右拳を振り抜いた。拳が獣の喉元に叩き込まれ、鈍い衝撃が空気を震わせる。
霧が唸りを上げ、血と鉄と焦げた匂いが混ざり合った。
大地が応えるように震え、戦場は、獣と人の境を曖昧にしたまま、赤い鼓動を打ち続けていた。
ガヌラムの爪が閃いた。鋼を裂くはずの一撃は、シュシュリャントの腕を覆う青黒い鱗に阻まれ、甲高い金属音だけを散らした。硬質な鱗が火花を弾き、獣の爪はその表面をかすめただけで止まる。
刹那、シュシュリャントの右拳が獣の側頭部を正確に捉えた。骨が軋む音と共に、衝撃が霧の中を走る。ガヌラムは噛みつきを解き、のけ反った。次の瞬間、重たい脚がその首へ叩き込まれる。
ゴギャッ!
鈍い破砕音が霧に吸い込まれた。肉と血の匂いが風を汚し、白い靄の奥でリゴスキアたちの影が揺れる。
「ここに一頭いるぞ、囲めぇッ! 右だ、跳べゴズ!」
シュシュリャントの声が戦場を震わせた。巨体が弾丸のように跳ね、三方向からガヌラムを包み込む。鱗がぶつかり合い、金属を叩くような低音が続く。その波の中心で、ゴズゴンゾがわずかな風の変化を読み、次の動きを先取りするように身を滑らせた。筋肉の鎧が鳴り、鱗の隙間を風が通り抜ける。
「今だ、仕留めろッ!」
轟音。
リゴスキアたちの肉体がぶつかるたび、岩が砕けるような音が響いた。ガヌラムの一頭が、ゴズゴンゾの足払いとシュシュリャントの拳によって首をねじ折られ、地へ崩れ落ちる。霧の底で血が広がり、赤が白を呑んでいった。
その影を追うように、別の個体も投げられ、殴られ、沈んでいく。獣の呻きと金属の打撃音が幾重にも重なり、やがてひとつの咆哮が遠ざかった。
風上から霧がゆっくりと薄れ始める。
ゴズドバルの視界に、崩れた木骨や倒れた獣の影が少しずつ浮かび上がった。城壁の近くにはまだ白い靄が残り、その中で聞こえる咆哮は、勇猛ではなく、痛みと恐怖の入り混じった声へと変わっていく。
戦場の中心では霧が渦を巻き、血と鉄の匂いにまぎれて、肉が裂ける音と骨の砕ける音が鈍く響いていた。
一頭、また一頭。
ガヌラムたちが、次々と倒れていく。獣の巨体が、鱗に覆われた人々に押し潰されていく、霧の中で起ることを想像してゴズドバルは膝をついた。
その目から、いつもの豪放な笑みが消えていた。
「……俺の子らが……」
十五の命。そのひとつひとつをこの腕で育てた。牙が生えれば肉を与え、爪が伸びれば戦いを教えた。言葉を交わせずとも、目を見れば心がわかった。
――その命が、今、砕かれていく。
濃霧が全てを隠してくれることが、これほどありがたいと思ったことはなかった。いつもなら雄叫びで仲間を鼓舞するはずの口が、ただ固く閉ざされる。
十五頭のうち、先に送り込んだ子らは傷ついたワッファーのみが生還した。それでも望みをつなぎ、残る七頭を託したのは、戦況を変えるためだった。だが、その賭けは霧とともに現れたリゴスキアに呑まれ、すべて潰えた。
育てた牙が、爪が、次々と折れていくのを見ているしかないのか。
ゴズドバルは喉の奥からこみ上げる声を必死に呑み込んだ。唇が震え、歯が鳴る。最後の決断を下す。
「奴らを死なせるわけには、いかねぇ……」
かすかな指笛が霧に吸い込まれる。震える息が混ざったその音色は、風に溶けるように散った。
突如、退却の合図が響く。ガヌラムたちは戦場で初めて聞く音だった。戦いを終えて戻ることはあっても、途中で退くことなど一度もなかったからだ。
咆哮が応える。まだ戦える、まだ終わっていない――そう訴えるように。
だが、ゴズドバルはもう一度、今度は力を込めて指笛を吹いた。悲しみを帯びた音が、厚い霧に溶けて消える。
やがて、地を蹴る音が霧の奥から近づいてきた。耳が敏感になったせいで、ひとつひとつの足音が胸に突き刺さる。どれも、悲しみを引きずるような音だった。
ぬかるんだ地に残るのは、血と鉄の匂いだけ。
静寂の中、霧を揺らして現れたのはチルシだった。
泥と血にまみれた身体を引きずりながら、彼女はまっすぐにゴズドバルのもとへ向かう。鼻先をそっと差し出し、かすかに震える瞳で見上げた。その目は泣き出しそうなほどに訴えていた。
ゴズドバルは両手でその額を包み、ゆっくりと額を寄せた。
「……みんな……逝ったのか……」
答えはなかった。濡れた鼻がわずかに動いただけだった。
遅れて、バヌーマが霧を割って現れる。肩に傷を負い、泥と血で濡れた体を揺らしながら駆け寄った。振り返って霧の奥を見つめるが、もう何も動かない。
仲間を待つように、霧を振り返り二頭は立ち尽くした。
「……こんな、はずじゃ……なかったのに……」
今朝、城門を仰いでいた十五の影。
大きな背にまたがって笑っていたあの顔。
霧に隠れて見えなかったのは、仲間の最期ではなく、自分の覚悟だったのかもしれない。
ゴズドバルは息を震わせ、喉の奥で言葉を何度も崩した。
「……もう……帰ろう。……チルシ、バヌーマ……ワッファーと一緒に家へ、帰ろう。」
三つの影が、その声に応えるように寄り添った。
後ろを歩く獣遣士たちの足音が湿った地を踏む。誰かが嗚咽をこらえ、握った拳が小刻みに震える。
その拳からは地を叩きこぼれた血が、ぽたり、ぽたりと泥に吸い込まれていった。
かすれた命令の声が、沈む夕暮れの森に溶け、静かに消えていった。
