1-13-第8部:落ちる陽を背に登る坂【中世ファンタジー小説:黎明の器たち】
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序章:笑い合う未来を託された者は| 精霊術ファンタジー/黎明の器たち
それからどれほどの時が経っただろうか。
白い霧は次第に薄れ、北東の丘をかすかに照らす光が戻り始めていた。
風に混じる焦げた匂いと黒煙。
その下で、無数の人影が倒れ、土の上に広がっているのが見えた。
ワタオパは無言で視線を凝らす。
緑の湿地にはハルキシミルが立てた水色の旗と、残るのは砕けた盾と焦げた槍の列――ブラグニール隊の末路だった。
チュモリマングは手すりを握りしめ、震える声を押し殺した。
「……彼らは……?」
「壊滅です。」
ワタオパの返答は、風よりも冷たかった。
その声は静かだったが、誰よりも確かな響きを持っていた。
霧はなお地を這い、丘の上まで薄く流れ込んでいた。
白く濁った空気の向こうで、かすかに陽が差し始める。風の向きを読もうとした物見の布旗がたわみ、揺れた瞬間、北東の方角に黒い筋が浮かび上がった。
ワタオパは息を詰めた。
霧の裂け目に、折れた槍と焼けた布が転がっている。動かぬ影の連なりが、地の起伏に沿って不自然に並んでいた。
「……見えますか、チュモリマング殿。」
声は静かだったが、その静けさの奥に、痛みのような響きがあった。
チュモリマングは頷くこともできず、ただ前を見つめていた。
丘から遠く離れた北東の斜面、かつてブラグニールの陣があったあたりは、すでに煙に覆われていた。黒煙は風に流れ、焼けた土の匂いが丘の上まで届いてくる。
「……まさか、あれが……」
「ええ。ブラグニール隊です……壊滅しています。」
戦局は既にカロスの陣に移っている。
渡河を終えたガムトー国領主連合軍はカロスの隊を左右から挟撃せんと迫っている。
チュモリマングの喉が鳴った。手すりを握る指に、白い痕が残る。
「迎撃は……? 元帥……パシュナルジムはどうしている!」
「丘を下りました。領主連合の渡河を確認した時点で、カロス隊の後方支援、迎撃に出ています。」
「出撃しただと……!? まだ指示を出していない!」
「元帥はすでに覚悟をお決めのようです。カロスの隊を退却させ最前線でガムトー国領主連合軍の進撃を食い止めておられます。」
ワタオパの目は霧の向こうを見据えていた。
丘の下では、街道に沿って人影が動いていた。パシュナルジム隊が列を成し、煙の中へと消えていく。その旗が丘の稜線に沈むと、次の瞬間、地を揺らすような衝突音がかすかに響いてくる。
北東の湿地の西で風が止み、霧の流れが一瞬逆巻いた。
黒煙の奥から光が走り、続いて轟音が丘を打った。
チュモリマングは思わず腰を浮かせる。
「……今のは?」
「水精霊術です。おそらくハルキシミル隊が放ったものと思われます……」
ご自身がお持ちの術式すら既に把握できぬのか……最早これまでだ。
クレシュノリアが陣幕の陰から駆け上がり、短く報告を挟む。
「北東街道の防衛線は崩れることは必至。潤精導。撤退の指示を。」
その意見に頷き、ワタオパは小さく息を吐いた。
「チュモリマング殿、クレシュノリア殿の言う通り。この戦は既に――」
「まだだ! まだ南西が残っておる! ハルキシミルの霧が敵の前進を止めている! 我が水の精霊術で北東へ援護を送れば――」
「無駄です。」
ワタオパの声は静かだったが、その一言で丘の空気が変わった。
冷えた風が鎧の隙間を抜け、誰もが言葉を失う。
「ブラグニール隊の陣をご覧になられたでしょう。あれはおそらくハルキシミル隊の離陣……裏切りです!」
「……!」
「撤退を。」
短く、はっきりと。
チュモリマングは振り向いた。
その目には怒りよりも迷いがあった。
「ワタオパ殿、あなたはこの戦を捨てろと言うのか。」
「捨てるのではありません。守るのです。これ以上、命を。精霊を。」
クレシュノリアが二人の間に歩み出て、口を開く。
「北東、カロス隊の撤退は無事完了。」
丘の麓に続く街道では、カロス隊の旗が煙の中から戻ってくるのが見えた。
伝令が駆け上がり、息を切らして報告する。
「ブラグニール様、討死! 左翼北東戦線は完全崩壊!」
チュモリマングの瞳が大きく揺れた。
ワタオパはその視線をまっすぐに受け止める。
「――これ以上は、国を削るだけです。」
沈黙が丘を包んだ。
霧が揺れ、火の粉が舞う。
遠くでパシュナルジムの隊列が再び光に包まれ、轟音が丘の岩を震わせた。
クレシュノリアがその光を見て小さく首を振る。
「……もう、時間がありません。」
ワタオパは深く息を吸い、唇を結んだ。
「撤退を。今すぐに。」
チュモリマングは拳を握りしめ、俯いた。
その沈黙の中に、初めて敗北という現実が形を持ちはじめた。
丘を渡る風が、退却の合図のように冷たく頬を撫でた。
遠く丘の先にあるガムトー側の流れを眺めながらチュモリマングは唇を噛んだ。
煙に焼かれ城壁からはがされる者。片腕と思っていた術者が、味方に力を行使したこと。
その全てを、ただ黙って見ていた。
「……終わったな。」
呟いたその声は、誰にも届かぬほどかすかで、ひどく遠く思えた。
──いや、違う。終わっていたのだ、もっと前に
思考の底から、かつての湧水の日の光景がよみがえる。
民が歓声を上げ、王が歩み寄り、術が栄光をもたらしたあの日。
──我らの術が、称えられた日が確かにあった。教場ができ、子どもたちが笑いながら祈捧を学び、老いた者が水に手を浸して泣いた……
スタビナングの陽が、初めて精垂篤会に差した奇跡の日。
だが、それは──すべて、ほんの僅かな余白の上に築かれた幻だったのか。
──精霊に願った。ただ「水を、分けてくれ。」と。祈りと共に、民のために。だが、次第に……あれは願いではなくなった。命令となり、強要となり、搾取となった
あの夜、甕の水面に映った己の顔が、いまでも脳裏を離れない。
あれは術者の顔だったか? それとも、ただの支配者の仮面だったか。
──シュトレイゼルの言葉を聞いた時、心に秘めた野心が目覚めたのか。
「水源は、隣国にあります。」
あの一言で、術ではなく剣を選んだ。選ばされたのではない。
自ら選んだのだ。
術に救いを託していたはずの自分が、その術の限界に背を向けて。
──我らは……間違ったのか?
正義はあった。民を救うために動いた。
だが、救う過程で、いくつの命を踏みにじった?
──もう一度、あの頃に戻れたなら。水が湧き出したあの日に戻れたなら。あの日の自分に、問いただしたい。
──それが本当に、正しき術の力なのか?民に与えるための奇跡か?それとも、お前自身が称えられるための道具ではなかったのか……
「……終わったな。」
再び同じ言葉を呟いた。だが今度は、己自身への嘆きとして。
近侍していたクレシュノリアはただただ頷くのみであった。
丘の上に、長い沈黙が落ちた。
風が白布をはためかせ、焦げた匂いを運ぶ。霧の向こうでは、まだ何かが燃えている。
本陣丘の上に新たな影が上がってきた。
顔に血を浴び、鎧を割ったハブタムだった。
息は荒く、口の端から血が滲んでいる。
何度か言葉を探すように口を開いたが、声が出なかった。
肩がわずかに震え、目だけが潤んだまま前を見据えている。
「元帥は……精霊に還られた……」
一語ごとに喉を押し出すような声だった。
唇を噛み、息を詰める。
「元帥の最後の命です。明日のスタビナングを顧みるに、素早く全軍撤退の命令を……」
その声が終わる前に、丘の上の空気が凍った。
クレシュノリアの顔から血の気が引き、チュモリマングの膝がわずかに揺れた。
ワタオパが低く言う。
「……もう十分だ。これ以上は守る者を失うだけ。」
チュモリマングは答えなかった。
風に揺れる髪が頬を打つ。丘の下では、煙と炎の筋が入り乱れ、誰が味方かも見えない。
ようやく絞り出した声は、震えていた。
「……撤退を……命じよう。」
丘を渡る風は乾き、かすかに鉄の匂いを運んでいた。
霧はもう消えている。空には薄い雲がたなびき、遠くの城壁が陽光を返していた。
ガムトーの旗がその上で翻る。
それを見て、丘の上に立つ者たちは、戦の終わりを悟っていた。
チュモリマングは長く息を吐いた。
彼の胸にあるのは、敗北の痛みではなく、民を思う焦がれるような熱だった。
チュモリマングの背後に近侍していたクレシュノリアが耳元で囁く。
「潤精導、失礼します。」
その言葉に、チュモリマングはうなずいた。
その瞬間、クレシュノリアが振り向き、陣幕の中へ駆け込んだ。
近衛騎士隊の手には黄色の退却旗が渡され、丘の縁に立つと高く掲げ大きく振った。
その瞬間、丘の下から低い音が鳴り渡った。
ホルンが四度吹き鳴らされる。
長い響きが戦場に渡り、丘に立つ者たちの胸を震わせた。
その音が、終戦の印となった。
突然の退却の合図に、丘の上に待機していた伴徒たちの間に、動揺が一気に走る。
「勝手な行動は禁ずる! 指示に従わぬ者は斬る! 持てる物だけを持ち、班ごとに集合、各隊は街道付近に整列せよ!」
クレシュノリアは剣を抜き放ち、椅子を叩き斬った。
木片が飛び、空気が裂ける音が丘に響く。
その瞬間、混乱は消え、全ての視線が彼に向けられた。
騎士たちは命令に従い、術者が荷車を整え、伴徒が列を組み始める。
その規律の中に、スタビナング国に仕えていた騎士としての誇りがまだ残っていた。
チュモリマングは丘の端に立ち、城の方を振り返った。
落とせなかった――ガムトーの城は、堅く強く聳えている。
その姿が、痛烈に現実を突きつけた。
隣でワタオパが退避列を整えていた。
「伴徒を先に。隊が揃い次第、順次進発せよ!」
伝令が走り去るのを見届けると、彼は振り返り、声を低めた。
「クレシュノリア殿、潤精導をお頼みいたします。」
抑えた声には焦燥と信頼が同居していた。
「ご心配には及びません。」
クレシュノリアは短く答え、チュモリマングの側で片膝をついた。
「潤精導。ご準備を。間もなく下ります。」
チュモリマングはわずかに頷いた。
その瞳は城を離れながらも、どこまでも民の方向を向いていた。
――この戦は、誰のためだったのか。
その問いが胸の奥を刺す。
ワタオパが一歩近づき、まるで心の内を知っているかのように静かに言った。
「……潤精導。あなたが信じた民は、まだここにおります。」
その言葉に、チュモリマングの眉が揺れる。
彼は驚きながらうなずき、足を進めた。
「ワタオパ殿この度は苦労を掛けた。あとの指揮を頼みます。」
「ありがたきお言葉。必ず皆を還して見せましょう。」
潤精導チュモリマングはセルメラの背に揺られ、諸将の先頭で街道を峠に向かって登り始めた。
前後を近衛騎士団が固める。随伴するクレシュノリアは諸将に一瞥する。
背後では、ショリノワルンとガスカナスティの隊が遅れて撤退していた。
ショリノワルンは顔を伏せ、唇を噛んでいる。
亡きオパルマンドの名を呼ぶことすらできず、歩みを乱しそうになるたび、ガスカナスティが無言で支えた。
二人の影を前後に囲みながら、陽に滲んで消えていく。
峠に通ずる坂道を上がり両脇に森の影が迫ってくると、チュモリマングは立ち止まった。
風が頬を撫で、焦げた鉄の匂いが遠ざかる。
――精霊たちよ。この戦を赦し、次の時代に水を与えよ。
その祈りは声にならず、風に溶けた。
一方その頃、街道の要衝では、ワタオパとハブタムがそれぞれの一群を率い待機していた。
周囲にはすでにカロス隊の残兵と伴徒の列が並び、戦地の熱気がわずかに残る。
「……あとは、二隊か。」
ハブタムが腕を組む。
「ですな。シュトレイゼル総監と、ハルキシミル殿の隊です。」
「この度の戦の立役者。身も心もお疲れでしょう。」
ワタオパは風の先を見据えた。
ほどなくして、鎧の軋む音が街道の奥から近づいてきた。
視線を越えて来た黒鎧の群れが街道の向こうから現れる。
先頭に立つのは、スタビナング軍総監シュトレイゼルだった。
兜を脇に抱え、額の汗を袖で拭う。その顔には疲労とともに、確かな覚悟が刻まれていた。
「参謀、全隊の撤収を確認した。」
低く抑えた声が響く。
「後方で多少の混乱があったが、秩序は保たれている。ハルキシミル精導の隊もまもなく到着するはずだ。」
ワタオパは姿勢を正し、敬礼を返した。
「ご報告ありがとうございます、総監。北東方面は完全に沈黙したようです。これ以上の敵影は無く撤退において懸念は無いようですね。」
「よくやってくれた、参謀。お前が本陣を保たねば、この撤退線は崩壊していただろう。」
「いえ、このたびは自分の無力を思い知らされました。やはり私は団長の側が似合っております。」
「参謀……わたしは――」
「この城は堅かった。何より、プコヌ殿の離反を得ることができなかった時点で我々の敗北は定まっておりました。彼らが一枚上手だったということでしょう。」
シュトレイゼルはこのワタオパの言葉に今までも何度も救われてきた。そしてこれからもそれは変わらないだろうと改めて確信した。
ワタオパは短く息を吐き、街道の先を見据えた。
「……あとは、精導殿を待つのみですね。」
その言葉に応えるように、街道の奥から影がひとつ現れた。
まるで戦の渦中に身を置いた者とは思えぬほど、水色の衣は一筋の汚れもなく、陽光を受けて淡く光っていた。
その清らかさは、術の完成度が極みに達していた証であり、誰一人として彼に触れることすら叶わなかったことを示していた。
だが、その瞳には光がなかった。
歩むたび、視線は地に落ち、わずかに肩が震える。
完璧な術を放ちながらも、彼の内には“何かを失った者の影”が宿っていた。
ハルキシミル――その姿は、勝者の装いをしていながら、敗者の心を抱いていた。
街道に沈む陽が、三人の影を長く伸ばしていた。
ハルキシミルは胸の奥に残る焦げつくような痛みを押さえながら、足を止めた。
あの戦で彼は誰の命も奪ってはいない。
だが、自らの術が切り開いた道を、他の者たちが血で染めた。
結果として、仲間を屠る手を貸したのだと、心が勝手に裁きを下していた。
誰からも責められていないのに、自分だけが赦せなかった。
この足で歩くことすら、許されぬように思えた。
「……いいのでしょうか。」
目を閉じ俯くと立ち止まった。その姿に二人は歩み寄った。
シュトレイゼルは、彼の背に漂うわずかな震えを見て、言葉を選んだ。
戦場では命令と結果しかなかった。だが今目の前にあるのは、ひとりの人の心だった。
「なにがでしょうか?」
ワタオパはおよそ今まで戦いをしていたものとは思えないほどすがすがしい笑顔でハルキシミル問いかけに答えている。
その笑顔には、すでに勝敗を超えたものがあった。生き延びた者にしか持てない、静かな慈しみだった。
「……いいのでしょうか。私などがこの道を歩んでも……」
言葉は風に溶け、声というより吐息だった。
ハルキシミルは、自分の手のひらを見つめた。
あのとき掴みたかった腕は、もうどこにもない。
それでも、歩かなければならない――そんな思いが、痛みとともに胸を締めつけた。
「ハルキシミル殿。心より感謝する。貴方がいなければ我々は、モリブリッドは危なかった。」
その手の温もりに、ハルキシミルの指先がかすかに震えた。
許しとは、言葉ではなく触れることなのかもしれないと思った。
「わたしは……」
ワタオパがうなずく。
「あなたの術がなければ、南西の退路は開けなかったでしょう。」
ワタオパは、その言葉を言いながらも心の中で思っていた。
この人はきっと、どんな勝利の後でも自らを責め続けるのだろう。だがそれこそが、真に国を救う者の証だと。
「私は国を裏切りました……もはや誰に合わす顔もありません。」
ハルキシミルの声は細く、消え入りそうだった。
だがその言葉の奥に、なおも他者を思う誠実さが息づいていた。
「……それがあなたなのですよ。そのあなたを多くの民が待っております。」
ワタオパの声に、風が応えるように街道の草が揺れた。
「貴殿の判断が正しかった。誤っていたのは我々だ。私に何ができるかわからないが、あなたの正しさを全力で伝えて見せる。」
その一言に、ハルキシミルは小さく息を呑んだ。
この戦の果てで、まだ“信じてくれる声”があることが信じられなかった。
「……あり……がとうご……ざいます……」
ハルキシミルはようやく己の判断と責任から解放された気がした。豪胆な術者には不釣り合いな小さな背中を二人の騎士が抱え込む。その瞳にまぶしいほどの夕日が差し込み頬の涙を照らした。
シュトレイゼルは腕を組み、城の方角へ目をやった。
彼の胸には、勝敗よりも“誰を残せたか”という思いが残っていた。
「潤精導はすでに丘を下られた。クレシュノリアが随行している。」
「……そうですか。」
ハルキシミルが息を吐く。
それは安堵ではなく、胸の奥を掻きむしるような痛みだった。
赦されたと気づくほど、胸の奥で別の熱が疼く。
――潤精導は、あの穏やかな眼差しのまま裁きを受けるのだろうか。
あの人の声が、もう民に届かなくなるのではないか。
そんな想像だけで喉が渇いた。
もし王が剣を振るうなら、それは私の代わりではないのか――。
自らが赦されるほど、刃の重みが自分の胸に移っていくように思えた。
その沈黙を、背後から届いた声がやわらかく断ち切った。
「国王は彼を働かせるでしょう。」
声の主はハブタムだった。鎧の継ぎ目から滲む血を拭いもせず、静かな口調で続ける。
「かつて間違いなくかれは己の精霊術で国民を潤わせた。その功は誰もが知っています。私は断言します。国王は彼をすでに許しておられる。」
ハルキシミルは顔を上げた。
「どういうことでしょうか。チュモリマング殿の行為を、お咎めにならないということでしょうか。」
ハブタムは小さく首を振った。
「いえ、そうではありません。国民の手前、無実とされることはないでしょう。しかし、彼の命を奪うことはありません。私は元帥閣下と共に幾度となく国王と接してきて、そう確信しているのです。」
潤精導がどれほどの覚悟でこの撤退を選ばれたかを思うと、胸の内に新たな重石が沈んでいた。
己への赦しが、あの人の道を閉ざしてしまったように感じていた。しかしハブタムの言葉に誰よりもチュモリマングと共に過ごした日々を思い出せた。
「私は思っています……本当の潤精導ならこの道を選んだはずだと……もう一度民の心を、信用を彼と共に築き直して見せます。」
その言葉に、ワタオパの胸にも灯がともった。
戦いの果てに希望を語る者がいる――それだけで十分だった。
シュトレイゼルが頷き、ワタオパとハブタムに命じた。
「全軍、撤退列を整えよ。我々は全員国民のため、国を憂いて戦った。何ら恥じることは無い。堂々とスタビナングへ帰ろう。殿の指揮はお前たちに任せる。」
「御意。」
ワタオパが敬礼し、ハブタムと共に後方へと歩みを遅らせた。
風が吹き、乾いた土を巻き上げた。
遠く街道の先では、すでにチュモリマング潤精導の一行が見えなくなっていた。
その白い外套が、沈みゆく陽光に照らされて微かに揺れていた。
シュトレイゼルは短く息を吸い、誰にともなく呟いた。
「私も師の命を奪った……潤精導を支えることは私の役目でもある。彼が立つ限り、我らは折れぬ。」
その声に、ハルキシミルの胸の奥が震えた。
もう自分が何を恐れていたのか、わからなかった。
「潤精導には今一度立ち上がって頂き、あの人の描く本当の道を歩んでいただきます。信仰を命に変える者はあの方だけだと思っています。」
風がかれらの間を抜け、街道を渡った。
二人の影が長く重なり合い、やがて一つに溶けた。
勝者の城壁が夕陽に輝き、敗軍の列が静かにその光を背に歩み始めた。
その歩みは、赦しを得た者たちの、確かな再生の音だった。
