革命の二つの系譜
二つの自由
ひとつの自由は
夜明け前の井戸水のように
誰かが汲み上げるより先から
そこにある
王の指輪も
議会の槌も
広場に掲げられた無数の旗も
その水の湧く場所までは
手を伸ばさない
泥の靴を履いた王も
畑に立つ農夫も
火のような言葉を抱く革命家も
みな同じ空の下で
小さな息をしている
誰も
太陽の名を名乗ることは出来ない
誰も
世界の正義そのものにはなれない
だから人は
互いの手から
自由を奪ってはならない
もうひとつの自由は
白い机の上に置かれた
一本の定規と
まだ線の引かれていない
地図から始まる
山をどこで切るのか
川をどこへ流すのか
何を鎖と呼ぶのか
何を傷と呼ぶのか
何を古いものとして壊し
何を未来として建てるのか
空は答えない
人間が
自らの手で
世界の輪郭を描いてゆく
ここでは
自由も
平等も
明日という言葉さえ
人の手で定められる
そして時に
人は太陽よりも強い光を
自分の胸に灯す
その光は世界を照らし
灯したその手を
まず照らす
二つの座
詩が分けた二つの自由は、
革命の歴史の中では、
二つの座になって現れる。
右の座では、
神と契約、慣習法、共同体の記憶のもとに、
権力を縛ろうとする。
左の座では、
理性、人民、普遍的人権、歴史法則によって、
古い世界を裁き、
新しい世界を設計しようとする。
前者を、自由を〈与えられたもの〉として
世界を守る革命。
後者を、自由を〈人間が作るもの〉として
世界を組み直す革命と呼ぶことにする。
その背後には、二つの精神的な傾向がある。
神の前に人を有限と見る
ヘブライズム的な感覚と、
人間の理性を世界の尺度とする
ヘレニズム的な感覚。
だが軸はあくまで、
自由を〈守る〉のか、〈作る〉のか、にある。
これは、文明を二つへ分ける話ではない。
英米にも、理性と自然権の思想はある。
フランスやロシアにも、宗教的な救済への
情熱は流れている。
問いは一つに絞られる。
自由と平等は、
何によって担保されているのか。
神の下にあるのか。人間が定めるのか。
分水嶺 ―― 清教徒革命
二つの系譜は、
もともと別々のものだったのではない。
自由をめぐる二つの態度が、
まだ分かれる前に、
もっとも濃く交わっていた場所がある。
清教徒革命である。
一六四二年、
イングランドで内戦が始まった。
国王チャールズ一世と議会の対立は、
単なる権力争いではなかった。
王は神から直接に権力を与えられた
絶対者なのか。
それとも王もまた、
神の法と共同体の契約の下に置かれる
一人の人間なのか。
清教徒的な諸潮流は、後者を選んだ。
王もまた罪ある人間である。
信仰を侵し、共同体の自由を破り、
契約を踏みにじるならば、
王に抵抗することは許される。
ここで革命とは、世界を白紙に戻して
理想社会を建設することではない。
奪われた自由を取り戻すこと。
破られた契約を回復すること。
権力によって歪められた秩序を、
本来あるべき場所へ戻すこと。
だが、清教徒革命には、
もう一つの顔があった。
一六四九年、
チャールズ一世は処刑された。
王は退位させられたのではない。
裁かれ、殺された。
王政は廃止され、共和国が作られた。
その周囲には、
政治的平等と信仰の自由を求めた平等派、
土地を万人の共有物として捉え、所有の秩序を
根から問い直した掘地派、
地上にキリストの王国が到来すると信じた
第五王国派――そうした人々が現れた。
彼らのすべてが同じ未来像を抱いていたわけ
ではない。だが、古い自由の回復だけでは
満足せず、この世そのものを作り替えようと
する衝動を、それぞれ別の形で抱えていた。
この世は、ただ修復すればよいのではない。
罪と腐敗に満ちた古い世界を壊し、
神の正義にかなう新しい世界を
作らなければならない、と。
清教徒革命は、分水嶺だった。
契約と抵抗権。宗教的終末論。共和主義。
議会主権。平等派の急進。
のちに別々の革命へと姿を変える
複数の衝動が、まだ一つの宗教的熱の中に
同居していた。
やがて熱が冷め、
言葉が宗教から離れるにつれて、
これらの衝動は、
自由をどう捉えるかによって、
大きく二つの方向へ枝分かれしていく。
第一の系譜 ―― 神の下で自由を取り戻す
一方の流れは、革命を法と議会と憲法の中に
封じ込める道へ進んだ。
一六八八年の名誉革命は、「自由を取り戻す」
という感覚を制度の形へ変えた。
ジェームズ二世は追放された。
だが、国王そのものが消えたわけではない。
王権は、議会と法の下に置かれた。イギリスは
革命の火を、制度の中へ閉じ込めた。
革命を、無限の刷新ではなく、
自由の回復と権力の制限へ変えたのである。
一七七六年のアメリカ独立革命も、
この流れの中にある。植民地人たちは最初から
新しい人間を作ろうとしたわけではない。
自分たちがイギリス臣民として本来持っていた
はずの自由を、本国政府に不当に奪われたのだ
と考えた。
課税されるなら、代表を送る権利がある。
統治されるなら、同意が必要である。
政府は自由を作るためではなく、
すでにある自由を守るためにある。
彼らは新しい共和国を作った。しかし作ろうと
したのは、人間が自由を発明する世界では
ない。創造主から与えられた自由を、
政府が侵せないようにする世界だった。
だからアメリカ建国の中心には、
人民主権だけでなく権力への深い不信がある。大統領も信用しない。
議会も信用しない。
裁判所も信用しない。
民衆ですら、完全には信用しない。
人間は不完全である。だから権力を分ける。
互いに監視させる。誰か一人の善意に、
国家のすべてを預けない。自由を守るために、
自由を語る人間そのものをも警戒する。
そこに、自由を〈与えられたもの〉として
守る革命の強さがある。
だが、この系譜にも固有の病理がある。自由を
「すでに在るものの回復」として語るとき、
その中身は、伝統と共同体の記憶が決める。
すると、既存の秩序そのものが、いつのまにか
正義の位置に座る。慣習は、変えるべきものを
「昔からこうだった」の一言で守る盾になり、
権力への不信は、あらゆる変化への不信へと
縮こまりうる。そして、より深い影は排除に
ある。回復されるべき「われらの自由」を
数えるとき、そもそも「われら」に数えられて
いなかった者は、視野にすら入らない。
アメリカ建国が創造主から与えられた自由を
語ったその同じ時代に、奴隷は契約の外に、
先住民は共同体の記憶の外に置かれていた。
第二の系譜が理性の名で人を裁くとすれば、
第一の系譜は、共同体の名で人を数え落とす。
裁かれることすらなく、
初めから勘定に入っていない
――それは、慣習という盾の落とす影である。
第二の系譜 ―― 人間が世界を作り替える
もう一方の流れでは、
地上に正しい世界を打ち立てようとする熱が、
宗教の言葉を脱ぎながら、別の姿で現れる。
一七八九年のフランス革命は、
アメリカ革命から多くを学んだ。
自由、権利、代表、人民、革命の成功。
だが両者は、同じ川の下流ではない。
アメリカ革命が問うたのは、政府が創造主から
与えられた権利を侵してよいのか、
ということだった。
フランス革命が問うたのは、
人間は理性によって古い世界を裁き、
新しい秩序を作ることができるのか、
ということだった。
裁かれるべき古い世界は、確かにあった。
特権身分、農奴的な隷属、恣意的な拘禁、
教会による支配、人を押し潰していたものを
壊す必要は、たしかにあった。
革命が急進化すると、
古い秩序そのものが裁かれた。
王権、貴族、教会、身分、慣習、暦、
そして、時間の数え方さえも。
人間は生まれながらに自由で平等である。
主権は人民にある。社会は理性に従って
組み直されなければならない。
ここでは過去は、回復すべき遺産ではない。
理性によって克服されるべき古い世界である。
革命暦は、その象徴だった。
王の時代でもない。
キリスト教の時間でもない。
革命以前の時間そのものを終わらせる。
世界は一度、リセットされなければならない。
その後に現れるのが、理性にかなう新しい
人間と、人民にかなう新しい社会である。
ロベスピエールの「最高存在」は、
聖書の人格神への素朴な回帰ではない。
革命共和国の徳と統合を支えるために、
政治の場で編み直された神聖だった。
彼自身は、無神論に抗ってこれを立てた。
だが、決定的な一点は、すでに開かれていた。神聖の意味を、人間の側が定めうる、
ということ。命じる神から、人間が置く神へ。
そこまで来れば、
神を必要としない世界までは遠くない。
自由に耐えられるか
―― ドストエフスキーの予見
現実の人間は設計図の通りには生きない。
人は伝統を愛する。土地を愛する。
宗教を捨てない。家族や村や古い習慣の中に、
理屈だけでは測れない意味を見出している。
すると革命は、理想に従わない人々を、
遅れた者、迷信にとらわれた者、
人民の敵として見始める。
理念そのものは人を殺さない。
恐怖政治も、理性の必然的な帰結ではない。
だが、理性が唯一の裁判官となり、
非常時の国家権力と結びつくとき、異論も、
多様性も、たやすく敵へと読み替えられる。
恐怖政治とは、
その読み替えが血に染まった瞬間だ。
この先を、歴史学者よりも早く、そして面白く
見ていた男がいる。ドストエフスキーである。
彼は、堅い思想書を書いた哲学者ではない。
殺人、借金、相続、不倫、決闘、革命家、
父殺し、裏切り。
次に何が起きるのか分からない、
恐ろしく面白い当時のエンタメ小説を書いた。
だが、その人間劇の中で彼は、
革命のいちばん深い問題を描いていた。
人間は、本当に自由に耐えられるのか。
『悪霊』では、自由と平等を掲げる者たちが、
やがて人間を設計し、管理し、従わせる側へ
回ってゆく。
誰が自由の正しい意味を決めるのか。
誰が平等を妨げる者を裁くのか。
誰が未来のために払うべき犠牲を決めるのか。
そこでは理性が神になる。
人民が神になる。
国家が神になる。
階級が神になる。
歴史が神になる。
そして、その神の名で、
人間が人間を裁き始める。
『カラマーゾフの兄弟』の大審問官は、
さらに残酷なことを言う。
人間は自由を欲しがる。
しかし本当には、自由に耐えられない。
パンをくれ。
安心させてくれ。
誰かが決めてくれ。
自由の責任から解放してくれ。
自由は重い。
自分で選び、自分で間違い、自分で責任を負う
ことは苦しい。
だから人間は、自由を与えてくれる者よりも、
自由を取り上げて安心を与えてくれる者に
従いたくなる。
ドストエフスキーが見ていたのは、
革命家の単純な悪意ではない。
自由を愛した人間が、その重さに耐えられず、新しい主人を求めてしまう悲劇を見ていた。
歴史法則という新しい神 ―― ロシア革命
一九一七年十月、
ロシアのボリシェヴィキ革命は、
この衝動を巨大な国家規模で引き受けた。
絶対化されたのは人民ではなく、階級であり、
一般意志ではなく歴史法則だった。
資本主義は終わる。
階級社会は消滅する。
歴史は必ず共産主義へ向かう。
その歴史の必然に抵抗する者は、
単なる反対者ではなく、歴史の敵になる。
ここでは、神が退いた場所に、歴史が座る。
人間を裁く最終審級は、人格神ではない。
歴史の必然である。
現実の人間の悲しみや生活や信仰は、
未来の理想社会のために一時的な犠牲として
処理される。
大粛清、強制収容所、飢餓、密告、沈黙。
理想が高く掲げられるほど、
そこから落ちる人間の影も深くなる。
現代 ―― アメリカの変貌
建国時には、神の下での自由を語っていた
アメリカは別の言語で自らを語っている。
人は自分が何者であるかは自分で決める。
社会は人間の幸福のために設計し、
直されるべきだ。
不平等や差別は、
人間の手で正されなければならない。
自由と平等の最終的な意味を、人間が定める。大学も、企業も、裁判所も、行政も、メディアも、社会の多くの場所で、
その言葉が有力な公的言語になっている。
建国時の文法そのものが消えたのではなく、
その上に、別の自由の文法が重ね書きされた。
アメリカは建国時の
〈与えられた自由〉を守る文法の上に、
〈人間が作る自由〉の巨大な建物を
建て増しした社会になった。
その言語には、古い抑圧を壊した力がある。
生まれや身分や性別や人種によって、
人の人生が決められるべきではないという
願いは、決して軽んじられるべきではない。
だが同時に、
自由の意味を、最後に誰が決めるのか。
平等のために、誰が裁かれるのか。
異論を持つ者は、
いつ「遅れた者」や「差別的な者」や
「歴史に逆らう者」にされるのか。
テックという新しい神 ―― 現代の絶対者
絶対者を求める誘惑は、
第二の系譜だけのものではない。
神の下で
人間を相対化しようとする言葉でさえ、
いつしか〈真の敵〉と〈救済の担い手〉を
見分けたつもりになる。
ピーター・ティールは、
その危うい反転を示している。
AI、気候、核、感染症、戦争。
人類が滅びるかもしれないという恐怖が
積み重なれば、「安全のために世界を
一つの管理の下へ置こう」という誘惑は
強くなる。
彼はその先に、世界政府、技術規制、監視、
自由の終わりを見ている。
その危機感には、理解できる部分がある。
人間が人間を完全に管理し、
安全のためにすべてを決める社会は、
たしかに恐ろしい。
だが、彼自身もまた危うい。
危機を、終末論的な敵味方の物語に
変えてしまっているからだ。
規制する者が敵。テックを止める者が敵。
進歩を疑う者が敵。そう線を引いた瞬間、
彼は自由のために
人間を相対化するのではなく、
技術進歩そのものに救済を託しはじめる。
国際機関という絶対者を恐れた者が、
技術という別の絶対者を迎え入れる。
人間の作った機関が神になってはいけない。
だが、テックも神になってはいけない。
資本も神になってはいけない。
起業家も、AIも、宇宙開発も、
人間を救う新しい宗教になってはいけない。
国家も危ない。
人民も危ない。
革命家も危ない。
富豪も危ない。
技術者も危ない。
そして、自分自身も危ない。
誰かに、世界の救済を任せるな。
それが、
神の下で人間を見るということだろう。
分岐点の上に立つ私たち
清教徒革命。名誉革命。アメリカ独立革命。
フランス革命。ロシア革命。
この五つを並べると、革命は一つの物語では
なかったことが見えてくる。
自由を〈与えられたもの〉として守る革命は、
神の下で自由を守ろうとする。王も、民衆も、
革命家も、最終的な正義を独占できない。
人間は不完全である。だから権力を制限する。
自由を守るために、
誰にも世界を完全に作り替えさせない。
自由を〈人間が作るもの〉と捉える革命は、
人間の理性によって自由と平等を実現しようと
する。そこには、古い支配を壊し、
見捨てられた人々を救う力がある。
だが人間が正義の最終審級になるとき、
自由と平等の意味を決める新しい権力もまた
生まれる。そして人は、自分たちが作った
理念に裁かれる。
どちらが正しいかは、簡単には決められない。
人間の尊厳を守るために、
古い秩序を壊さなければならない時はある。
だが自由を愛するからこそ、人を神にしては
ならない。
自由とは、
何でも自分で決められることではない。
誰にも恣意的に支配されず、
しかし自分自身もまた絶対者にならないこと。
平等とは、誰もが同じであることではない。
誰もが、はじめから数えられるべき一人の
人間であり、その自由や尊厳を、
出生や身分や、多数決だけで
取り消されてはならない。
私たちは今も、その分岐点の上に立っている。
