『「死にたい」とつぶやく』を読んで_20230308
※タイトルの通り自殺に関する表現があるため、心穏やかな時にご興味ある方はお読みください。
Q:・・・一緒に死のうって言われたら信用しないけど、殺してくれるだったらついて行っちゃうかもしれない。
P:あー、そうなんだ、私とは逆ですね。
(中略)
Q:・・・じゃあ、(彼氏が)「殺してくれる」って言ったら、喜ばない?
P:私は、自殺に執着がある。
序論から始まる自殺願望のあるQとPの会話。ここから私は衝撃でした。私は自殺願望を持ったことはほとんどありませんが(働き過ぎた若手の時に思考が停止してあったかもしれないと今思い出しました)、常に自殺と隣り合わせに生きている人々は一律ではなく、ここにも多様性が存在することをこの会話で初めて実感したのです。
自殺への執着。死にたいと思う人は、死ねればそれでいいわけではない。死ぬ寸前まで信用は必要になる。しかしその多様性の中でも「死にたい」を媒体としてほとんど初対面の人たちであっても分かり合えるほどのコミュニケーションが生まれる。目を背けたいことから始まる社会学の本でした。
街中で読む際にはカバーをかけずにはいられない本書は、座間9人殺害事件について犯行動機の分析と犯人と被害者が出会う場となったTwitterに現れる自殺念慮を持つ人々に焦点を当てることから始まる。次にTwitterに数多く書き込まれる「死にたい」を含むツイートを分析し、Twitterという場は自殺念慮を持つ人々にとってどのような場所かを考え、最後に彼ら/彼女らへの居場所としてのシェアハウスをインタビューや著者自身の経験からその可能性について導き出している。
私も著者の思惑通りあとがきから読み始めたが、最初から順に読む人のためにこちらにも記しておく。
体調やメンタルの状態がすぐれないときは、本書を読むのをいったん止めて、他の本を読んだり、外の空気を吸って草や木や花を観たりしてください。
自殺願望のない楽観的な人間である私であっても、第1章はかなりまいった。なるべく朝読むことで過度に感情移入せず、また「死にたい」のゲシュタルト崩壊を防げたように思う。(この投稿も朝書くようにしている)
座間9人殺人事件
2017年に起きたこの事件について、正直私は覚えていなかった。極めて残忍な事件なのになぜ記憶に残っていないのか、著者はその理由について「時代を象徴する事件」となる特徴を本事件は有していないからだという。その特徴は「犯人が独特の思想や世界観を持ち、反抗がそれに強く規定されていること(27頁。)」であり、1997年神戸連続児童殺傷事件(酒鬼薔薇事件)や2016年相模原障害者施設殺傷事件は本事件より昔に起きているにもかかわらず、覚えている人が多いだろう。
本事件の犯人である白石はどのような思想を持っていたのであろうか。彼は死にたいとつぶやく人々を自宅に呼び殺人を犯した。これについて自殺幇助であると主張すれば刑が軽くなる可能性があったにもかかわらず、白石は自ら殺人をおこなったと証言するのである。彼は人を殺したかった。この事実を社会一般の私たちは理解することができない。そのために社会学者C・W・ミルズが考案した「動機の語彙」により、白石の心的状態から離れてその外側である社会に存在する語彙によって、疑問の余地のない説明を行うことで犯罪の動機を理解しようとするのである。人を殺すという動機に金銭目的や性的暴行という語彙を当てはめて私たちは白石の行為を無理やり納得しようとし、それでも理解できない場合には「心の闇」というラベルを貼ることさえした。
しかし本書では白石が語った語彙からではなく、彼の経歴からまた別の動機について思案している。白石は連続殺人を起こす前、インターネットを介して全国から歌舞伎町の風俗店に女性をスカウトする仕事をしていた。勧誘対象の女性の悩みを真摯に聞き、自らを偽り嘘を繰り返して相手に献身することで仕事はうまくいっていたようだが、その嘘によって度々トラブルもあったようである。この行為に関して著者は、女性という金銭に交換できる対象に対して親身になった上で最終的に相手を裏切るという一連の行動によって、白石は自らの主体性を回復しそれが快楽となっていたのではないかと分析する。彼は職業安定法違反容疑で逮捕され職を失うのだが、最初の殺人はその3ヶ月後に起きている。Twitterに溢れる自殺願望のある女性に自らも同じ願望があると偽り近づき、最終的には本当は死にたくなかったかもしれない相手を殺害するという裏切りによって、スカウトの時と同様の快楽を得ていたのではないだろうかと。これもまた動機の語彙による納得の仕方なのかもしれないが、少なくとも本書を読む限り金銭目的や性的な理由づけよりは核心に近づいているように思えた。
親密圏の脆弱性
自殺念慮を有していた被害者の女性たちは、なぜ白石という知らない男性についていってしまったのだろうか。世の中の普通という世界線に生きている人たちからはにわかには信じられない行動に見えるが、このことについて著者は親密圏と「死にたい」とつぶやく人々の噛み合わせの悪さを指摘している。親密圏とは、「具体的な他者の生/生命への配慮・関心によって維持されている」園域だと定義される。これはたとえば、家族や長期にわたり同じ職場で共に仕事をしている仲間などが当てはまる。(本書の後半では、親密圏と親密性・持続性・共同性の説明をしているので、具体的な相互の関係性はそちらを参照ください。)通常であればこの親密圏の中の人々に救いを求めればよいのだが、それを「生きたい」を前提とする社会が妨げるのである。「生きたい」と考える親密圏の人々が「死にたい」というつぶやきや彼らの自傷行為を目の当たりにすると、苛立ちを覚えて説教や叱咤をして表面上の解決に躍起になる傾向があるという。また当初は親身な対応を取っていたとしても、それが長期化することによって「死にたい」と思ってしまうのは自分のせいであると親密圏側の人々が責められている感覚に陥ってしまう場合もある。これらのトラブルを考慮して「死にたい」と思う人々は親密圏の人々に打ち明け難く、またそもそも自殺念慮を持っているために積極的に助けを求める可能性も乏しいのである。
親密圏外の場
ただ自殺念慮を持っているからといって、彼ら/彼女らは何の助けも求めず人とつながらないわけではない。「死にたい」とつぶやく人々は、その気持ちを素直に表現できる場、著者の言う「逃げ場」が必要となる。
血縁や身分などの外的な基準が一切取っ払われた社会学者A・ギデンズが語る「純粋な関係性」を体現する場であるTwitterは、誰かと常に繋がっていたいという関係不安や承認願望を満たし、またある人物との関係性や集団の中にいても良いと言う安心をフォロー・フォロワーという関係性によって提供してくれる。本書はTwitterのツイートやプロフィールをTH Coderという手段を用いて、各品詞を判別・抽出して分析を行なっている。これにより、プロフィール文でネガティブな印象を先に提示することによって牽制をはかり、「死にたい」というつぶやきをおこなってもフォローが安易に外されない関係性を維持しているという。たしかに私も勉強垢として更新するTwitterには学歴や何を勉強しているかなどを書き込んでいる。自殺念慮とは関係ないが、私が行うツイートはこういう興味関心を持った、この程度勉強している人がおこなったものであることを事前にエクスキューズとしているのである。(イタリア語の初歩的な疑問を安易に呟くけど、初級者だから勘弁してね、ということである)
「死にたい」とつぶやく人はオンラインという親密圏の外で、「死にたい」とつぶやいても周りの人々が過度に反応を示さない緩やかなつながりを一種の逃げ場、心の拠り所として利用している。しかしながら、座間の事件はオンラインの場だけでは人間の救いは満たされないことを表している。オンライン上からリアルへ移行する際に、親密圏の外だから故に相手の悪意を見抜くことは容易ではない。それについて、全てを解決する手段は現状見つからないものの、著者はシェアハウスの可能性について模索している。
シェアハウスという可能性
「死にたい」とつぶやく人々と親密圏の相性の悪さによって、彼ら/彼女らは心の拠り所をその外に見つける必要がでてくる。しかしそこに待ち受けているものの善悪を容易に判断することは難しく、実際に助け出された人もいる中で、座間のような事件に繋がってしまう可能性も存在している。これに対して専門家による治療など様々な道は存在しているが、著者はシェアハウスという親密圏外の1つの逃げ場としての可能性を紹介している。
1つは運営者ミチヲさんが「能力主義」と呼ぶ相互扶助を目指すための最低限の能力を有するものが集まるシェアハウスA。住居者がマンツーマンでゆるく監視しあい、全体をミチヲさんがゾーンディフェンスする環境である。これは家族よりも純粋な互いの生/生命への配慮をした関係性となっていて、新しい親密圏が築かれているのが特徴的である。もう一つは、「死にたい」という言動に対して、「何も感じない」というマツダさんが運営するシェアハウスB。自殺未遂をする人たちに干渉するのではなく、遠くから見張ったり話を聞いたりする。マツダさんのケアは相手との親しさとは関係なく、「正しい行動」という自分の道徳によって行動される、本書が前提としていた親密圏とは異なる考えを有する人物である。この2つの場所から、問題は数多くあれど「死にたい」とつぶやいている人々が心の拠り所を見つけている例を提示している。
本書で最も興味を持った部分は、「生きたい」を前提とする社会に存在する「死にたい」という人々の逃げ場の必要性である。そしてその逃げ場は「死にたい」を「生きたい」に強制する場であってはならない。その点、専門家による治療というのはまさに「生きたい」への変換をはかるものであり、それ以外にも多く道が開かれる必要があることを実感した。これは近年の安楽死問題、死ぬ権利とも繋がる深いテーマなんだろう。また本書後半に出てくるテーマとして一時的な逃げ場の意義についても興味深かった。心の拠り所なんだから永続的な安定した場のほうが好まれると思いがちだが、子ども食堂を例にして、一時的な居場所であることによる疑似的でゆるやかな関係性の重要性が挙げられている。
自殺念慮という重いものではないが、昔?流行った自分探しという名の一人旅もこれに近いのではないかと感じた。そう言う私もよくバックパッカーで海外一人旅をしたが、そこで得られるその場限りの関係性や繋がりたい時に繋がる間柄というのはまさに本書で考えられている「逃げ場」に当てはまる。特に大きな不満はなくとも、学校と家族という親密圏のみの生活に疲れていたのだ。たとえそれが死へ向かうものでなくても、狭い世界で生きることの生きづらさは誰にでも存在し、そこから逃げる手段としてちょっとかっこよく表現された自分探し(今だと小馬鹿にされる物言いかもしれないが)があったのかもしれない。だから「逃げ場」というのは「生きたい」と思っている人にも必要であり、決して「死にたい」とつぶやく人のための特殊な場ではないと感じられた。
おしまい
