【#創作大賞2024】蒼に溶ける 第3章 ① 勘違い
母の沙和子が交通事故で急逝してからというもの、結依の足はすっかり実家から遠ざかった。権威主義の父親や、その父に追従するばかりの兄とは、元から反りが合わなかったのは事実だ。だから就職するや早々に家を出たものの、残してきた母親のことは常に気がかりではあった。それで父や兄の不在を見計らっては、ちょくちょく会いに行っていたのだ。
だがその母をこんな形で喪うとは夢にも思わず、結依の心は強い後悔に苛まれた。
――あの時、私がもっときちんと話を聞いていれば……!
今さら嘆いても詮ないとは判っていても、結依の悔悟の念は消えることがなかった。母の死に直接自分の責任があるわけではなかったが、偶然にも耳にした母の希望を叶えてあげられなかったことが、ひどく悔やまれる。
だがその気持ちを、父や兄に理解してもらえることは金輪際ない。言ったところで根本からピントのずれた、議論とも言えない議論が延々と続くだけだろう。そしてその果てには、まるで子供の駄々を宥めるような口調で、諭すという皮を被った軽侮と否定を受けるだけなのだ。
「お母さんもこんな気持ちだったのかな……」
重厚で広大な実家とは比較にならない小さな2DKのダイニングテーブルで、結依は懐かしい母の面影を偲んでぽつりと呟いた。
「結依ちゃん、大丈夫? お母さんのことがあってからまだそんなに日も経ってないんだし、あんまり無理しないようにね。仕事の方は何とでもなるからさ」
昼休みに休憩スペースでぼんやりとしていた結依は、ふいに後ろからかけられた声に、慌てて振り返った。そこには上司の松下冬美が二人分のコーヒーの紙コップを持って立っていた。
「あ、松下さん。ありがとうございます……何かやっぱり落ち着かなくて」
コーヒーを手渡した松下は、当たり前でしょう、という顔つきで結依の向かいに座った。
「やっぱり人が一人亡くなるっていうのは大変なことだから。物理的にも精神的にもね。ましてそれが肉親ともなれば、なおさらしんどくて当然なんだから。結依ちゃんはどっちかって言うと頑張りすぎちゃう方だから、そこはちょっと気をつけて」
入社以来、何くれとなく結依の面倒を見てくれている松下には、すべてお見通しのようだ。
結依の勤めるデザインオフィスは、総勢10名足らずの小さな会社だった。広告の作成がメインの事業だが、丁寧な仕事と時代のニーズを掴んだ小気味いいキャッチコピーが評判の、言わば新進気鋭のオフィスと言っていい。40代半ばの松下は創業以来のメンバーで、メインスタッフの一人と言ってよかった。
「私ぐらいの歳になると親を送るケースも増えてくるからね。そういうもののしんどさっていうのは、やっぱり体験しないと判らないから。しかも今回は急なことだったし。結依ちゃん、その直前にお母さんと会ってたって言ってたから、なおさら辛いよね」
温かい気遣いに溢れた松下の言葉に、結依は不意に緩みそうになった涙腺を引き締めようと、慌てて瞬きをした。
「――それもそうなんですけど、なんか父と意見が合わなくて、そっちもしんどいんですよね。母のことが辛いのは仕方ないにしても、それ以外に余計なことでエネルギー殺がれるっていうか」
「意見が合わない?」
「ええ、まあ元々父や兄とはあんまり話が合わないんですよ。父は経産省のお役人様ですっごく偉そうだし、兄は大手企業勤めで絵に描いたようなエリート坊々ってカンジなんで」
そりゃ結依ちゃんとは合うはずないわ、と松下は豪快に笑った。
「それにしても結依ちゃん、実はいいとこのお嬢様だったのか。そういう個人的なことはほとんど知らなかったけど、まあ判らなくはないね。結依ちゃんは型破りのようでいて何となく行儀がいいっていうか、きちんとしたとこあるから。意外にも」
「意外ってなんですか、意外って」
「いや、悪い意味じゃないよ。たとえば結依ちゃんって食事のマナーがすごく丁寧だったりするじゃない。前にみんなでご飯食べた時、お魚の食べ方がめちゃめちゃ綺麗でびっくりしたもん」
いやあの、と結依は顔を赤らめて口ごもった。だが思い当たるふしがなくもない。自分では意識していなくても、お行儀がいいねと褒められることは、幼い頃から何度となくあった。
だがそういうものを教えてくれたのは、主に母の沙和子だった。子供の頃はうるさく感じた躾も、大人になってみればありがたいと思うことはしばしばだ。
逆に父の晃雄の考え方は、いつまで経っても馴染めない。社会人になれば一家を養うほど稼ぐことの大変さはよく判ったし、その点では父に感謝をするようにもなった。だがそれと父の優越的思考を認めるのは、また別の話だ。
松下が言うところのいいとこのお家の利点があったことは間違いないが、反面、それは結依が自分で選んだものではない。たとえ周囲には恵まれてると思われても、自分がそんな特権意識の強い父の庇護下にあることは、結依にとって耐えがたい事実だった。
それでもまだ、自分はあの家を出ていくことができた。たとえ父に何を言われようと、どう見られようと、自分の好きな道を選択することができた。
――だが、あの母は。
かつては外で仕事をしていたものの、結局は “いいとこの奥様” らしく振る舞うべく、いつの間にか家にいることに慣らされてしまった母の姿を、結依はどこか歯がゆい思いで見ていた。それはまるで羽を切られた小鳥が、美しい装飾のついた大きな鳥かごでぽつんと飼われているようにも見えた。
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