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葬られた古代王朝「高志国と継体天皇の謎」を読みました。①

 先日「禁断の国史」を読み、とても面白かったので、宮崎正弘著の「高志国と継体天皇の謎」も読んでみることにしました。宮崎さんは、博学で読みやすい文章なので、どんどん読み進めることができます。

 今回の高志国のことに関しては、著者が金沢出身なので、思入れが強いらしく、自らが訪ねて調べ上げているので、興味深く読むことができました。   なので、その内容をたぶん2回くらいで、書いてみたいと思います。

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まず、高志国というのは、何処かという図があったので載せてみます。

 ヌナカワヒメは、「高志(古志)の女王」と言われて、その幻の王朝はいつごろ、何処に存在したのか? 

 概括的に見れば高志(古志)は、若狭、越前、加賀、能登、越中、越後、そして出羽の南端の一部が古志の版図である。実に広範囲である。
 
 大和朝廷が、現在の新潟市東区あたりに蝦夷退治のための防護柵を設け、
それが次第に、村上(磐舟柵)から都岐沙羅柵(つきさらさく)ー山形県との県境、酒田(城輪柵・きのわさく)、大仙(大曲)の払田柵(ほったさく)、そして秋田柵へと「北上」し続けたのは七世紀。

 新潟以北は、蝦夷制圧の拠点であり、これら柵(城塞)が作られた頃には、古志は大和朝廷に服属していた。蝦夷平定の主力部隊は、古志国の人々だった。五世紀から六世紀ころに、謎の王朝は、大和王朝に包摂された。
 言葉を換えていえば、それ以前の古志国は「葬られた王朝」になったのだ。

ーーーーーというような情緒的な書き出しから、この本は始まります。

 さて、情緒的でないけれど、この本の内容を書いてみたいと思います。
まずは、天皇系図です。


継体天皇の謎

「歴史を振り返れば、皇位継承をめぐる危機は何度もあった。しかし、先人たちは、何代にも遡り、男系の血を受け継ぐ傍系から適任者を探し出して、皇統を維持した。
 もっとも顕著な例では、第二十五代武烈天皇から第二十六代継体天皇までは、十親等も離れている。系図を応神天皇まで五代遡り、そこから五世の孫を捜し出し、大伴金持が越前まで迎えに行った。
 その後も、第四十八代称徳天皇から第四十九代光仁天皇まで八親等・・・・」   『葛城奈海(戦うことは「悪」ですか)』(扶桑社)

 
 第十四代仲哀天皇と神功皇后との皇子、応神天皇が息長真若中比売(おきながまわかなかつひめ)を娶って生ませた皇子、若沼毛二俣王(わかぬけふたまたのみこと)(雅野毛二派とも書く)の第五代末裔とされるのが、継体天皇である。     『上宮記逸文』


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 応神天皇は、神功皇后が筑紫の宇美で出産し、帰路に近畿あたりで待ち受けた草香王と忍熊王の軍事的挑戦を斥け、さらに神功皇后は、武内宿弥に命じて敦賀へ応神をさしむけ禊をさせた。

 神功皇后の三韓征伐は、敦賀から出発したと言われているから、高志国との地縁が極めて深かった。また、地元の神と名前を交換したという『日本書記』の逸話など、古志国との宥和作戦の現れだろう。
 つまりは、大和朝廷は、古志との関係の深化を意図していたのだ。

 継体天皇は、通称オホドと呼ばれた。
 福井県民からはたいそう慕われている印象がある。なにしろ、大和朝廷が扱いに苦労した高志連合から初めて天皇に即位したのだから。

 この皇統譜を画期した出来事は、大和朝廷に服属していたかに見えた高志国が、面従腹背の状況から大和朝廷の内側へ入ることによって、統一国家への協力姿勢を示したという意味をもつ。
 こういうアングルで、継体天皇を論じた歴史家はほとんどいない。

 継体天皇を『古事記』はさらりと書くが、『日本書記』には長い記述がある。書記は、皇統譜の正統性を力説する正史ゆえ、継体天皇の由緒正しさに重きを置いた。

 継体天皇を五代遡ると応神天皇に行き着く。
 応神天皇は、子宝に恵まれて、じつに26名の御子。このうち男子は11名であった。このなかの若野毛二俣の子が、太郎子、またの名は意富富矛(おほほじ)と言い「三国君の祖」となっていた。
 
 「越前の大王」だったオホドが、最初のうち即位を躊躇った理由は、応神天皇の子孫といえ、高志の豪族を大和朝廷が、いかに受け入れるかという歴史問題があった。
 近畿豪族の間には、自派に有利なようにと熾烈な争いがあった。

 越前には、河内、百舌(もず)に匹敵するような大規模な古墳が造成されている。富と軍事力にぬきんでた「大王」が存在していたことは、古墳群でも明らかで、継体天皇の一族だった。
 現在の行政区分でみると、福井市を囲む越前市、坂井市に古墳が集中している。

 応神天皇の皇子らは、地方に散って土地の有力者となり、オホドが最大勢力となっていた。
 福井県に、継体天皇を祀る神社は、三国神社、足羽神社を筆頭に十五社、石川県に一つ、ほかに境内社が三つ。合計19社がある。

 オホドが、越前国で最も力を入れた事業は水利、とくに堤防づくりだった。越前平野の大治水事業を展開したが、九頭竜川の治水工事は、難儀を極めた。当時のまつりごとは、治水によって評価される。
 
 現在はみごとな水田が拡がり、人々に安定を運んでいる。
 この事業を行うには、有力な豪族が、強力なリーダーシップを発揮しなければ実現できない。継体天皇の指導力は、財力と計画性を持っていた。

 大伴金村と物部麁鹿火(あらかい)が迎えに行くと、オホド王は「天子の風格」があり、すぐに承諾しなかった。交易ルートを通じて、畿内の豪族の動きなどの情報を集めていたのだ。

 オホドは、越前からいきなり畿内へは入らず、樟葉丘(牧方市)に仮宮造成して即位した。熟慮の末、地勢学的な考慮が優先した。
 現在、牧方市樟葉丘にある交野(かたの)天神社境内の小さな丘が、樟葉宮跡と伝承されている。
 この樟葉宮の場所は、地政学的要衝である。
 
  五年後に、都を移して筒城宮・つつきのみや(京田辺市)とし、さらに七年後に、山科の乙訓(おとくに)に遷都した。
 かくして、十九年後に、玉穂宮(桜井市あたり)に入った。

 いずれも共通項がある。
 縄文人集落と同様に段丘に位置し、水源に近く見通しの良い場所を選んでいるという戦略的な立地条件の判断である。
 要は淀川水系にある。石清水の北側が、桂川と木津川が合流する地点だ。

 急いで奈良に入る必要などなかったのだ。都に入るという強迫観念のような認識は、おそらく継体天皇には希薄だった。

 たしかに都では、物部、大伴、巨勢氏らが継体天皇を支持していたが、反対する豪族もあった。とくに反対派の頭目は、新興勢力の蘇我氏だった。

 継体天皇即位前後の近畿の豪族たちの状況をみると、大和朝廷を支えた近畿豪族のなかで、古志と関与が深いのは、大伴氏、物部氏、そして阿倍氏である。古志の歴史に、この三氏が重厚に絡む。
 いずれも、飛鳥から奈良を囲む勢力範囲のなかに拠点があり、朝廷に仕えた。

 物部氏は、石上(天理)を基盤とし、ニニギノミコトの天孫降臨の供をしてきた由緒ある家柄である。のちに、仏教普及をめぐって新興勢力だった蘇我氏との戦いに敗れたが、多くは古志に逃れた。

 大伴氏は、「伴」に由来し、古代より伴造(とものみやつこ)を率いた。大伴家持は、古志の越中国司として赴いた。

 阿倍比羅夫は、古志を拠点に蝦夷制圧に活躍した。
 これら三氏が協力して、即位に反対していた権勢を誇った平群(へぐり)一族を討った。

 オホト王は、応神天皇の五世孫で、父は彦主人王、母は垂仁天皇の七世孫・振媛です。振媛は三国の坂井から、彦主人王により近江の三尾の別業に迎えられ、王を産みましたが、夫の死後、子を連れて高向に戻ってきました。そして509年、男大迹王が57歳の時、金村らが迎えに来たのです。

 継体天皇の勢力が強大だったことも事実でしょう。

 母振媛の故郷高向は、現在の(福井県)丸岡町と考えられますが、その近くの六呂瀬山1号墳や、九頭竜川対岸の松岡の手繰ヶ城山古墳・二本松古墳など、いずれも石棺を持つ北陸最大級の広域首長墳の築造が、四世紀中ごろから六世紀中ごろまで続きます。

 さらに六世紀には、椀貸山1号墳などの前方後円墳からなる横山古墳群が、丸岡町から金津町にかけて築かれます。これらの墳墓は、継体母子の出身勢力のものでしょう。・・・・・

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※ 
 まだまだ詳しい話が続きますが、頭が混乱してくるので、     
 今回はこの辺で終わりにしたいと思います。
 間隔を空けて書いたつもりですが、名前、名詞が難しいですね。
 次回は、もっと分かりやすい観点での話を書きたいと思います。
 我慢して、ここまで読んでくださった方、心より御礼申し上げます。
 ありがとうございました。

 

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