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”飛鳥瓦”の正体

『古代の石工技術』の中に書いているものですが、長い文章の中の後ろの方にあり見つけにくいかもしれないので、独立抜粋およびさらに調べて追記しているものです。

調べながらつらつらと書いているものですから、つい長くなるんですね。


飛鳥瓦

飛鳥時代の仏教建築に作られた『飛鳥瓦』、よく「瓦は仏教と共に来た」「百済の職工が作った」「百済の技術だ」と説明しているものがあるのですが、本当でしょうか?
これを出来るだけ「使用される技術」と「連続的な変化」というので辿ってみると、どうも違いますね。

日本の”瓦”の歴史の始まり

そもそもですが、日本で出土している『瓦』は、日本に仏教がやってくる以前からあります。
・AD2世紀だと福岡県・志賀島などで出土する『瓦』
・AD3世紀の高宮遺跡には巨大な掘立柱建物に関連した『瓦』
このような遺物・遺構が日本にはあります。
これは「寺院」である訳がなく(まだ知識層や国家が本格的に仏教を受容していない時代です)はなく、「神殿」や「王権の居所」に瓦が使われていたものです。
仏教が公伝する数百年前のもので、日本で言えば、魏志倭人伝の時代かそれより前、と言う事ですね。中国史書をみても、日本にまで公的な使者が来ているのはAD3世紀の魏代が初めてです。
これは、日本列島が大陸の「宗教」とは無関係に、純粋な「建築資材・技術」として、『瓦』を独自に持っていたという証拠です。

「仏教と共に瓦技術が来た」というのは、そもそも出土する『瓦』の年代から成り立たないのですね。

日本の”瓦”の作り方

ここが実は大事な部分です。
「中国から伝播してきたもの」であれば、その手法が残りますので。
「百済から来た」はそもそも論外です。というのも、この当時(AD2世紀)では朝鮮半島に「百済」はまだ存在しないからですね。

『百済』は晋が滅亡後、遼西地域で勢力を拡大した鮮卑系民族から始まる小国家系譜を指しているものであり、AD4世紀以降です。ただし、「朝鮮半島の”百済”」はこの当時は指していません。「朝鮮半島の”百済”」はAD364年頃以降で大同江を越えて南下してきた民族部族です。AD7世紀より以前、つまり「隋による中国統一以前」は中国からの記録では「百済」ではなく「慕韓」と書かれています。
隋の統一で北朝が消え「遼西の”百済”」が消えてから、初めて「慕韓」は『百済』と呼ばれるようになります。

まぁ、『慕韓』は慕容系民族、具体的には遼西で慕容系内での政争に負けた慕容仁一党の残党で間違いないと思います(慕容仁一党の残党で東に逃れた人の中に冬寿という人物が降り、この人物の墓が大同江の南にある)が、今の韓国人の祖先としてまるで関係が無いのですね。『慕韓』こと『朝鮮半島の”百済”』はAD390年頃以降は、日本に従属した日本の一地方の属國なので、どちらかというと「日本と中国の歴史」に入ります。


では、AD2世紀〜3世紀の『瓦』が百済は論外として「中国から伝播」してきた技術か?というと、志賀島・高宮で見られる『瓦』は中国式ではありません。
当時の中国の『瓦』の作り方は、円筒形の型に粘土を巻き付け、後で分割する「模造法」が主流です。これは乾燥した地域に適した技法です。『AD7世紀の朝鮮半島の”百済”』こと『慕韓』の漢城時代(AD390年頃~474年)の「風納土城」などで見つかる初期の瓦なんかも、この「模造法」である「華北・北方式」の系譜ですね。

志賀島・高宮で見られる『瓦』は「叩き締め」という手法で作られているものですが、円筒に巻きつけず平積みです。型を使った形跡はありますが、円筒型の型ではなく、「木枠(台枠)」を用いた成形法、いわゆる「平地式(ひらじしき)成形」を用いています。
近いけれど、しかし、「叩き締め」自体は日本では更に遥か古くから「板状土製品」として床材として使われているものです。
ここがまたややこしい。


ちなみに、『AD7世紀の朝鮮半島の”百済”』こと『慕韓』の熊津時代(AD475~538年、まだ『遼西の”百済”』が滅亡していません)だと、”瓦”の作り方は「南朝様式」の作り方です。これは紋様が刻まれた凹型の範(はん)を、粘土に強く押し当てる、あるいは型の中に粘土を詰め込んで成形するという手法です。見た目的に言えば『飛鳥瓦』に近くも見えますが、『飛鳥瓦』と比べるとエッジが効いていないぼやけた感じのものですね。
また、『飛鳥瓦』とは作り方が違います。

百済最古とされている「大通寺」の瓦は「飛鳥様式」です。他にも、王宮里・王興寺など日本が関与した形跡がある少数で「飛鳥様式」は見られます。ただし、それより後に建てられた「日本が関与していない」建築物では南朝洋式の瓦を使っている方が多く、熊津時代以降滅亡までの「百済の”瓦”」は、「南朝様式」です。

『飛鳥瓦』の作り方

『飛鳥瓦』は「飛鳥様式」と独自の手法で、「叩き締めとの同時成形(鍛造的生成)」というものです。
ただ、「叩き締め」という日本古来(BC30世紀)からある板状土製品の思想がそのまま反映されています。

技法としては、単に型を「押す」のではなく、文様が刻まれた「当板(あていた)」を裏から当て、表面を「叩き締める」ことで、粘土の密度を極限まで高めながら、同時に紋様を浮き上がらせます。叩き締める圧力によって粘土が紋様の隅々にまで充填されるため、南朝洋式の瓦よりもエッジの効いた、非常に鋭い紋様になります。

これは「南朝洋式」の「型抜き」ではなく、金属を叩いて形を作る「鍛造」に近いプロセスです。
さらに、紋様の厚みに合わせて、ヘラで裏面を削るという肉厚の調整があり、全体の歪みを防ぐ「ヘラ削り」がセットになっています。この「ヘラ削り」も、それより以前からある日本の陶器作りの技術であり、中国式の手法には、”瓦の作り方”だけでなく、”陶器の作り方”にもないものです。

日本の2~3世紀の高宮遺跡などの初期瓦でも見られる「ヘラによる調整」の痕跡の技法、これはBC10世紀には日本で始まっており、AD5世紀の須恵器製作でも使われているものです。「叩き締めた粘土をヘラで削って厚みをミリ単位で調整する」という超高度な技法を完成させています。
これは中国瓦にはない技法ですが、これが大通寺の瓦などにも見られます。
「百済の”瓦”」は型に頼り切った比較的「大雑把な」作りが多いのに対し、『飛鳥瓦』は裏面まで緻密にヘラで仕上げられています。この執拗なまでの「ヘラ仕上げ」こそ、日本列島で数百年間数千年間も磨かれた日本の建築職人魂の現れで、特徴にもなります。

『飛鳥瓦』で見られる中国文化要素って、実は「蓮紋デザイン」だけなんですね。”瓦”自体は、日本の中で連続的・継続的に変化し積み重ねられてきた土製品の作成技法により出来上がっています。

叩き締め技法

”日本の瓦”にも”中国の瓦”にも、”叩き締め”や”型”、”型枠の中に布などの形跡”があります。
それも、中国よりも日本の方が古くから。
『飛鳥瓦』にまで辿り着くルートは「デザインに南朝風の蓮紋を使う」以外は、純日本産技術で積み上げられています。

大通寺の瓦にも「へらを使った痕跡」がありますから、それはより古い時代からへらを使った造形をしている日本からの伝播だというのは確実なんですね(それは同時に、『大通寺』が通説で言われる建立年が違う、と言う事ですが、これは別で話します)。
中国や朝鮮半島の瓦製作には、基本的に「裏面をヘラで緻密に削る」という工程がありません。彼らにとって瓦は「型から抜くもの」だからです。

ちなみに、蓮華文ではないですが、日本国内の古墳から出土する鏡や装飾品の文様には、百済(慕韓)が朝鮮半島に現れるよりも前の段階で南朝風の意匠が取り入れられています。
日本からすれば「エキゾチックなデザイン」だったのでしょうね。

『中国瓦』の歴史

ついでにこちらもざっくりと。
「土を平らな板状に焼き固め、建築部材(インフラ)として使用する」という工学的技術で言えば、日本の縄文時代は中国大陸の最古の瓦(龍山文化期:約4,000年前)よりも古くからあります。

中国大陸を見れば、
・約4,000年前〜(龍山文化期)
この時期に陝西省・石峁遺跡などで最初期の瓦状遺物が出土しています。
・約3,000年前〜(西周時代)
この時期からは「屋根を覆う建材」として利用され始めています。

それに対して日本は、
・約5,000年前〜(縄文中期)
三内丸山遺跡などで「板状土製品」や「床の焼土」が見られます(4,500年前頃の層から)。
・約4,500年〜4,000年前(縄文中期末〜後期)
チカモリ遺跡などで、床タイルとして機能的に敷き詰められています。

判りやすい具合に日本から中国に伝播しています。
この後の時代に中国内で伝播して、西周から北にいって「華北・北方式」の『瓦』にとなります。

日本の”瓦”までの歴史

日本は、連続的・継続的な連なりと変化をしているので、作り方の進化も判りやすいです。

一番古い三内丸山遺跡の板状土製品は、

  • 土を水に溶かして不純物を取り除く「水簸」を行い、極めて粒子の細かい粘土を取り出す。

  • 地面に大まかに直接広げた粘土板を広げ、それを叩き締めます(一部では木枠を使い定まった形を作っている)。

  • その上で火を焚いて焼き固めます。

という技法で作られています。かなり簡単ですが、これが源流になります。

チカモリ遺跡の板状土製品は、

  • 土を水に溶かして不純物を取り除く「水簸」を行い、極めて粒子の細かい粘土を取り出すのは、三内丸山遺跡と同じ。

  • 粘土を板状に広げ、叩き締めます(型枠に入れて行います)。乾燥させる前にヘラなどの切削具を用いて正確な形状(長方形や多角形)に切り出します。「木枠によるプレキャスト工法」です。やり方は、定盤の上に長方形の木枠をセットし、水簸粘土を叩き込み、枠の上面で余剰分をヘラでスライドさせて切り落とす。そして乾燥前に枠を抜き、切断面を石で磨き上げる(磨研)と言う事をします。

  • じっくり乾燥させ、焼き固めます。チカモリのタイルは肉厚が一定(約1cm〜1.5cm)に切り揃えられています。この厚みの粘土を焼く際、芯まで乾燥(ボーンドライ)させていないと、1,000℃の熱で内部の結晶水が爆発します。出土品に破裂痕が極めて少ないことは、「徹底的な事前乾燥」が行われた動かぬ証拠となっています。

  • 還元・燻化しています。タイルの断面を見ると、芯まで青灰色、あるいは表面が漆黒に染まっています。これは酸素を遮断した「還元焔焼成」と、最後に煙を閉じ込める「燻化」が行われたことを示します。

  • 完成したタイルを住居跡へ運び込み、パズルのように隙間なく敷き詰めます。

と、既に瓦と同じような作り方になっています。
ちなみに、三内丸山遺跡の板状土製品では裏に木目など、平らな場所に置いた形跡が、チカモリ遺跡のものでは裏に布目が付いたもので敷物をしていた形跡があります。
少し後の3,500年前の真福寺遺跡だと複雑な形の板を作る際、剥離を容易にするため布で包むように成形した痕跡があります。
志賀島周辺の古式瓦には、型に抜きやすいテーパーを付けてあり、また側面の仕上げが甘いものがあり、そこに「布のしわ」や「縦方向の布目の引きずり」が認められるものがあります。これは「枠の中に布を敷いて成形した」ことの動かぬ証拠です。

「焼き固める」というのを前提条件にしなければ、

  • 約6,500年前の北海道・垣ノ島遺跡で粘土を平らに成形した板状の遺物が出土しています。定盤(平らな場所)での成形が前提となります。

  • 約6,000年前の宮城県・里浜貝塚だと「敷物痕のある土製品」があり、粘土を板状に成形し、その裏面に網代や編み物の痕跡が残るものが確認されています。

さらに「意図的に焼き固めたものでは無ければ」となれば、

  • 約9,500年前の鹿児島・上野原遺跡には「炉穴の焼土板」があり、燻製や調理のために掘られた穴の周囲に、熱によって硬く焼き固められた「板状の焼土」が形成されています。

  • 約7,000年前の北海道・柿ノ島遺跡には意図的に板状に成形された「板状土製品」が出土しています。後述している中国・草鞋山の「土塊」よりも明らかに「製品」としての定形性を持っています。

  • 約7,000年前の佐賀県・東名遺跡だと湿地遺跡のため、粘土を置くための「敷物」そのもの、「編み物(網代)と粘土」が現物で残っています。

「意図的に焼き固める」となると三内丸山遺跡からになるのですね。
そう、「屋根の建材として使う」以外は、技術史が純日本技術産で出来上がっています。

中国北方式の”瓦”の歴史

龍山文化の板状土製品は、

  • 粘土を水に溶かして上澄みを取る「沈殿法」に近い形で土を選別(見た目は非常に精巧ですが、不純物を「化学的に抜く」というよりは「粒子のサイズを揃える」ことに主眼があったため、焼成後の構造体としての粘り(強靭さ)は、日本の水簸粘土に及びません)。

  • 粘土を平らな板状に伸ばします。手作業で厚みを整えた「粘土の板」を作ります。

  • 形状を維持し、密度を高めるために、外面を木の板(叩き具)で叩きます。龍山文化の特徴として、この叩き具に格子状の筋が入っているため、表面に格子目(印文)が残るのが一般的です。

  • 製作場所(屋外の作業場など)で、直射日光を避けた状態で数日間放置します。自由水(粘土粒子間の水)を緩やかに抜くことで、急激な収縮による「ひび割れ」を防ぎます。日本のチカモリのように「精密に削る」工程がないため、この段階で「反り」が出ないよう、地面の平坦さが重要視されました。

  • ある程度乾いた段階で熱源の近くや風通しの良い場所へ移動させ、徹底的に水分を飛ばします。粘土が「レザハード(革のように硬い状態)」から「ボーンドライ(骨のように乾いた状態)」になるまで乾燥させます。龍山文化の土は、日本の水簸粘土ほど「粘り(強靭さ)」がありません。水分が残ったまま焼成すると、内部の不純物が膨張して破裂しやすいため、焼成前の「完全乾燥」が必須工程でした。

  • 半地下式の横穴窯などに、乾燥した板状製品を積み上げます1,000℃前後の温度まで上昇させた後、窯の口を塞ぎ、薪などの燃料を不完全燃焼させます。

  • 表面の「燻化」仕上げを最後にします。焼成の最終段階で、さらに大量の煙(炭素粒子)を窯内に充満させます。窯内に松枝などを投入して煙を出し、表面に炭素を吸着させます。これにより表面の細孔が炭素で塞がれ、見た目の精巧さと、ある程度の防水性が付与されます。

龍山文化の板状土製品は、簡単に言えば、チカモリ遺跡の「板状土製品」と作り方がほぼ同じです。ただし、前処理の粘土作りが甘くなっています。これは、「土の差」があるのかもしれません。

西周時代になると、円筒模法という量産できる形になります。

  • 粘土を水に溶かして上澄みを取る「沈殿法」に近い形で土を選別(龍山文化と同じです)。

  • 木製、または陶製の円筒形の「型(芯材で”模”という)」を用意します。この型の周囲には、粘土が張り付かないように布や縄を巻くことが一般的です。

  • 一定の厚さに伸ばした粘土板を、この円筒形の型に巻き付けます。

  • 巻き付けた粘土の外面を、文様の刻まれた叩き板で叩きます。これにより、粘土が型に密着し、お腹(ボディ)の密度が高まります。叩き板で表面を叩き組織を緻密にする手法で、西周の瓦の裏面に布目や縄目、表面に格子目があるのは、この名残です。

  • 乾燥させますが、粘土が半乾きの状態で、縦に2分割(半円筒状=丸瓦)あるいは4分割に切り分けます。

  • 型から抜き取り、完全に乾燥(ボーンドライ)させてから、窯で還元焼成(1,000℃前後)します。

  • 表面の「燻化」仕上げを最後にします。焼成の最終段階で、さらに大量の煙(炭素粒子)を窯内に充満させます。窯内に松枝などを投入して煙を出し、表面に炭素を吸着させます。これにより表面の細孔が炭素で塞がれ、見た目の精巧さと、ある程度の防水性が付与されます。

と、龍山文化の手法に型が付いた形です。この手法が秦漢に引き継がれていきます。龍山文化のやり方の継承ですが、これは「古層文化を民族が変わっても後古層文化が継承できた文化」というものですね。

これが北方に行き、『AD7世紀の朝鮮半島の”百済”』こと『慕韓』の漢城時代(AD390年頃~474年)の「風納土城」などで見つかる初期の瓦なんかも、この「模造法」である「華北・北方式」の系譜となるのです。

「前処理の粘土作りが甘くなっています。これは、「土の差」があるのかもしれません」と書いていますが、これを調べてみました。
どうもその通りで、地質学および土木工学的な観点から見ると、「全くの別物」と言っていいほどの決定的な差があります。

日本の土は基本的に、山から川を経て堆積した「水成粘土」です。長い年月をかけて水に揉まれ、風化が進んだ「カオリナイト」や「モンモリロナイト」などの微細な粘土鉱物が主体です。粒子が非常に細かく、板状の結晶が重なっているため、「驚異的な粘り(強靭さ)」を持ちます。
乾燥しても粘土粒子同士がガッチリと結合しているため、薄く伸ばしても、あるいは乾燥後に「精密に削り込む」という負荷をかけても、組織が崩れません。
日本の粘土は「粘り」が強いため、乾燥過程でヘラを入れても表面がボロボロになりません。そのため、チカモリの板状土製品に見られるような、「厚みをミリ単位で制御し、表面を鏡面のように削り出す」という精密加工(切削工学)が発達しました。これが後の飛鳥瓦の「裏面の緻密なヘラ削り」へと繋がります。

それに対して、華北平原や山東半島周辺の土壌は、主に「風積黄土(ロエス)」の影響を強く受けています。成分の特徴ろしてはシリカ(石英)や長石の微粒子が中心で、石灰分(カルシウム)を多く含みます。粒子が角張っており、水に濡らすと一定の可塑性(形を作る力)は出ますが、「粘り(引張強度)」が圧倒的に不足しています。
そのため、乾くと非常に脆い(脆性)性質があります。また、石灰分が含まれるため、高温で焼くとその部分が膨張しやすく、不純物を取り除かないと破裂(ポップアウト)の原因になります。「沈殿法(粒子のサイズを揃える)」は、不純物除去というよりは、「まともに成形できる粒子だけを抽出する」と工程が必要だったわけです。
華北の土は粘りがないため、削ろうとすると表面が剥離したり割れたりします。形を維持するためには、「外から叩いて、無理やり密度を上げる(圧密)」しかありませんでした。格子目の叩き具を使うのは、単なる文様ではなく、叩く際の「滑り止め」と「均一な加圧」という実務上の理由です。「円筒模法(型)」が必要だったのも、土に自立する強度が足りないため、芯材に頼らざるを得なかったからです。

土の質が大きく違い、同じ手法をそのまま取り入れる事もできないのですね。
日本の粘土(水成粘土)を水簸するのは、不純物を取り除き「微細な粘土結晶」の密度を高めるためです。この結晶が重なり合うことで「粘り(引張強度)」が生まれます。
対して、黄河の土(黄土)を高度に水簸すると、黄土の形状を維持しているのは、実はシリカや長石といった「微細な砂(骨材)」です。水簸でこれを取り除いてしまうと、残るのは粘り気のない「ただの細かい粉」になります。また、黄土の主体は粘土鉱物ではなく、風で運ばれた「シルト(微細な砂粒子)」です。シルトには日本の粘土のような結晶同士の結合力がありません。日本の様な水簸を極限まで行うと、粘土としての「腰」が消え、泥水から引き揚げても自重でダレるだけで、板状に成形することすらできなくなります。

「土の質」から見れば、中国北方式の板状土製品はその土地の素材から素直に導き出される答え(自然に生まれる技術)ではありません。「板状土製品を作ることが物理的に容易だった(土が良かった)日本で生まれるのは自然な成り行きであり、中国北方のものはそのコンセプトを模倣するために苦肉の策で生まれた代替技術である」と言えるようです。

中国南方式の”瓦”の歴史

『AD7世紀の朝鮮半島の”百済”』こと『慕韓』の熊津時代(AD475~538年、まだ『遼西の”百済”』が滅亡していません)だと、”瓦”の作り方は「南朝様式」の作り方です。
これは、また別の経路になります。

南朝(建康:現在の南京)において、範(型)を用いた瓦が本格的な宮殿建築の建材として主流になるのはAD5世紀(東晋末から劉宋期)とかなり遅いです。
ただし、技術的源流である「型入れの板状建材」は少しまた違います。

瓦が使われ始めるのは中国南部では遅く、

・AD220年代
三国の呉(建業:南京)の時代です。
呉の宮殿跡から瓦が出土し始めます。しかし、この時期はまだ華北の影響が強く、円筒模法(筒を割る手法)と範成形が混在しています。
・AD4世紀前半
東晋(建康)時代で、範(型)を用いた「文字瓦」や「紋様瓦」が定着し始めます。範の中に粘土を詰め、上から叩いて圧密する手法が取られ始めます。
・AD5世紀中葉
南朝・劉宋期(建康)の時代ですね。この時代で「南朝様式(範成形)」の確立しています。蓮華文などの複雑な文様を施した「軒丸瓦」や「平瓦」が量産されます。ここで、範から剥がしやすくするために「布」を敷き込むエンジニアリングが本格化します。

ここで判る事が、「板状土製品を屋根に置く」というのは、日本には中国南朝から来ていないという事は確実ですね。というのも、中国・呉の宮殿よりも日本・志賀島・高宮遺跡の方が古いのですから。

そして朝鮮半島、「慕韓」は「華北・北方(円筒模法)」から来ているが、梁代の仏教が来た際に「南朝(範成形)」に入れ替わり。
そして日本の関与がある寺院などでは、日本独自の「飛鳥式」が使われている。という時系列が判ります。

しかし、百済が滅亡すると「華北・北方(円筒模法)」に戻っています。


さらに、「板状土製品」を屋根じゃない建材として使う、となると中国南方の歴史はもう少し判ります。

  • 約6,000年前の馬家浜文化・草鞋山遺跡だと、紅焼土の塊や板が出土しています。平坦面に植物マット(敷物)を敷き、粘土を叩き伸ばしている。裏面にマットの圧痕があるが、側面の外形を規定する「枠」の使用はされていません。これは偶発的焼成(火災・炉跡)ですね。日本の遺物と比較すると、約9,500年前の鹿児島・上野原遺跡と、約7,000年前の北海道・柿ノ島遺跡の中間ぐらいの技術の物になります。

  • 約4,800年前の良渚遺跡群だと、墓室用土製パネル・板状土製品として出土しており、意図的焼成。墓の構造材として焼成されたものです。裏面に精密な「網代」の圧痕があり、一部の個体で、側面に直線的なエッジ(平滑面)が、「ガイド(枠)」に粘土を押し当てた形跡があります。ただし、離型のための抜き勾配(テーパー)はありません。日本の遺物と比較すると、約5,000年前の三内丸山遺跡のものと技術としては同じぐらいです。

と言う具合にあるのですが……これらは「中国古層文化」で、縄文系遺物や遺構など、縄文系民族が殖民していた土地です。
ところが、約4,300年前の良渚文化の「板状土製品(枠成形)」が、良渚文化が消えると共に消失します。良渚文化の終焉とともに、それまで墓室パネルなどで見られた「枠を用いた精密な板状土製品」の証拠が途絶えます。この時期の長江流域(馬橋文化など)では、高度な建築部材としての土製品自体がほとんど見られなくなります。
「縄文海退で海洋利用が定住地で出来なくなった縄文系民族が、中国沿岸部を去っていった」という『縄文出戻り説』で整合します。

つまり、中国南部の「中国民族の歴史」というと、この古層の先住民族と古層文化を消失した時期からになります。大体、4,500~4,000年前ぐらいで、既にある遺構は利用できますが、文化リセットですね。
中国人の「中国四千年の歴史」は大体合っています。ただし、その中で主要民族がぐるぐる変わり、民族どうして争い、という多民族非共生社会ですが。そして、「中国四千年の歴史」の理論レベルで言うと、日本人は「日本三万年OVERの歴史」であり一貫した民族となるだけですが。

その後、中国南部では約4,300〜3,000年前の間は完全な空白期で、精密な板状建材が途絶えています。
約2,500年前(春秋戦国)になると、北方由来の「円筒模法」が南部に流入し、建材の主流となります。

しかし、AD5世紀の1,500年前、南朝になると「円筒模法」が続く中で、突如として「範成形・枠入れ」が精密紋様瓦のために復活しています。
南朝においては「北方式(円筒模法)」と「南方式(範成形)」が、用途と部位によって明確に使い分けられ、共存しています。構造の基本は北方式であり、南方式は「装飾性と精密さが求められる場所」に特化して、劇的に導入されたというのが実態です。

これも、土が影響しているようです。
中国南方の土壌は、高温多湿な気候による強力な風化作用を受けた「赤土(ラトソル)」が主体です。激しい雨によってシリカ(ケイ酸)が溶け出し、溶けにくい酸化鉄やアルミナ(酸化アルミニウム)が濃縮されています。このため、土は鮮やかな赤色や黄色を呈します。
日本の粘土のような「しなやかな粘り」というよりは、「重くて、乾くとカチカチに固まる」性質があります。

AD3世紀〜6世紀(六朝時代)に南京周辺(江南)で、南方の「扱いにくい赤土」で瓦を量産できた理由は、素材の改良ではなく「窯の進化」です。
斜面を利用した長い窯:龍窯(りゅうよう)で、熱を精密にコントロールし、過焼結(溶け落ち)を防ぐ「温度管理の工学」を発達させたのです。

……で、その「斜面を利用した長い窯」というのも、日本の方が古く、赤土での土製品作りに利用されています。

約3,000年前の福岡県・江辻遺跡で「傾斜を利用した焼成遺構」が確認されています。自然の斜面を掘り窪めた形状で、下部から上部へ熱が抜ける「上昇気流(ドラフト効果)」を意識した構造です。従来の「野焼き(平地)」では困難だった800℃〜900℃以上の温度域を、地形を利用することで安定して得ようとしていました。これは後の「穴窯(あながま)」の原型となる設計思想です。
壱岐島にあるカラカミ遺跡は、弥生時代の鉄器製作や大規模な生産拠点として知られますが、ここでも傾斜地を利用した燃焼遺構が見つかっています斜面に設けられた竪穴状の遺構で、送風(鞴:ふいご)や自然風の吸い込みを計算に入れた配置になっています。
ここら辺は「鉄分の多い赤土での製作」によるもので、他にも岡山など複数の場所で確認できます。

さらに、この温度から「青磁」が話に出てくるのですが、これも調べると、「初期の青磁」という製品名で比較すれば、中国の「BC16世紀」という数字は確かに古いです。しかし、日本側も同じ「実験段階」という土俵で並べて調査すれば、「高温を作り出し、それを維持・制御しようとする設計思想」においては、日本は縄文時代から一貫して先行しています。

約6,000〜5,500年前の秋田県・上野遺跡だと、土器の破片において、断面が完全に灰色(還元状態)に焼き締まり、表面に自然釉(草木灰が溶けてガラス質になったもの)が緑がかって付着しているものが確認されています。酸化焼成(赤色)が基本の野焼きにおいて、土器が重なり合い、偶然「焚き口の奥」や「灰の中」に埋もれたことで、1,000℃超の高温かつ酸素供給の遮断という条件が成立しました。これは物理的に「原始青磁」の生成条件と同一です。

約5,000〜4,500年前の長野県・井戸尻遺跡群だと、曽利式土器などに代表される大型の深鉢において、内面や底部が著しく硬化し、灰色〜青灰色(還元焼成)を呈する事例が多発しています。縄文中期の大型土器を焼くには、莫大な量の薪を消費します。その燃焼プロセスの中心部では、自然発生的に「上昇気流の収束」が起き、意図せずとも1,100℃に迫る高温域が発生していました。この熱力学的な「現場の事故」が、後の斜面窯の着想(江辻遺跡等)へと繋がるデータの蓄積となっています。

有名な約5,000年前の青森県・三内丸山遺跡でも、出土する膨大な土器の中には、一部に「焼き締まりすぎて石のように硬くなった(過焼結)」破片が含まれています。粘土に含まれる鉄分が還元され、かつ長石成分が溶け出す「ガラス化(磁器化の端緒)」が起きています。

これらは、大陸の原始青磁が始まるBC16世紀よりも3,000年以上前の出来事です。つまり、中国青磁もその技術ルーツの根本は日本から伝播している技術なのですね。基礎技術が完成している技術がパッケージとして入ってくるので、突然に現れたりするわけです。

結局は、日本の瓦技術は朝鮮半島どころか、中国からも来ていないという事です。というのも、技術として日本の方が古く、さらに言えば中国よりも日本の方が高度な技術が使われているからですね。

もし、中国から日本に瓦技術が伝播してきたという通説が真実なら、日本の瓦は「北方式(円筒模法)」あるいは「南方式(範成形)」が、中国より古い時代になって突然に出土する、という時系列でないとおかしいのですね。
しかし実際は、日本の方が技術が高度な上に古くからある、という事が考古学の遺物からははっきりと判るのです。

装飾性のある瓦の出現

「北方式(円筒模法)」で「装飾瓦」が出てくるのは北朝のAD4世紀末から5世紀初頭頃からです。北朝の装飾瓦は、基本的に「円筒模法(筒を割る)」で作った瓦の先端に、ハンコのように紋様を押し付けた円盤を後付け(貼り付け)します。これは「板を精密に成形する技術」が未熟なため、慣れた筒作りで代用している状態です。

そこで不思議になります。
日本のAD2~3世紀の志賀島や高宮の遺物は、最初から一つの範(型)に粘土を叩き込み、「布」を介して精密に引き抜くことで、複雑な紋様とシャープなエッジを同時に形成しています。極めて装飾性と精度の高い「板状・範成形遺物」が、宮殿や巨大建築に伴い出土しています。

「装飾瓦」が日本の方が古いのです。
「蓮華文」という特定のデザインに限定せず、「瓦の先端(瓦当)に精密な紋様を入れる」という工学的な最古は、日本にあります。
AD2世紀の福岡県・志賀島周辺にはすでに「円筒模法」では不可能な、精密な紋様を持つ範成形の瓦状遺物が出土しています。
AD3世紀の福岡県・高宮遺跡では巨大建物に伴い、「最初から一つの型(範)で、円盤部に精密な紋様を叩き出した」瓦が出土しています。
そしてこの時期の中国(後漢〜三国時代)の瓦は、まだ紋様のない「素瓦」が主流であり、紋様があっても「文字」や単純な「格子目」程度でした。

ということは「装飾瓦」というのは、AD5世紀頃、つまり中国史書にも日本の使者が来朝していた時期に、日本から中国の北や南にと伝播した事になります。

  • 中国の北方では、日本の精密な装飾瓦を見て、自分たちの得意な「円筒模法」の瓦に「円盤を貼り付ける」という手法で外見だけを真似た。

  • 中国の南方では、日本の使節等との交流を通じ、日本で使われていた「範成形」そのものを再導入し模倣した。

と言う事になります。どちらにしても日本(志賀島・高宮)のような鮮烈なシャープさに欠ける場合があります。

さらに、『百済』では、北方から来ているので「円筒模法」の瓦を最初に使っているが、梁代で仏教が導入され「範成形」の瓦を使いだしています。ここら辺は「自分たち固有の伝統文化技術ではない」からでしょうね。
その源流、板状土製品にしも、装飾瓦にしても、日本が源流になります。――瓦が百済から来る必要がまったくありませし、取り入れる要素も皆無ですね。

つまり、日本が受け取ったのは2つのみとなります。
・板状土製品を屋根において使うという、使い方の部分
・装飾デザインとして蓮華文デザインを取り入れた事
この2つと言う事です。
「板状土製品を屋根に『瓦』として使う」というのは、中国からやってきていますが、あくまで取り入れているのが技術ではなく「屋根に使う」という考えの部分だけで、日本の瓦は日本の技術のまま作られています。
その2つ以外の瓦に関する文化技術は全て、日本の歴史の中で完結していますし、東アジアの『瓦文化』の源流は全て日本になります。中国の北方式だろうが南方式だろうが関係なく。

たぶん、中国の寺院を見て。「デザインがいいなぁ」というだけで、そのデザインを取り入れた寺は、日本は中国からの技術者も必要なく作れたのでしょうね。


ついでに、「蓮華」というモチーフ自体は、仏教の広まりとともにインドからシルクロードを経て中国へ伝わったものです。

蓮華文の最古と言うと、AD4世紀の東晋の青磁やAD5世紀の北魏の石窟彫刻から使われているものですね。AD4世紀末から南京を中心とする南朝(東晋〜宋・梁)において瓦として現れ始め、AD5世紀になってようやく範成形を用いた「蓮華文瓦」が量産されるようになります。

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