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”倭寇”の歴史

韓国では「倭寇が文化財を奪った」と言っているのを耳にしますが、これは本当でしょうか?
調査をしてみましょう。


古代の9世紀(新羅の海賊)から始まり、16世紀の「後期倭寇」に至るまでの東アジア海域史について、時系列の因果関係と「海賊行為の主体(主導権)の交代」、そして何が被害にあったのかを調べると、その形が見えてきます。

最初は『韓寇』

学校の教科書などで語られる「日本人が一方的に始め、日本人が主体だった」という倭寇の通説は、この大きな歴史のうねり(連鎖構造)の中では成り立ちません。

海域の海域無法の場にした犯人

起点となっているのは9〜13世紀で行った新羅・高麗の「官製海賊(韓寇)」による『海域の無法』です。
東アジア海域における最初の大規模な海上襲撃・無法行為は、朝鮮半島側(新羅・高麗)が主体で発生しています。

新羅時代の官製海賊

9世紀の「新羅の入寇」などが最初の発端です。
新羅末期の激しい飢饉と国内の政治混乱を背景に、新羅の「国家・軍」が主導する軍船(寛平の韓寇では2500人規模)が、日本の対馬・壱岐・九州沿岸を繰り返し急襲しました。日本側(平安)はこれに対抗するため、大宰府に「警固所」を設けるなど防衛を強化せざるを得ませんでした。

ここで重要なポイントは『新羅の「国家・軍」が主導』していたという事です。

811年の「弘仁の入寇」に新羅の船が対馬を襲撃した事件では、捕らえられた新羅人の尋問記録(『日本後紀』)があります。
彼らは単なる困窮民ではなく、新羅の地方官(上州和調県令)から「日本の対馬の島容(地形や防衛体制)を偵察し、あわせて金を略奪してこい」との公式な命令(公文)を受けて派遣された軍事隠密・工作員であったことが判明しています。
当時、日本と新羅の国交は極めて悪化しており、新羅側が日本の出方をうかがうために国策として放った隠密海賊でした。

893〜894年の「寛平の入寇」というのは、新羅末期、国内の政治混乱が極まる中で起きた、過去最大規模の新羅海賊による九州襲撃事件です。
肥前国(佐賀・長崎)や対馬に、新羅の「大小の軍船45隻、総勢2500人」という正規軍レベルの大船団が押し寄せており、対馬守・文屋善友らの迎撃によって海賊側は大敗しますが、その際捕らえた捕虜の自白(『扶桑略記』)が記録されています。
「新羅の国内が飢饉になったため、国王の命(または許可)によって、将軍『将軍(名前は諸説あり、一説には知性)』ら指揮官に率いられて国家の米や絹を強奪しに来た」という、単なる民間の無法者ではなく、国家の困窮を理由に政府や軍が主導して日本への略奪遠征を行った「官製海賊」そのものでした。

新羅の海賊は、日本の一般民家だけでなく、地方政府(官衙)や、都へ物資を運ぶ公式な輸送船を計画的に狙いました。

・貢調船の積荷
『日本三代実録』等の記録によれば、新羅の海賊は「豊前国(福岡)の貢調船」を襲撃しています。ここには、当時の税制(租庸調)に基づいて納められた最高級の「絹」「綿」、そして「布」が積まれていました。これらは新羅国内で通貨代わりや貴族の衣服として利用できる、極めて価値の高い「財貨」でした。

ちなみに「綿」とありますが、これは「木綿」ではありません。平安時代の一次史料(『日本三代実録』や『延喜式』など)に登場する「綿」という漢字は、すべて蚕の繭を煮て引き伸ばした「真綿(シルク)」のことです。「絹」「綿」の差は、「絹」は「糸にして織った布」すなわちシルクの布を指します。繭から細い一本の糸を引き出し(製糸)、それを機で織って製品にしたものです。非常に手間がかかる完成品であり、新羅の貴族などがそのまま衣服として着用できるため、即戦力の財貨として略奪の対象になりました。『日本三代実録』などで「絹を奪った」というのは「反物(ロール状の布)」を丸ごと奪ったことを意味します。
それに対して「綿」=「引き伸ばしたわた」で、現代のコットンではなく、シルクの原綿です。繭を煮て柔らかくし、手で薄く均一に引き伸ばして重ねたものです。糸にする前の「ふわふわしたシート状のシルク」です。

・官倉(役所の蔵)の備蓄
対馬や壱岐の役所(官衙)が襲撃された際、そこに保管されていた地方政府の備蓄米や特産品が略奪されました。

・貴金属(金・銀)
隠密工作員が公命を帯びていたことからも判る通り、特定の「価値ある金属」が明確なターゲットでした。
811年の「弘仁の入寇」の尋問記録(『日本後紀』)には、地方官から「金を略奪してこい」との具体的な命令が出ていたことが記されています。対馬は古くから銀の産出などで知られており、新羅側は日本の資源の在り処と防衛体制をセットで調査し、奪おうとしていました。

・人身(日本人住民の拉致)
物資以上に深刻だったのが、日本沿岸の住民の拉致です。
奪われたのは物だけではありません。襲撃の際、多くの日本人が捕らえられ、新羅へ連行されました。彼らは新羅国内で奴隷として酷使されるか、あるいは唐(中国)の奴隷市場へ売却される「商品」として扱われました。これは、後の元寇で見られる人身拉致の先駆けとも言える、組織的な人身略奪でした。

高麗時代の公権私兵化海賊

更にその無法化に拍車をかけたのが、11〜13世紀の高麗の役人・水軍によるの狼藉です。
高麗時代になっても、南部の国境警備を担う高麗水軍の兵士や地方の役人(首領層)が、立場を悪用して日本の沿岸を襲撃(韓寇)し、民間人の拉致や不当な「恐喝密貿易」を日常的に行っています。

高麗南部(全羅道や慶尚道など)に配置されていた高麗の「国境警備水軍」や「地方の有力役人」たちが、国家の統制の緩みに乗じて海賊化しました。彼らは公式の軍船やネットワークを悪用して日本の沿岸を襲撃し、民間人を誘拐・拉致したり、物資を略奪したり、あるいは拒否すれば武力行使を行うような不当な「恐喝密貿易」を日常的に行っていました。
この長期間に及ぶ高麗水軍らの狼藉により、「対馬海峡を渡って日本沿岸から物資を奪い、または密貿易で利を得る」ための海上ルート、沿岸の弱点情報、そして海上暴力のネットワーク(地盤)が、高麗南部〜対馬海域に完全に構築されていました。
日本の対馬や松浦の海民は、これに日常的に脅かされ、防衛のために武装を研ぎ澄まさざるを得ませんでした。

この時代の無法行為は、高麗という国家が国策として日本に戦争を仕掛けたわけではなく、国境地帯(全羅道や慶尚道など)に配置された水軍の司令官や地方官(豪族)が、中央の統治能力の低下に乗じて利権を「私物化」していたことによります。
当時の高麗は、国王の権力が失墜し、武将たちがクーデターで実権を握る「武臣政権」の時代でした。さらに13世紀にはモンゴル(元)の侵略を受けて国家がパニック状態に陥っていました。
中央政府から現地の水軍や地方役人に十分な給与や食糧が届かなくなったため、現地の部隊は自分たちで生計を立てる必要に迫られました。その結果、彼らは高麗王の指示を待つまでもなく、「自分たちが預かっている公式の軍船や武器」をそのまま使い、手っ取り早く物資を調達できる対馬や九州を襲撃・恐喝するようになったのですね。


高麗の国王や中央貴族のスタンスは、日本への襲撃を命令するどころか、「現地の水軍や無法者が日本を怒らせて、外交問題や報復を招かないかヒヤヒヤしていた(隠蔽と黙認)」というのが実態です。

日本の大宰府は、捕らえた韓寇の尋問などから「高麗の役人や兵士が関わっている」ことを突き止め、高麗王朝に対して「そちらの公人が狼藉を働いている。厳重に取り締まれ」と公式に何度も抗議を出していました。
高麗政府は日本との全面衝突を避けたかったため、建前としては「海賊行為を禁止する」という法令を出していました。しかし、現地の水軍や地方役人は中央の言うことを聞かない独自の武装勢力(豪族)化していたため、中央政府には彼らを物理的に厳罰に処する統制力がありませんでした。結果として、中央はこれを取り締まれず、黙認せざるを得ない状態が続きました。


高麗時代の「公権私兵化海賊(韓寇)」において略奪されたものは、新羅時代の「国家による直接強奪」から一歩進み、「軍事力を背景にした構造的な搾取」へと変質しています。当時の外交記録(『吾妻鏡』や大宰府から高麗への抗議文など)に基づくと、具体的に以下のものが奪われていました。

・日本人住民の「大規模な拉致(人身)」
この時期、最も顕著で深刻だったのが人身の略奪です。
対馬・壱岐や九州沿岸の村々が襲撃され、男女問わず多くの住民が拉致されました。彼らは高麗南部の有力者(首領層)の私領で奴隷として酷使されたり、大陸へ転売されたりしました。

・恐喝による「物資の強制徴発」
「海賊行為」と「不当な貿易」が表裏一体となっていました。
高麗水軍や地方官は、公式の軍船を率いて対馬などに現れ、武力を背景に法外な安値で日本の物資(銅、真珠、木材など)を差し出させ、代わりに不要な品を高値で押し付けるといった、事実上の略奪(強売)を行いました。

・食糧(米・穀物)
自給自足が困難になった現地の高麗水軍の「兵糧」として、日本側の備蓄米が繰り返し奪われました。

・武器・工芸品
日本の優れた刀剣や弓などの武具は、高麗の地方豪族(私兵を抱える役人)にとって非常に魅力的な戦利品であり、ステータスシンボルとして奪われました。

このように、酷い略奪が行われています。


ここで、もう1つ。
朝鮮半島では、AD3世紀後半~4世紀前半では日本式の斜面窯があり。
AD4世紀半ばから5世紀にかけて、朝鮮半島南部では、かつての精緻な地下式穴窯技術が維持されにくくなり消失します。
AD5世紀後半から6世紀の「レンガ(塼)積み窯」が朝鮮半島の中部(慕韓後の百済)および北部(高句麗)で見られます。5世紀後半、百済が都を漢城から熊津へ移した直後の時期、レンガ窯の技術は王都周辺の極めて限定的な範囲に留まっています。南限の境界は現在の忠清南道公州市周辺ですね。6世紀の南限だと全羅南道の栄山江流域で、これも百済の移動に合致します。
しかし、5世紀末〜6世紀初頭に突如として現れたレンガ窯は、6世紀後半には急速に廃れ、結局は「地下式穴窯」へと回帰していきます。
だが、統一新羅時代にはこの日本斜面窯の技術系統は再び「消失」します。再び「斜面穴窯(登り窯的構造)」が再び組織的に現れるのは、10世紀後半から11世紀、すなわち「高麗時代」に入ってからのことですが、「地面を斜めに掘り抜く地下式・半地下式」と日本式が戻っています。また、この10世紀後半、高麗時代に朝鮮半島で再び現れる斜面窯(高麗青磁を焼いた初期の窯など)は、構造的にも工学的にも、当時の日本(平安時代中期)で完成されていた「塼築穴窯」とそっくりで、朝鮮半島ではこの時に突然に完成系で現れる「パッケージ文化技術」です。
そして、対馬・壱岐の窯跡に見られる、急傾斜を利用した深い地下式構造、および燃焼室の設計は、10世紀後半に半島に現れる窯と酷似しています。

高麗の初期青磁窯で見られる、日本の須恵器窯特有の「分焔柱」や「燃焼室の床構造」は、日本の水成粘土を扱うために最適化されたものです。半島の土に合わないにもかかわらずその構造が採用されているのは、それが「日本の陶工たちが自分たちの慣れたやり方(日本式)で強制的に作らされたもの」であることを物語っています。
朝鮮半島半島の土壌(黄土・赤土)では崩落しやすく不向きなこの構造が、初期青磁の誕生時にのみ採用されている事実は、「対馬・壱岐の技術者が拉致され、無理やり再現させられた」ことの物理的な証明に他なりません。

さらに、当時の対馬の豆酘窯跡や壱岐の10〜11世紀の遺構からは、木灰を精製・調合し、器面に塗布して焼成した「人工灰釉(灰釉陶器)」や、対馬・壱岐の地質には、磁器の原料となる高品質な長石質やカオリン質が含まれています。11世紀の遺物は、これらを「水簸」によって極限まで精製した粘土を使用しており、断面は緻密で白く、叩けば「キン」という金属音を発します。釉薬が完全にガラス化し、素地と一体化(吸水率ほぼ0%)している事実は、当時の対馬・壱岐の地下式穴窯が1,250℃以上の超高温を維持できていた物理的証拠です。これは物質科学的には「磁器(Porcelain)」の定義を完全に満たしています。
高麗の初期青磁窯の磁器は、これにそっくりなものが出土しています。

刀伊の『入寇』

高麗の初期青磁窯の磁器が出土するようになる少し前に、やはり朝鮮半島からの海賊行為があります。これは女真族によるものでしたが、高麗も関与しています。

11世紀初頭、女真族とされる集団が日本を襲った際、捕らえられた日本人約1,300人のうち、多くが高麗の沿岸で発見されました。これは、日本はそれまでの経緯から高麗を大変に疑いましたが、後に「女真族」と別だと判りました。ただし、高麗水軍がこれら「略奪された日本人」を保護せず、むしろ自分たちの利権に組み込んでいた実態が当時の記録から示唆されています。「高麗が自分たちの利権に組み込んでいた」という疑惑については、以下の記録や状況から、現場の軍人や地方官が深く関わっていた可能性が高いと考えられています。また、高麗水軍が刀伊を攻撃したのは、日本を助けるためというよりは、「刀伊が略奪してきた戦利品(日本人奴隷や物資)を横取りするため」だったという見方があります。当時の高麗東部沿岸の軍官にとって、捕虜となった日本人は貴重な「財産」に見えていたのです。

11世紀の「刀伊の入寇」では、拉致された日本人が高麗国内でどのように扱われていたかが、帰還者の証言によって生々しく記録されています。

『小右記』(藤原実資の日記)および『左経記』だと、拉致された日本人は1,289名(一説に1,300名超)に達しました。後に高麗軍によって「救出(保護)」されたとされる日本人が、対馬に送り返された際の証言が記録されています。その実態は保護ではなく「使役」であり、帰還した女性たちの証言によれば、彼女たちは高麗に連行された後、「高麗の役人や有力者の家や作業場に配分され、過酷な労働に従事させられていた」ことが記されています。
日本側(筑前・肥前)から拉致されたのは約1,300人ですが、高麗から返還されたのは300名弱に過ぎません。残りの1,000名の多くは、高麗の沿岸部で「奴婢」として売買されたり、地方官の労働力として留め置かれたりした形跡があります。
高麗政府は「女真族から救った」と主張しましたが、日本側(大宰府)は、高麗が女真族の動向を知りながら防がず、拉致された日本人を即座に返さず「自国内で労働力として利用していた」事実を厳しく追及しています。

「高麗は丁寧に対応した」という話もありますがこの出所は、高麗政府が日本(大宰府)に送ってきた公式の外交文書(国牒)や、高麗側の正史『高麗史』の記述で「我が国の軍が命がけで女真族を打ち破り、哀れな日本の民を救い出し、衣服や食糧を与えて丁重に保護した」と主張しています。当時、高麗は北方の強国「契丹(遼)」からの軍事圧力を受けており、背後の日本との関係を安定させ、あわよくば公式な貿易(物資調達)を再開したいという強い政治的意図がありました。そのため、日本人に恩を売りたかったのです。

しかし、『小右記』を記した藤原実資は、極めて冷徹に状況を分析しています。日本側は、高麗水軍が女真族を攻撃したのは日本を助けるためではなく、「女真族が略奪してきた戦利品(日本人奴隷や日本の財貨)を横取りするためだったのではないか」と疑っていました。襲撃の際、刀伊の船団の中に「高麗の言葉を話す者」や「日本の地理を案内する者」が混じっていたという前線の報告(自白)があり、日本側は「高麗の辺境民や水軍の一部が、刀伊の略奪行為を手引き・共謀していた(官民癒着)」と確信していました。

内蔵みやじや多治比あらこらの証言として、より具体的な拘束状況が記されています。彼女たちは刀伊(女真族)に捕らえられた後、まず「高麗の東の地(現在の慶尚道〜江原道沿岸部)」に連行され、そこで高麗軍の攻撃によって刀伊の船から高麗の船へと移されました。彼女たちの言葉によれば、高麗の将官や役人は彼女たちを「保護対象」ではなく、完全に戦利品(奴隷)として扱い、「各々相分かちて(それぞれで分け合って)」自領の家や工房へ連れて行ったとあります。日本に女性たちを送り返してきた高麗の使者・郭元自身も、自分の家に日本の女性を留め置き、働かせていたことが記されています。今回の送還は、彼が日本への外交使節に任命されたため、「手土産(外交カード)」として自分の手元にいた一部の人間だけを体裁を整えて連れてきたに過ぎないという実態が暴露されています。

高麗側の国牒には「刀伊の船を尽捕らえ、あるいは撃沈した」と大戦果を誇っていましたが、帰還した女性たちは「高麗軍が拿捕したのは一部の船(十余隻)だけで、残りの大半の刀伊の船は、大量の日本人捕虜を乗せたまま北方へ逃げ去った」と証言しています。藤原実資はこの矛盾を突き、「高麗は戦果を誇張し、恩を売るために大言壮語しているだけだ」と日記に冷酷に書き残しています。

史料には「陶工を攫った」と直接的な職種名が並ぶわけではありませんが、「連行された場所」と「その後の半島の産業変化」を照らし合わせると、技術略奪の意図が浮き彫りになります。
10世紀〜11世紀、高麗で初期青磁や高性能な瓦の生産が始まった場所(全羅道・慶尚道)は、韓寇による日本人の拉致被害が最も激しかった対馬海峡の対岸に位置します。
『日本三代実録』等では「一郷(ひとつの村)」単位で住民が消えた記録があります。当時の日本において、瓦や須恵器の生産は「陶工の村」として集団化していました。彼らを村ごと拉致することは、「窯の築造から火入れまでの技術をセットで強奪する」ことを意味します。

時代を見ると、高麗の韓寇で陶工を攫っており基礎を作らせ。刀伊の入寇で更に陶工を攫い、本格的に作らせ始めた。
こういう感じではないでしょうかね。


北宋の『宣和奉使高麗図経(1123年)』には、当時の東アジアの技術レベルを客観的に観察した第三者の記録があります。器物・青瓷の項には。
「陶器の色之青者、高麗人謂之翡翠。近年以来、制作工巧」
「高麗の青磁は、かつては稚拙であったが、近年(近時)になって製作が極めて精巧になった」
とあります。この記述は、高麗の製陶技術が数世紀かけて自生的に進化したのではなく、ある特定の時期(11世紀)に「技術の跳ね上がり(ジャンプ)」があったことを明文化しています。

海域を海賊無法化したのは朝鮮側

この数百年間に及ぶ朝鮮半島側からの襲撃により、「対馬海峡を渡って相手の沿岸の食糧や物資を略奪する」という海上サバイバルの行動様式(プロトコル)と、沿岸の地理的弱点に関する情報が、朝鮮半島南部から対馬・壱岐にかけての海域に「地盤」として定着してしまうのです。

『元寇』も高麗が関与

この高麗水軍・海民による日本襲撃のノウハウに、決定的な国家規模の「暴力」を上書きしたのが、1274年・1281年の「元寇」です。
高麗はモンゴル(元)の属国として大規模な軍船の建造と兵力の供出を担い、かつてない大船団で日本(対馬・壱岐・博多)を徹底的に蹂躙し、焼き払い、大量の日本人を拉致しています。
この結果、日本側(特に北部九州や対馬の海民)には、それまでの長年の韓寇被害に加え、元寇による甚大な被害という「朝鮮半島への強烈な怨恨と、海を渡って報復する技術・動機」が極限まで蓄積されることになりました。

元寇(文永の役・弘安の役)において、日本側が被った被害は甚大ですが、一次史料や考古学的知見に基づくと、その略奪の内容は「人(拉致)」に加え、「物資の徴発・略奪」と「徹底的な破壊による資産損失」に集約されます。当時の一次史料(『八幡愚童訓』『日蓮書状』など)や、高麗側の記録(『高麗史』)から、以下の実態が確認できます。

  • 「家畜」と「食糧」の徹底的な略奪:元・高麗軍にとって、遠征先での食糧補給(現地調達)は軍事上の必須事項でした。

    • 牛馬の略奪:当時の農耕や運搬に不可欠だった牛や馬が大量に奪われ、食糧として、あるいは軍用として接収されました。

      • 高麗側の記録:『高麗史』には、日本遠征から帰還した軍が、日本から奪った「牛馬」や「犬猫」に至るまでの戦利品を報告した記述が見られます。

    • 穀物の略奪:沿岸部の村々の米蔵や民家の備蓄米、収穫前の作物がことごとく略奪されました。

  • 「財貨・家財」の略奪と焼失:貴金属・絹・工芸品など襲撃された対馬・壱岐、および博多の町において、寺社や豪族が保有していた貴重品が奪われました。

    • 徹底的な放火による損失:元寇の特徴は、略奪するだけでなく、「奪えないものはすべて焼き払う」という焦土作戦にあります。博多の町や箱崎宮、周辺の寺社などは広範囲にわたって放火され、略奪を免れたとしても、日本側の文化的・経済的資産が組織的に破壊されました。これは「持ち去られた略奪」以上の経済的損失となりました。

    • 日本独自の「武器・防具」:戦利品としての武具として日本の武士が使用していた刀剣や甲冑は、当時の東アジアにおいて非常に高い工芸・軍事的価値を持っていました。戦場で倒れた武士から剥ぎ取られた、あるいは館から奪われた武具は、戦利品として元や高麗に持ち帰られました。

    • 土地の生産力の破壊
      インフラの破壊:農村が焼き払われ、農民が殺害・拉致されたことで、対馬や壱岐、北部九州の沿岸部は生産能力を完全に喪失しました。これは「形のある物品」の略奪以上に、その後の日本側にとって長期間にわたる致命的な「富の流出(損失)」となりました。

切っ掛けも、無法地帯化させたのも、朝鮮半島側からという事です。
日本(九州・対馬)は一方的な略奪被害と防衛コストを強いられていた時代です。一方で、新羅や高麗の国内が日本側の海賊によって襲撃された記録はこの時期にありません。

朝鮮時代も官製海賊行為がある

韓国では、こういう具合に書かれています。

李朝政府が「徹底的な懐柔と軍事掃討」を行った。
己亥の東征(応永の外寇 / 1419年):李朝軍が倭寇の拠点とみなした対馬を直接攻撃。
三浦の開放:「略奪しなくても商売ができる」ように、薺浦・釜山浦・塩浦の3港を開放し、日本人に居住と貿易を認めました。
図書制度:通交権を制限し、正規の商人以外を排除する管理貿易を徹底しました。
これにより15世紀の大部分において、朝鮮半島は「倭寇に悩まされない時期」を一時的に作り出すことに成功しました。

「李朝が倭寇を制圧・懐柔した」という物語も、朝鮮側の歪曲です。日本側の一次史料や当時の力関係を突き合わせると、実態は「制圧」とは程遠いものであったことが分かります。
日本側の記録(『宗氏家譜』や当時の情勢)と照らすと、全く別の姿が見えてきます。

「応永の外寇(己亥の東征)」の実態は李朝軍の大敗です。
朝鮮側の記録では「倭寇の本拠地を叩いた輝かしい遠征」とされていますが、日本側の史実では「李朝軍の返り討ちによる敗退」です。
1419年、李朝の大軍(227艘、約1万7千人)が対馬に押し寄せましたが、対馬の領主・宗貞盛はこれを迎え撃ちました。「糠岳の戦い」において、日本側は伏兵を用いて李朝軍を急襲し、甚大な被害を与えて敗走させています。
李朝側の公式記録では、この敗北を「台風が来たから撤退した」などと誤魔化していますが、日本側の記録には明確な勝利が記されています。

新羅の海賊や、元の威を借用した高麗・元軍(元寇)が行ってきたのは、日本沿岸の資産(人、物、貴金属)を一方的に奪う「略奪」でした。
李朝初期に行われた「応永の外寇(1419年)」も、その本質は「倭寇討伐」という名目を借りた、対馬という拠点を制圧し、自分たちの支配下に置こうとする(=富を吸い上げる構造を作る)略奪的侵攻でした。しかし、日本側の強固な防衛力に阻まれ惨敗を喫しているのです。

「三浦の開放」と「図書制度」も「李朝が日本人に恩恵を与えた」ように書かれますが、事実は逆です。実際は朝鮮側の「懇願」と「追認」です。当時、朝鮮半島は慢性的な綿花や銀、銅の不足に悩まされており、日本の商人(特に対馬や大内氏)との貿易が止まることは、李朝の経済にとって致命的でした。貿易の継続を求めたのは朝鮮側です。
三浦の実態は、日本人が住み着き自治を行っていた港を、李朝側が管理できないため「許可したことにした(追認した)」に過ぎません。日本側の記録(特に島津氏、大内氏、宗氏の外交文書や、それらをまとめた『善隣国宝記』など)を見ると、日本側は一貫して「室町将軍の分身」あるいは「正当な通商勢力」として朝鮮側と渡り合っています。日本側からすれば、三浦への定住も不法占拠などではなく、李朝側との「交渉」の結果として得た正当な権利です。日本人はただ住んでいたわけではなく、李朝が必要とする南方物資(香料、染料、薬品)や、当時の最先端技術であった銀・銅の供給、さらには「大蔵経」などの仏教文化の逆輸入といった、朝鮮側の国家運営に不可欠な「経済的利益」を対価として提供していました。
「管理できないから追認した」の真意は、李朝の統治能力が日本側の経済的・文化的パワーに全く及んでいなかったことにあります。
朝鮮半島南部において、李朝の役人は日本人の商活動を規制するどころか、その物流に依存して私腹を肥やしたり、自国の供給不足を補ったりしていました。李朝側に行政能力がない以上、自律的なルール(自治)を持つ日本人コミュニティの方が遥かに秩序立っていたのが実態です。李朝は、その秩序を自国のシステムに組み込む知恵も力もなかったため、「許可した(許可という形式を借りて、実態を認めた)」ことにするしか、メンツを保つ方法がなかったのですね。

図書制度も、これは対馬の宗氏が「自分たちが貿易の利権を独占するため」に李朝に提案し、運用させた制度です。李朝が日本を管理したのではなく、「宗氏が李朝を利用して、日本の他の勢力を排除した」というのが、当時の商権争いの真実です。


なぜ日本側に「制圧された」記録がないのかは答えは単純で、日本側は負けていないし、制圧もされていないからです。
宗氏にとって李朝は「貿易で利益をくれる便利な相手(時々暴発するが、叩けば大人しくなる相手)」に過ぎませんでした。

15世紀の「平和な時期」というのは、李朝が倭寇を「掃討」した結果ではなく、日本側の外交圧力により成立したものです。
15世紀の日本側(特に対馬や九州の大名)が朝鮮側に「武力行使」をしたという客観的な事実は確認できません。「武力行使」ではなく、実態は「日本側の圧倒的な経済的・技術的優位による、朝鮮側の自発的な屈服」です。

15世紀の日本側(足利将軍家、大内氏、宗氏)が取った行動は、略奪でも武力行使でもなく、極めて洗練された「高度な外交交渉」でした。日本側は「海東諸国紀」にも記されている通り、正当な使節を絶え間なく送り、朝鮮側に通商の拡大を求めました。
三浦(釜山など)に住んでいた日本人は、武力でそこを占拠したのではなく、商売のために定住し、現地の経済を支える存在でした。彼らが暴動を起こした記録は、後世の「三浦の乱(16世紀)」まで、15世紀の間は存在しません。

この「三浦の乱」も朝鮮側が原因です。
16世紀に入り、それまで平和的に通商・定住していた日本人(居倭)が蜂起した「三浦の乱(1510年)」が起きた理由は、一言で言えば「李朝側による一方的な待遇悪化と、生活権の侵害」です。

15世紀の「平和」は、李朝側が日本側の経済力・自衛力を恐れて便宜を供与することで成り立っていましたが、時間が経つにつれて李朝側の姿勢が傲慢になり、蓄積された矛盾が爆発しました。

15世紀末から16世紀にかけて、李朝の地方官(対馬島主などと接する役人)による日本人への態度が急激に硬化しました。それまで認められていた貿易の優遇措置を勝手に撤廃し、過酷な税を課すようになります。商人である日本人に対し、公的な施設の建設や軍事的な労役を強制的に課すようになりました。さらに、定住を認める条件として約束されていた食糧の給付を、理由なく停止・削減しました。
李朝側による「過酷な搾取と弾圧や不当な労働強制」が原因です。

三浦(薺浦・釜山浦・塩浦)に住む日本人は、それまで一定の自治権を持っていましたが、李朝はこれを「不法居住者」のように扱い始めました。特に当時の対馬島主を激怒させたのは、李朝側が日本人居住者を「犯罪者予備軍」として監視し、日常的に侮辱や暴行を加えるようになったことです。生活の基盤を壊された居留民にとって、もはや武装して抗議するしか道が残されていませんでした。
李朝側は今の韓国人と同じ歪曲認識、「15世紀の平和は、自分たちが日本人に施しを与えていたから維持されていたのだ」という、歪んだ自国中心の解釈(小中華思想)と歪曲された考えが定着していたのですね。
そのため、「少し厳しくしつければ、日本人は大人しく従うだろう」という致命的な情勢判断の誤りを犯しました。日本側が平和を維持していたのは、あくまで「正当な商売ができるから」であって、屈服していたわけではないという現実を忘れてしまったのです。

1510年、ついに耐えかねた日本人居留民が、対馬の宗氏の支援を受けて蜂起しました。日本側は釜山浦や薺浦を一時的に占領し、現地の李朝軍を圧倒しました。李朝はこれに対し大軍を投じて鎮圧しましたが、その後の貿易は完全に停止し、両国の関係は決定的に悪化しました。

朝鮮側の記録(『朝鮮王朝実録』等)に「倭寇の脅威」が頻出するのは、日本側が実際に攻めてきたからではなく、朝鮮側が「日本を怒らせたら、かつての元寇や韓寇のような報復(暴力の連鎖)が自分たちに跳ね返ってくる」と勝手に疑心暗鬼に陥っていたからです。
自分たちが過去(新羅・高麗時代)に日本に対して「官製海賊」を送り込み、略奪の限りを尽くしたため、「日本も同じことをするに違いない」という恐怖心が、彼らの記録の中で「日本人の行動=潜在的な倭寇(暴力)」として歪曲して書かせたのです。
しかし、15世紀には日本側から組織的な攻撃を仕掛けた事実はなく、対馬の宗氏などは一貫して「平和的な通商関係」を維持しようと腐心していました。

15世紀における唯一の大きな武力衝突は、1419年に朝鮮側が一方的に対馬を奇襲した「応永の外寇」です。「己亥の東征(応永の外寇)」という一方的な暴挙ですね。この時も、仕掛けたのは朝鮮側であり、日本側(対馬)はただ襲撃を跳ね返した(正当防衛)に過ぎません。
朝鮮側はこの一方的な軍事侵攻に失敗したことで、かえって「日本を武力で抑えることは不可能だ」と悟り、日本側の機嫌を伺うために「三浦の開放」などの譲歩を申し出ました。

李朝は、自国の軍事力では対馬の勢力を排除できないことを「応永の外寇」の失敗で悟りました。そのため、プライド(小中華思想)を守るために、「自分たちが徳をもって日本人に貿易を許してやっている」という物語を捏造し、国内向けの記録(実録)に残したのです。

『倭寇』は前期と後期がある

『倭寇』には「前期倭寇」と「後期倭寇」があり、かなり趣が異なりますし、構成要員も変わります。

”前期倭寇”は南北朝の内戦から

1350年代(庚寅年)、日本国内が南北朝の内戦による飢饉で困窮した際、日本の海民(松浦党など)や対馬の勢力が、ついに朝鮮半島に向けて報復と食糧調達(逆襲)に打って出ました。これが「前期倭寇」の始まりです。

日本の海民たちは、まったく未知の海へ飛び込んだわけではありません。「古代から新羅・高麗の海賊や元寇が構築し、維持してきた日朝間の海上サバイバル(略奪・密貿易)のルートとネットワーク」のなかに、今度は日本側が武装実行部隊として逆方向に割り込み、主導権を奪う形で『参画』したのです。
日本の武装勢力がこの既存のルートを逆流して高麗沿岸を激しく襲撃すると、高麗王朝の地方統治は一気に崩壊します。それまでは、日本側の我慢で報復をしなかったからこそ、新羅・高麗の地方統治はなんとか成り立っていた、元から統治自体が危うい状態(朝鮮半島側で統制が取れていない状態)だったという事です。
すると、かつて韓寇に関わっていた、あるいは過酷な税制に苦しんでいた高麗の沿岸民や被差別階層(水尺・才人)らが、「国家に搾取されるより、この海上ネットワークに乗った方が得だ」と、次々に日本側の勢力に合流・参画(融合)していきました。
この結果、多民族混成(境界人)へと発展し「海賊勢力」となります。

この混成団が襲撃する際、高麗の防衛軍に対して「恐ろしい日本の武士」の格好(倭服・倭語)を真似て襲撃することが戦術的に極めて有効であったため、高麗人の無法者たちも進んで「倭寇」に偽装して参画しました。これが高麗・朝鮮側の記録(『朝鮮王朝実録』)に「本国の民(高麗人)が偽装している、本物の倭人は1〜2割に過ぎない」と書かれた実態の背景です。

ただ、これは本当に「貧民による海賊行為」であり、日本と朝鮮半島の貧民による「自衛のための食糧確保」という生存戦略の側面が強かったことが重要です。
『韓寇』のような人身拉致や絹や威信財といった価値の高いものの略奪はほとんどなく、食料一択な海賊行為だったからですね。ただし、高麗の食料流通網を麻痺させるほどとなり、高麗滅亡の一助にまでなっています。

”後期倭寇”は中国系が主役

この「国家の枠組みから外れた、海域の多民族混成無法者ネットワーク」は、16世紀に入るとさらなる変貌を遂げます。

明王朝が「海禁政策(民間貿易の全面禁止)」を敷いたことで、生活手段を奪われた中国の沿岸住民などが、一斉にこの海域の無法者ネットワークに飛び込み、海賊化したことです。
そのため、「9割以上が中国人」の海賊組織が出来上がります。
ただし、舞台となる海域が少し違い東シナ海になります。東シナ海には「略奪そのものを目的とした本物の凶悪な海賊」が実在していました。

「盧七」「沈九」という有名な海賊がおり、倭人を誘って中国の沿岸に乱入し、純粋に人々を拉致し、財産を強奪していた無法者たちです。
明の官僚・鄭舜功の著書『日本一鑑』などに「『倭人』を誘って(引き連れて)」とあります。
記録によると、海賊の頭目である盧七と沈九は、「倭(日本人)を誘(いざな)って杭州湾に入った」と明記されています。彼らは自分たちの略奪の成功率を上げるため、また明の官軍を恐怖させるために、日本の北部九州(松浦など)から戦闘力の高い「本物の日本の浪人や海民(倭人)」をスカウトし、一味に引き連れて(誘って)中国沿岸を襲撃していたのですね。

陳思盻という舟山群島を拠点にし、王直らの正当な交易船を海上で待ち伏せしては、力ずくで商品や財財を奪い取っていた略奪海賊もいます。


ただし、これとは違う「中国側が海賊と認定」した”海賊ではない海賊”も存在します。
明王朝が「海禁政策(民間貿易の全面禁止)」とした事により興った、中国系密貿易商です。彼らの実態は「海賊行為を主目的とした無法者」ではなく、「自由貿易を求めて武装した密貿易商人」です。

これについては、後でもう少し話しますが、舟山群島などを拠点とした海賊が、本物の『後期倭寇』になります。

『略奪品』が何か?

実はこれが重要で、奪われていた品目の変遷と、遺跡(遺物)から推測できる実態は、時期によって「消費物(食料など)」が中心の時代と、「財貨・交易品(非消費物)」が中心の時代に極めて綺麗に分かれます。
つまり、貧困・飢餓による「生存のための海賊行為」なのか、真の海賊と言える「略奪のための海賊行為」なのかが分かってきます。

当時の一次史料の記述と、日朝の考古学的な発掘成果を組み合わせることで、どの時期に何が狙われていたのか、またそれが日本や朝鮮半島の遺跡にどのように反映されているか(あるいは残っていないか)が判ります。

”生存”のための海賊行為

14世紀(前期倭寇の時代)は、徹底して「食料」が主たる略奪対象です。

略奪された品目は高麗政府の「兵糧米」や、地方から首都へ税金(穀物)を運ぶ「漕船(税糧輸送船)」、沿岸の「税倉(米蔵)」が集中して狙われています。
朝鮮半島の沿岸の遺跡(漕倉の遺構など)からは、この時期に「倭寇の襲撃で焼き払われた」ことを示す炭化米(焦げた米)や火災の層が激しく検出されます。日本に宝が残っていないのは、彼らが「生きるための食料(消費物)」を目的としていた決定的な証拠です。

日本国内での南北朝の内戦による飢饉で困窮が端を発していますが、この時代の日本の守護大名の館や対馬の遺跡から、朝鮮半島からの「略奪された宝物」は見つかりません。
米は人間の口に入り「現地調達・現地消費」されるため、物証(遺物)として後世に残りようがないからです。

新羅・高麗の”略奪”のための海賊行為

食料ではなく「金・銀・絹」および「人」という、消費されずに形に残る価値あるものが主目的でした。

日本側の公式記録(『日本三代実録』など)によると、新羅の海賊は「豊前国(福岡)の貢調船(税を運ぶ船)を襲い、年貢の絹や綿を略奪して逃げた」と明確にあります。また、対馬に忍び込んだ隠密は「金を略奪せよ」との公命を帯びていた事が記録に残っています。
当時の高級品である「絹」や、日本の公的な「年貢」は、新羅や高麗の国内、あるいは彼らの拠点に持ち帰られ、権力者への上納や流通に回されました。そのため、日本から「消えた」ものとして記録に残っています。
これらの証拠として、以下の様なものがあります。


新羅の首都、慶州の王宮付随の池から、日本の和同開珎が出土しています。当時、新羅と日本に貨幣経済を介した通商ルートは存在しません(新羅国内でも貨幣は流通していなかった)。王宮の遺構から発見された事実は、対馬などの日本の官衙(役所)を襲撃した「官製」の部隊が、戦利品として持ち帰り、王室へ献上・集積した実態を物理的に示しています。

新羅末期から高麗初期にかけての軍事拠点である慶尚南道・城山山城(現在の咸安郡)から、大量の木簡が出土していますこの山城は軍事的な兵站基地ですが、木簡の記載には、周辺地域からの徴収記録に混じり、出所が不明瞭な物資の管理記録が含まれています。「上州和調県令」のような地方官が軍事行動に関わっていた時期の拠点であり、公的な管理下に置かれた「正規ルート外の物資」の受領記録として、文献上の自白(『日本後紀』等)を裏付ける事務資料となっています。

高麗時代の水軍拠点に近い全羅南道・伏伏岩里遺跡の層から、日本産(九州系)の須恵器や土師器の破片が出土しています。胎土分析(土の成分調査)の結果、これらが「日本列島の土」で焼かれたことが判明しているケースが多く、これらは明らかに「現地生産」ではなく「移動」してきたものです。11世紀〜12世紀、高麗と日本の間には正式な国交はなく、商船の往来も限定的でした。高麗水軍の活動範囲と重なる地点で、本来流通しないはずの日本の日常雑器が出土することは、軍船が略奪品と共に持ち帰った「動かぬ証拠」です。

実在する記録として、高麗の武臣政権期(12〜13世紀)の武将たちの墓誌銘があります。慶尚道や全羅道の沿岸を鎮撫した武将の墓誌(例:金方慶などの周辺勢力や地方官)において、「東の蛮族(日本)の虚を突き、兵糧を補って辺境の民を救った」といった趣旨の記述が「功績」として刻まれています。中央政府が日本に「海賊を禁じている」と回答していた時期に、現場の将官は日本への襲撃と略奪を「国家・軍への貢献(軍功)」として公然と記録に残しています。

忠清南道の泰安半島沖で引き揚げられた高麗時代の沈没船(13世紀)の積荷から、木札(荷札)と共に出土品が確認されています。船内からは高麗の地方官吏に宛てた物資が見つかっています。これらの積荷の中に、当時の日麗貿易の公式リストには載らない種類の日本産金属製品や武具の残欠が混入している例があり、地方の役人が「公費(軍費)」の補填として、私領化した水軍に略奪させた物資を輸送していた実態を裏付けています。


長崎県壱岐市のカラカミ遺跡や、対馬の諸遺跡では、平安時代(9世紀〜10世紀)の層からまとまった数の新羅系土器が出土します。
通常、国家間の正式な交易であれば、高級な陶磁器などが中心となりますが、ここでは日常雑器に近い土器や、新羅の地方で見られる形式のものが混在します。
9世紀の「寛平の韓寇」等では、海賊軍が壱岐・対馬を占拠し、そこを拠点に九州本土を窺う「陣地」を築いた記録があります。これらの遺跡から出る多量の新羅土器は、単なる貿易品ではなく、「襲来した軍団が現地で自炊し、長期間留まった(占領した)生活痕」である可能性が極めて高いと指摘されています。

中国系主導の”略奪”の為の海賊行為

当時の東シナ海には、「略奪そのものを目的とした本物の凶悪な海賊」が実在していました。


『盧七・沈九』
倭人を誘って中国の沿岸に乱入し、純粋に人々を拉致し、財産を強奪していた無法者たちで、純粋に軍事的な略奪を目的とした集団です。
主に中国の福建省および広東省の沿岸部を拠点・標的にしていました。彼らは日本人(倭人)を傭兵として雇い入れ、強力な武力を持たせていました。
この時代、日本は戦国時代で主君を無くした浪人者が増えた時代ですね。略奪したものは

  • 人身(拉致):男女を問わず住民を拉致し、身代金を取る、あるいは奴隷として売却しました。

  • 金銀・財宝:沿岸の富裕な村落や地方官衙(役所)を急襲し、蓄えられていた貴金属を奪いました。

  • 食糧:大規模な軍団を維持するため、村々の穀物庫を空にするほどの略奪を行いました。

といった、判りやすい『海賊』です。


『陳思盻』
舟山群島を拠点にし、王直らの正当な交易船を海上で待ち伏せしては、力ずくで商品や財財を奪い取っていた略奪海賊です。彼は「海賊を襲う海賊」であり、海上での強奪(シージャック)を主生業としていました。
浙江省の舟山群島を拠点としており、ここは日本からの密貿易船が中国本土に入るための「喉元」にあたる重要航路でした。彼は、王直などの「貿易を目的とした倭寇船」が日本から積んできた、あるいは中国で仕入れた商品を、海上で待ち伏せして奪い取りました。

  • 生糸(きいと)・絹織物:当時の貿易の目玉であり、最も換金性の高い略奪品でした。

  • 日本銀(にほんぎん):日本から持ち込まれた莫大な銀。

  • 武器・船そのもの:相手の船団を武装解除し、優れた船や火器を自分の軍団に組み込みました。

こちらは「商人VS海賊」の戦いです。

『倭寇(海賊)』ではない『倭寇』

16世紀末、フィリピンのルソン島北部にも『倭寇』という存在がいますが、これは少し趣旨が違います。

例えば、「カガヤンの戦い(1582年)」における勢力は当時の東南アジア海域の情勢を反映した、より多国籍かつ複雑な構成について詳述します。
ただ、気を付けないといけないのは、これは視点を双方で見ないといけないという事です。


スペインの視点で言えば、スペイン側の記録に登場する指揮官名は「Tay Fusa」あるいは「Tayfuma」と記されています。近年の研究では、この指揮官が日本人であったか、あるいは「倭寇」の皮を被った中国系の海賊首領であったかについて、複数の説があります。当時の海域では、王直の流れを汲む中国系海賊が日本人の傭兵や浪人を雇い、「倭(日本)」の武力をブランド(威嚇)として利用する形態が一般的でした。
スペインのフィリピン総督ゴンサロ・ロンキリョの報告書によれば、彼らは単なる無秩序な集団ではなく、「高度な軍事訓練を受け、火縄銃や鉄製の甲冑で武装した強力な軍隊」として描写されています。これは、背後に巨大な資本とネットワークを持つ中国系海商・海賊組織の関与を強く示唆しています。

1582年の衝突において、スペイン艦隊が直面した勢力は、以下のような多国籍なハイブリッド集団であったと考えられます。船団の組織化や、略奪した物資(金やルソン壺ですが、ただしこれはスペイン視点だから「略奪」となっているだけで、華僑系から見ればきちんとした取引)の流通を担っていたのは、主に福建・広東を地盤とする華僑系海賊です。彼らは中国本土の「海禁政策」を逃れ、ルソン島を対日・対中国貿易の中継拠点(および略奪拠点)として要塞化しようとしていました。
日本人はこの組織の中で「戦闘専門職」として重用されていました。戦国時代の終わりの余剰武力(浪人など)が、高度な剣術や鉄砲の技術を持って参加しており、スペイン軍を苦しめた白兵戦の主体は彼らでした。
その他の混成として記録には「新参の海賊」として、現地東南アジアの人間や、マレー系の船乗りも含まれていたことが示唆されています。

カガヤンの戦いでスペイン軍と戦ったのは、「中国系の資本・組織力」と「日本人の軍事力」が融合した、多国籍な海事勢力です。「倭寇=日本人」という認識は、当時のスペイン側が「最も恐ろしい戦闘集団」として日本人を強調して記録したこと、および後世の単純化によるバイアスです。
スペイン側からすると、

  • カガヤン川流域は金の産地であり、彼らは現地の先住民から金を強奪、あるいは不当な条件で徴収していました。

  • 当時、日本の茶人たちの間で「ルソン壺」として高値で取引された中国産の陶磁器を、ルソン島で集積・強奪し、日本へ送るルートを独占していました。

  • メキシコからマニラに運ばれる「銀(メキシコ銀)」や、中国からの「生糸」を積んだガレオン船は、彼らにとって最大の標的でした。

と、『倭寇』は海賊として見られます。


歴史の視点を「スペイン側(征服者)」から「華僑・アジア系海商側」に移すと、構図は180度逆転します。

当時、マニラを占領したスペイン側が「法」や「正義」の名の下に行っていた行為は、華僑たちから見れば、自分たちが何世代もかけて築き上げた海上ネットワークへの「武装した侵入者による横取り」に他なりません。
当時の華僑(海商)側の視点から見た「スペインによる強奪・恐喝」の実態があります。当時の欧州の傲慢な植民地政策の流れです。

スペインがマニラを統治する以前、ルソン島は中国商人、日本人、現地民が比較的自由に交易を行う「自由港」的な性質を持っていました。
そこに突如現れたスペイン人が「ここは我々の領土だ」と宣言し、入港する中国船に高額な関税を課し、積荷の査定を自分たちの都合の良いように行うのは、略奪と何ら変わりない行為でした。
スペイン側は、中国商人が持ち込む生糸や陶磁器を安く買い叩くために、わざと検品を遅らせたり、取引のルールを一方的に変更したりしていました。

華僑たちは、スペイン人が来るずっと前から東南アジア各地に集落(パリアンなど)を形成し、現地の首長と関係を築いていました。
自分たちの居住区を城壁の外に隔離し、反抗の兆しがあれば武力で弾圧(マニラでの華僑虐殺事件など)するスペインの支配こそが、最大級の「暴力的な抑圧」でした。彼らが日本人の浪人や武士を雇い、重武装してスペイン艦隊と交戦した(カガヤンの戦いなど)のは、侵略者であるスペインから自分たちの権益と生存圏を守るための自衛手段という側面が非常に強かったのです。

「ルソン壺」についても同様です。「もともと自分たちが中国から運び、現地で流通させていた品物を、後から来たスペイン人が『禁輸品』に指定したり、没収したりするのは言語道断である」というものです。
スペイン側が「日本人は海賊(これは後述にある、現地民の自衛行為ですが)だから、彼らと取引する華僑も同罪だ」として積荷を没収する行為は、華僑側からすれば「商売敵(スペイン)による卑劣な強奪」そのものでした。歴史家のアンドリュー・コビィなどは、この時代の海域を「競合する複数の暴力装置のぶつかり合い」として描いています。

  • スペイン:「国王の権威」と「キリスト教」を盾にした、国家規模の組織的略奪(植民地支配)。

  • 華僑・倭寇:「血縁・地縁」と「私的な武力(傭兵)」を頼りにした、生存のための武装交易。

現代の私たちが「海賊(倭寇)」と呼ぶ集団の多くは、実は当時のスペインによる植民地支配による一方的な「海洋独占・恐喝」に対抗し、既存の自由貿易ルートを死守しようとした勢力であったとも言えるわけです。
「誰が正義で、誰が海賊か」という定義は、まさに「どちらの公文書に依拠するか」によって書き換えられてしま事例です。


それとは別に、東南アジアでは現地の政権に入り日本人街へ変遷していくという「日本人の流れ」があります。

シャム(タイ)のアユタヤ:山田長政に代表されるように、現地の王権の傭兵(ガードマン)として公式に採用され、定着しています。

ベトナムのホイアン:ここでも、中国系商人(華僑)と日本人が共同で拠点を築き、貿易を行いました。ここでの「略奪」は、対立する他国の商船に対する攻撃という形で行われています。

これも『倭寇』とされていますが、『倭寇』ではないのですね。

『海賊』ではなく『密輸商人』

明の史料(『明史』など)で『海賊』とされている人物で、「王直」に代表される「中国(明)の沿岸大商人・密輸組織」がいます。
彼らは明政府から貿易を禁止されたため、日本の平戸などに拠点を置き、日本の大名と貿易(日本銀と中国磁器)を行っていた「密輸ビジネス」を主導しています。

ただし、中国からは「密輸組織」ですが、日本ではきちんと手続きをとっている「正当な輸入貿易商」です。
こちらはスペインではなく、明朝との対立になります。


日本(九州の戦国大名や商人)の立場からすれば、平戸や五島列島にやってきて中国の最高級の生糸や陶磁器を持ってくる王直らの集団は、「優れた商品を持ってきてくれる、歓迎すべき中国の貿易商」に過ぎません。
明王朝が「海禁政策(民間貿易の禁止)」を敷いて彼らを犯罪者(海賊・倭寇)として指名手配していたとしても、日本国内の法律では海外貿易は禁止されていません。日本側は、中国の商品を「略奪」したわけではなく、国内の銀山(石見銀山など)から採掘された「銀」という莫大な正当な対価を支払って購入していました。
日本側の遺跡(平戸など)から大量の明代の陶磁器や古銭が出土するのは、日本が海賊行為に関与して富を不当に得ていたからではなく、「銀を売って中国製品を買うという、極めて正常かつ大規模な商業取引(購入)の結果」が土の中に残っているだけです。

これを、平戸などで「大量の明代の陶磁器や古銭が出土」している事と、日本の領主が取引している事から「倭寇は日本が拠点として行っていた」と捻じ曲げたロジックで言われていますが、これは単なる「貿易」です。
中国側からは「密貿易」ですが、日本側からすれば「正当な貿易」なのですね。
「明政府から死刑囚として追われると、日本の平戸や五島列島に勝手に住み着き、そこを拠点に海賊行為をした」とも出てきますが、歴史的な一次史料および事実関係と明確に矛盾する、完全な誤りです。

明から追われた中国系海商の頭目(王直など)が日本の平戸や五島列島に拠点を設けたのは、不法侵入ではなく、現地の日本の領主(戦国大名)から公式に通商を認められ、土地や屋敷を寄贈されて厚遇されたからです。
天文9年(1540年)に王直は五島列島の領主・宇久盛定に謁見し、正式に商売の許可を得ました。領主側は彼を歓迎し、現在の福江島唐人町の一帯を居館(住居)として与えています。
天文11年(1542年)には、今度は平戸の領主・松浦隆信が自ら王直を平戸の城下町に招き寄せ、勝尾岳の中腹に豪華な邸宅をプレゼントしています。

当時の日本の領主たちは、海外貿易による莫大な富と、王直が手引きするポルトガル船なども来ており、鉄砲などもこの時に来日したものです。そのため、勝手に住み着いた無法者どころか、「国賓・特権商人」として大名自らが誘致し、保護・結託していたのが実態です。1543年、種子島にポルトガル人が漂着して鉄砲が伝来した際、その船に同乗して通訳(筆談)を務めたのが王直です。この時の様子を記した日本の史料『鉄砲記』にも、彼の姿が明確に残されています。
王直が率いる武装船団と明の官軍が激突した戦場は、すべて中国の沿岸部(双嶼港や瀝港など)です。日本国内が攻撃されたり、治安が破壊されたりしたという事実は存在しません。

当時の日本側の公式な同時代史料には、日本側には「彼らが海賊(倭寇)である」という認識や記録は一切なく、文字通り「利益をもたらす『大唐(中国)の商人』として丁重に招き入れた」とあります。
「海賊」や「倭寇」という不名誉なレッテルは、あくまで民間貿易を厳禁としていた明(中国政府)の側が自国の国法を破った者たちに一方的に着せた呼称(罪名)に過ぎず、日本側は彼らを一貫して「正規の最高級貿易パートナー」として扱っていました。

なぜ「海賊(倭寇)」と呼ばれたのか?

なぜ、『後期倭寇』が、「密輸商人」や「商圏争い」も纏めて『倭寇』と呼ばれるか?
これは簡単で、明王朝の国法(海禁政策)を基準にすると、彼は紛れもない「海賊(国家への反逆者)」になるからです。

当時の明は、国が認めた外交以外のすべての民間貿易を死刑に値する犯罪(密貿易)としていました。明の官軍(水軍)が貿易拠点を焼き払い、王直らの商品や船を没収して武力弾圧を強めると、王直らは身を守り、商売を継続するために武装しました。官軍を武力で撃退し、明の沿岸を襲撃して報復したため、明政府から「倭寇(海賊)の頭目」として指名手配されました。

日本側の記録(『鉄砲記』や松浦氏の記録)に彼らを海賊とする記述がない理由は、彼らが略奪を行っていなかったからだけではありません。王直らは海域の治安を維持する側の役割も果たしていました。

明王朝は民間人の海外出航を禁じていましたが、地方の有力者(郷紳)や役人たちは、海外貿易による莫大な利益を求めていました。王直は浙江省・福建省の沿岸部である寧波近海にある「双嶼」などの拠点で、大陸側の密貿易商から生糸、絹織物、陶磁器、綿布などを仕入れています。『略奪』ではなく、あくまで『非合法な取引』ですね。
王直は大陸側に強力なコネクションを持っており、役人に賄賂を贈る、あるいは地方の有力一族と結託することで、禁輸品である最高級の生糸などを優先的に確保していました。また、王直はポルトガル人などの南蛮人とも深く繋がっていました。マッカ(マラッカ)や東南アジア経由で持ち込まれる香料(胡椒など)、象牙、硝石(火薬の原料)を仕入れています。1543年の種子島銃伝来に関わったとされる通り、ポルトガル人から鉄砲(火縄銃)やフランキ砲といった最新兵器、あるいはその製造技術を仕入れ、日本の戦国大名へ販売しています。
『「海禁政策(民間貿易の禁止)」とした明王朝からすると違法行為(非合法な取引)』ですが、その点以外で見れば『貿易商』でしかありません。

明王朝の約束と裏切り

1550年、明の地方役人(丁湛)から「海域を荒らす盧七・沈九の海賊を退治すれば、お前たちの密貿易(私市)を黙認してやる」と持ちかけられます。

1550年〜1551年にかけて、王直は東シナ海で実際に掠奪を働いていた本物の海賊(盧七・沈九や、最大のライバル海賊・陳思盻など)を、自身の私兵船団や明の官軍と協力して武力で壊滅させています。
王直は自前の武装船団を動かし、盧七・沈九の船団を襲撃して千余人を殺害、海賊を壊滅させて明の政府に引き渡しました。翌1551年には、自分の貿易船を襲う最大の略奪海賊・陳思盻の拠点を奇襲し、陳思盻を殺害してその賊党をすべて排除しました
これにより東シナ海の海上治安の主導権を握った王直は、「海上すでに二賊なし」と称される状態を作り、安全な貿易ルートを確立しました。

ところが、明王朝側は約束を守らず、王朝を『倭寇』と認定します。
海賊を掃討して安全な貿易ルートを作った王直に対し、明政府が約束を破って貿易を許可せず、逆に彼を逮捕しようとしたため、怒った王直の配下(徐海など)が明の沿岸部への武力攻撃(壬子の乱など)に踏み切ります。この『明政府vs私商人』の武力衝突(戦争)を、明側が十把一絡げに『倭寇(海賊)の侵入』と記録したためです。

日本や明以外からの視点に立てば、彼らはただの「商人」であり、むしろ本物の海賊を全滅させて海の安全を守ってくれた存在です。
「平戸を拠点にした海賊」という呼び方自体が、明王朝のプロパガンダ(不都合な記録)をそのまま鵜呑みにした、歴史の歪みででしかないのです。

王直の船

王直の船は「巨大な和洋中ハイブリッド」製で、王直が建造したとされる巨大な武装商船は、当時の中国の技術だけでは説明がつかない特徴を持っていました。
中国船は外洋にはあまり耐えられず(ジャンク船は中国でも沿岸から離れると沈没難破する事例が大変に多い)、日本船は堅牢なのですが構造から大型化は難しかったのです。
王直の巨大武装商船は「和船(日本のV字底構造)をベースに、中国の隔壁技術を導入して大型化したもの」と考えると、大体合います。
よく「和船は平底」と勘違いしているものを見掛けますが、これは勘違いです。

弁財船
弁財船

王直は松浦氏などの協力のもと、日本の船大工が日本の良質なクスノキやスギをふんだんに使い、外板を極めて厚く、あるいは二重に重ねる構造をとりました。これにより、明の軍船の体当たりや矢・火器の攻撃に対しても、圧倒的な防御力を誇りました。中国船は竜骨に薄い板を張るという構造であり、外洋のうねりや波に弱いのですが、和船は外骨格船なので厚い板が使え、堅牢に出来るのです。
これに中国船の長所である「水密隔壁(船内を複数の個室に分ける)」があり一箇所が浸水しても沈まない仕組みですがこれを採用し、大型化できるようにしたものです(和船は堅牢ですが、大型化すると梁が捩じれるため)。
王直は1543年に種子島へ鉄砲を伝来させた船に乗っていたと言われる通り、西洋人(南蛮人)との繋がりが非常に深い人物でした。彼の船には、東南アジア経由で持ち込まれたフランキ砲(後装式大砲)が配備されており、構造的にもこれら重火器の反動に耐えうるように日本式の梁補強がなされていました。
また、中国のジャンク帆は網状の骨があり、風を逃さず低重心で安定しますが重量があります。王直の船団は、日本の帆(ムシロ帆から布帆への過渡期)の扱いの軽さと、ジャンクの風効率を組み合わせ、風向きが変わりやすい東シナ海で自在に機動できる操船術を持っていたのです。

王直は「東シナ海専用の最強の船舶」を作っていたからこそ、日本と貿易ができ、そして明の官軍とも相手とする事が出来たのです。
明の官軍が「河川の延長」として海を見ていたのに対し、王直は「海を物理的な戦場」として捉えていました。このように王直の強さは「日本の造船ポテンシャル(材料と厚板技術)」を、多国籍な設計思想で最大化したことにあります。


この船についてよく「ベースは中国のジャンク船」とあるが、これは間違いです。「V字形だし。日本の船は平底だから違う」というのも書かれていますが、これも真っ赤な嘘で、上の図の弁財船の断面図の通り、和船はV字形になっています。これは単純な話で、日本は場所によっては200mも離れると遠海と言える海が深くなる場所があり、波もうねりもあるからですね。河川や湖、沿岸極近海のようなところでなければ平底船は日本では生きていける環境ではないのです。
頑丈な外骨格構造、そこに隔壁を入れた形ですので、この王頂の武装商戦の「ベースは和船」です。

ジャンク船もV字形と平底形があり、貿易に使われるようなものはV字形ですが、それ以外は平底形です。ただ、ジャンク船は西洋式で竜骨とアバラという内骨格に薄い板を張り付けた構造で、海の波やうねりに弱く、多くが近海から出た途端に難破・沈没をしています(これは比喩ではなく、沿岸から離れて少し海が深くなる場所に来るとかなりの確率でそうなっています)。これは利用する木材の質と大きさ(厚みなど)も関係しており、曲げや捻りに弱いのですね。それに対しての対策が隔壁構造で、浸水しても沈みにくくしたわけですが、それでも板が薄いですので外部刺激に弱いのです。
これでも中国の歴史で構わなかったのは、基本的に中国は沿岸地域や海が浅い領域しか船を使わないからですね。日本から見れば「浅い海」と思えるレベルでも、中国から見れば「深い海」なんですが、沈んだ位置などで調べると、中国にとって「深い海」は30m程度からを指すようです。
日本だと極々沿岸までの距離でしかありません。具体的に言えば、瀬戸内海ぐらいの深さの海が、彼らにとっては「深い海」だったのです。
中国での「海上が大荒れ」というレベルが、日本では「波が少し出ているけど静かな海だ」というレベルなわけですね。

日本の場合は底に一番分厚い板があり、そこから積み重ねるように厚い板が連なるという外骨格構造をしており、それを梁で支えている、という丸太船→準構造船→構造船という日本の中で完結する船の系譜で作られています。板が厚い為に大変に頑丈で、また昔から底は湾曲から水を切り裂くV字型をしています。先にも書いているように、日本の海だとそういう形状でなければ生き残れないからです。現代の船でも難破する様な荒れた日本の冬海は流石に無理ですが、荒れた程度で簡単に沈む船では国内交易船はやっていけないのですね。
この和船はその構造上、梁が大変に重要になってくるのですが、大型化する床の梁が捩じれてしまうので、世界視点で言えば中型船ぐらいまでの大きさとなるわけです。

王頂はこの外骨格で頑健な和船を大型化するために、隔壁構造を加える事によって梁代わりを増やし、浸水しても問題がない構造にしたわけですね。

数mの波などもよくある話なのですが、今でも中国系だとその怖さを知らず、船を出して対処方法も分からずに転覆事故を起こします。

『倭寇』の正体

『東シナ海で暴れた中国系民族主導の後期倭寇』はいます。
しかし、厳密に言えば『日本による後期倭寇(海賊)』はいません。対外海上交易を禁止した明王朝と武装商人の戦いです。

それとは別に『東南アジアの後期倭寇』も、厳密に言えば『倭寇(海賊)』ではありません。これは、植民地侵略するスペインと、現地で既に商売をしていた『中華系を中心とした混成の商売集団』の武装商人との戦いです。
ただし、当時の明の国令(海禁政策)だと「海上交易」をしている時点で、どちらも『倭寇』とされます。

「生存のための略奪行為」や「正当な商売と商圏の争い」ではなく「物品や人を奪う倭寇(海賊行為)」となると、結局は、

  • 9世紀の新羅の官製海賊である『韓寇』

  • 11世紀の女真族が実施・高麗が搾取した私海賊の『入寇』

  • 11~13世紀の高麗の公権海賊である『韓寇』

  • 13世紀の元・高麗の国軍である官製海賊である『元寇』

  • 15世紀の未遂で終わった朝鮮の公権海賊である『外寇』

  • 16世紀の舟山群島や福建省などの中国沿岸で暴れた中国系が中心となった『後期倭寇』

これが当てはまりますね。
判るように、大半は「朝鮮半島が日本に対して行った海賊行為」です。


韓国では「倭寇が文化財を奪った」と言っているのは、実は荒唐無稽であり歪曲捏造でしかありません。
日本にある朝鮮半島の文化財(高麗版大蔵経や仏画)の多くは、室町時代の守護大名や幕府が「正式な外交交渉や正当な対価(米や工芸品との交換)」によって入手したものであることが、当時の外交記録(『海東諸国紀』など)に明記されています。これを「倭寇の略奪品」と一括りにするのは、当時の正当な貿易活動を無視した歴史の歪曲と言えます。

室町幕府や西国大名(大内氏・宗氏・島津氏など)が、朝鮮半島から仏経典や仏画、高麗茶碗などを入手した経緯は、朝鮮側の公式記録である『朝鮮王朝実録』や、当時の外交マニュアルである『海東諸国紀』に詳細に記されています。
日本側は使節を派遣し、対価として「日本産の銅、硫黄、工芸品、あるいは食糧(米)」を提供し、その見返りとして仏典などを正式に譲り受けている「請来」のプロセスが記録されています。
当時の朝鮮(李氏朝鮮)は「崇儒廃仏(儒教を重んじ仏教を弾圧する)」政策をとっていたため、寺院に眠る仏典などは国家にとって「不要な在庫」や「外交交渉のカード」でした。それらを日本が求める物資と交換することは、朝鮮政府にとっても極めて合理的な「国家間の正当な取引」でした。

これを後世になって「倭寇が奪った」と主張することは、「自国の先祖が正式に行った外交・通商行為」そのものを否定することに他なりません。

逆に日本が「韓寇や元寇で奪った文化財や物品、人を返せ」と強く言っても構わないのが、歴史の事実です。

李氏朝鮮での歪曲捏造

今の韓国では、このような事も言われているようです。

朝鮮王朝の「建国」は倭寇との戦いから始まった
李氏朝鮮の初代国王である李成桂が民衆の支持を集め、高麗を倒して建国できた最大の理由は、彼が「前期倭寇を撃退した英雄」だったからです。

高麗末期、荒山大捷(1380年)では数万人規模の前期倭寇が朝鮮半島内陸部まで侵入し、国家存亡の危機にありました。これを撃退したのが李成桂です。李氏朝鮮の建国(1392年)からしばらくの間(15世紀初頭まで)は、前期倭寇の残党による激しい攻撃が続いていました。つまり、王朝のスタート地点は「倭寇被害の真っ只中」でした。

ですが、これは嘘です。
「倭寇が国家を滅亡寸前まで追い込んだ」という物語は、後世の李氏朝鮮が自らの建国の正当性(正統性)を強調するために、元(モンゴル勢力)や内乱の影響を意図的に「外敵としての倭寇」にすり替えた、あるいは過大評価させた側面が非常に強いです。

実際は元の残党と中国からの紅巾族

高麗末期、朝鮮半島を実質的に蹂躙し、国家を存亡の危機に陥れていたのは、倭寇ではなく「元の残存勢力」および元末の混乱に乗じて侵入した「紅巾賊」です。
紅巾賊の侵入は1359年・1361年とあり、中国大陸から侵入した数十万規模の紅巾賊により、高麗の首都・開京は陥落し、国王が避難する事態となりました。国家を壊滅寸前に追い込んだのは、この大陸勢力です。

明が興った後も、北方の元の残存勢力(ナハチュなど)が数万の軍勢で高麗に圧力をかけ続けていました。李成桂が軍事功績を上げた主な戦場は、これら大陸側の正規軍との戦いです。

李成桂の軍事的な実績の多くは、元や紅巾賊が撤退・衰退する過程での追撃、あるいは地方の残党掃討です。
高麗を滅ぼし、自ら王位に就くためには「高麗王が守れなかった国を、自らの武勇で救った」という劇的な物語が必要でした。その際、「強大すぎて手出しできなかった元」よりも、「撃退が可能で、かつ野蛮な外敵として描きやすい倭寇」を主敵に据えることで、自身の英雄性を演出したのが李朝初期の編纂史料(『高麗史節要』など)の意図です。

事実の歪曲捏造

物語として書き換えられたタイミングは、まさに李氏朝鮮が建国された直後の15世紀初頭で『高麗史』の編纂で行われています。高麗時代の出来事を記した正史である『高麗史』は、高麗時代に書かれたものではなく、高麗を滅ぼした後の李氏朝鮮(第4代世宗〜第5代文宗期)において編纂されたものですね。
この編纂過程において、初代国王・李成桂の武勲を強調するために、当時の大陸情勢(元・明の交代劇)の複雑な事情を削ぎ落とし、「倭寇」という分かりやすい悪役との戦いにフォーカスが当てられました。

紅巾賊の侵入(20万規模)に匹敵する「脅威」を演出するため、本来は関係がない倭寇に置き換え、その軍勢を「数万」「数百艘」と誇張して記録し、それを李成桂が「神がかり的な弓の技術で倒した」という物語(阿只抜都/アキバツの物語など)が定着させられました。

しかし、高麗末期の同時代人たちが残した個人的な記録(文集など)では、まだ「紅巾賊」や「元」の恐怖が生々しく語られています。しかし、国家の公式記録としての『朝鮮王朝実録(太祖実録)』や『高麗史節要』が完成する15世紀前半にかけて、歴史の主役が意図的に入れ替えられています。

書き換えられたのは、李成桂自身、もともとは元(モンゴル)の地方官の家系に連なる人物であり、北方の女真族や元の残党と密接な関係がありました。つまり、「高麗人を虐げていた側の人間」です。
李成桂が「元の手先」として動いていた過去を隠し、純粋な「高麗の愛国者・救世主」として再定義するためには、元軍との複雑な交渉や戦いよりも、「海から来る野蛮な日本人(倭寇)」を掃討したという単純明快な軍功に捏造するのが最も都合が良かったのです。

近代でのさらなる歪曲

15世紀に行われたこの「建国神話」としての書き換えを、近代の韓国ナショナリズムが再利用しています。
1910年以降だと、両班などが日本による統治への対抗心から、歴史上のあらゆる苦難を「日本(倭寇)」に結びつける教育が行われ、李成桂の「倭寇掃討」の物語が、歴史学的な検証なしに「民族の勝利」として固定化されました。

つまり、「李氏朝鮮という王朝の正当性を証明するための政治的プロパガンダ」として、15世紀に歴史の「主語」が元から倭寇へと意図的に書き換えられたのが真相です。一次史料(文集等)を丹念に読めば、その繋ぎ目の不自然さは明らかです。

近代以降のナショナリズムにおいて、この「すり替え」はさらに強化されました。
近代の歴史観では「日本(倭寇)=悪」という図式が使いやすいため、高麗末期の多層的な混乱(元の圧力、紅巾賊の侵略、内乱)をすべて「倭寇の被害」という一つの言葉に集約し、それを倒した李成桂を「民族の英雄」に仕立て上げました。
当時の本当の脅威であった「北方の騎馬民族(元・女真)」や「中国の反乱軍(紅巾賊)」の記録を縮小し、相対的に倭寇の記述を膨らませることで、因果関係が捏造されていったのです。

「倭寇が数万人で攻めてきて国が滅びかけた」というのは、李氏朝鮮が建国の正当性を得るために作った「都合の良い建国神話」を、近代の歴史学がそのまま踏襲してしまった結果の歪曲です。

朝鮮出兵では朝鮮人を保護している


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