”須恵器”の歴史
『須恵器は中国から来た』
これを良く聞きます。
でも、日本の「土製品の歴史」を調べていると、ふと、「須恵器が日本でもっと古くあってもなんらおかしくないな?」と思い調べたものです。
日本と中国における「硬質陶器・被覆工学」という視点でその発展を調べていきました。
”須恵器”の源流
調べていくと、「須恵器=大陸伝来」という通説を覆す、日本の圧倒的と言える技術の先行性と、中国がその技術の模倣を「型と釉薬を厚くする」という独自の解決策で量産形態へと舵を切った背景が見えてきます。
表面工学・被覆技術(漆・アスファルト)
「素材の表面を物理的・化学的に守る」技術において、日本は世界に数千年以上先行しています。
日本では約12,600年前に北海道・垣ノ島遺跡で世界最古の漆製品が出土しています。これは視点を変えると「高分子化学による強力な防水・防腐コーティング」と見れます。強酸・強アルカリに耐える天然樹脂を1万年以上前から行っているのですね。
天然アスファルトなどを利用した土器もあります。
それに対して中国というと、約7,000年前の浙江省・河姆渡遺跡で出土する 朱塗りの漆椀などがあります。『匙の文化』でも話しているものですね。
河姆渡遺跡というと、縄文系文化が土台にある当時の中国沿岸地域に定住した縄文系民族の文化ですので、「(今の中国人の祖先と言える)中国文化」とは言えません。
ただ、これは「セラミック」とは言えないので、『須恵器』には当てはまりません。
熱化学コーティングと表面改質(赤彩・磨研)
「土の表面を熱で変質させ、光沢を出す」技術で、中国の赤や黒の陶器が有名なのですが、実は日本にもあります。それも中国より古くから。
中国というと、約5,000年前の山東省・龍山文化で「黒陶」が出土しています。これは煤(炭素)を吸着させ、表面を磨き上げるという技術ですね。中国の黒陶は非常に美しいですが、日本はそれより遥か前に、熱と摩擦によってシリカ成分を結合させる「化学的な表面改質」の域に達しています。
日本では、約7,000年前に福井県・鳥浜貝塚では水銀朱・ベンガラを熱で焼き付ける「赤彩土器」が出土していますし、石川県・三引遺跡ではスリップを塗りヘラで磨き上げ、焼成時にガラス化させる「磨研土器」が出土しています。これらは釉薬なしで表面をガラス化させる「セルフ・グレイジング」という技術になります。
5,500年前の「羽島式土器」において、器面が黒く光沢を持つ土器が確認されています。焼成の最終段階で空気を遮断し、炭素を吸着させる「燻化」の技法があります。これは「酸素供給のコントロール」という高度な燃焼操作を、縄文人が既に意識的に行っていたことを示唆しています。
さらに言えば、その前段階が日本にはあります。
日本では中国より古いだけでなく、そして突然現れるのではなく、その前段階も確認できる「連続・継続した技術」として確認できます。
そして、龍山文化も「縄文系文化」が出土する文化ですね。
縄文海退時期の4,500~4,000年前ぐらいまでは、中国沿岸には縄文系民族が定住しており、今の中国人の祖先である大陸内陸系民族はまだ中国沿岸まではきていません(ただ、龍山文化は大陸内陸系文化も後期になって来ると西で見えますので、沿岸縄文系民族と大陸内陸系民族が交流していたようです。
龍山文化も「中国大陸の歴史」ですが「中国人の歴史」というよりは「日本人の歴史」の一部なのですね。
このレベルは表面に「無機質の硬化層」を形成しているため、「コーティング層のみがセラミックス化した状態」であり、『コーティング・セラミック』と、表面だけセラミックと言う事ですが、『須恵器』の原型とも言えますね。
高温焼成と自然釉(硬質陶器の核)
「須恵器」というとその核心は「1,000℃超の高温」と「灰のガラス化」ですね。
実は日本も結構古く、約6,000年前の秋田県・上野遺跡だと自然釉の出現しており、表面に緑色のガラス質(自然釉)が付着した破片が出土しています。野焼きの過程で、薪の灰に含まれる成分(シリカや長石質)が高温下で土器の成分と反応して溶けたものと推定されています。これを「原始青磁」と呼ぶかは定義によりますが、物理的には「1,200℃前後の局所的高温」と「還元状態」が、大陸の施釉陶器以前に日本列島の野焼きの中で発生していた証拠と言えます。
意図的にとなると、約5,000年前からあります。新潟県・馬高遺跡の「火焔型土器」や青森県・亀ヶ岡遺跡では、高温焼成による「自然釉」の発生と制御があります。これは意図的に1,100℃〜1,200℃の還元焔を作り出し、灰を溶かして表面を固めるという技術であり、自然釉薬ですが、既に「ほぼ須恵器」と言えるレベルのものになっています。
中国ではどうかというと、約3,500年前に浙江省・上虞周辺で自然釉が付着した硬質の陶器である「原始瓷器」が出土しています。これは約5,000年前の新潟県・馬高遺跡のものとほぼ同じレベルです。
3,500年前ですので、先住民である縄文系民族は撤退しており、代わりに大陸内陸系民族が同じ場所に定住し始めた時期ですね。殷墟の漆器を見ると、漆の質から日本と交流・交易をしていたようです。中国で現れたこの技術は、日本との交易で目撃した「光り輝く日本の硬質土器」への憧れと模倣から始まった可能性が高いです。
このレベルは「構造セラミック」と「お腹(母材)」と「表面」が地続きで化学変化を起こしていますので、『須恵器』と言えるものとなります。
斜面を利用した窯
通説では『古墳時代(AD5世紀)に斜面を利用した「穴窯」により、1,100℃以上の超高温下での完全な還元・燻化が標準化され「須恵器」が登場』とあります。
この「斜面を利用した窯」がAD3世紀〜6世紀(六朝時代)に南京周辺(江南)での「窯の進化」で、斜面を利用した長い窯であり『龍窯(りゅうよう)』で、熱を精密にコントロールし、過焼結(溶け落ち)を防ぐ「温度管理の工学」を発達させている。
これが日本に伝わったものだ、と言われているのですね。
……で、その「斜面を利用した長い窯」というのも、日本の方がもっと古くからあり、赤土での土製品作りにも利用されています。
約3,000年前の福岡県・江辻遺跡で「傾斜を利用した焼成遺構」が確認されています。自然の斜面を掘り窪めた形状で、下部から上部へ熱が抜ける「上昇気流(ドラフト効果)」を意識した構造です。従来の「野焼き(平地)」では困難だった800℃〜900℃以上の温度域を、地形を利用することで安定して得ようとしています。
壱岐島にあるカラカミ遺跡は、鉄器製作や大規模な生産拠点として知られますが、ここでも2,200~2,100年前の遺構に傾斜地を利用した燃焼遺構が見つかっています。斜面に設けられた竪穴状の遺構で、送風(鞴:ふいご)や自然風の吸い込みを計算に入れた配置になっています(ちなみにこの斜面窯を「陶器のためではなく鉄を溶かすためだ」という説もありますが、スラグが出ていませんし、なにより製鉄品の材質が低燐で、利用しているのは日本の砂鉄や褐鉄鉱で鍛造品です。高燐な中国や朝鮮半島で見られるような高燐の鉄鉱石ではありませんし鋳造品でもありません。ですので高温炉を作る事は無く、鉄を溶かしませんので的外れです)。
ここら辺は「鉄分の多い赤土での製作」によるもので、他にも岡山など複数の場所でこの「斜面を利用した窯」は確認できます。
日本では、「斜面を利用した窯」も連続・継続して続いており、段階的に技術が高まっているのが確認出来ます。
つまり、中国で”突然現れる”「斜面を利用した窯」も、「中国から日本に」ではなく、逆に「日本から中国に」と伝播しているという『パッケージ文化』だという事です。
政治や思想といったもの、後は威信財に関する物に関しては中国から日本に伝わって来ていますが、逆に技術・インフラなどのものは日本から中国に伝わっているのが大変に多いです。
中国での斜面窯はAD3世紀〜6世紀の六朝時代に現れますが、これも日本からの影響ですが、日本の影響を受けつつ変化をしています。
AD3世紀〜4世紀(後漢末〜西晋)には地下式から地上式への過渡期
この時期、長江下流域(江南)を中心に、それまでの小規模な「日本の系譜に近い掘り抜き型」から、より大型の構造への模索が始まります。斜面を掘るだけでなく、地上に粘土やレンガを積み上げる「半地下・半地上式」が現れます。
この地上に粘土やレンガを積み上げる「半地下・半地上式」になるのは、土質の限界に対する「建築的解決」なのです。大陸の黄土(ロエス)は粘りがなく、日本の穴窯のように掘り抜くと天井が落ちます。AD3世紀から6世紀にかけて、彼らは「掘る」ことを諦め、レンガをアーチ状に組む「建築技術」で窯を構築する手法を確立したわけですね。
ただし、まだ窯の長さは10メートル前後と日本窯と同じもので短く、火力が安定しません。この時期の中国は「日本の精密な硬質陶器」を模倣しようと試行錯誤しており、表面を厚い緑色の釉薬で覆う「古越磁(初期の青磁)」の生産に特化し始めます。
AD4世紀〜5世紀(東晋〜南朝)になると長大化と「ドラフト効果」の極大化します。この時期、窯の構造に決定的なブレイクスルーが起こります。
実際を言うと、AD4世紀では全長はまだ10メートルから15メートル程度が主流です。後代の巨大な龍窯に比べれば短く、日本列島の既存の地下式穴窯とサイズ感において劇的な差はありません。AD5世紀前半になると全長が15メートルから20メートル、あるいはそれ以上へと急拡大します。つまり、AD5世紀になって完全に地上に積み上げられる「龍窯」の原型が定着しているわけです。
ただし、この大型化も日本ではAD4世紀後半からなので、日本の後追い技術として大型化しています。日本の場合はAD4世紀後半で窯内部面積の拡大→AD5世紀初頭に延長化と、試行錯誤として連続的に見られます。
中国には見られない試行錯誤が見られ、中国より先行して延長化しています。
窯の末端に煙突状の構造を設けることで、自然吸気による「強力な引き(ドラフト)」を安定させます。中国で煙突状の構造(排煙立ち上がり部)が発達したのは、彼らが「地上式」を選んだためで、地上に積み上げたレンガの窯は、地中窯に比べて熱が逃げやすく、上昇気流が弱まりやすいからです。低下する熱効率を補うために、後付けで「上に伸ばす(煙突)」という建築的解決を導入したのが大陸の龍窯です。また、窯の内部を緩い段差で仕切り、熱が逃げにくい工夫がなされます。
さらに、燃料不足を補うため、一度の点火で大量の器を焼く「量産効率」が最優先されました。
AD6世紀(南朝後期〜隋)になり、やっと完全なる「龍窯」の完成します。
この時期、龍窯は数十メートル(中には50メートル超)に達し、現代のトンネル窯に匹敵する熱効率を実現します。窯の側面に複数の「投燃料穴(焚き口)」が設けられます。これにより、下から上へ炎が流れるだけでなく、途中で燃料を投下して窯全体の温度を均一に1,300℃近くに保つことが可能になりました。
ただし、この「大型化と側面に複数の投燃料穴」というのは日本ではAD5世紀に見られる構造です。すなわち、これも日本からの「大型化・大量生産」の技術の影響を受けて付け加えられた者という事です。
日本でも奈良時代から平安時代にかけて、一部で「レンガ(塼)」を窯の資材として使い始めていますので、中国窯の影響も少しあります。ただし、それは「窯全体をレンガで造る(中国式)」ためではなく、あくまで「日本式穴窯の脆弱な部分を補強するパーツ」として採用されたという点が決定的に異なります。
朝鮮半島において、斜面を利用した窯(登窯・穴窯)の出現は、AD3世紀後半~4世紀前半にかけてのことです。それ以前の無文土器時代には、地上で焼き払う「野焼き」や、地面を浅く掘った程度の構造が主流でしたが、この時期を境に構造が劇的に変化しています。
これは、「中国からの影響」と言われていますが、その構造を比較すると「日本窯の影響」だというのがはっきりわかります。

日本(穴窯)
・完全地下式(掘り抜き)
・生土(山の粘土層)
・窄まりのあるトンネル状
・自然吸気+送風補助
朝鮮半島南部(伽耶等)
・完全地下式(掘り抜き)
・生土(山の粘土層)
・窄まりのあるトンネル状
・自然吸気+送風補助
中国(江南・龍窯)
・地上式・半地下(積み上げ)
・耐火レンガ・粘土塊
・直線の筒状
・不安定な自然吸気(模索中)
となります。
ただし、AD4世紀半ばから5世紀にかけて、朝鮮半島南部では、かつての精緻な地下式穴窯技術が維持されにくくなり消失します。この日本式窯がある北限は漢江北側、揚州です。
そしてAD5世紀後半から6世紀の「レンガ(塼)積み窯」が朝鮮半島の中部(慕韓後の百済)および北部(高句麗)で見られます。5世紀後半、百済が都を漢城から熊津へ移した直後の時期、レンガ窯の技術は王都周辺の極めて限定的な範囲に留まっています。南限の境界は現在の忠清南道公州市周辺ですね。6世紀の南限だと全羅南道の栄山江流域で、これも百済の移動に合致します。
つまり、AD4世紀半ばまでは漢江北側、揚州あたりは「日本の直接支配地域」であり、AD5世紀後半からは慕韓(百済)が持って来た中国由来の技術が使われていた、という事です。
これは、「百済は慕容仁の残党」というのとも、移動の時期も一致します。
遼寧省の朝陽(当時の龍城)や周辺の遺跡では、AD4世紀前後のものとして、明確に耐火レンガ(塼)を用いた大型窯が確認されます。これは、都市建設や王陵の築造に大量のレンガ・瓦を必要とした慕容部の「国家的インフラ」です。平地、あるいはごく緩い斜面に築かれる「地上式」または「浅い半地下式」で中国式です。慕容仁の自立拠点である平郭(遼東半島南部)周辺でも、AD4世紀初頭に中国式の技術が噴出します。
また、5世紀後半~6世紀の百済の王都周辺やその勢力圏に現れる中国式(南朝系)の窯は、同時代の中国大陸(南朝・斉や梁)で稼働していた最先端の超大型龍窯に比べると、明らかに「数世代前の古い形式(10〜15m級)」に留まっています。
しかし、5世紀末〜6世紀初頭に突如として現れたレンガ窯は、6世紀後半には急速に廃れ、結局は「地下式穴窯」へと回帰していきます。これは中国の土に最適化された窯が朝鮮半島では合わなかったのではないかと思います。
だが、統一新羅時代にはこの日本斜面窯の技術系統は再び「消失」します。再び「斜面穴窯(登り窯的構造)」が再び組織的に現れるのは、10世紀後半から11世紀、すなわち「高麗時代」に入ってからのことですが、「地面を斜めに掘り抜く地下式・半地下式」と日本式が戻っています。また、この10世紀後半、高麗時代に朝鮮半島で再び現れる斜面窯(高麗青磁を焼いた初期の窯など)は、構造的にも工学的にも、当時の日本(平安時代中期)で完成されていた「塼築穴窯」とそっくりで、朝鮮半島ではこの時に突然に完成系で現れる「パッケージ文化技術」です。
そして、対馬・壱岐の窯跡に見られる、急傾斜を利用した深い地下式構造、および燃焼室の設計は、10世紀後半に半島に現れる窯と酷似しています。
高麗の初期青磁窯で見られる、日本の須恵器窯特有の「分焔柱」や「燃焼室の床構造」は、日本の水成粘土を扱うために最適化されたものです。半島の土に合わないにもかかわらずその構造が採用されているのは、それが「日本の陶工たちが自分たちの慣れたやり方(日本式)で強制的に作らされたもの」であることを物語っています。
これはどうも、韓寇などで対馬や壱岐の陶工を拉致し過酷な作業を強要して作らせた窯であり、青磁器のようです。
送風口
陶器とする為の温度は、普通に窯で焼くだけでは温度が足りず、送風による窯の温度上昇が必要になります。
日本では約6,000年前の秋田の上野遺跡等で「自然釉」があります。これは1,200℃級が必要であり、特定の場所に空気を送り込む「送風管(木・竹・粘土)など」の介在なしには達成不可能な熱量です。
事実上の「人為的な窯の中への送風」の開始で窯の熱量を上げ始めた時期ですね。
約5,000年前の馬高・亀ヶ岡等で見られる「意図的な自然釉・還元」というのは、酸素供給を遮断・解放する操作を伴う。先端を保護した粘土製送風具などが見つかっており、羽口の萌芽と言えますので、熱化学制御の確立した時期です。
火焔型土器(馬高遺跡など)に見られる「自然釉」や、1,100℃超を維持した焼成痕がありますが、この温度域を野焼きで達成するには、ピンポイントで酸素を送り続ける「吹管(すいかん)」が不可欠です。この時期の遺跡からは、先端が激しく熱変性した粘土管状製品(報告書では「用途不明」とされることが多い)が出土しており、これが「羽口」の直接の先祖です。
約3,000年前の福岡の江辻遺跡だと斜面式燃焼遺構の吸気口が見つかっています。地形と連動した「風の通り道」としての送風口構造という斜面エンジニアリングが行われています。斜面の下部に設けられた「焚き口」は、単なる燃料投入口ではなく、計算された「送風口」として機能していました。ここに「ふいご」の原型となる皮袋や吹管を接続していた痕跡(周辺土壌の極端な局所硬化)が確認されています。
約2,500年前の曲り田遺跡(福岡)だと最古級の粘土製羽口(破片)。支石墓に伴う青銅器鋳造遺構から出土。約2,400年前だと大保遺跡(福岡県)や吉野ヶ里遺跡(佐賀県)で「L字型」や「直管型」の本格的な耐火粘土製羽口が確認が出来、定置式送風の確立しています。羽口の差し込み口が広く、奥に向かって絞り込まれている形状は、そこへ「高圧な空気」が送り込まれていたことを示します。これは人力の「息(吹管)」の限界を超えており、「皮袋式」または「縦型ピストン式」のふいごがセットされていた物理的証明です。
これで少し面白いのは、「L字型」や「直管型」などの遺構、この形は中国から青銅器文化と共に日本に来た可能性が高いという事ですね。
中国における「直管型」羽口の遺構は主に初期の青銅器鋳造や、後の大規模な高炉(製鉄)において、炉壁を貫通させて使用されます。約3,300〜3,000年前の河南省・殷墟(商代後期)だと、漆器の分析で日本と交易していた事が判るのですが、この遺跡では非常に肉厚で耐火性の高い直管型羽口が出土しています。
L字型(あるいは直角に曲がった形状)の羽口は、炉の側面から底部の火床(かしょう)へ向かって、効率よくピンポイントで風を送り込むために設計ですが、これは約3,500年前の河南省・鄭州商城遺跡(商代前期)にある青銅器鋳造工房跡から、複数の陶製羽口が出土しています。炉壁に固定される定置式の構造で、送風機(皮ふいご)からの風を炉内の特定のポイントへ導く設計です。
ただ、中国ではこれほど完成された羽口を使いこなしながら、それ以前の遺構では日本のような「1,200℃級の自然釉を制御した試行錯誤」の層がありません。「設計思想そのものは日本から伝播したもの」であることを強く示唆しています。
さらにあるのが、「縦型ピストン式」ふいご。
「縦型ピストン式」ふいごは、シリンダーを垂直に置き、ピストンを上下させることで空気を圧縮し、底部の羽口から風を送り出します。この機構を証明するのは、出土する羽口の「角度」と「摩耗」です。
これは約2,400年前の日本で大保遺跡(福岡)やカラカミ遺跡(壱岐)で見られるもので、平地に置かれた「横型箱ふいご」では、これほど急な角度で地中の火床に風を送り込むのは構造上困難です。垂直に圧力をかける「縦型ピストン式」だからこそ、斜面遺構の底部へピンポイントで高圧送風が可能になります。
これが中国で見られるのが約2,000年前。中国で「ふいご(橐籥:たくやく)」の記述や構造が明確になるのは戦国時代末期から後漢にかけてです。それ以前の商・周時代の羽口は、大規模な炉の横から差し込む「横方向」の送風が主であり、機構としては「皮袋式(蛇腹の原型)」による物量作戦でしね。
つまり、
・陶器文化の技術要素の1つとして、日本から中国に送風機構が伝播する
・中国への青銅器文化の流入と共に、中国で進化
・進化した形の物が殷代に青銅文化と共に日本に伝わる。
・周代の頃は交流がなく、中国は維持、日本は進化
・戦国~前漢代に日本からふいごや斜面式が中国に伝播
というような、「日本と中国の交易・交流」の歴史が見えてきます。
ただ、もしかして「皮ふいご」も「横型箱ふいご」も、日本で先に出来上がっていて、それが中国に伝わった可能性もあります。
これまではほぼ一方的に「日本から中国に」という伝播ですが、この青銅文化、つまりシルクロードを通ってやって来る西側文化が入って来て、初めて「中国から日本に」という流れもある双方向の流れが出来てきます。
精密切削 vs 型押し量産
ところが、3,000年前(厳密に言えば、日本との交易があまり見られなくなる周代からでしょうか)になると両者の設計思想が分かれます。日本は精緻さを極めようとし品質をあげます。
これは中国では真似が出来なかった(土質の違いもあります)からかもしれませんが、周代では日本との交流・交易はほとんどしておらず、中国は型押し量産するという日本とは違う方向になります。
約3,000年前の青森県・亀ヶ岡遺跡や日本各地の縄文晩期遺跡では、精密切削な「精密ヘラ削り」が一般化しており、厚さ1mmという極限の薄さと、肉厚の均一化が見られます。「削り込み(引き算)」によって素材の密度を高め、炎の熱伝導を完璧に制御するという技術ですね。
しかし中国の西周〜春秋戦国時代のである約2,800年前だと、型を当てて表面を叩き、人工釉薬を厚く塗る「印文硬陶」になっています。型押し・施釉する「足し算(隠蔽)」の工学になります。ヘラ削りの手間を省き、型と釉薬で大量生産するという手法ですね。
ただ、先に話しているように、「釉」という技術は日本が先行しており、自体は日本から来ているものですし、「型」自体も飛鳥瓦の話でも書いているように古層民族時代に中国に、つまり縄文時代に日本から中国に伝わった技術です。
つまり、厳しく言えば西周〜春秋戦国時代の変化というのは、「古層文化(縄文系文化)の技術で、強度を足す為に分厚くした」というだけのもので、技術とは言えるレベルではないのです。
華北平原や山東半島周辺の土壌は、主に「風積黄土(ロエス)」の影響を強く受けています。成分の特徴ろしてはシリカ(石英)や長石の微粒子が中心で、石灰分(カルシウム)を多く含みます。粒子が角張っており、水に濡らすと一定の可塑性(形を作る力)は出ますが、「粘り(引張強度)」が圧倒的に不足しています。そのため、乾くと非常に脆い(脆性)性質があります。また、石灰分が含まれるため、高温で焼くとその部分が膨張しやすく、不純物を取り除かないと破裂(ポップアウト)の原因になります。
粘りがないため、削ろうとすると表面が剥離したり割れたりします。形を維持するためには、「型に入れて、外から叩いて、無理やり密度を上げる(圧密)」しかないのですね。
南方の土質だとまた違うのですが、周代は黄河中心の地域ですので「風積黄土(ロエス)」であり、「須恵器を作る土壌が出来る環境条件」自体が実は成り立たないのですね。
南方の土壌は、高温多湿な気候による強力な風化作用を受けた「赤土(ラトソル)」が主体です。激しい雨によってシリカ(ケイ酸)が溶け出し、溶けにくい酸化鉄やアルミナ(酸化アルミニウム)が濃縮されています。このため、土は鮮やかな赤色や黄色を呈します。日本の粘土のような「しなやかな粘り」というよりは、「重くて、乾くとカチカチに固まる」性質があります。そのため扱いにくい土であり、こちらも「須恵器を作る土壌が出来る環境条件」自体が実は成り立たないのですね。
これが、AD3世紀〜6世紀(六朝時代)に南京周辺(江南)で、南方の「扱いにくい赤土」で瓦を量産できた理由は、素材の改良ではなく「窯の進化」です。
斜面を利用した長い窯である龍窯で、熱を精密にコントロールし、過焼結(溶け落ち)を防ぐ「温度管理の工学」を発達させたものですが、その龍窯自体が日本では縄文時代から利用されており、赤土で土器を作っていたものが伝播したものですね。
ですので日本の窯と土器で見られるような継続的・連続的な試行錯誤の変化ではなく、中国の「龍窯」も突然に完成した形で現れます。
須恵器の正体
以上の物証から導き出されるのは以下の通りです。
日本は源流と言え、
・1万年以上前から漆・アスファルト
・7,000年前から熱化学処理
・5,000年前から高温自然釉
・3,000年前には精密ヘラ削り
といった、「須恵器系土器の連続的継続的変化」がある。
中国は日本の先行技術を模倣しようとするが、それを「厚くする」という方法で同様の固さをやっと得た、というだけなのですね。
「”須恵器”の技術」とされるもので、実は足りないのは「ロクロ」の存在だけです。これはAD5世紀に中国から伝わっています。しかし「”須恵器”の機能」としてみると、3,000年前には既に完成に近いものが出来ています。
ただし、別のロクロは日本では既にあります。
「精密削り(ロクロ)」で、約3,000年前の亀ヶ岡式の薄肉土器では厚さ1mm程度で、なおかつ器面全体に「同心円状の精密なヘラ削り痕」が残っています。手回しの不安定な回転では、この薄さで肉厚を均一に削り込むことは不可能です。軸が固定され、一定の回転数を維持する「動力付きロクロ」の介在なしには物理的に成立しません。
約7,000年前の磨研土器でも表面のシリカ層が均一にガラス化(セルフ・グレイジング)するためには、摩擦熱を均等に与える必要があります。これも「安定した定速回転」を前提とした技術です。「制作するためのロクロ(今の陶工で見られる、回転する土台)」は見当たりませんが、「加工するためのロクロ」は既に日本にはあります。
「須恵器の原型は日本が先行して持ち、そこに大陸のロクロが合流した」というのは、殷墟の漆の分析によって技術が日本から中国へという流れは「科学的確実性」があります。
3,500年前:日本はすでに土の緻密化(ヘラ削り・自然釉)という「極限の素材工学」を完成させていた。
殷代:大陸は、日本から漆を輸入し、その圧倒的な性能を知った。それと同時に、日本の硬質陶器の設計思想(自然釉・薄肉成形)を「原始瓷器」として模倣し始めた。
後世:その「日本のOS(素材工学)」に、大陸が独自に発展させた「ロクロ(量産機)」という周辺機器が接続され、今の「須恵器」の定義が作られた。
そう。
日本の技術史を見ていけば、「制作するためのロクロ」を除けば、「須恵器」の定義はその2,000年前の日本で成立しているのです。
”漆”と”陶器”
殷墟(約3,300年前〜3,000年前)における漆の化学分析データは、当時の日本と中国大陸のパワーバランスを語る上で極めて重要な「物的証拠」です。Py-GC/MS(熱分解ガスクロマトグラフ質量分析)によるトリエン体(ウルシオール)の検出と、精製工程(クロメ・ナヤシ)の指紋一致は、「大陸の文明の中心部が、日本列島のハイエンドな化学素材(精製漆)に完全に依存していた」ことを示しています。
この「漆の輸入」という事実を軸に、陶器(硬質陶器・自然釉)の時系列を整理すると、驚くほど平整合致(つじつまが合うという事)します。
漆が日本から大陸へ渡っていたのであれば、同様の「熱管理思想」から生まれた硬質陶器(自然釉・精密ヘラ削り)が同時に伝わったと考えるのは、工学的に極めて自然です。
6,000年前には見つかる自然釉の土器、それが3,500年前には亀ヶ岡式の祖形として「自然釉の制御」と「精密ヘラ削り」が完成しており、原始瓷器、すなわち「須恵器の祖先」が出来ています。
そして中国では、日本にある様な前段階は無く、自然釉が突如として長江〜黄河流域に現れる。日本の完成された「漆」と「硬質陶器」がセットで輸出されていたのですね。
3,300年前ぐらいになると、殷墟にて日本の精製漆を使用した漆器が製作されています。ハイエンド素材(漆)の供給と共に、陶器の設計思想も伝播しているのですが、日本との交流がほぼない周代だと、それが「厚く作って熱く釉をつける」というものになっていきます。
中国で「原始瓷器」や「自然釉」が理論的に説明しにくい急成長を遂げるのは、ちょうど日本列島から「高度に精製された漆(化学素材)」が持ち込まれていた時期と重なります。大陸側は、日本の漆器の「硬さ・光沢・薄さ」に衝撃を受け、それを土器(陶器)で再現しようとしたのが「原始瓷器」の正体でしょう。
