匙の文化
箸の文化は、考古学的な遺物を辿っていくと歴史が大体判りました。

では、もう一つの食用具である『匙』はどうでしょうか?
韓国は多く、中国でも比較的使われていますが、日本では少な目ですよね。
使われないわけではないのですが、中韓に比べると少ないですよね。
古代日本の匙
日本でも、元々は匙がメインで、そこに箸が出てきてサブになり、そして端に移行したように見られます。
大変に大昔な話ですけれど。
縄文時代の『最初の”匙”』
日本列島において、個人が食事を口に運ぶための「小匙」は、縄文時代早期(約9,500年前〜)には既に見られます。
約9,500年前の神奈川県の夏島貝塚などの縄文早期の遺跡から、骨製の「ヘラ状製品」が出土しています。これらは長さ10cm前後の小さなもので、動物の肢骨を薄く削り出し、先端を丸く加工したものです。煮炊きした穀物や貝類、あるいは木の実をすくい取るための「個人用の食具」ですね。
約9,000年前の鹿児島の上野原遺跡でも骨製・石製のへら状道具があります。これは定住集落から出土したもので、調理や食事の補助具として使用されたと考えられています(たぶん、もっと古いのが今後も見つかるでしょうね)。
これぐらいの時代だと材質は「骨製」なのですね。
あやふやなのだと、約4万年前〜3万年前の野尻湖底遺跡(長野県)の「骨製へら状製品」があり、これはナウマンゾウの肢骨を加工した「へら状骨器」らしきものはあるのですが、「これが人為的な加工によるものか、自然の圧力で割れたものか(偽骨器論争)」についてまだ不明です。「食具(匙)」として確定した物証として扱うには、まだ学術的な議論が分かれています。
30,000年前ほど前には既に土器を利用しているのですから、調べればもっと古くから見つかるとは思います。煮炊きした穀物や貝類、あるいは木の実をすくい取るための「個人用の食具」として機能していました。
16,500年というのは「明らかに煮炊きに利用をしていたと判る土器と明確に分かる形状の物」という土器で、土器片と全体形状が分からないもので言えば日本では30,000年前のものからありますからね。
日本の”木製の匙”
”匙”も、”箸”と同じで骨製から木製に変化していっています。
約7,500年前の福井県の鳥浜貝塚では赤漆塗りの木製匙と杓子。トチノキ製で、低湿地のため完形に近い状態で出土しています。
約7,000年前の滋賀県の相谷横山遺跡だとシャベル状の木製匙があります。受部が平たく、柄が伸びるた形状で調理・配膳用だと考えられています。
約6,000年前の京都府の浦入遺跡では木製杓子があり、鳥浜貝塚に続く古い段階の完成されたフォルムをしていますね。
とここまでは「匙文化」があるのですが、興味深いのは約6,000年前ぐらいから日本では「小匙」が急速に姿を消し、代わりに「箸」が主役に躍り出るという現象です。
鳥浜貝塚(福井県)や真脇遺跡(石川県)では、調理・配膳用盛の「大匙」や大型の木製杓子は数多く出土しますが、個人用の「小匙」はほとんど見られなくなります。
個人で使う小匙が無くなった訳ではないのですが、食具としては箸がメインになっているのですね。これは、木製の器が作られるようになって器を持てるような軽さになった、というのも強く影響しているのではないかと思います。
液体をすくう以外の「口に運ぶ」という動作のすべてが箸に集約されたのです。
正倉院およびそれ以前の遺跡に、漆器の匙は存在しています。しかしそれは「直接器に口を付けない」という儀式的な礼法なのですね。
大陸からの礼法ではない
この匙を使う食事マナー、よく「唐代に日本に来て」と書かれていますが、それは大間違いです。
神道や皇室の儀礼、特に最も神聖とされる「神事」の場において、「直接器に口を付けない」という礼法は、日本の歴史の深層に一貫して存在しています。これらは単なるマナーではなく、「穢れ」の施行ですね。
「穢れ」を避け、神への敬意を物理的に具現化する工学的・儀礼的なシステムとして機能してきました。神道において、神に供え物を捧げる「神饌」の儀礼では、古来より「匙(ひ)」という道具が重視されてきました。
また、神と人が共に食事をする「直会」において、高貴な祭主や天皇が液体(お神酒や汁物)を口にする際、器を傾けて直接啜ることは、神聖な場を乱す「野蛮な所作」とされました。
神聖な存在は、自らの身体(唇)を物質(器)に強く密着させることを避けます。匙を介して「一口分を浮かせて運ぶ」ことで、姿勢を正しく保ち、神の前での威厳と清浄さを維持したのです。さらに、皇室の伝統的な食膳(御朝御膳など)の記録を見ると、時代が下っても「箸と匙」がセットで供される形式が守られてきました。
神道の根本思想である「清浄」の観点から見ると、器と唇の接触は、非常に繊細に管理されるべき対象です。器自体が使い捨て(土器/かわらけ)であったり、一人一膳が徹底されているのは、他人の気や穢れが移るのを防ぐためです。
直接口を付けることは、器そのものを自分の身体の一部に取り込むような強い接触を意味します。匙を使うことは、「器(公・神聖)」と「口(私・身体)」の間に境界線を引く行為でもありました。
天皇が神に食事を供え、自らも食す「大嘗祭」などの究極の儀礼においても、その動作は極めて抽象化されています。首を大きく動かしたり、器を傾けたりする動作は、高貴な精神性を損なうとされました。匙を用いることで、視線を正面に据えたまま、最小限の手の動きだけで液体を運ぶことが可能になります。
ここで、金属ではなく「漆器の小匙」が選ばれる理由は、その音のなさにあります。金属が器に当たるカチカチという音は、神事の静寂を破るノイズです。漆器であれば、無音のまま、流れるような所作を完結できるのです。
高杯と共に中国に伝播した日本の礼法
大陸から日本にではなく、日本から大陸に伝播した礼法だと考えられる理由として、「高杯」、中国では「豆」と呼ばれる食器の存在があります。
これは「高杯」と「古代中国の礼法」に関していて、既に別の場所でも話しています。
『礼記』の時代になると、「鼎」は「政治的な重み(権威)」を象徴する一方で、「高杯」は「洗練されたマナー(礼の細部)」を象徴するようになります。『礼記』には、豆の持ち方、並べ方、蓋の取り方まで細かく規定されています。つまり、漢代以降の中国マナーにおいて、「高杯」は「いかに作法を知っているか」を試すものとなっていました。
漢代以降のマナーでは、「大陸内陸民の鼎文化は権威(暴力性)を示し、日本を源流とする高杯文化は秩序(精神性)を示す」といった使われ方をしたのです。
この時代に「匙のマナー」が日本から中国に伝播したのだと考えられます。
『高杯』の本質は「食物を地面(穢れ)から遠ざけ、神聖な高揚感を与える」という空間的隔離にあります。小匙もまた、食物を「器(物質)」から「口(身体)」へと運ぶ際の物理的隔離を担います。日本では約6,000年前から「高杯状の器」と「漆塗りの匙・杓子」がセットで出土します。
中国では前漢時代に編纂された『礼記』により中国宮廷マナーの基礎が出来るのですが、それより遥か以前に、日本には「木と漆による、空間・身体のディスタンスを重んじる独自の儀礼体系」が完成していたことを示しています。
どうも中国の漢代では、石臼・粉食・豆腐・発酵文化・漆器などの食文化を色々と日本から取り入れているようですが、これと同様に「食の礼法」も日本から取り入れたようですね。
『鼎』と『豆(高杯)』
面白いのは、古代中国の礼法では『鼎』と『豆(高杯)』の扱いは明確に違います。
『礼記』や『周礼』における”鼎”の記述は、その「使い方」ではなく、主に「数」と「中身」に集中しています。「列鼎」の制というのがあり、天子は9鼎、諸侯は7鼎……といった具合に、「どれだけの肉を並べられるか」という物量による序列がすべてです。鼎は巨大な煮炊き鍋であり、そこから肉を切り分けて配るという「富の分配」の象徴なのですね。
大変に大陸内陸的です。
一方で、”豆(高杯)”の規定は、道具そのものよりも「扱う人間の動き」に焦点が当てられています。『礼記』の各編(曲礼、礼器、祭義など)では、「豆(高杯)の扱い」が異常なまでに細かく規定されています。
「左にはこれ、右にはこれ」と、数や位置が数学的に厳格に決められており、蓋をどう取り、どこに置くか、指をどう添えるか、匙を運ぶ角度などまで大変に細かく記されています。単なる器ではなく、「天の秩序」を地上に再現するためのデバイスとして定義されているのですね。
その『鼎』と『豆(高杯)』の記載の熱量の差が大変に対比的ですし、『豆(高杯)』については、「異質で完成されたパッケージ」として大陸の文献に突如出現するものですね。
通常、文化や道具は試行錯誤を経て徐々に複雑化するものですが、大陸における”豆(高杯)”の作法は、最初から「完成された哲学」を伴って現れます。
この「細かさ」は、大陸内陸的な「鼎文化」(肉をぶつ切りにして大鍋で煮る暴力的な権威)とは全く断絶しています。これはまさに、「品位を極めた完成されたマナー」が、外部(日本列島)から入ってきたことによる衝撃を物語っています。
これは、それが大陸内部で醸成されたものではなく、既に完成されていた高度な外来文化(日本からの伝播)を、知識層が「礼」という器の中に必死に言語化して収めようとした形跡と見るのが、工学的・文化史的に最も自然です。
彼らは、鼎で「力」を示しながらも、同時に日本の精神性である食の秩序「高杯と小匙のマナー」を真似して取り入れようと四苦八苦しており、完璧にこなすことで、「自分たちは単なる力による支配者ではなく、高度な精神性(清浄)を解する文明人である」と粉飾したのでしょう。
口を付けて啜るマナー
大陸では「器がダメ(熱い・重い・口当たりが悪い)だから、啜るのは野蛮なまま」でしたが、日本は「漆器」が高価なものではなく日常な物なので、大陸的マナーとは無関係なのですね。
木製(特に針葉樹)に漆を塗り重ねた椀は、熱い汁を入れても外側が熱くなりません。手に持ち、直接唇を触れても「熱による不快感」が一切ないため、器を身体の一部のように密着させることが可能になりました。
漆器の縁は、唇に触れた際の摩擦係数が極めて低く、吸い付くような感触があります。これを「吸い口」と呼び、器と身体が一体化して流体(汁)を取り込む動作を、ひとつの儀礼的な「心地よさ」へと変えたのです。
「穢れ」を避けるために距離を置く(匙を使う)のも古来の礼法でしたが、同時に器と自分との間に境界を作らないことが、器への敬意(愛着)を示す作法でもあるので、「口を付けて啜る」というのも等しくマナーになります。
日本人は縄文時代から、この二つの感覚を道具によって使い分けています。
神事や公的な場において、「穢れ」を徹底して排除し、自分と対象の間に一線を引く、というのが「高杯」や「匙」ですね。これは「畏怖」の感情に基づいた作法です。
と同時に、日常や「直会」などの、神との親密さを確認する場において、器(神の恵み)を直接身体に取り込むための所作。これは「親愛」の感情に基づいた作法です。
この二つが矛盾なく並んでいたのは、日本の信仰が大陸の信仰とは違い、「神様は敬うべき対象であり、同時に非常に身近な存在でもある」という日本特有の神観念があったからでしょう。
大陸の礼法が「不啜(啜るな)」という拒絶の規範で固まったのは、彼らの神(天)が絶対的で遠い存在だったからです。
対して日本の漆器は、その工学的な心地よさによって、「直接口を付ける」という極めて親密な行為を「無作法」ではなく「礼法」の域にまで引き上げました。漆器の滑らかな縁は、神聖な器と自分の身体を繋ぐ「接点」です。直接啜ることで、神聖な汁物の温度や香りをダイレクトに受け取る。これは、境界線を引く「匙」では得られない、深い一体感を伴う儀礼です。
日本人が歴史の中で守ってきた「品位」とは、以下の二層構造になっています。静的品位(匙)として背筋を伸ばし、一滴もこぼさず、無音で運ぶ「形」の美。そして動的品位(直接啜る)として器を両手で包み込み、吸い口から音を立てずに(あるいは最後に感謝の吸い切りをして)一体となる「心の通じ合い」の美。
「匙のマナー」が大陸に伝わった際、大陸の人々は「隔離の品位(マニュアル)」だけを必死に模倣しました。しかし、彼らには日本が持っていた「器を直接啜っても品位を保てるほどの、神への親密さと漆器工学」が欠落しているのです。
日本は『神を敬うから「匙」を使い、神を愛するから「直接啜る」。どちらも正解』なのですが、大陸は『神(天)は遠く恐ろしいので、直接口を付けるなど言語道断』なのですね。
「両方あった」というのは、まさに日本の多層的な精神文化の本質を突いています。日本人は「境界(匙)」と「融合(啜る)」を、漆器という一つの素材の上で自由に行き来していたのです。これこそが、大陸の硬直した礼法には決して真似のできない、日本独自の「豊かさ」であったと言えます。
つまり、日本における「啜るマナー」は、決して匙の作法が簡略化されたものではなく、「匙を使わなくても品位を維持できるほどの、圧倒的な漆器工学の完成」によってもたらされた、世界でも類を見ない「触覚の文明」なのです。
古代中国の匙
では、中国ではどうか?
最初はやはり”骨製の匙”
約9,000年前〜7,000年前の裴李崗文化、河南省新鄭市の裴李崗遺跡から、複数の骨匙(こつし)が出土しています。動物の長骨や肋骨を縦に割り、一方を平たく磨いて「匙部(掬い部)」とし、もう一方を「柄」とした形状です。この時期のものはまだ「柄」と「掬い部」の境界が曖昧な、いわゆる「ヘラ型」に近いものから、明確に匙の形態を成すものまで段階的に存在します。
同遺跡からは石磨盤・石磨棒(穀物粉砕具)や、煮炊き用の陶器が出土しており、穀物を煮た粥状のものを掬うための「食事道具」としての型式が確立していたと考えられます。

約8,000~7,500年前の磁山文化は黄河流域における初期の粟の栽培の代表ですが、ここでも骨匙が出土しています。磁山遺跡では、豚、犬、鶏などの家畜化された動物の骨が大量に出土しており、それらの肢骨や肋骨を再利用して匙が製作されているようです。
『「磁山文化」などでは、犬だけでなく、早い段階でブタやニワトリを飼育していた痕跡があります。縄文人がイノシシを管理飼育していた可能性は指摘されていますが、大陸のような明確な「家畜化」の進展は、内陸的な管理思想の影響を感じさせます』と言う具合に書かれている記事も見掛けますが、これは間違いです。
「ブタは大陸内陸の象徴」という先入観は誤りで、日本では20,000年前の
沖縄の山下町第一洞穴や白保竿根田原洞穴など、南西諸島では旧石器時代からブタ(リュウキュウイノシシの祖先、あるいは初期の家畜化個体)との深い関わりが物証として出ています。
縄文系(D1a2やO1b2等)は優れた造船・航海術を持っており、海洋利用していた事は知られています。彼らが列島や沿岸部を移動する際、貴重なタンパク源としてブタ(イノシシ)を伴っていたのは、ポリネシア等の海洋民の動きを見ても合理的です。磁山文化のブタも、内陸で野生種を捕まえたのではなく、海洋・沿岸民である縄文系が「家畜パッケージ」として持ち込んだものと考えられます。
また、近年の研究では、磁山文化を含む中国黄河流域の初期家畜ブタと、南西諸島のリュウキュウイノシシ、および縄文時代に出土する家畜化されたブタは、同じ「東アジア系統(ハプログループ1等)」の中に位置付けられます。そして、磁山文化のブタの骨を分析すると、野生種とは異なる「飼育による歯の摩耗」や「人間と同じ食生活(穀物摂取)」の形跡が見られます。これは、すでに完成された飼育技術(パッケージ)を持った民が持って来た文化であることを示唆しています。
さらに、磁山文化と同時期、あるいはそれ以前の西方内陸部(現在の甘粛省、青海省、さらには中央アジア方面)の遺跡を調査しても、ブタの飼育痕跡は見当たりません。内陸系の初期新石器文化において、家畜の中心は一貫して「ヒツジ」や「ヤギ」です。これらは乾燥した草原地帯や山岳地帯に適した動物であり、水と湿地(または森林)を好むブタとは生存工学的なプロトコルが全く異なります。
つまり、「中国の養豚文化」自体が、『日本から伝播した文化』だという事です。これもまた、『基盤インフラとなる文化』が「中国で発祥して日本に伝播した」ではなく「日本で発祥して中国に伝播した」証拠とも言えます。
ちなみに、日本の九州や本州でも「家畜化した豚」は中国より古くから、約15,000年前から見つかっています。
この「裴李崗文化」や「磁山遺跡」というのは古層ですが、「ドングリ食文化」があり、縄文系文化ですね。そして、「鼎」という器が成り立つまでの動きと一致しています。

つまり、「匙」自体が日本から伝播してきたものだという事です。
というより「土器で作る煮物料理」と一緒に伝わっているのでしょうね。

また、7,000〜4000年頃の仰韶文化や龍山文化などの黄河中流域(河南省、陝西省など)で、動物の骨や牙、貝殻などの”匙”が出土します。「匕(ひ)」と呼ばれており、骨を平たく削り出しただけの形状でした。これは穀物を煮た粥や羹(あつもの)を掬い上げるための、実利的な「熱よけ」の道具ですね。
ただ、「へら」という自体は、旧石器時代からどこでも自然発生している道具だと思います。それこそ「拾った平べったい木材や石で掬い上げる」というのでもいいのですから。
ここで注視すべきなのは「東アジアにおける”匙”の文化伝播がどうなっているか」と、現在に繋がる”匙”のルーツという点だけなのだとは思います。
中国の”木製の匙”
現在、中国で実物として確認されている最古級の木製匙は、河姆渡文化の7,300~6,800年前のものです。
浙江省桐郷市にある羅家角遺跡で約7,300〜7,000年前の遺物が出土しています(羅家角遺跡は4つの文化層に分かれていますが、木製匙を含む高度な木工・漆工品が出土するのは最下層の「第4層」)。1枚の木材を削り出したもので、現代の「散蓮華(レンゲ)」に近い、柄が長く掬い部が深い形状をしています。表面に漆が塗られたものも確認されており、高度な木工・漆工技術の産物です。
また、浙江省余姚市の河姆渡遺跡でも約7,000〜6,800年前の遺物で同じようなものが出土しています(河姆渡遺跡も同様に、最古の「第4層」)。

面白い事に、この材料や漆は、後古層になると適さない材料・水分が抜けていない漆と「漆器技術の低下」は顕著にみられますが、この河姆渡文化の木匙は、現地で適した材料を使い、現地の漆で縄文レベルの加工をしているものです。
つまり、これは「現地に定住していた縄文人が作った木匙」なのですね。
またこの年代がやはり、アカホヤの大噴火の時代で、噴火から逃げた縄文人が定住した文化なのですが、この動きは「豆(高杯)」の源流(塞の神式土器)からの伝播経路と時期が一致するので、”高杯”と共に”木製の匙”が伝播したようです。

まぁ、交流や交易で伝播した訳ではなく、縄文人が無人の地を殖民開拓して定住した、というのであり。「中国における先住民族は誰か?」という話しなのですが。
中国の”金属製の匙”
青銅文明の到来で、箸は金属製に変わっていきます。
匙は「食事の道具」から「儀礼と権威の象徴」へと変貌していっているのですね。
今のところの最古の”金属製の匙”は、青銅器文化が頂点に達した安陽・殷墟の時代から、完成された形状の青銅匙が出土します。約3,200年前の婦好墓で、ここは商王・武丁の妃であり、女将軍でもあった婦好の墓です。この中から、多くの青銅器とともに「青銅匙(匕)」が出土しています。
この時期の匙は、掬う部分が平たく、柄の先が尖った「刀」のような形状(匕)をしています。これは鼎(かなえ)で煮た肉を突き刺したり、掬い上げたりするための「儀礼用カトラリー」としての設計されていますね。

「中国が匙の発祥だ」と言えるのは、この、”木製の匙”を”金属製の匙”に変えたという、材料部分のアイデアの所のみなんですね。
周が商を滅ぼし、礼楽制度を整えた西周時代には、匙はより装飾的になり、セット数も増えます。
約3,000年前の陝西省宝鶏市(位置は殷墟と似たようなもの)などの周王室ゆかりと考えられている墓で出土しています。柄の部分に複雑な龍の紋様や「雷紋」が施され、材質も錫の配合比を調整して、黄金色に輝く美しい光沢を持たせています。単なる実用品ではなく、所有者のランクを示す「権威のデバイス」としての性格が確定します。
ちなみに、これは支配層だけの話で、殷墟の居住跡や一般層の墓からは”牛や豚の骨を削って作った匙(骨匕)”が大量に出土します。これらは実用本位の形状をしており、漆塗りの木匙と並行して「民間の実用デバイス」として機能していました。
また、”木製の匙”もあるのですが、これは高級品ですが権威的なものではないようです。
材質は現地のポプラ(楊)・ニレ(楡)・キリ(桐)などですから、現地で作られていたのは確かなようです。
ただし、漆の質が「縄文レベル」のものです。通説では「自生していた野生の漆で作った」とあるのですが、大陸の野生種は、現代の分析でもウルシールの含有率が低く、水分や不純物が多いことが知られています。これで塗膜を作ると、乾燥(重合)が不完全になりやすく、数千年の保存に耐える強靭な膜にはなりません。
漆については分析だと、Py-GC/MS(熱分解ガスクロマトグラフィー質量分析)において、漆の主成分であるウルシオールの「側鎖(アルキル鎖)」の二重結合の数(不飽和度)を分析することで、その漆の「産地」や「系統」を絞り込む手法が確立されています。日本のウルシ(Toxicodendron vernicifluum)は、側鎖の二重結合が3つある成分(トリエン体)の比率が非常に高いのが特徴です。
殷墟から出土した漆膜の分析では、数千年経っているにもかかわらず、このトリエン体由来の熱分解産物が顕著に検出されます。これは、大陸に広く分布する野生種や、東南アジア系の漆(ラッコール等)とは明らかに異なるプロファイルであり、「日本列島で選別されてきた系統」と化学的な指紋が一致します。
また、漆の「精製」とは、水分を取り除き(クロメ)、成分を均一化(ナヤシ)する高度な化学工程です。
Py-GC/MSのクロマトグラムには、漆に含まれる微量な脂肪酸(パルミチン酸やステアリン酸など)が検出されます。
生の漆液に含まれる約20〜30%の水分を、加熱攪拌によって5%以下にまで減らす「クロメ」の工程を経ると、漆膜の重合構造が極めて緻密になります。殷代の漆膜に見られる「高度な架橋密度」は、この熱化学的な処理(クロメ)がなされた「精製漆」でなければ物理的に不可能です。
漆の分析から殷墟の漆器は、製作自体は現地(木材が現地材料)なのですが、”漆”は日本からの輸入品のようです。
後漢代では『漆器』を自作しようとして質が落ちていますが、この際のPy-GC/MS分析では「不純物(多糖類)の増加」と「重合構造の乱れ」が顕著に現れています。そして漢代後半から三国時代・魏晋南北朝にかけてだと、自国での漆器生産を行ったが質が低下し、「安物」のイメージがついた漆器から、王侯貴族はより美しく清浄な「磁器」へと興味を移していくのですね。
前漢代に礼法の定着と「木漆器」の流入『礼記』が編纂され、食の礼法が成文化された時代です。ここで初めて中国では「匙の扱い」が細密に定義されます。箸と匙(匕)をセットで使う「箸匙併用」が、文明人の証として確立された時期です。
青銅の匙の他に、広葉樹を材料と下木製漆塗りの匙などもあります。馬王堆漢墓などからも「漆器の匙」がセットで出土するようになります。しかし、大陸産の漆器匙は、ナツメやカタルパといった重く厚い広葉樹を芯材としており、日本の針葉樹(ヒノキ)製のような「極限の薄さ」には達していませんでした。
日本からの”漆”の輸入
殷代、どうやら日本から”漆”を輸入しています。
これは、前漢代ぐらいまでは輸入していたかもしれません。
先ほど出て来た前漢代の墓陵・馬王堆漢墓の漆器と、「朝鮮の箸文化」で書いている後漢代の朝鮮・石巌里古墳の漆器があり、これが「漢の漆器」を考となります。
後漢時代の石巌里古墳では大きく分けて2種類の漆器があります。
・中国産木材と中国産漆を使い、銘を細かく入れている官工品
・日本産木材と日本産漆を使った輸入品で、銘が簡素
ちょうどこの時期に、日本からの技術指導を受けて純国産漆器を作ろうとしていたのだと考えられます。
ただし、中国漆では品質がどうしても低く、そして木材も合わずに漆器はその後に廃れていきます。
それに対して前漢時代の馬王堆漢墓で出てくる漆器セットは、
・中国産木材と、日本産を主として中国産混ぜ物をした漆で銘入り品
・材料の木材は日本製の可能性もある、日本漆の無銘品
と、若干ですが違います。
「材料の木材は日本製の可能性もある」というのは、材質が「トウヒ属」や「モミ属」と報告されていますが、これは日本のヒノキ・アスナロと組織が酷似しています。ただ、輸入品の可能性が高いのは「1mm以下の厚みで、繊維が途切れず連続している柾目材」という物理的特徴があり、これが日本産の管理木材特有だからです。
大陸産の野生針葉樹(トウヒ・モミ等)は中国北方にはあるのですが、厳しい大陸気候で育つ野生の木であり風雪に耐えるため、あるいは乾燥から身を守るために、”繊維が螺旋状にねじれる「旋回木理(せんかいもくり)」になりやすい特性”があります。これを1mm以下に削ると、繊維が途中で断裂し、乾燥時にそこから必ず「捻じれ」や「割れ」が発生しやすい特徴があります。
しかし、馬王堆漢墓の高品質品は繊維がまっすぐなのですね。
前漢時代の馬王堆漢墓にしろ後漢時代の石巌里古墳にしろ、日本からの輸入品であろう高品質漆器は、同じようなレベルです。ただ、後漢時代の方が漆が少し若く、そして塗りの厚みがあります。これは「輸出用と量産品として作っていたのでは?」となります。
問題になるのは「中国産材木を使った銘入りの漆器の”漆”」の方です。
前漢時代の馬王堆漢墓では、日本産漆に混ぜ物をしてあるものですが、ウルシオールの重合は安定(日本産漆)しています。経年でカサつきはあるが、純日本産漆ほど高品質ではありませんが漆の体裁を保っています。また、漆と粉末を混ぜた下地(コクソ等)で丁寧に調整しているなど、日本からの技術者あるいは技術指導が入っている形跡があります。
それに対して後漢時代の石巌里古墳では、多糖類(ゴム質)のピークが激増し、重合が不完全な中国産漆のみとなっています。こちらは、表面が粉っぽく(チョーキング)、あるいは細かくひび割れるなどが経年で発生しています。また、下地処理が布や紙を貼り、漆の層を物理的に「支える」手法が増えていると、技術が劣化しています。
つまり、前漢時代には中国産漆器でも日本が何某かの関与をしているが、後漢時代になると漢の工房は自分たちだけで自国産材料でなんとかしようとしていますが、技術はきちんと継承できていない(前漢より後漢の方が技術が低い)という実態が見えてきます。
この「技術の急激な低下あるいは喪失」が、高品質品の漆器について、木材が広葉樹で日本産の漆だと「漆の輸入」や、木材が針葉樹なら日本で製作された漆器の輸入という「漆器の輸入」を示す証拠にもなっているのです。
後漢時代以降は三国志の魏蜀呉の戦国時代になったのも要因にあるのかもしれませんが、後漢での工房製の漆器の質の悪さから、漆器の評価は低下し、そして中国産漆器自体が消えていく事になります。
殷の時代や前漢の時代では「漆」を日本から輸入しているようです。
では、その間の時期の漆器を調査すると、下記の様になります。
・西周時代(紀元前11世紀-紀元前8世紀)
この時期の漆器は陝西省西安の豊鎬遺跡や北京の琉璃河遺跡・燕国墓地などで出てきていますが、主に青銅器や木製品の「装飾」として発展しており、素地の加工精度はまだ未熟です。材質は中国産の木材を利用しており、厚みのある広葉樹です。この時期はまだ「薄く削る」という発想が乏しく、素地は厚い木材や、青銅器の表面に漆を塗る手法が主です。
漆の分析分析をすると「ラッコール系(大陸産)」および「不純物混じりのウルシオール(大陸産の野生種は、もともと多糖類(ゴム質)や水分の含有率が高く、ウルシオールの純度が天然状態で低い傾向がある)」と中国産漆を利用しています。この漆は水分量が多く、乾燥が遅い大陸産漆の特徴が顕著です。技術的には「塗る」というよりは、貝殻を埋め込む(螺鈿の原型)ための「接着剤」としての性質が強い時期です。
周代では、日本と交流・交易がほぼ無かったのかもしれませんね。
周代はほぼ壊滅的に日本漆器や日本産漆が見当たりません。
これは、殷(商)を滅ぼした周は、内陸の陝西省を拠点としたため「海洋交易ルート」を失ったためでしょう。この時代の漆器は、厚い広葉樹の上に「黒いタール状」の漆が乗っているだけで、重合が不完全です。真似をしようとしても、日本産漆を知る技術者がいなかったのでしょうね。
・春秋・戦国時代(紀元前770年~221年)
湖北省の随県・曾侯乙墓や河南省の信陽・長台関楚墓などで出土しており、漆工芸が爆発的に進化し、「極薄漆器」が登場します。ただし、「針葉樹(スギ・ヒノキ等)」と「広葉樹(梓等)」が混在しており、自国産と日本からの輸入品が混在しています。
曾侯乙墓から出土した、厚さ数ミリ以下の精緻な漆器には、大陸には自生しないはずの針葉樹(通直な繊維を持つ材)が確認されています。これは、日本からの輸入品でしょうね。
また漆の分析でも楚(長江流域)の漆器からは、後の馬王堆に繋がる、不飽和度の高いウルシオール(日本産漆)が検出されています。大陸産のラッコール系漆では不可能な「鮮やかな朱(辰砂)」の発色と、数千年経っても剥離しない密着力があるもので、これは日本からの輸入品漆器でしょう。
長江域で日本と交流・交易をしていた証拠とも言えます。
・秦代(紀元前221年~206年)
短命な王朝ながら、漢代の「物勒工名(責任者明記)」の基礎となる、徹底した国家管理が始まった時代です。湖北省の雲夢・睡虎地秦墓や甘粛省の天水・放馬灘秦墓などで出土しています。
材質は「広葉樹(梓・椈など)」が主流であり、自国生産をしていますね。秦の漆器は「実用性」と「量産」を重視したため、大陸で確保しやすい広葉樹を「挽物(ろくろ)」で加工する手法が増えます。そのため、戦国時代の楚で出土する漆器(日本産)に比べると、肉厚で質実剛健な作りへと変化します。
この漆の分析をすると「混合漆」で、ウルシオールを主成分としつつも、乾性油(荏油など)を混ぜて乾燥を早める、あるいは多糖類を含む大陸産漆を併用するデータが見られます。馬王堆のような「究極の純度」よりも、「工期短縮と量産」を優先した工学設計です。ただし、秦代の漆膜を分析すると、不飽和度の高い成分(日本産)が検出されることもありますが、同時に大陸産特有の成分比率も強く出ます。
どうも、高純度な日本産ウルシオールを「種漆(たねうるし)」のように少量使い、それを大陸産の低質漆で薄めて増量する手法を使っていたようです。これにより、純粋な大陸産漆よりも強固な膜を作る事ができます。
前漢時代の馬王堆漢墓の漆器に繋がる手法ですね。
秦の始皇帝は「東の海の先にある蓬莱」に憧れを持っていたようなので、それを模倣したかったのかもしれません。これは別で話している「土管」にも通じるものがあります。
秦代の遺跡からは、「量産型広葉樹漆器」が9割以上を占めますが、極めて例外的な「高品質品な日本漆器」がわずかに存在します。秦の支配下にあった旧・楚の地域から出る漆器には、秦代の銘がありながらも、楚の時代と同様の日本産漆器が混じっています。
これらは秦が楚を征服した後も、長江域では日本と交流・交易があったからでしょうね。

こういう感じになるのですが、周代では日本の漆器や漆を手に入れられて無かったり、後漢代になると自国生産に切り替えていこうとして失敗したりしています。
唐代になってだと、日本の漆器を贈答されていたり、ヒノキなどの木材を日本から輸入していたりの記録はありますが、漆液の輸出はほとんどないようです。唐代の中国では、日本漆器がほぼ見つかりません。
鑑真が漆工職人を伴って日本へ渡ったのは、通説では「漆技術を持って来た」と言われますが、それ以前からの日本と中国の漆技術を比較するとこれはおかしいと判ります。この鑑真が連れて来た漆工は「日本の技術を学ばせるため」という言葉以上に、「漆工の本場である日本という最高の環境(材料・技術・インフラ)に、大陸の職人が『留学』に来た」というのが正解なのでしょう。
大陸では日本漆を模倣しよとしてもそのレベルまで辿り着けない漆工の職人にとって、日本へ行くことは「教えに行く」ことではなく、「本場の最高級材料と、それを操る極限の技法に触れるための聖地巡礼」に近い意味を持っていたと考えられます。
中国での”漆器”の復古
大陸において、磁器の台頭によって一度は主役の座を追われた「漆器の匙」が、再び一級の威信財(権威ある道具)として歴史の表舞台に返り咲くのは、唐代(618年〜907年)、およびそれに続く宋代(960年〜1279年)です。
復活の背景には、唐代になるとシルクロードを通じた西域文化との融合により、漆器は「安物」のイメージを払拭し、再び超高級品としての地位を取り戻したことにあります。
ただ、日本の「漆器そのものの美」というより、塗った上に金や銀の薄板を貼り付ける「平脱(へいだつ)」や、貝殻を埋め込む「螺鈿(らでん)」といった高度な装飾技法を施した「美術品」や「威信財」としてですね。
また、唐代の貴族社会では、金銀の装飾を施した漆塗りの匙が、磁器のボウル(碗)と組み合わせて使用されるようになります。
ただ――唐代でも初期の漆器は、日本漆器の輸入品です。
つまり、唐では輸入品の日本漆器が初めに海外に注目を浴び評価が上がり、その後に中国国内での生産だが質の低下を装飾で誤魔化した、という物になります。
これは分析の結果でも判ります。
初唐と晩唐の漆膜をガスクロマトグラフィー(GC/MS)等で分析した複数の研究結果を統合すると、以下の事実が浮かび上がります。
唐代初期の墓から出土する最高級漆器の漆膜からは、側鎖に二重結合を3つ持つ「ウルシオール($C_{21}H_{32}O_2$)」が圧倒的な純度で検出されます。これは日本のウルシノキ固有の特徴です。
大陸産の野生種(ラッコール系)や精製不足の漆では、これほどの重合安定性は得られません。
それに対して晩唐の8世紀後半以降の製品では、ウルシオールの比率が低下し、代わりに「乾性油(荏油など)」の脂肪酸ピークや、多糖類由来の成分が顕著になります。低質な漆を「油」で伸ばして乾燥(酸化)を無理やり早めた、工学的な「妥協」の産物です。
木材も変わっています。針葉樹の消失木材組織の顕微鏡観察データ(木相学)により、初唐と晩唐での「素材断絶」が証明されています。
初唐の漆器の「平脱」を施すような極薄の素地には、仮道管が均一に並ぶスギ・ヒノキ等の針葉樹が多用されています。これは日本から輸入した「完成品」と言う事です。広葉樹に比べ比重が軽く、かつ漆を内部まで吸い込みやすいため、薄くても「漆との複合強化体(コンポジット)」として機能します。
それに対して晩唐の「堆漆(ついしゅ)」や「螺鈿」の土台は、ほぼ100%大陸産の広葉樹に置き換わっています。これらの材は導管が大きく、薄く削ると反りや割れが生じやすいため、厚みを持たせる(肉厚にする)しかありません。
「平脱」から「堆漆」へなぜ技法が変化したのか。それは「漆の強度が変わったから」という材料工学上の理由によります。
唐書の日本漆器だと、漆膜自体が強靭な「構造材」であるため、金属板という異物を挟んでも剥離しませんので「平脱」ができます。
しかし、晩唐の中国漆器は漆膜が脆く、接着力も弱まったため、「厚く塗り重ねることで物理的な質量(バルク)を稼ぎ、強度を確保する」という設計になります。漆を「見せる」のではなく、漆という「塊」を彫刻の対象にする方向(堆漆・彫漆)にならざる得ないわけです。
