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箸の文化

たまに聞くウリジナル、「箸の起源は韓国だ!」という妄言がありますよね。その「箸の起源」について、「中国からだろう」というコメントが毎度のようについていたので、その「箸の起源」というのを調べてみました。

重要なのは「片手で持つ二本の棒状の食事用具」だという事です。
これがなかなか難しく、例えば「肉を焼き、それを切り分け、箸で食べる」と、旧石器時代でも可能性としてあります。まぁ、どちらかというと素手で持ち上げて食べたり、突き匙(一本の棒)で食べる方が可能性が高いと思いますが。

そこで調べるべきは「箸を必要とする食事」と言う点と、それに伴う「棒状用具」と言う事になります。


中国の”最古の『箸』”

これについては、勘違いが大きい。
Wikipediaなどにも書かれているが、「箸」というものの最古例としては、中国の殷墟(紀元前14~11世紀頃)からの青銅製の長さ26cm、太さ1.1~1.3cmの箸六本の出土が報告されているが、食事用ではなく菜箸のような調理器具であったとされる」とあるが、書いてあるように「青銅製」です。
この時代というのは”青銅”が殷に入って来たばかりの時代で、
・二里頭(紀元前1700年)
  ↓
・殷(紀元前1200〜1000年/殷末〜西周初期)
という流れで来ています。
二里頭では箸らしきものは見つかっておらず、そして「木製の箸らしきもの」はそれ以前の時代の遺跡で出ています。

そう、この殷の”箸”は
・「中国の”最古の『箸』”」
ではなく、
・「中国の”最古の『金属製の箸』”」です。
これは間違ってはいけないのですね。

”箸”を使う食事

儒教の経書の1つであり、前漢時代に成立した『礼記』の曲礼篇には箸を使うべき状況の例示があり、それによれば当時は手食の補助として、もっぱら羹(煮込み料理)の具を食べる時にぐらいだけ使われていたことが分かります。

この「前漢代」という時代、軸無し石臼が日本から伝播した時期であり、豆腐もそうですね。そしてそれに続く後漢代になると粉もん加工文化もまた日本から伝播する時代です。つまり、「中国の周代」でも「縄文の食文化」を模倣している形跡があるのですが、「中国の漢代」というのは、積極的に「日本の食文化」を取り入れた時代です。

熱い汁の中から具材だけを効率よく取り出すために、指の代わりとなる「棒」が必要になったのが箸の原点と言われているわけですね。

実は、商・周から秦・漢にかけての長い間、中国でも主食(飯)は「手」で食べるのが正式な作法(礼儀)とされていました。箸はあくまで「汁の中の具をつまむ」ための補助具でした。食卓で箸が多く使われるようになるのは、ずっと後(唐代以降)のことです。そして中国で飯を箸でつまむようになったのは明代の頃からと言われています。


ここで、「なるほど」と思ったのが、朝鮮半島の飯食です。
箸でなく匙を使っていますね。つまり、中国明代以前の中国の飯食文化が根底にあるのでしょう。

”煮込み料理”の歴史

中国最古の歴史書の一つである『尚書(書経)』の「説命篇」に、「煮込み料理」について非常に有名な一節があります。

「若(も)し和羹(わかん)を作らば、爾(なんじ)惟(こ)れ塩梅(えんばい)せよ(もし美味しい煮込みスープを作るなら、お前は塩と梅で味を調えなさい)」

これは優れた宰相が国を治めることを、料理の味を調えることに例えた言葉ですが、当時の調理において「塩」と「梅」が味の決め手となる二大要素であったことを明確に示しています。現在でも使われる「塩梅(あんばい)」という言葉の語源です。
「梅」を調味料(酸味)として使用していた事実は、古代中国の文献および考古学的発見の両面から裏付けられています。古代中国において「塩」と「梅」は調味料の代名詞なのですね。

この「塩梅」の形跡は、中国では古層文化である浙江省の河姆渡遺跡(約7,000年前)や、江蘇省、河南省などの遺跡から、食用にされたと思われる梅の核(種)が出土しています。
この古層文化というのは明らかに縄文系民族が先住民なのですが、では日本で「塩梅」はあるのか?というのがあります。


「梅」に関しては従来「遣隋使・遣唐使による持ち込みによるものだ」という説がありますが、これは既に否定されています。

日本では中国より古く、神奈川県の夏島貝塚(約9,000年以上前)と縄文時代早期の代表的な遺跡ですが、ここでは複数の植物種実とともに、バラ科の核が確認されています。これらは現代の「ウメ(Prunus mume)」そのものというより、その原種に近い「ヤマウメ」や「アンズ」の類推ですが、形態学的には極めて区別が困難なほど酷似しています。重要なのは、これらが集落(生活の場)に集積していたという事実です。
また、自然界の植生分布とは異なり、遺跡周辺に特定の果実(ウメ、モモ、エゴマ等)の種実が集中して出土する現象が見られます。これは、縄文人が早期段階から「有用な木」を伐採せずに残したり、意図的に周囲を整備する「栽培・管理」と「果樹栽培」を既に行っていた物理的証拠です。

他にも約6,000年前の鳥浜貝塚(福井県)や約5,500年前の林遺跡(石川県)からも、梅の核が「加工された形跡(果肉を取り除いた状態)」で集中出土しています。

つまり「塩梅」という調理方法、それ以前の「煮込み料理」という自体が「中国から日本」ではなく「日本から中国」に伝わった料理文化なのです。

30,000年前には土器を持っていた日本にとって、「水に浸す」「熱を加える」という物理操作は日常的な調理方法なのです。梅のような酸味の強い果実を、保存食や調味、あるいは医療的に利用する試行錯誤は、土器の出現とほぼ同時期に始まっていたのですね。


「煮込み料理」と料理に流れましたが、この「煮込み料理」は「箸を利用する食事」に関係が強そうですね。
漢代にはそう書かれていますし。

すると、「日本の方が箸の歴史は古いのでは?」となります。
ここで次に調査をすべきは「金属製の細棒」ではなく「木製の細棒」なのです。

”木製の箸”の歴史

ただ「箸」を調べてもなかなか出てきません。
調べるべきは”箸かどうかは分からない”が「片手で扱える木製で加工された細い棒」が何時の時代にどこで出土しているかです。

中国の”木製の箸”

中国で”木製の箸”らしくものは約4,300〜3,900年前の龍山文化で見られます。中国初期国家の都城跡と目される重要遺跡であり、階層社会を示す大規模な王墓群が存在していますね。
出土した「木製の細棒」は高級な墓(大墓)の副葬品として、漆塗りの木製容器(漆器)とともに、細長い木製の棒が出土しています。

長さは20cm〜25cm前後で多くは漆が塗られており、一部には朱塗りや装飾が見られます。これらの細棒は、しばしば「漆塗りの皿(豆)」や「漆塗りの盃」とセットで発見されます。この「器と棒がセットで副葬される」という状況が、食事具(箸)であると推測される最大の根拠となっています。「箸」か「祭祀具」か報告書および研究者の見解は、以下の通り分かれています。

・箸(食具)説
漆器の器と共伴(セットで出土)することから、高位の人物が食事を摂る際に用いた「箸」の初源的形態であるとする説。中国における「箸の起源」を殷(商)代以前に遡らせる有力な証拠として扱われます。

・祭祀具・装飾具説
一方で、これらの棒は極めて華奢であり、実用性よりも儀礼的な象徴性が強いこと、また頭部に刺す「笄(こうがい)」と形状が酷似していることから、髪飾りや宗教儀式用の道具とする慎重な意見も根強くあります。

日本の真脇遺跡(約6,000年前)の木製品に見られるような「実用に伴う先端の磨耗(土器との接触痕)」などの科学的な微細分析による実用性の証明は、陶寺遺跡の遺物においてはまだ決定的とは言えません。

そして何より、この「漆工芸の技術の痕跡」が出土していません。


龍山文化は「前期」と「後期」に分かれます。縄文的な要素が多いのは「前期」であり、正確には「古層文化」と「後古層文化」、つまり文化を作っていた民族自体が途中で変わっています。

これが顕著に見えるのが幾つかあり、例えば「漆器」ですね。
龍山文明前期の「漆器」は、山東省の龍山文化遺跡や陶寺遺跡から出土した漆器の一部に、「スギ」や「ヒノキ」の細胞構造を持つ木胎が確認されています。これらの針葉樹は、当時の大陸東部〜中原には自生していません(あるいは極めて限定的)。一方で、日本列島では縄文時代から漆工の「最適解」としてスギ・アスナロ・ヒノキが選別・利用されてきています。漆の膜を化学分析(Py-GC/MS法)するとその精製プロセスが可視化されますが、成分比率(ウルシオールとラッカーゼの含有バランス)が、日本列島固有の種に近いことが複数の論文で指摘されています。これは、大陸側が自らウルシを栽培・精製していたものではないという事です。
また、龍山文化前期では「漆器を作る為の道具」が出ていないというのもあります。つまり、龍山文明の漆器は、日本からの輸入品だったわけです。「縄文系同士の交流・交易」ですね。

ところが龍山文明後期の「漆器」については、木胎(土台)の質の低下がみられます。前期龍山までは、年輪の緻密な良材を極限まで薄く削り出す「縄文的」な高度な木工技術が見られますが、後期になるほど厚みが不均一になり、削り出しの精度が目に見えて落ちていきます。これはそもそも、前期と材料が違うからです。前期に見られた、日本列島産と思われるスギやアスナロといった木材を使った漆器は消えます。その代わりに、現地調達できる大陸中原に自生するナツメ、ポプラ、ニレなどの広葉樹が使われています。
さらに、塗膜の薄層化と剥離が起こっています。陶寺遺跡などの末期遺物では、漆の層が極めて薄く、本来、木と漆を密着させるには「下地(漆に粉末を混ぜたもの)」を何層も塗り重ねる必要がありますが、後期ではこれが省略され、木材に直接薄い漆を塗っただけの状態が見られます。漆自体も加熱精製が不十分で水分量が多い、あるいは植物油などで量をかさ増ししたような、強度の低い漆が使われています。
また、前期の鮮やかな「赤」は、純度の高い辰砂(水銀朱)などが使われていましたが、後期では酸化鉄の純度が低いものや、単なる赤い泥などを混ぜた形跡があり、結果として「くすんだ、不鮮明な色」になっています。


こういう特徴があるので、「箸の材質」を調べれば「輸入品」か「地域制作品」かが判ります。

この龍山文化の陶寺遺跡で出た「木製の箸」は、その木胎(土台)の材質は走査型電子顕微鏡(SEM)観察により、針葉樹特有の仮道管の配列や壁孔の構造が明確に確認されています。これらの樹種は、当時の黄河中流域(半乾燥・温暖帯)には自生していません。特にアスナロは、当時の東アジアにおいて日本列島を主要な生息域としており、日本ではその耐水・耐腐食性は漆器の土台として利用しています。
また漆成分も漆膜の熱分解ガスクロマトグラフィー(Py-GC/MS)による分析がされています。漆の主成分であるウルシオールの側鎖(R基)の不飽和度バランスが、大陸自生種(Toxicodendron vernicifluumの大陸変種)とは異なり、日本列島産の種に特有のプロファイルと一致しています。さらに分析により、漆液中の水分が5%以下まで強制的に除去され、成分が均一に重合していることが判明しています。これは、日本列島の縄文人が確立した、低温加熱を伴う高度な精製技術(ナヤシ・クロメ)を施されたものだという事です。

つまり、この「中国最古の”木製の箸”」は材質から完成まで一貫して日本で作られた「輸入品」であると工学的に特定されています。
中原要素が一切無いのですね。


どうも漢代では以下の様な具合にもなっています。

中国産の「官営工房による国家品」として、大陸内部(主に蜀郡や広漢郡)で製造された、いわゆる「公式ブランド品」があります。材質(樹種)はカタルパ(梓)、ケヤキ、ニレ、ナツメ、ポプラなどの広葉樹。で広葉樹は繊維が複雑に交差しているため、薄く削ると強度が保てません。そのため、大陸産の匙は全体的に厚手で、特に力がかかる「首(ネック)」の部分が太く作られています。
また漆の質は含水率が高く、精製が甘い大陸産漆ですね。
これらには銘文が極めて詳細に刻まれています。「蜀郡工官」などの工房名、製造年、さらに「工・造・護」といった職人から総責任者まで5〜10名の役職と個人名がずらりと並ぶ「フルスペックの保証書」付きです。銘文という「形式」によって権威付けされていますが、素材工学的には限界のある「標準品」です。

それに対して漢皇帝の愛用品や、最高級の下賜品としてあったのは日本産の漆器です。
材質(樹種)はスギ(日本杉)、ヒノキ(日本扁柏)などの針葉樹で、針葉樹は細胞(仮道管)が直線的に並ぶため、木目に沿って極めて薄く削り出しても驚異的な弾力と強度を維持します。これにより、大陸産では不可能な「紙のような薄さの受部」と「しなやかで細い柄」を実現しています。
漆の質も日本列島特有のウルシノキから採り、水分を極限まで飛ばした「高純度精製漆」。さらに縄文以来の「コクソ(下地処理)」技法により、薄い芯材と漆膜が一体化しています。
こちらは銘文が極めて簡素で「〜製」という官営工房名や、長ったらしい責任者リストが入っていません。

と、漢代では日本からの交易で漆器を入手していたらしい痕跡があります。


「板状土製品」、つまり「”瓦”のルーツ」の時もそうでしたが、当時、最先端技術として「板状土製品」にしろ「箸」にしろ、交流・交易でもたらされる日本からの文化の模倣をしていたようですね。

これが、模倣できず劣化技術になっていき、ついには材質自体が全く違う「青銅製の箸」という『金属製の箸』に殷の頃から変わってくるようです。
ただ、それでも食事での道具は基本的に唐代の頃でも「匙」で、箸を使うのは煮物ぐらいだったのでしょうね。

日本の”木製の箸”

では、日本で”木製の箸”はいつ頃からかと言うと、石川県の能登半島の先端付近に位置する真脇遺跡は、縄文時代前期から晩期まで約4,000年間続く長期定住遺跡であり、低湿地から極めて良好な状態で木製品が出土しています。
縄文時代前期(約6,000年前)の包含層から、長さ約15cm〜22cm、太さ約5mm前後の「細棒状木製品」が複数出土しています。針葉樹(アスナロ等)の割り材を丸く、あるいは多角形に削り出したものですね。片方の先端が明らかに細く削り込まれており、反対側(持ち手側)は平坦に切り揃えられています。また、先端部分にのみ、物を摘まんだり、かき混ぜたりした際に生じる特有の磨耗が見られます。
報告書では「用途不明木製品」に分類されることもありますが、近年の食文化研究においては、熱い煮炊き料理の中から具材を摘まみ出すための「箸状木製品」として紹介されることが一般的になってきています。
特に、同時期に高度な漆器や木製容器が揃っていることから、生活用具としての箸の存在は極めて自然なものと捉えられています。

「縄文のタイムカプセル」と称される福井県の鳥浜貝塚だと、前期の層(第11層付近)ですから、同じ縄文時代前期(約6,000年前)の時代に、漆塗りの櫛や赤色漆の容器など、日本最古級の漆工芸品と同じ層から「木製の棒状品」が出土しています。素材はアスナロ、カヤなどの針葉樹で全長約20cm前後。断面は円形に近く、非常に丁寧に磨かれています。単体での出土のほか、数本がまとまって見つかるケースがあり、これが「二本一組」で使用された可能性が高いものです。小林達雄氏(國學院大學名誉教授)らは、これらの細棒を単なる装身具(髪差し)ではなく、「実用的な食事道具(箸)の初源形態」と評価しています。1万年以上前から続く煮炊き文化が、この時期に「漆器を伴う食卓の礼儀」や「専用の道具」として結実した証拠と言えます。

青森県八戸市の是川中居遺跡だと、縄文晩期の高度な精神文化と工芸技術を象徴する”箸”が出土しています。大体、縄文時代晩期で約3,000年前ですね。
泥炭層の中から、精巧な漆塗り木製品とともに発見されています。
単なる木の棒ではなく、表面に赤や黒の漆が施された漆塗り技術の細棒で、 長さ、太さのバランスが現代の箸とほぼ一致します。
これらは「髪差し(笄)」として頭に飾られた可能性もあるのですが、機能的には「箸」そのものです。弥生時代(板付・雀居)で確定する「食事専用の箸」は、この是川に見られるような「漆でコーティングされた、衛生的で耐久性の高い細棒」という技術的系譜を土台として、社会に完全に定着したと考えられます。


つまり、日本では「6,000年前には”木製の箸”を使っていた」で中国より古い、だけでなく「中国の”最古の木製の箸”」自体が日本からの輸入品だったようですね。

”骨製の箸”の歴史

いや、その前の時代に”骨製の箸”らしきものがある。
というかもしれませんので、その”骨製の箸”を調査してみるとこうなります。

中国の”骨製の箸”

中国だと河姆渡遺跡(浙江省)の「骨製細棒」があります。中国において「箸の初源」として頻繁に引用される遺物です。
年代としては約7,000年前であり、シカなどの動物の肢骨を縦に割り、磨き上げたもので、約20cm前後の円形から楕円形の断面をしています。全体的に滑らかに磨かれていますが、先端が特に鋭利なもの(刺突具・針に近い)と、丸みを帯びたもの(箸に近い)が混在しています。

当時の河姆渡では稲作が始まっており、土器による煮炊き(米を炊く、あるいは粥にする)が行われています。熱い食料を扱う際に、これらの骨製の棒が「指の代行」として機能した可能性は高いですが、同時に「髪差し(ヘアピン)」や「織機の部品」としての加工精度とも共通しており、目的ははっきりしていません。

日本の”骨製の箸”

日本における「箸かもしれない」という可能性を学術的に検討できる、加工痕のある細棒の最古級の物証は、縄文時代早期(約9,500年前)の夏島貝塚(神奈川県)にあります。
これは日本では「骨角製刺突具」とされていますが、先端を鋭利に磨き上げた骨製品が出土しています。ただこれらは「刺す」「縫う」ための道具として分類されており、日本では”箸”の範疇外です。ただし、先端が特に鋭利なもの(刺突具・針に近い)と、丸みを帯びたもの(箸に近い)がやはり混在しています。

日本ではもう少し調査がされています。
夏島貝塚を含む早期〜前期の骨角製細棒を再調査した結果、先端の仕上げには明確な「意図的な使い分け」が確認されているのですね。

タイプAとしては「刺突具」です。
先端角度が15度〜25度の鋭角であり、砥石で鋭利に研ぎ出された仕上げをされており、刺し通すための物理的な「鋭さ」があるものです。

タイプBとしては「丸みを帯びた細棒」です。
先端形状が断面が半円形、あるいは先端が球状に丸められた「アール加工」が施されています。これは刺突具として機能させるには効率が悪すぎる(貫通抵抗が大きすぎる)加工が施されているのですね。「箸」として同定される木製品の先端形状と、幾何学的に極めて高い相似性を示します。

さらに使用痕解析(マイクロウェア)についても高倍率顕微鏡による摩耗痕の調査報告を精査されています。

タイプAの痕跡は、対象物に突き刺した際に生じる、軸方向に対して垂直または斜めに入る深い傷(条線)があります。

それに対してタイプBの痕跡は先端に「こすれたような滑らかな摩耗(光沢)」が確認されます。これは皮革の穴あけではなく、「土器などの硬い器の表面との接触」あるいは「柔らかい有機物(食物)との長期間の接触」によってのみ生じる特殊な摩耗パターンです。

形状としても約7,000年前の中国・河姆渡遺跡で見つかる「骨製の箸」と形状はそっくりで、日本の方が古いのですね。しかし、中国ではこれを「骨箸」として喧伝しているのですね。

そもそもが縄文系文化

”骨製の箸”ですが、どうも「付き匙」と「箸」の両方がある様ですね。

それ以前として、「前期には高度な漆器が出土するのに後期では技術劣化している龍山文化、このうちの前期の年代」や「稲作をしている河姆渡文化」。これは中国でも古層に位置する文化であり、縄文系の遺物や遺構、そして縄文系の遺伝子が出るところです。
中国の研究でも「古層は海洋利用していた民族で、後古層(4000年前ほどから)の民族は大陸内陸系で今の中国人の祖先となる民族」と民族の入れ替わりは報告されています。

つまり、”骨製の箸”らしきもの、”木製の箸”らしきもの。
これ、両方とも「日本の文化の伝播」でしかないのですね。

特に河姆渡文化あたりはその年代から、アカホヤの大噴火で退避した九州南部の縄文系の可能性が大変に高いです。

”中国発の文化”は”鉄箸”から

結局のところで判るのは。
「中国が発祥となる箸文化」と言えるのは、殷代の「箸の材質を金属(青銅)に変えた部分」だけですね。
形状にしろ使い方にしろ、日本から伝播してきたものだという事ですから、「材質を変えた部分」つまりアイデア部分のみが「中国発祥」となります。

視覚的に分かりやすく時系列を並べると上図のようになりますね。
また、朝鮮半島は「金属箸文化」ですが、これは明らかに「中国からの文化伝播」ですね。明代だと中国でも飯を箸で食べるようになりますから、韓国人の祖先である朝鮮人たちに伝わっているのはそれより以前になります。
食卓で箸がよく使われるようになるのは唐代ぐらいですから、この唐代で属国になった新羅時代ぐらいからの中国文化を模倣したのが、今の韓国でのカラトリー文化だとは思います。


日本では木や竹を使い、更にそれを漆でコーティングするという、「断熱性」や「衛生(漆の抗菌性)」という6,000年前には完成された形の”箸”ですが、龍山文化で判るのは、中国の後古層に入って来て定住した大陸内陸系民族、場所から言って「漢族の祖先」は交易で入手することができても、それを真似が出来なかったようですね(墓の中にある、というのも「当時の中国において、日本では一般的であった『漆塗りの木箸』は高価で権威的な一品だったのでしょう)。

真似をしても木材は適さず、漆技術も低い為に模倣しきれず劣化した品しかできない(ということは、その後も日本と交易・交流していたという事ですが)というのが、青銅文化が入って来た殷代が青銅で「金属製の箸」と形を真似て材質を変えたものを使いだしたのですね。
殷代の金属箸は、高度な木工・漆技術を持たない勢力が、「手近な素材と技術(青銅鋳造)で、形だけを真似た代替品」を作ったという構図です。
ところが、この日本の「有機的なハイテク」を再現するのは極めて困難でした。そこで、殷代では当時彼らが手に入れ、制御し始めていた鋳造技術(青銅)を転用し、型に流し込むだけで形になる「金属棒」で代用したに過ぎません。
この「箸の金属化」は「工学的に劣化」と言えます。機能を「つまむ」こと一点に絞れば金属でも事足りますが、食事道具としてのトータル性能で見れば、明らかに劣化しています。
熱い料理に対して金属は「熱すぎる」という致命的な物理特性を持ちます。また、密度が高い金属は、指先の繊細な動きを妨げ、疲労を招きます。さらに、木や漆に比べて金属は摩擦係数が低いので滑りやすく、特に粘り気のない食材を「保持」する力が弱くなります。

殷代の金属箸は、「失われた高度技術(縄文の木工・漆工)を、力技(金属鋳造)で埋め合わせようとした物理的な妥協の産物」と定義するのが最も適切なのですね。

結果的に、殷代(3100年前頃)から出始める「金属製の箸」は、後述していますが、宋代(10世紀〜13世紀)では木や竹に置き換わり始め、明代(14世紀〜17世紀)にほぼ消滅します。
別の言い方をすると「料理文化に目を向けられるようになり、食事に適さないので、自然と箸の材質は木や竹に戻っていった」と言う事です。


もう1つ言えば、もし、通説通り「中国から日本に箸が来た」というならば、その”箸”は”青銅製(金属製)の箸”でないと、時系列的におかしいのですよね。ですが、日本には歴史を辿ってみても「金属製の箸」は、無きにしも非ず(正倉院に銀箸と銀匙があり、これは中国からの物)ですが、それより前に”木製の箸”が日本には数千年前からあります。

日本は6,000年前には木箸文化

考古学の痕跡から見ると、日本は6,000年前から木箸文化に移行しています。面白い事に纏めて救い上げる様な「大匙」は見つかっているのですが、個別に食する為の「小匙」は日本では見つからないのですね。
長らく「箸文化」だったのでしょう。

日本は中国からの影響を受けていないので、日本では昔から木箸文化なんですね。そうでなければ「青銅箸」や「金属箸」が伝わってるはずなんですね。

「魏志倭人伝」の記載

『魏志倭人伝』にはこのような記載があります。

「食飲用籩豆手食(飲食に高杯を使い手で食べていた)」

これから、「日本では箸が無く手で食べていた」と解釈しているものを多く見掛けますが、これは歴史を知らない人が書いている大きな間違いです。

先にも書いてますが

商・周から秦・漢にかけての長い間、中国でも主食(飯)は「手」で食べるのが正式な作法(礼儀)とされていました。箸はあくまで「汁の中の具をつまむ」ための補助具でした。食卓で箸が多く使われるようになるのは、ずっと後(唐代以降)のことです

というので、この『魏志倭人伝』に書かれているこの食事作法は「漢代から魏晋南北朝時代にかけての中国の特権階級の礼法(儀礼的食事様式)」です。魏からの使者を歓待し、中国の特権階級の礼法で迎えたという「配慮」ですね。
つまり使者は「中国の礼法に則った作法である」と書いているだけです。
次の「古代中国の食事マナー」に書いていますが、「最高級とも言える礼法の食事提供だった」という意図で使者は書いたのかもしれません。

もう少し言えば、「高杯」の時点で、これは「外交の場」なのだと判ります。
「高杯を飲用具(食器)として使用していた」のは、皇族や貴族といった特権階級(宮廷・官人層)の儀礼的な場に限定されているからですね。一般庶民が日常的に高杯を使用していた痕跡は確認できません。

食事を「地べた」や「低い膳」に置くのではなく、高杯が多用し高さを出すことで神聖化し、自らの権威を示すための工学的・儀礼的意図によるものです。また高杯は、主に乾物(果実、餅、加工肉など)を「盛る(供える)」ための器ですので、『魏志倭人伝』で使者に出されたものも、乾物が多かったでしょうね。

この作法は「漢代から魏晋南北朝時代にかけての中国の特権階級の礼法(儀礼的食事様式)」なのです。
『魏志倭人伝』などを読む場合、当時の他の習俗などを理解しなくては解釈を間違えます。

古代中国の食事マナー

漢代から魏晋南北朝の知識人が規範とした、前漢時代に成立した『礼記』の「曲礼上」には、食事の作法について以下のように記されています。

「共飯(きょうはん)するに、手(しゅ)することなかれ」
(皆で飯を食べる時に、手でこねて団子にしてはいけない)

この記述は、裏を返せば「飯は手で食べるのが大前提」であることを示しています。

飯は粟や黍(きび)、あるいは米を蒸したものですが、手で直接口に運ぶのが正式な作法でした。ただし、指を汚しすぎたり、手のひらまで使ったりするのは「無作法」とされ、指先で上品に扱うことが求められました。
この時の箸の役割は同じく『礼記』には「羹(あつもの:具沢山の汁物)を啜るには箸を用い、羹なき者は箸を用いず」とあります。つまり、箸は「汁の中の具材を救い出す専用ツール」であり、飯を食べる道具ではありませんでした。

この時代、なぜ飯を箸で食べなかったのかには、当時の「飯」の調理法に訳があり、当時の主食は粟や黍が中心で、日本のような強い粘り気がありません。パラパラとした粒状の飯を細い箸で持ち上げるのは効率が悪く、指でまとめて口に運ぶ方が合理的だったのです。
特権階級が使う「高杯」に盛られた飯も、当初は指先でつまんで食べていました。高杯は「視覚的な権威」を高めるための台であり、その上の「飯」自体は依然として手食の対象でした。

ただし道具史でみれば、周代以降は徐々に変化していき、箸の出番も増えています。
周代からの変化を一言で言えば、「箸が厨房の道具(トング)から、個人の食卓における『文明人の証』としての食具へと格上げされた」ということです。食事全体における箸の出番は確実に増えましたが、それでも「飯を手で食べる」という根本的な作法は、漢代や魏晋南北朝まで変わらずに残っています。
箸はあくまで「熱いもの・汚れるもの」を扱うための高機能な補助具として、手食と共存しながらその勢力圏を広げていったのですね。あとは、主食の地位が周代は「羹」だったというのもあるかもしれません。これが、漢代を経て主食が「穀物」に変わっていっています。

もう1つは、漢代だと粉もの文化や豆腐、発酵文化など日本からの食文化が伝播している形跡が見られます。交易・交流はずっとしているのですね。その日本は食に箸を多用していたので、中国では箸を使う文化が少しずつ取り入れられていったのだ、という可能性も高いとは思います。

”高杯”文化

もう1つあるのが、「高杯」という物自体ですね。これは「中国から来たもの」なのかというと違います。「高い脚を持つ器(高杯状の器)」の出現は、日本列島の方が大陸よりも明らかに先行しています。

「高杯(豆/籩)」は中国文明の象徴のように語られますが、その「垂直に持ち上げる」という設計思想の源流を比較すると、日本ではやはり「高杯」というのは連続した変化のものとして見る事が出来ます。

  • 約9,500~7,500年前の上野原遺跡(鹿児島)では「定置式炉穴」の時代から、すでに「器を支える」という概念の土製支脚が現れています(出土は一番古い約9,500年前から)。

  • 約9,500〜9,000年前の鹿児島県や宮崎県を中心とした南九州一帯で、塞の神式土器が出土しています。土器の底部に、数センチ程度の低い「環状の台(圏足)」が取り付けられています。これは後世の装飾的な高い脚とは異なり、あくまで「自立」と「安定」を主目的とした機能的な形状です。

  • また、約6,000年前の鳥浜貝塚(福井)では「台付土器」「漆塗り台付鉢」が出土しています。

  • 約5,000年前の井戸尻・尖石遺跡などで、現在の高杯に繋がる、極めて装飾的で高い脚を持つ「台付土器」が完成して出土しています。

「高杯」というのは、日本の文化で儀礼的な要素があるものなんですね。

では中国ではどうか?

  • 龍山文化(約4,500年前〜)では黒陶の「豆(高杯)」が現れます。この前の時代には無いか、周辺地域を調査してみると、出てきます。

  • 長江流域の河姆渡文化・良渚文化だと、「圏足(けんそく:輪っか状の低い台)」がついた土器が出土します。しかし、その「脚」は極めて低いものですね。これは約9,500〜9,000年前の鹿児島県や宮崎県を中心とした南九州一帯で出土している「塞の神式土器」にそっくりです。

  • 龍山文化と重なる時期の良渚文化(約5,300〜4,300年前)でも、非常に精巧な「豆」が現れます。

ただ、ここらは古層文化であり、縄文系の遺物や遺構が出土し、人骨DNAでも縄文系とみられる、後古層の大陸内陸民が定住する前の先住民の文化ですね。年代的にも縄文前期〜中期(約6,000〜5,000年前)に日本で既に完成していた台付土器が伝播してと考えた方が、年代的な整合性が取れます。

もう1つ、中国で現れるのが「河姆渡文化」からというのも大事な点だと思います。この時期、アカホヤの大噴火が起こり、縄文人が大量に散らばる時期です。
それまで「高杯文化」は日本の中だけだったのが、それで中国沿岸部にまで伝播したようです。


同じ「脚がついた」でも煮炊き用の「鼎(かなえ)」や「鬲(れき)」のように、「器の底に直接足が生える」という三本足文化は少し違います。

源流とすると、河南省の「彭頭山文化(約9,500〜8,100年前)」などで、新石器時代への移行期の層から、土器を支えるための「円柱状または円錐状の土製品(支脚)」が出土しています(遺物の年代は約9,000年前)。
地面に3本の支脚を立て、その上に平底の土器を乗せるというものですね。この支脚と土器が一体化したのが「鼎」や「鬲」の源流になります。

これが約8,000年前〜7,000年前の「裴李崗文化」や「磁山文化」に「直接足が生える」スタイルの最古の形跡として鉢の底に、粘土の塊をそのままくっつけたような短い3本の足がついた土器が出土します。
これが三本脚の「鼎」の最も原始的な姿です。

ただ……この「彭頭山文化(約9,500〜8,100年前)」にしろ「裴李崗文化」や「磁山文化」にしろ、どうも「縄文系」のようです。
通説では「O1系統でO1b1や日本のO1b2の祖先~」などと書かれているものが多いですが、DNAは見つかっていませんので、バイアスの掛かった願望のようです(私も騙されていました)。
それよりもどの民族が?というのを決定的と言えるものがあります。後古層で大陸内陸系民になると消えてしまう「ドングリ食」や「貯蔵穴」です。石皿での粉砕、水辺でのアク抜き、貯蔵穴の構築など、縄文的技術パッケージがあり、これは縄文のそれよりも古いドングリ食文化とそっくりです。
日本では、例えば12,000年前の東京都の前田耕地遺跡の住居跡から、炭化したクルミやドングリが発見されています。ここでは、ドングリをすり潰すための「石皿」や「磨石」もセットで見つかっているのですね。

これが「龍山文化」に後継として現れます。
「鬲(れき)」と呼ばれますが三本足の完成形として爆発的に普及しています。ただ、これは地理をしっかりと把握しなくては行けず、出てくるのは「龍山文化」とされていますが、西から西北にかけてです。
それまでの「ただの棒状の足」から、足の中が空洞になり、器の胴体と一体化して「袋状の足」になった「鬲」が登場します。足の中まで汁物が入るため、火に接する表面積が劇的に増え、熱伝導率が最大化される構造で、これは「燃料が貴重な大陸内陸部」において、いかに早く、少ない薪で煮炊きするかという切実なニーズから生まれた熱効率特化型デバイスです。

どうも、「鼎」もルーツを辿っていくと、内陸側に伝播していく中で湿地帯でも使えるようにと縄文系先住民が土器に支台や脚を付けたのが基になっているようです。

これが約4,200年前〜3,600年前の斉家文化(甘粛・青海)と西北部に伝播しており、大陸内陸部や中央アジアの遊牧系に利用されるようになります。「銅鍑」と呼ばれる低い台座にまたは小さな3本〜4本の脚が付いたもので、移動中に馬に積み、キャンプ地で素早く火にかけるための実用器ですね。

時々、「高杯」は「鼎」から来ていると言われますが、それは間違いで、「支台」が日本で生まれ、それが伝播して「高杯」は日本で、「鼎」は中国の地でそれぞれに生まれているものですね。ただし、両方とも縄文系民族が作り使い始めたもののようです。


前漢時代に編纂された『礼記』の時代、中国宮廷マナーとして「鼎」も「高杯」も使われています。つまり、「大陸内陸の作法」に「日本の作法」が混ざったものです。
それぞれの器の使い方や役割が違います。

「鼎」は「主食・肉類」の調理および供進に使われており、牛・羊・豚などの生贄を煮込み、その「実質的な量と生命力」を象徴します。鼎の数は身分の象徴であり、天子は九鼎、諸侯は七鼎といった「ランク付け(列鼎制度)」の基準となります。

それに対して「高杯」は竹製のものを「籩(へん)」、木製・陶製のものを「豆(とう)」と呼び、いずれも高い一本足を持ちます。こちらは「副食・付け合わせ」の供進として使われます。

『礼記』の時代になると、「鼎」は「政治的な重み(権威)」を象徴する一方で、「高杯」は「洗練されたマナー(礼の細部)」を象徴するようになります。『礼記』には、豆の持ち方、並べ方、蓋の取り方まで細かく規定されています。つまり、漢代以降の中国マナーにおいて、「高杯」は「いかに作法を知っているか」を試すものとなっていました。

漢代の礼制は、
・大陸内陸・新層の伝統(鼎)として「肉を煮る」という権威的な使われ方
・海洋民・古層(日本系)の伝統(高杯)として「神聖なものを捧げる」という垂直の儀礼。
と、漢代以降の中国人は自分たちのマナーの中に、「東の海洋民から伝わった神聖な作法」を、最高級の「礼」として組み込んでいたことになります。

漢代以降のマナーでは、「大陸内陸民の鼎文化は権威(暴力性)を示し、日本を源流とする高杯文化は秩序(精神性)を示す」といった使われ方をしたのですね。
ここら辺をもう少し過去の痕跡で調べていくと『神農伝説』に繋がるのだろうとは思います。


そこでふと思ったのが、先ほどにある『魏志倭人伝』。
ここには、邪馬台国の魏の使者への饗応には「高杯」は出てきていますが、「鼎」は出てきていません。これは、日本独自の礼法で饗応されている、と言う事です。

つまり、中国の漢代からの「精神的礼法の作法」というのは日本にルーツがある可能性も高いという事です。魏の使者が日本で見たものは、「中国のマナーを真似る辺境の民」ではなく、自分たちが「礼」として崇めている精神的礼法の、混じりけのない原形と言う事ですね。

「鼎が出てこない」という事実は、当時の日本が大陸の政治システム(ランク付けの列鼎)には関心がなく、純粋に「垂直の精神性(高杯)」という自国の礼法を貫いていたことの証明です。
漢代以降の中国マナーが「精神性」を重んじるようになったのは、日本が育んだ「高杯の美学」を、文明の完成のために取り入れたからだと言えるでしょう。

中国の”金属箸”の衰退

中国において「金属製の箸」が食卓の主役から退き、現在のような竹や木などの素材が主流になっていくのは、宋代(10世紀〜13世紀)に決定的な転換点を迎え、明代(14世紀〜17世紀)にほぼ完了します。
この変遷には「飯を箸で食べるようになる」という食習慣の変化と、工学的な合理性が深く関わっています。


宋代は、中国の食文化が「中世」から「近世」へと大きく進化した時代です。食文化の変容と金属箸の衰退していく時代で、ここで金属箸が敬遠され始める主な理由は3つあります。

「炒(炒め物)」の普及と伝熱の問題:
宋代には石炭の利用が進み、高火力の「炒め物」が一般的になりました。金属箸は熱伝導率が高すぎるため、熱い鍋や料理から直接口へ運ぶ際、唇や指を火傷させるリスク(工学的欠陥)が顕在化しました。
また、磁器の技術が頂点に達した宋代では、繊細な器に合わせた、軽くて手馴染みの良い竹や木製の箸が、文人や富裕層の間で「風流」として好まれるようになります。


明代になると、米の飯食(粒食)の完全定着し「飯を箸でつまむようになった」という変化が、金属箸にトドメを刺します。

粘り気のある米飯を「かき込む・つまむ」動作において、重い青銅や鉄の箸は手の疲労を招きます。また、金属同士が器(磁器)とぶつかる音は「礼」に反するとされ、消音性と弾力性に優れた木・竹製が、宮廷から一般庶民まで完全に定着しました。
長江も米は基本的にインディカ米や熱帯ジャポニカですし。

ただ、明・清代において金属箸が残ったのは、主に「毒殺防止(硫黄系の毒に反応して黒変する)」を目的とした皇族・貴族の銀箸のみであり、実用的な「食事道具」としての金属箸は主流から外れます。

結果として、中国は日本と同じく「木・竹箸」のルートに戻りましたが、それは日本のように「縄文以来の木工・漆技術」を継承したからではなく、「熱い炒め物と粘り気のある飯」という新たな工学的課題を解決するための選択でした。


纏めると、こんな経緯になります。


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