見出し画像

発酵文化

「東アジアの定住文化の基礎は日本から流れているのでは?」という話し。

その中にある1つが「発酵文化」です。
考古学などで判っている部分も年数や場所も説明や図を追記しました。


縄文味噌は最古級の発酵文化

これは、日本では古代の縄文時代早期(約12,000年前)には縄文味噌(ドングリ味噌)のようなものがあったと、土器の付着物から考えられています。
実はこの文化も「沿岸部で発達するもの」ですね。

理由は簡単で地理的な問題です。周囲を海に囲まれており、そして暖流が傍を流れている。湿気+温度で腐敗圧が高く、放置するとすぐ腐るからですね。「食品を保存するための手法」として『発酵文化』が生まれるわけです。現代風に言えば「微生物を“敵から味方に変える”必要」があったわけですね。

日本の発酵文化は大変に古い

年代としても土器内の付着物からはっきりしていて、日本の『醤』文化は12,000年前頃には既に始まっているのは”縄文味噌”で明確なのですが、それよりも古いのもあります。
脂質分析において、加熱変性のない「高度に分解された魚由来のアミノ酸」が土器から検出、つまりこれは「土器で常温発酵した保存食を作っていた痕跡」です。約15,000年前〜16,500年前の大平山元I遺跡(青森県)などの土器付着物の脂質分析では、「水生動物(サケ・マス等の魚類、あるいは海獣)」由来の脂質が検出されています。多くの破片からは加熱調理の痕跡(高度な熱変性)が見られますが、「加熱変性の指標が極めて低いにもかかわらず、魚由来の成分が濃厚に残留している破片」が、この最初期の層から既に混在していおり、「初源的加工」としてこの時点で「魚醤系の”醤”」が存在していたと判ります。

もう少し言えば、これが北周りで大陸に逆進している縄文系がおり、約12,000年前〜(ウスチ・カレニガ等の発展期)に脂質分析において、加熱変性のない「高度に分解された魚由来のアミノ酸」が土器の内壁から検出されており、こちらに縄文の『醤』文化が伝播しているのが判ります。

それに対して、中国人『醤』文化が現れるのは4,000~5,000年前ほどの仰韶文化、というか仰韶文化の後期から末期と言う時代です。日本と10,000年ほどもの差があります。方向としては北東の古アムールからの文化の影響で『醤』が出来ているようで、ようは北縄文系文化が伝播しているというものですね。
考古学の科学的分析から、「醤」が中国から日本に来たというのは『ありえない』話なのです。
まぁ、仰韶文化というのは幾つかの文化を纏めているのであって、後期は内陸側からの文化が入ってきています。纏めてしまっているけれど文化としては分けるべき、というぐらい内部で断絶があります。

発酵パン

といっても、発酵文化自体が大陸内陸でもないわけではなく、長期保存であればチーズなどの動物性のものや、短期であればパンの様な酵母の発酵もあります。

ただし、酵母を使う発酵パンは古代トルコが例外的に古いですが、他は発酵パンが現れるのはもっと遅く、現在で言うパンだと中国だと宋代ぐらいですのでAD10世紀前後、つまり中国が独自に沿岸交易を始めてからのものであり、それまではありません。

日本ではさらに古く、安土桃山時代。ヨーロッパから来ますね。1543年の鉄砲伝来以降、ポルトガル人によって持ち込まれた「パオ(パン)」が最初です。そして江戸時代の1842年(天保13年)に江川太郎左衛門が軍用食として「兵糧パン(乾パン状のもの)」を焼いたのが、日本人の手による最初のパン製造とされています。


ただ、”別の発酵パン”はもっと古くからあります。

所謂、発酵させてから蒸して作る「蒸しパン」、中国の食品で簡単に言えば「饅頭」などなのですが、これは漢代末である1,700年前程度からあります(これは”孔明の逸話”で知られていますね)。
これですが、判りやすく言えば『「蒸しパン」のようなものは中央アジアではありません』というので、西から来た料理手法ではありません。餃子の皮なんかも発酵させない小麦利用で、これは西から中国に来た「包む技法」です。
では、中国で発祥したか……というと、どうも違います。

それよりも古くから「日本に独自の発酵パン」があり、長野県の曽利遺跡や山形県の押出遺跡などで約5,000年前の層から発見されています。堅果類に動物肉・卵・穀物類を混ぜ合わさたものが見つかっており、これらの炭化物を電子顕微鏡で分析すると、内部に細かな空洞(気泡)が見られるものがあります。これは意図的に酵母的な働きを加えて膨らませた「発酵パン」のプロトタイプであるという説が有力です。総菜パンの歴史というものは5,000年あるのです。

約9,500年前には、鹿児島県の上野原遺跡で底部穿孔土器(蒸し器の原初形態)が出土しています。定住集落の生活面から、底部に意図的に複数の穴を穿った平底土器が出土しているのですね。下に別の土器を置き、水を沸騰させて蒸気を上げる「蒸し調理」に用いられた物理的証拠です。中国で同じ構造の最初の甑が現れる約6,000年以上前から、日本では土器の底に穴を開けた「蒸し器」の実物が機能していた証拠です。

また、福井県の鳥浜貝塚では、約7,000年前には、土器単体ではなく、有機質素材(繊維製品=セイロ)を組み合わせた「高度な蒸しシステム」の物証です。土器の口径に合致するサイズの精緻な編みかご(ざる状の繊維製品)が出土しており、これを土器の上に据えれば、現代のセイロと全く同じ構造になります。土器に焦げ跡がなく、内壁にのみ成分が残留していることから、蒸し調理の常用が裏付けられています。

さらに縄文時代中期(約5,000年前)の長野県・曽利遺跡や山梨県の遺跡群からは、底や側面に小さな穴が多数開いた「有孔土器」が出土します。これらは近年の分析では、これらを大甕の上に据え、「蒸し器」として機能させていた可能性が極めて高いとされています。
さらに、日本は火山が多く温泉が多い土地柄ですので、その蒸気噴出口を使い、土器としての甑が見つからない時期でも、木や竹、蔓(つる)といった有機質素材による「蒸し器」が、粉砕したドングリや雑穀、あるいは「縄文パン」の調理に常用されていたと考えられます。

約3,000年前には米を粉にして練った「しとぎ」の原型が登場しています。粒のままの米だけでなく、粉状にしてから固めて加熱された「団子状」の事で、初期の甑(こしき)が見つかっていますね。
日本には縄文以来、数千年にわたる石皿・磨石による「粉砕」の伝統がありました。アクの強い木の実を食べるために、粉にして水にさらす工程が不可欠だったからです。この「粉にしてから調理する」という料理手法が、米や雑穀などの穀物にも応用されていたわけです。お団子の歴史は3,000年あるわけですね
……ですが、日本で「蒸す」自体はもっと前からあったのでは?と思います。専用の道具というのは無いのですが――温泉を利用した「蒸気蒸し」があったと考えられます。それを高温蒸気を出す温泉地という場所に拠らずに蒸気を利調理に利用できるようにしたのが「甑」という道具ではないかと思います(日本の温泉利用は約30,000年前からが確認出来ますし、6,000年前には例えば上諏訪の片羽町遺跡の集落で「浴場として利用」していたのも確認できる)。
この当時の中国では依然として「粒食(粥・飯)」が主流であり、「稲作」が中国から来たなら辻褄が合わないのですね。

さらに約2,000年前には甑(こしき)が完成して普及しており、全国で発酵・蒸し調理がシステム化しています。この当時でも中国ではまだ穀物は「粒食」です。
中国東部が古代の「粒食(粥など)」から1,700年前に「粉食・発酵(饅頭)」へ移行するまでの長い空白期間、日本列島では既に「発酵させた粉もの」を食べる文化が地層に刻まれるほど日常化していました。

時期的にも、ちょうど『出戻り縄文人』が中国沿岸部から去った時代に当たるので、中国には古くは伝わらなかったようですが、漢以降の日本との交易で製法が日本から中国に伝わった、と考えると整合性が取れます。
饅頭って、ルーツは日本にあるのですね。
というか、「蒸す」という調理方法自体が中国は日本から来ているのですね。

乾燥した中央アジアや中国北部と違い、日本は放っておけばすぐに菌が働きます。定住して土器の中に粉を置いておけば、嫌でも発酵が始まります。この「環境の圧力」が、世界最古級の発酵文化(なれずし、そして蒸しパン)を育むラボとなった、という事です。


これが、西から来た小麦栽培と合わさると「小麦で作る蒸しパン」が出来上がります。つまり、「西からの小麦栽培」「東から来た蒸しパン調理」が合わさって、それが「小麦で作る蒸しパン(饅頭)」という物となり、これが小麦と共に日本に来る、というルートなのかもしれません。
――が、検討して見ると、中国における『粒食』の期間が長く、他の調理法になっていないのですね。
実際、漢代の文献『説文解字』『急就篇』には、穀物を調理する用語が厳密に区別されています。

  • 「飯(はん)」: 穀物を煮る、あるいは蒸したもの。

  • 「餱(こう)」: 干し飯。蒸した後に乾燥させた保存食。

  • 「蒸(じょう)」: 甑(こしき)を用いて熱気で火を通すこと。

重要なのは、これらの言葉が指す対象が「粒(つぶ)」であることです。漢代の記録にある「蒸し料理」の主流は、アワ・キビ・米、そして小麦を「粒のまま」蒸した「麦飯(ばくはん)」です。
これは「粉食文化」までまだ到達していないのですね。

漢代の農書『氾勝之書(はんしょうししょ)』や王充の『論衡』などには、小麦の食味についての記述があります。
「小麦は毒がある(消化に悪い)」と、粒のまま蒸して食べると、外皮が硬く消化不良を起こしやすいため、当時は「不快な食べ物」として扱われています。
また「貧者の食」と、粉にする技術(石臼)が一般化していなかったため、粒のまま蒸して食べる小麦は、粟・黍の代わりにやむを得ず食べる代用品として書かれています。


実は日本では縄文時代後期(約4,000年前)には既に小麦が来ています。
岡山(津島遺跡など)で4,000年前の小麦のプラントオパールが見つかっている。その他にも九州地方の縄文後期遺跡(坂戸山遺跡など)からも土器の圧痕やプラント・オパール分析によって、小麦を含む雑穀の存在が確認されています。中国では西北部(甘粛省など)の遺跡で、約5000年前の小麦の炭化粒が見つかっていますが、これは中国沿岸部古層の縄文系民族がまだ定住していた頃ですね。つまり、交流・交易はこの小麦栽培を持つ西から来た民族とも行われており、それが日本に持ち込まれているわけです。
小麦を混ぜた団子も見つかっており、日本では早い段階で小麦を製粉して利用していた事が判ります。

そして、日本は
「蒸し料理をしていた時代(9,500年前」
「西からの小麦が海を変えて日本まで来た時代(4,000年前)」
「蒸し器が作られ始めた時代(3,000年前)」
「蒸し器が完成して一般に普及した時代(2,000年前)」
と、途切れる事のない利用と変化が判ります。
中国が粒食から蒸しパンを得るのは「三国志時代(1,700年前)」ですので、『小麦で作る蒸しパン(饅頭)』自体が日本から来た可能性も高いです。

チーズ

チーズも日本のどんぐり味噌(約12,000年前)に比べるとそれほど古くなく、世界最古のチーズは中国新疆ウイグル自治区の約3,600年前(BC1,600年頃)のミイラから発見されたケファイアチーズです。つまり、中国沿岸の縄文系民族が去った後に内陸から来ているものですね(ですので、奈良時代まで日本ではチーズ系のものがありません)。なお、物質として残っているものではなく「チーズ製造の痕跡(脂肪分)」としては、クロアチアで7,200年前のものが発見されています(すなわち3,500年掛けて技術が東進して新疆にまで伝播したという事)が、それでもどんぐり味噌、すなわち日本の『醤(発酵)』文化に比べると遥かに若い文化です。

ちなみに、「日本の味噌の起源は高麗醤だ」という通説もありますが、これもおかしいのですね。
「高麗醤」は『美蘇』と書かれています。そして「」とは飛鳥・奈良時代に作られていた日本最古のチーズとも言われる乳製品の事です。牛乳をひたすら煮詰めて水分を飛ばしたもので、チーズというよりは濃厚な生キャラメルや和菓子のようなくちどけと甘さが特徴です。つまり「美味しいチーズ」だから「美蘇」なのですね。
古代中国語でチーズに相当する乳製品は「酪(lào/らく)」の他に「酥(sū/そ)」や「醍醐(tíhú/だいご)」などと呼ばれており、主に北方の遊牧民族から伝わった食品です。この「酥」こそが「高麗醤」なのでしょう。
また、中国にチーズがやって来たのもそれほど古くなく1,800年前の漢末前後ぐらいの外来食品です(現在の中国ではなく、当時の中国です。新疆は当時は「他国」ですので間違えてはいけません)。

……つまり、これで判る事は「高句麗は最近、作り方を知ったばかりの最新の乳菓子「美蘇(美味しいチーズ)」を日本にすぐに伝えた、という関係性ですね。

発酵食品が生まれる条件

「チーズ」と「肉醤・魚醤」と「穀醤・豆醤」は、『発酵食品』と一括りにされますが、プロセスがまるで違います。
これを簡単に言えば、

  • 「チーズ」は微生物が「環境(酸性度)」を変え、微生物で「固めて」水分を抜き、腐敗を防ぐというものです。内陸・乾燥・寒冷といった環境地域で発祥する技術ですね。

  • 「魚醤・肉醤」は、自分の「内蔵酵素」という自己酵素で「溶かして」うま味を抽出し、塩で守るというものです。沿岸・温暖・多湿という地域環境で発祥する技術ですね。

  • 「穀醤・豆醤」は付着するカビを「栽培」し、そのカビの力で素材を強引に溶かすというものです。海洋性・高温多湿という地域環境で発祥する技術ですね。

といった発酵性質の食品です。


もう少し詳しく書くと、

「チーズ」は内陸・乾燥気候での「生存戦略」で生まれた技術です。
チーズ(乳発酵)は内陸気候で生まれ、発達した文化です。乾燥地帯では貴重な水分である「乳」を放置するとすぐに腐敗するか、あるいは蒸発してしまいます。乳酸菌によって「固める」ことで、水分を抜き、栄養を濃縮して長期保存する技術は、遊牧・内陸文化の必然と言う訳です。また、広大な草原での放牧が前提となるため、内陸部が主戦場となります。

「魚醤・肉醤」は全気候対応型ですが、しかし「湿潤」が加速させる技術で必要になります。
魚醤や肉醤の発酵プロセスである「自己消化」はどこでも起こり得る技術ですが、環境条件による制約はやはり無視できません。自己消化酵素が活発に働くには、ある程度の「高温」が必要です(熱帯〜温帯)。大陸内陸部の冷えて乾燥するような地帯では酵素反応が停止してしまい、魚醤や肉醤になる前に単なる「干し肉」や「冷凍肉」になってしまいます。
また、乾燥しすぎると酵素が働く前に素材がカピカピに乾いてしまい、液状化(醤化)が止まります。「海沿い」や「温暖な列島」のように、素材(野獣や魚介)が豊富で、かつ酵素反応が進みやすい湿度がある場所で、より洗練された技術として出来てくるものです。
10,000年前ぐらいまでの中国では、渤海はまだ陸地であり、黄海はでき始めていますが今よりかなり狭い範囲、東シナ海も陸地であった範囲がまだ広い地形だった時期です。

10,000年前の地形

正直「大陸内陸の気候」である地域である中国大陸では発祥する事が難しい技術であり、氷河期でも南に暖流が流れていた日本では10,000年以上前、”土器”が出来た時点から『魚醤・肉醤の発酵文化』が発祥するのも必然なのです。

「穀醤・豆醤」は日本という「天然の培養器」の独壇場ですね。
重要なポイントですが、穀醤・豆醤は日本の様な「高温多湿」の場所でないと発祥し得ません。カビ(麹菌:アスペルギルス・オリゼー)は乾燥には極端に弱く、少しでも湿度が下がると活動を停止し、他の乾燥に強い雑菌に負けてしまいます。
カビ(アスペルギルス・オリゼー等)が穀物を「苗床」として覆い尽くすには、以下の条件が不可欠です。

  • 高湿度:湿度が常に60〜80%以上、特に繁殖初期には高い湿り気が必要です。

  • 中温域:25°C〜35°C程度の温度が安定して続くこと。

大陸内陸性乾燥地帯では、空気が乾燥しているため、蒸した穀物を放置してもカビが回る前に水分が奪われて「干し物」になるか、あるいは乾燥に強い別の雑菌に汚染されてしまいます。

一方で、日本は世界でも稀に見る「麹菌の楽園」です。四方を海に囲まれ、年中湿度が高い海洋性気候を持ち、梅雨と夏だとカビが最も好む「高温多湿」が数ヶ月続きます。
中国では生活の中で発祥するには難しく、日本では生活の中で自然と出来てしまう、という環境であり発酵技術なのです。


日本より暖かい東南アジアでは温度が高すぎるので過発酵して腐敗します。
麹菌(アスペルギルス・オリゼー)は30〜35°Cを超えると活動が鈍り、強力な腐敗菌や他の野生のカビ(クモノスカビ等)は40°C近くでも爆発的に増えてしまうのです。
そのために、塩分濃度を高めて反応を抑制する必要があります。すなわち「塩を大量に手に入れられるような環境」になってから、東南アジアの魚醤は出来上がる文化ですね。2,500年前頃から「魚醤」が現れ、アンコール王朝等が王権による塩の流通管理を始めた1100年前ぐらいからシステム化された現在の「魚醤」の原型が出てきます。
もし、日本の魚醤が東南アジアから来ていたら、もっと塩分濃度が高くないとおかしいのですね。

ちなみにラオスやマレーシアといった東南アジアも古層(約8,000年前)の文化は縄文文化に類似しており、出土した人骨のDNAを解析した結果、彼らは現在の東南アジア人よりも、日本の縄文人に極めて近いことが判明しています。これまた中国と同じで、4,000年前ぐらいに南下してきた中国内陸系民族が入ってきます。2,500年前にはさらに北から「青銅器文化」を持つ勢力が南下してきて、王朝の基礎ができた時期となります。


中国大陸(特に内陸部)に日本から「醤」技術が伝わったであろう事は、その技術からも判ります。乾燥した環境でカビを育てるために、彼らは不自然なまでの「努力」を強いられています。大陸では穀物を粉にして練り固めた「餅」の形でカビを繁殖させます。餅麹(ビンチャオ)の形式で、これは朝鮮半島もそうですね。内部を保存し乾燥から内部の菌を守るための、いわば「乾燥地帯仕様の苦肉の策」です。
内陸部において、穀物を苗床にする発酵が「自然発生」したと考えるのは、微生物学的に無理があります。

対して日本は、穀物を粒のままバラバラに蒸してカビを付ける「散麹(ばらこうじ)」です。これは湿度が十分にある環境でしか成立しない、贅沢で原始的(=源流的)な手法です。
湿潤な気候により、「散麹(原初的な麹)」が自然発生・熟成したのでしょう。

中国の古い文献(『斉民要術』など)に登場する発酵技術が、非常に細かく複雑な温度・湿度管理を要求しています。それは「本来その土地の気候には合っていない外来の技術だったから、人為的に発祥地を真似した環境を作る必要があった」と考えると整合性が取れます。
中国大陸の内陸部において、穀醤の記録(『周礼』など)が唐突に、かつ「王室の管理下」のような形で現れるのは、それが「その土地の気候では自然にはできない、高度な外来技術だったから」という証拠でもあります。
乾燥した内陸部で無理やり穀醤を作ろうとすれば、特別な地下室を作ったり、大量の水分を補給し続けたりといった、極めて不自然な管理が必要になります。

対して日本列島では、梅雨の時期に放置しておくだけでも「カビが回る」という現象が日常的に起こります。「生物学的プロセス(麹)」の自然発生条件もまた、中国では揃わず、日本列島には揃っているのですね。

もし、通説で言われる「中国から日本に来た」のであれば、”餅麹”という手法や”特別な地下室を作ったり、大量の水分を補給し続ける”といった管理方法が同時に伝わり残っていなくてはならないのですが、日本にはそういうものはありませんね。
これは、中国が後発で、日本の発酵文化を真似しようと人為的な環境づくりから必要とした事からも判ります。

発酵文化ラボの日本

パンもチーズも『発酵文化』としては後発の発酵技術です。
それどころか、『蘇』は外来ですが、『醤』も『発酵パン(蒸しパン)』も考古学的な発見を並べると「日本発祥でなくてはおかしい」という事です。

古代の大陸保存食は「乾燥」

魚や肉、野菜の保存というと基本的に古代では乾燥によって水分を抜く手法がとられています。これが中世以降であれば、野菜の大量生産や塩の流通もあって変わるのですが。
なぜチーズとかは内陸で作られるかというと、これも気候です。涼しく発酵が遅いので、制御をしながらゆっくりと反応させる事が出来るからこその技術ですね。逆に、湿気+温度で腐敗圧が高い日本のような場所だと生まれにくい(単純に腐ってしまう)環境になります。

簡単に言ってしまうと、古代に中国(大陸)→日本に発酵技術が来ても単純には成立が出来ないのです(同じように作るとすぐに過発酵してしまい単純に腐る)。逆に、日本→中国(大陸)だと、発酵が遅いだけで同じ様に作っても弱発酵しているだけなので、時間を延ばせば同じようなものを作れるようになるのですね。その代わり「定住」が半ば必須になります。

大陸古代人は発酵文化を持たない

という事は、数万年前の古代人は基本的に「発酵文化」が無かったという事です。

数万年前、大陸の中央を通って人類は西から東にやって来ます。
この時代は氷河期というのもありますが、海水面が低く、東シナ海の多くは平原であり、黄海や渤海は全て平原だった土地だった時代です。今の中国沿岸部というのは内陸地域になります。

発酵文化が発露する環境ではない

中国や韓国の地域については現在とは特に沿岸部の地理は大きく違い、また氷河期時代というのもあり、乾燥+寒冷な気候になります。「移動してきた人達」というのは、それよりも内陸からやってきています。
狩猟した肉も、漁撈した川魚も、採取した野草や木の実なども、腐りやすい部分を取り除いておけば(あと大きすぎるならば切り分けておけば)、乾燥し寒冷な地理的条件により自然に「干された保存食」になります。

大陸での保存法

内陸で主流になる保存法だと、
① 乾燥(最も基本)
 ・肉:干し肉、ジャーキー
 ・魚:干物(内陸でも河川魚など)
 ・野菜:干し野菜
 水分を抜く=腐敗菌が活動できない

② 凍結(寒冷地)
 冬の外気で自然冷凍(シベリア・中央アジアなど)で、乾燥に近い効果(微生物停止)が起こります。

③ 塩蔵(内陸でも重要)
 塩が手に入る地域では特に肉・魚では普通に行われます。これは完全乾燥が難しい場合の補助としてのものです。ただし、「塩が普段から必要になった際には普通に手に入る環境」でなくては成立しません。塩は生活必需品なので基本的には貴重品だからですね。
ですので、日本でも中世であっても山間内陸部は塩は貴重だったのですね……世界的に見れば海からそれほど離れていなくても。中国では岩塩・沼塩が取れるのですが、中世までを見ると市井が気軽に使えるようなものではなく、政略物資であり塩商が支配する生活必需品だけれど希少な物だったのですね。ですので「塩を使わない料理」というのが発展します。

④ 燻製(乾燥+防腐)
 煙で肉・魚などを乾燥+抗菌成分付与する手法です。

などがあります。中央アジアは基本的に「乾燥」「大陸性気候」「狩猟や牧畜中心」なので、保存の主軸は明確です。

肉ですと乾燥・燻製され、発酵であるのは”乳”と動物性でヨーグルト・チーズといったものがありますが、これは後発技術です。
また、野菜保存そのものの比重が大変に低く、それというのも野菜の扱いが定住農耕がされていないので、採取生活。そして保存するほど大量採取できない、というのがあるからですね。

日本は古代から発酵文化が発露する土壌

これが日本の周囲を海に囲まれ、暖流もあり湿度が高い地域であり、動植物が季節によって移動するが年を通して同じ地域に”定住”できるという条件があったので、長い年月と偶然の発見により「発酵文化」が生まれる訳です。

まぁ、判りやすく言えば、10,000年ほど前の時代では大陸側では地形も気候も今とかなり違うので、発酵文化を持つようになる様々な条件を持つ民族は東アジアでは日本ぐらいしかない、という事です。

  • 北に行けば寒すぎて発酵が起こりにくい。かといって南に行けば過剰発酵しやすい。氷河期後でもすぐに気温が上がっているわけでもなくいので、その中でも温暖さを持っていた地域は限られています。

  • 温暖すぎると簡単に過発酵してしまい腐ります。初めに偶然に作られる為には「温暖でありながら寒冷さもある」という環境が必要になります。

  • さらに、内陸になると一部を除き乾燥しており、やはり発酵しにくい。考えられる地域は、暖流が近くを流れる沿岸沿いに大体絞られる。

  • そして、発酵には時間が掛かるものですから、基本的に定住している必要があります。そして作る為には器となる土器が必要であり、それを持っていた民族も限られています。

  • また、保存に必要な塩が必要な量を得られる地域である必要もあります。

これらが当てはまる地域となると、氷河期末期から氷河期後で海水面が上昇していくまでの間だと、ほぼ日本ぐらいしか候補となる地域がないのです。
縄文早期から「縄文味噌」とも言われる、ドングリ味噌なんかが作られていただろうという事は考えられていますが、別にこれはおかしい話ではなく、古代の地理と気候から当然ともいえる「発酵文化の発露」なのですね。

大陸的保存法が使いにくい

もっと言えば、「大陸的保存法」、一般的である『乾燥』が日本では湿度があるのでなかなか通じないのです。必要から「腐敗を発酵に変える工夫が生まれた」のですが、逆にこれは、塩が貴重かつ乾燥して自然と保存できる大陸内陸側での環境では発露しないやり方なのですね。

古代の中国の気候

それに対して、今の中国の地域というと、北部から中原辺りだと内陸性気候になり、寒冷で乾燥した地域、ケッペンの気候区分で言えば亜寒帯冬季少雨気候で、
・Dwc
 最暖月日平均気温が10℃以上22℃未満
 かつ日平均気温が10℃以上の月が3か月以下
 かつ最寒月日平均気温が-38℃以上-3℃未満
・Dwd
 最暖月日平均気温が10℃以上22℃未満
 かつ日平均気温が10℃以上の月が3か月以下
 かつ最寒月日平均気温が-38℃未満。
ぐらいの気候なのでしょうね。

南部はステップ気候で、BShかBSkぐらい、判りやすく言えば現在の北京周辺気候ぐらいですね。北京市の気候はステップ気候(BSk)に属しており、寒暖の差が大きく気温の年較差・日較差が大きい顕著な大陸性気候の地域で、平均湿度が50%ほどという場所です。

渤海も黄海も氷河期時代には存在しておらず平地、東シナ海も海岸線が数百kmも現在より離れており、海洋の恩恵を受けられない地域ですので、今よりも寒く、そして乾燥している大陸内陸性の気候。
分かりやすく言えば中央アジアのステップ(ロシア語で「平らな乾燥した土地」の意味)のような土地だったのですね。
発酵文化が育つ土壌自体が、移動狩猟民族かつ気候的なものでないのです。

日本からもたらされた発酵文化

中国で発酵文化を持つ条件自体ができるのは、氷河期よりも後の時代の話です。また、その中国沿岸地域の古層の文化は縄文系文化ですので、「中国発祥の文化」ではなく、日本から持ち込まれた文化でしょうね。

今の中国人の主な祖となる民族は4000年前前後に大陸内陸部から来る、中国沿岸部から縄文系民族が去った後に入って来る「発酵文化を持つ民族とは異なる民族」ですからね。


この「発酵文化を持つ民族」が海洋を利用して東アジアの沿岸部に進出する事により、その文化を持ち込んだわけです。

後古層の大陸内陸系民

ところが4500年前後ほど前、海水面が下がっていき海岸線が引いていきます。それと共に撤退するのですが、その残した文化の上に入って来るのは、やはり西からやって来る大陸内陸民です。

つまり、彼らもまた「”(チーズなどは除く)発酵保存食文化”を持たない人たち」です。発酵しにくい環境に居たというのがあるのも勿論ですが、同時に塩は気軽に扱えない貴重品だったのです。

大陸内陸の人々が発酵文化を持つようになるには、野菜の流通(野菜農耕社会の拡大)と塩の流通(補助剤としての塩を入手できる環境)が必要になる訳ですが、これは中世以降の話になります。

それを、今の中国人の直接の祖先である遼河・黄河・長江の地域に4000年前頃から入って来る後古層文化の人達は元々は大陸内陸系民族ですので持ってきておらず、しかし、なぜ持っていたかとなると「古層文化を作った先住民族との交流などによって持つようになった」のでしょう。

これはもう1つあります。
ようは「移動に海洋利用をしていたのはどの民族か?」というのにも繋がり、そして「外洋を渡れる技術や文化を持っていたか?」にも繋がります。縄文文化は「持っていた文化」ですが、大陸内陸系民族は「持っていなかった文化」なので、海洋に囲まれた日本という地理条件の中で日本→中国は成立するのですが、中国→日本は成立しない文化の1つでもあります。


ちなみに、中国にはいつ頃からか?
というのも大体は予想がつきます。

周代――と言いたいところですが、少し違うようです。
彼らが東夷征伐した際に「大豆を持ち帰った」という記録があります。ただし、ここから戦国時代での記述を見ると、食事としては粒食(そのままの形を煮たり蒸したりして食べる)で、記録だと「不味い貧民が食べる救荒作物」という扱いで忌避されています。
これが変わるのが前漢代に入ってからレ、この時以降から「日本由来の発酵文化」を漢民族は持つ事になったのでしょう。調べてみると、戦国時代の終わりの頃から、日本の文化技術を積極的に取り入れようとしている形跡があります。

漬け物文化

実は、漬物作りも中国では生まれにくい土壌です。

漬け物には海塩が使われる

ミネラルが豊富で野菜の水分をじっくり抜くことができる「海塩(粗塩)」が最も適しています。
海塩と岩塩は、原料や製法だけでなく、含まれるミネラル成分や水への溶けやすさが異なるため、漬物の仕上がりに大きな違いが出ます。

海塩(特に粗塩・自然海塩)は主な原料は海水ですね。主なミネラルとすると、海水由来のマグネシウム(にがり成分)が豊富です。味の傾向としてはまろやかで、ほのかな苦味と深いコクがあります。水には溶けやすいですね。
水分が抜けやすく旨みが出てくるので、漬物への適性が高いです。

これに対して岩塩は、主な原料は太古の海水が化石化した岩塩層で、主なミネラルとすると、鉄分、カリウム、カルシウムなどです。味の傾向はすっきりとして、シャープな強い塩味を感じられます。水へは結晶が硬く、溶けにくいのも特徴ですね。漬物への適性とすると、溶けにくく、味がなじまないので不向きです。

漬物における具体的な違いとして、 野菜の水分を抜く力(脱水効果)でみると、

  • 海塩
    水に溶けやすいため、野菜にまぶすとすぐに浸透圧が働き、野菜の余分な水分をしっかり引き出します。特に粒の粗い「粗塩」は、ゆっくりと均一に水分を抜くため、野菜のシャキシャキした食感を残せます。

  • 岩塩
    結晶が非常に硬く水に溶けにくいため、野菜にまぶしてもなかなか溶けず、水分がうまく抜けない原因になります。

また、味わいと発酵への影響としてみると、

  • 海塩
    海塩に含まれる「マグネシウム(にがり)」のほろ苦さが、野菜の甘みを引き立て、漬物に深いコクとまろやかさを与えます。乳酸発酵も順調に進みやすくなります。

  • 岩塩
    すっきりした塩味が特徴ですが、にがり成分(マグネシウム)があまり含まれていないため、漬物にすると塩角が立ち(塩辛さが尖り)、深みのない味になりやすいです。

つまり、漬物文化は沿岸地域で生まれるものなのですね。
ところが、中国では漢代から沿岸地域の海塩作りは厳しく規制されます。

これが復活するのは唐代の頃から、つまり漢代に規制された頃から700年間ぐらい、海塩をほとんど使われていない(ほそぼそとしか作られていない)時代になります。
中国では漬物文化が育ちようがないのですね。

さらさらした「岩塩」や、海水が原料であってもミネラルを取り除いた「精製塩(食塩)」。これらは塩味が強すぎて、漬物が塩辛くなりすぎてしまいます。もし手元に岩塩しかなく、どうしても漬物に使いたい場合は、あらかじめ水に完全に溶かして「塩水」にしてから、浅漬けなどの液体の漬け汁として使う工夫が必要です。

しかし漬物はある

でも、古い漬物の形態はあります。
泡菜や本来のキムチ(沈菜)に見られるもので、「海水に漬けてしまう」という漬物です。これは日本ではほとんど見られない漬け方ですよね。日本の様にぎゅっと野菜を濃縮させるようなものではなく、たっぷりの海水に漬けこんで淡く乳酸発酵させるもので、爽やかな酸味と野菜そのものが味わえる漬物になります。
「塩を使う」ではなく「海水(塩水)を使う」というのが特徴ですね。というのも、先ほどあるように、中国あるいは中国からの伝播技術では、海塩を基本的に使わない(使えない)からです。
新鮮な野菜を茹で、それを海水に漬けるという具合で作ります。

日本では塩を塗り込むや被せるなどをして、まず「水分を出来るだけ早く抜く」という前処理があります。そして濃い塩分濃度で塩水の嫌気性を使い乳酸発酵させる、という技術になります。これは、日本の気候では腐りやすいからですね。
ところが、中国側では「水を抜く」という前処理の工程は塩ではなく、「乾燥」によって行われます。遺跡を見ても、中国南部でも石造りの密閉室に、炭などを設置して徹底的に乾燥させる、という手法が採られます。

塩漬け肉

大陸の内陸部(モンゴル高原や中央アジアなど)で、干し肉作りに塩が使われていた最大の理由は、「水分を完全に抜いて腐敗菌の繁殖を抑え、常温で何ヶ月も(あるいは年単位で)肉を保存・携帯するため」です。

海のない内陸の厳しい自然環境において、塩と乾燥を組み合わせた保存方法は、生き残るために不可欠な知恵でした。
内陸部で塩を使った保存を行う4つの理由は

  1. 強力な脱水作用(浸透圧の利用)肉が腐る原因は、細菌などの微生物が肉の「水分(自由水)」を使って繁殖することです。肉に大量の塩を擦り込むと、「浸透圧」の働きによって肉の深部から水分が外へ強力に引き出されます。これにより、ただ干すだけよりもはるかに早く、確実に肉を乾燥させることができます。

  2. 微生物(腐敗菌)の繁殖をシャットアウト多くの腐敗菌は、塩分濃度が一定以上になると細胞内の水分を塩に吸い取られてしまい、生きていくことができません。塩を擦り込んで乾燥させた肉は、菌にとって「一滴の水も吸えない極度の砂漠」のような状態になるため、冷蔵庫がない時代でも常温で長期間腐らなくなります。

  3. 「遊牧」や「軍事遠征」に耐える軽量化と携帯性モンゴル帝国などの遊牧民族にとって、干し肉(モンゴルでは「ボルツ」と呼ばれる)は重要な軍事糧食でした。塩漬けして徹底的に乾燥させた肉は、元の重量の数分の一(カチカチの木片のよう)まで軽くなります。「腐らない」「軽くてかさばらない」「長持ちする」という特性は、広大な内陸部を移動する上で最高のメリットでした。

  4. 貴重な「塩分(ナトリウム)」を同時に摂取するため草食動物を主食とする内陸の遊牧民や狩猟民族にとって、体内の塩分を維持することは死活問題です(肉食でもある程度補えますが、汗をかく生活では不足します)。肉を塩漬けにして保存することは、「貴重な食料(タンパク質)の保存」と「生存に不可欠な塩分の備蓄」を同時に行うという一石二鳥の合理的な方法でした。

内陸部での「塩」の入手方法海がない内陸部では海塩は手に入りません。
その代わり、大陸の奥地には太古の海が干上がってできた「岩塩層」や、ミネラルが凝縮された「塩湖(えんこ)」が豊富に存在します。
内陸の人々は、これらから採掘した岩塩や湖塩を使って肉を仕込んでいました。
岩塩は「水に溶けにくく塩味が尖る」という特徴がありますが、肉に直接ガリガリと擦り込んで長期間かけて水分を抜く干し肉作りには、むしろそのシャープな塩味が非常に適していたのです。

『泡菜』の歴史

本来、漬物の「塩を塗り込んで水分を抜く」という技術は、海塩に含まれる「にがり」と「粒子」が不可欠であり、これこそが「本来の漬物(日本で見られるようなもの)」の核です。漢代の塩専売制は、この「海塩」そのものを庶民の生活から徹底的に奪うという行為です。

専売の影響が及ぶ内陸部や、庶民の手元に届くのは、加工された塩や、強引に採掘された岩塩・湖塩ばかりとなります。これらは、脱水作用や発酵の安定性において、海塩を用いた漬け方には適しません。

そこで生まれた内陸部での「苦肉の策」が、「塩水に漬け込む」というスタイルです。これは、国家の管理により海塩が入手できない以上、「塩を脱水剤として使う」という贅沢な技術を諦め、「塩を最小限にして、液体の浸透圧を利用する」という形に技術を改変せざるを得なかったということです。


漬物という食文化が、素材の特性からではなく、「政権がいかなる塩を流通させたか」という政治経済的な制約によって、その形態を決定づけられたという解釈をすると、中国の歴史を考える上で非常に筋が通っています。

「泡菜」の起源を漢代以降とする説に立てば、「なぜ中国の漬物は、素材を濃縮させる日本的な形ではなく、塩水に漬ける形になったのか」という問いに対し、「漢代以降の海塩供給制限が、漬物の技術モデルを強制的に書き換えたからだ」という明確な答えが導き出されます。
つまり、泡菜は「自然に生まれた食文化」などではなく、「国家による塩の統制という強権的な歴史に対する、民衆の食の適応の結果」であった、ということですね。

日本式漬物

「日本の漬物技術が中国から来た」という説がありますが、これは本当でしょうか?

史料を精査すると、日本のように「塩を直接まぶして、重石などを利用してしっかりと脱水し、素材を濃縮させて漬け込む」という技術体系が中国の文献に明確に定着・主流化するのは、時代としてはるか後、宋代から元・明代(10世紀〜14世紀以降)になってからです。

それ以前の古代・中世の中国における「塩漬け」の主流は、「塩水漬け(液漬け)」であり、日本的な脱水型の漬物とは明確に技術的断絶があります。この時代的な変遷は、中国最古の総合農書である『斉民要術』(6世紀・北魏)や、それ以降のレシピ集の記述から完全に裏付けることができます。

六世紀(魏晋南北朝〜隋)の時点では、やはり「塩水漬け」が主流で、6世紀に華北の農政・食文化を記録した『斉民要術』の「作菹(漬物の作り方)」の章を見ると、当時のスタンダードな技法は以下のようなものです。

「濃い塩水を作り、その塩水で野菜を洗う(真水で洗うと腐るため)。そして、その塩水ベースの液に野菜を沈めて漬け込む」

ここには、日本で行われるような「野菜に塩を直接すり込み、重石を載せて水分を(外へ)搾り出す」という前処理の工程がありません。基本は、あらかじめ作った塩水(あるいは醤や、茹で汁+塩)のなかに野菜を投入するスタイルです。
これは、まさに漢代以降「海塩(粗塩)」が使えず、手元にある塩を効率よく液体に溶かして使うしかなかった時代の技術がそのまま定着している証拠です。

中国で、日本的な「直接塩を振る脱水・濃縮」が現れるのは宋代以降です。現代の「咸菜(シエンツァイ)」に繋がるような、塩を直接すり込んで水分をしっかり抜く、あるいは何度も干して塩を重ねるような漬け方が文献に目立って現れるのは、唐代を過ぎ、宋代(10〜13世紀)や元・明代以降になります。

宋代の『山家清供』や明代の『多能鄙事』などの生活・料理書など、この時代になると、ようやく「野菜に塩をまぶして一晩置き、出た水分をしっかり絞り切ってから、さらに塩や調味料と合わせる」という、日本的な「脱水プロセス」を経る漬け方が多く登場するようになります。

宋代以降になると、経済の発展とともに塩の精製技術や流通経路が多様化し、また「煮塩(エネルギーを使って海水を煮詰める)」だけでなく、沿岸部での効率的な製塩法(天日塩に近いアプローチや、より広域での物流の復活)が進みます。これにより、民衆が「塩を脱水剤として贅沢に使える(使い捨てられる)」物理的条件が徐々に整っていったと考えられます。

一方で日本は、記紀神話や奈良・平安時代の『延喜式』の段階から、基本は「塩を直接すり込む」「塩を被せる」という、ダイレクトな脱水手法(および粕漬けなどの濃縮手法)が主流でした。これは、日本の高温多湿な気候下では、モタモタしていると乳酸発酵が始まる前に腐敗菌が勝ってしまうため、「一刻も早く水分を抜いて細胞を締める」必要があったからです。

中国側がこうした「塩による直接脱水」の技術を一般化させるのが宋代以降であるということは、それまでの数百〜千年間、中国では「塩水に漬け込む泡菜的な形」が、国家の塩の統制下において唯一成立し得る漬物の形として固定化されていたことの決定的な証拠になります。

中国における漬物文化は、漢代以前だと、外来文化としての漬物(日本から伝わる漬物)があった可能性があります。
ただし、それ以降の歴史で見ると、

  • 漢代〜唐代・宋代の手前まで(約1000年間)
     海塩制限下における「塩水漬け(泡菜・初期の菹)」の時代。

  • 宋・元・明代以降
     塩の流通変化や技術変化に伴い、ようやく日本のような「塩を直接使って脱水・濃縮する(咸菜など)」技法が本格化。

というステップを踏んでいます。したがって、「日本の漬物というのは中国から手法がやって来た」というのは明らかにおかしく、「日本のような漬け方は、中国でははるか後になって現れたものだ」というのは、文献史学的にも明らかなのですね。

これは実は、「胡麻油」「炒め物」と同じルートと歴史で、日本から中国に伝播した可能性が大変に高いのでしょう。

「日本」だから自然に出来る

この「発酵食品文化」というのが、生活する中で自然に出来るには、乾燥した大陸性気候でも、年を通して高温高湿の東南アジアの気候でもできません。
「日本の四季」というダイナミズムを利用した発酵・熟成サイクルなんです。

① 冬(低温・低湿):安全な仕込み期
雑菌(腐敗菌)が動けない時期に塩を利かせて仕込む(寒仕込み)。
ここで有用菌(麹菌など)だけを安全に定着・優勢にする。

② 春(緩やかな昇温):発酵の立ち上がり
気温の上昇とともに、仕込んでおいた有用菌や酵素がゆっくり活動を開始。

③ 夏(適度な高温多湿):発酵・熟成のピーク
すでに有用菌が陣取りを完了しているため、腐敗菌が入る余地がない。
一気に酵素分解と熟成が進み、旨味・甘味・香りが爆発的に生成される。

④ 秋(降温・乾燥):安定化と完成
熟成が深まり、製品として安定。長期保存や消費の時期へ。

それと同時に、発酵を抑制する塩分(海塩)を自由に使える環境、というのも重要になります。

いいなと思ったら応援しよう!