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”胡麻”を考える

これは、”『胡餅』を辿る”の中に書いているのですが、『胡麻』がとても深かったので。抜粋および追記しています。
かなり追記しています。


日本の胡麻の歴史は長い

現在、世界最古の胡麻。
それが日本です。

「胡麻の食用」は5,500年以上前から

胡麻の食品利用は日本ではBC3,500年前、つまり5,500年前には、福井県の鳥浜貝塚や東京都の下宅部遺跡で、既に栽培化されたゴマを縄文人が利用していた痕跡があります。また、石皿と磨石の付着痕跡に胡麻の油脂抽出・練り加工をしていた痕跡があり、この時代には既に油として利用していたようです。
この時点で栽培種らしき変化をしています。ということは、これより以前から栽培農耕をしていた、という事です。

近年の植物考古学において、福井県・鳥浜貝塚(約5,500年前)や富山県・千坊山遺跡(縄文中期)よりもさらに古い、縄文早期(約9,000〜7,000年前)の土器破片から「ゴマ属(Sesamum sp.)」の種実圧痕が検出される事例が、日本各地の湿地遺跡や貝塚の網羅的調査で報告され始めています。

つまり「ゴマ」になる前の野生種も日本に存在していたという事です。

日本の農耕の歴史は古い

日本の「農耕」は世界的に見ても古い、琵琶湖の水に沈んだ遺跡では、9,000年前には畔と水路があり、栽培種の大豆が確認されている遺構があります。
10,000年以上前から「杭」と「編朶(枝を編んだ柵)」を使う水利利用が確認されており、稲もプラントオパールが14,500年前から確認されており、混作していた形跡があります。

中国では『混作』の痕跡の形跡は9,000年前から。単一作物になるのはそれよりも新しい時代からです(それも、縄文系民族が定住していた当時の沿岸地域の場所で見つかるものなので、場所は「東アジア」なのですが「中国民族の歴史」ではなく「日本民族の歴史」です)。
中近東(肥沃な三日月地帯)だと小麦・大麦・レンズ豆が約10,000年〜11,000年前、中南米(メキシコ等)ではトウモロコシ・カボチャが約7,000年〜9,000年前からが人工管理的な”栽培”=”農業”の開始の時期となっています。

日本ではそれよりも古くから、人口管理的な”栽培”が確認されているのですが、何故かそれは日本の考古学では”農業”としていません。世界的な判断基準で言えば『世界最古の農業』です。

日本の次に古いのがインダス文明

日本の次に古いのが、インダス文明です。
ここでは4,500年前頃に栽培種の胡麻が確認されています。日本の約1,000年後ぐらいですね。そして、これより前のインダス前史の時代では胡麻、あるいは胡麻の祖先となる植物の形跡がありません。インダス文明(成熟期)の胡麻が野生種からの進化過程を欠き、突如として栽培種として出現するという点は、植物考古学者も認める「栽培化の謎」としてあります。
日本ではさらにさかのぼる事9,000年前頃でも土器の圧痕で形跡があるのですが。

にもかかわらず、『胡麻の原産はインダスだ』というのが学会での通説になっています。日本とインドでの出土状況と時系列がまったく合わないのですね。

野生種がある……はず!

そこでよく言われるのは「西沿岸地域に、胡麻の野生種があると予想される」というものですが、現実には見つかっていません。
繋がる種自体が見つかっていないのです。

野生種から栽培種になるのは、栽培を始めてから長い時間が掛かります。現代の様な品種改良の方法ではなく、栽培の中での取捨選択を繰り返す事により段階的に品種改良が進むからです。
4,500年前に突然に栽培種の胡麻が現れているなら、その数千年前の時代には野生種が存在している必要があります。さらにその間の時代に野生種から栽培種に変わっていく過程が必要です。

日本では胡麻の種子が時代によって変化(10,000年前の野生種から5,500年前の栽培種、そしてその間に土器の圧痕で確認できる種子のサイズの変化)していくのを確認できます。それは現在まで途切れず栽培され続けています。
しかし、インダス文明のあった地域ではそれが見当たりません。「野生種から栽培種に変化していく過度期が見つからない」という話ではありません。インダス文明の前の時代、「インダス前史の時代に胡麻の種子があった痕跡自体が見つからない」のです。
ある日突然に「栽培種の胡麻」が出現しているのです。

多様性があるから!

他に学会で「インダス文明が胡麻の発祥だ」と言っているのは、その胡麻の遺伝子構造です。
インダスが発祥であり、それが中国に渡った際には取捨選択されているので優良な種へと研磨されていき、それが日本に渡ったから更に研磨された。だから日本の品種は純粋な形なのだ。
という理論で、「ボトルネック」という考え方です。
しかし、そうであってもそれまでの形質がどこかに残る(長江の稲が熱帯ジャポニカの形質を持つ温帯ジャポニカのように)ものです。しかし、日本の胡麻にはそれがありません。日本の胡麻は純粋と言える性質を持っています。

また、出土した年代とその野生種/栽培種を見ても判るように、この理論で行くなら日本で見つかる10,000年前よりさらに前、中国では15,000年前、インダスでは20,000年前、といった具合で野生種が見つかる必要があります。
ところが、見つかっていません。
インダスで確認できるのは4,5000年前が最古の栽培種であり、中国は辺境である中央アジアに近い西域はともかく、中国の中心部である中原地域で胡麻を見掛けるようになるのは宋代以降、つまり1,000年前ほどからです(これは後述していますが、想像以上に胡麻が入ってきているのが遅いです)。


出土する年代から考えても、

  • 日本に純粋な10,000年前には胡麻があり

  • それが5,500年前頃には農耕栽培で品種改良され栽培種になっており、

  • それがインダスに行き、胡麻を利用され始める。

  • しかし生育環境の変化で胡麻がインダス地域で多様に変化し、それが交雑してモザイク(多様性)を持つようになった。

という方が説明がつきます。

ここら辺で言われているのが、

  • インダス文明の胡麻は遺伝子にた多様性がある。

  • 中国はインドからの栽培種が伝播したもので安定した性質だが、途中で他のモノも交雑している。

  • 日本のはより安定した性質だ。これはボトルネックで選別された結果だ。

――という理屈です。この時に基準にしたのが中国の胡麻らしいですね。
ですが、日本では10,000年前の野生種が確認されています。栽培種になっていない胡麻ですから、この”ボトルネック理論”が成立する為には栽培種が野生化する、すなわち10,000年前よりもっと前の時代に胡麻の栽培種が日本で見つからなければ成立しません。
そして、それは栽培種だから農耕が日本に――さらに言うと、インダス文明地域や中国の文明地域でそれよりも更に古い氷河期時代には定住文化と農耕の痕跡が必要になってきます。

12,000年前の地形

氷河期ですと、東シナ海の海岸線は今より500kmぐらい先になり、渤海や黄海も平地なので海の影響は受けません。中国は今よりも大陸内陸性気候になり、今よりも湿度が低く温度も低いです。
このような時代にインダス地域や中国地域で「定住して栽培している痕跡」が見つからないといけない、というわけです。
――この学会の通説、そもそもが成り立たないのですね。

これは後述もしている「胡麻が現れる遺構」を時系列に並べると、

  • インダス文明の胡麻は縄文からの胡麻が来ている。

  • 中国の胡麻は宋代に日本から来ていて、その後、インドなどからの胡麻と交雑している。

というのが判ります。

インダス文明は縄文文化からの派生

インダス文明の東側、アンダマン諸島では7,000年前にはD1aの文化系統であるD1a1系統が住んでいますが、先住民族ですね。メヘルガルをはじめとするインダス前史段階でも石皿は存在しますが、その多くは表面が平らなタイプか、浅い窪みを持つものです。

明確な定住文化が現れてくるのは約5,000~4,500年前で、これが「インダス文明の時代」です。この時代にD1a2b系統、すなわち日本の「孤立した遺伝子」の派生系統がこのアンダマン諸島で確認されています。栽培化された胡麻と一緒に確認されるインダス文明の石皿は、それまでの西アジア(メソポタミア)系統の石皿よりも、形態的に日本列島の縄文〜弥生移行期の石皿に近い「深い凹みを持つタイプ」です。

他にも、インダス文明の主要遺跡(ハラッパー、モヘンジダロ、沿岸のバラコット等)からは、大量の「魚骨」とそれを捕獲するための「漁具」が出土しますが、その技術は日本の縄文~弥生移行期の海洋民の道具と酷似しています。インダスでは青銅製の銛が出土しますが、これは獲物に突き刺さると頭部が外れて横を向き、ロープで獲物を引き寄せる構造(”トグル式”と呼ばれます)を持っています。これは、日本の縄文人が鹿角や猪骨で完成させ、縄文系外洋民(D1a2系統)の象徴とも言われる「結合銛・有倒銛」と機能的・形態的に完全に一致する思想です。

また、器の破片の端を削って溝を掘った「土器片錘」や、石に溝を彫った「石錘」が、インダスの河川・沿岸遺跡から大量に出土します。これも日本の縄文貝塚から出る「土器片網錘」「石錘」と区別がつかないほど形態・製法が共通しています。

さらにインダス文明では、土器の表面に「編みかご」の痕跡(圧痕)が残る土器片(Basket-marked pottery)が多数出土します。
木や竹、蔓を編んだ「編みかご・編み組織」を高度に使いこなしていますが、これは、日本の縄文低湿地遺跡(鳥浜貝塚など)から出土する精緻な編みかご(セイロの原型)や、有孔土器(蒸し器)と組み合わされた有機質繊維の利用法と完全に一致する関係にあります。

食事事情でも、インダスの生活遺構(ゴミ捨て場=灰坑)からは、内壁に有機物が濃密に残留した大型の貯蔵用土器(Pointed-base jarsなど)が出土します。近年の脂質・化学分析において、これらの土器から「魚類の脂質」や「加熱変性の極めて低いアミノ酸成分」が検出されるケースが報告されています。これは、火にかけて「煮る」ためではなく、「常温で長期間、魚介類を塩漬けにして発酵させる(魚醤やなれずしのシステム)」ために土器が使われていた強力な証拠です。
インダス川流域および沿岸部は、モンスーンの影響を受ける「高湿・高温」の環境です。放置すればすぐに腐敗する環境において、「微生物を味方につけて長期保存する」という縄文最古級の発酵OS(大平山元I遺跡の魚醤痕跡など)と全く同じ生存戦略が、この地でも選択されています。
鳥浜貝塚に見られるような「編みかご(セイロ)」による蒸し調理も日常化させています。

ここより西のメソポタミアやエジプトの初期の偶像が「神や王」の幾何学的・権威的な表現に特化していくのに対し、インダス文明の住居層からは、素朴で愛嬌のあるテラコッタ(土製品)が大量に出土します。女性を象った豊満なフィギュアや、手足が動くおもちゃのような動物の土製品(瘤牛や鳥)です。これらは王の墓に納められる象徴物ではなく、一般の住居跡から日常の雑器と共にゴロゴロと出土します。これは日本の縄文土偶や動植物形土製品(猪形土製品など)が、生活空間から割られた状態で出土する精神世界(日常的な祈り、再生への呪術、身代わり信仰)と、極めて近い距離感を持っています。

すなわち、丁度、縄文海退(上昇していた海水面が下がってくる時代)の期間であり、中国沿岸部を中心にその古層で定住していた縄文系民族がその沿岸部から去り始めた時代に、中国の次にこのインダス地域で新しい文明の基礎を作り始めたのが、やはり定住文化インフラを揃えていた縄文系民族になります(中国の遼河・黄河・長江文明も縄文系民族ですので、四大文明のうち2つは、それより古くから文明を作っていた縄文系民族が基礎を構築した事になります)。

  • 常温発酵(魚醤・醤)だと日本は約16,500年前頃(大平山元I遺跡の遺物)ですが、インダスだと約5,000年前頃(インダスの土器 / 仰韶末期)からで、約11,000年ほど縄文人が先行しています。

  • トグル式銛(外洋漁猟)は日本は約9,500年前頃(早期の結合銛遺物)があります。これはインダスでは約4,500年前頃(インダスの青銅銛)からで、約6,000年ほど縄文人が先行しています。

  • 深い凹みを持つ石皿は日本では約13,000年前(草創期・早期の石器)には既にある者です。インダスでは約4,500年前頃(インダスの石皿)で、約10,000年ほど縄文人が先行しています。

  • 蒸し調理(セイロ・甑)は日本では約9,500年前(上野原遺跡の底部穿孔土器)には既に調理しています(たぶん、温泉蒸気利用でもっと古い)。インダスでは約5,200年前頃(仰韶の甑)~約4,500年前頃(インダス)からで、約4,000〜6,000年ほど縄文人が先行しています。

と、これも中国沿岸部の古層文化と同じで、縄文文化に似すぎているのですね。

インダス前史文明は乾燥地帯文化

メヘルガル等のインダス前史段階と、同時期のメソポタミア(ハラフ文化やウバイド文化の萌芽期など)の間には、「乾燥地帯における穀物農耕と土着的な建築・製作技術」という共通性が存在します。
メヘルガル初期の集落とメソポタミアの初期農耕集落を比較すると、メヘルガルI期の多室構造の住居遺構は、長方形の日干しレンガを用いて構築されています。これはメソポタミアの「レンガ建築文化」と完全に同系統の建築言語です。
穀物農耕も小麦(エンマー小麦、パン小麦)や大麦を主軸とする農業体系は、メソポタミアからイラン高原を経由して伝播したルートと同一であり、両地域は「同じ乾燥地帯における農耕パッケージ」を共有しています、

初期段階では土器を伴わない(Aceramic)時期から始まり、その後の土器導入過程においても、簡素な手捏ねから始まる工程や、後の幾何学的文様への発展は、西アジアからイラン高原を経て拡散した農耕文化圏の典型的な特徴を示しています。
メヘルガル等のインダス前史段階は、乾燥したメソポタミアの「粘土とレンガの文化」の直接的な影響下にあります。乾燥したメソポタミアの「粘土とレンガの文化」に対し、インダスは「植物繊維・木製品を多用する高湿・河川適応文化」の側面を強く持っています。

ここで重要なのは、「インダス文明の成熟期(4,500年前)」に現れるパッケージが、このメヘルガル前史(メソポタミア的乾燥文化)の延長線上には存在しないという点です。

インダス文明とは、それまでメソポタミア流の「粘土とレンガの乾燥農耕」を営んでいたメヘルガル等の地に、「全く別の文明」が持ち込まれ、上書き(あるいは融合)された結果出現したものである、という事ですね。
そしてインダス文明の痕跡から、それは縄文系民族の可能性が限りなく高いのです。


すると、『胡麻』の流れは、
・日本からインダス、そしてメソポタミア
という西進経路で伝わったと判ります。

ただし、西アジアでは「前1,200年の崩壊」と呼ばれる地中海・西アジア規模の文明崩壊でほぼ断絶。そしてそれがその時に東(中央アジア)に伝播した形跡はありません。
復活するのはAD3〜7世紀のササーン朝時代の約1,500年以上後の時代になります。それまでは、細々と辺境で生き残ったぐらいです。
胡麻文化が延々と続いていたのは、日本だけなんですね。

中国の胡麻はどこから?

通説では「張騫が西域から持ち帰った」とされているのが定説ですね。名称も「西域(胡)から来た麻(油の取れる植物)」として「胡麻」と名付けられました」と言われています。

判りやすく言うと、これは『後世で捏造された創作逸話』です。

「張騫」が持ち帰った『胡麻』

結論から言うと、「張騫」が持ち帰った物に「胡麻」は存在しません。

『史記』大宛列伝の司馬遷の記述では、「張騫個人の手土産」というよりは、張騫の遣使以降に往来した「漢の使節団(漢使)全体」が、大宛からブドウとウマゴヤシ(苜蓿)の種を持ち帰ったと書かれています。時代としてBC2世紀末~BC1世紀初頭ぐらいの時代ですね。
ウマゴヤシとは、簡単に言えばアルファルファの事です。

西北外國使更來更去
宛以西皆自以遠尚驕恣晏然未可詘以禮羈縻而使也
自烏孫以西至安息以近匈奴匈奴困月氏也匈奴使持單于一信則國國傳送食不敢留苦
及至漢使非出幣帛不得食不市畜不得騎用
所以然者遠漢而漢多財物故必市乃得所欲然以畏匈奴於漢使焉
宛左右以蒲陶為酒富人藏酒至萬餘石久者數十歲不敗
俗嗜酒馬嗜苜蓿
漢使取其實來於是天子始種苜蓿蒲陶肥饒地
及天馬多外國使來眾則離宮別觀旁盡種蒲萄苜蓿極望

史記

漢の使節団が持ち帰ったものは下から二行目にある「漢使取其實來於是天子始種苜蓿蒲陶肥饒地」で、「ブドウ(蒲陶)」と「アルファルファ(苜蓿)」ときちんと書かれていますね。最後の行にある「及天馬多外國使來眾則離宮別觀旁盡種蒲萄苜蓿極望」から、「ブドウ」はお酒で、「アルファルファ」は馬が好んで食べたから種を持ち帰ったようです(日本では、牧草として明治時代に導入されています)。「天馬」というのはこの地の馬でとてもいい馬だったそうです。

『漢書』には書かれていない

『漢書』西域伝には「漢の使者、大宛より帰るに、その葡萄・苜蓿の種を得て、天子これに植う」と書かれている。
――と解説されているものがあり、こちらも同様に「漢の使者」とありますが、これにも持ち帰った物は「葡萄」「苜蓿」であり、「胡麻」はありません。
それとさらに言えば、『漢書』の「西域傳」だけでなく「張騫李廣利傳」も確認しましたが、このような事は書かれていませんでした。これは、500年後の人物が「漢書に張騫が胡麻を持ち帰ったと書かれている」と偽りを記載したデマが広がったものみたいですね。

また、『史記』大宛列伝および『漢書』張騫伝・西域伝の原文をすべて読んでみましたが、「胡麻」または「ゴマ」に関する記述は文字通り「存在しません」。 持ち帰った植物として明記されているのは、『史記』にある「ブドウ」と「ウマゴヤシ(苜蓿)」のみです。
張騫や漢の使節団(「使節団」とありますが、書いてあることは征服侵略ですね。平和的なものではありません)が西北の異民族(胡)の地である西域と交通を開き、ブドウやウマゴヤシをもたらしていますが、この時、ゴマを持ち帰ったという記録は存在していないのです。

『後漢書』に出てくる

調べていると、中国の「二十四史」で『胡麻』が出てくるのは、『後漢書(四庫全書本)』です。
ただ、これは「四庫全書本」というのが注意が必要で、これは1782年に写本されたものです。これの基になるのは清代の宮廷(武英殿)で刊行された「武英殿本」、あるいはそれに連なる汲古閣の「毛刻本」などの明・清代の精校本です。これらはさらに遡ると、南宋時代に刊行された「宋(元)刊本」の系統を引いています。先行史料をパッチワークのように整理・再構成しているので、元の『後漢書』には無い事も書かれています。

漢武内傳曰魯女生長樂人初餌胡麻及术絶穀八十餘年日少壯色如桃花日能行三百里走及麞鹿傳世見之云三百餘年後采藥嵩髙山見一女人曰我三天太上侍官也以五岳眞形與之并告其施行女生道成一旦與知友故人别云入華山去後五十年先相識者逢女生華山廟前乘白鹿從玉女三十人并令謝其鄉里親故人也

『漢武内傳』によれば、長楽出身の呂女は、最初はゴマを食べて穀物を断つ術を身につけた。八十年以上もの間、彼女は若々しく健康で、桃の花のような肌色を保っていた。一日三百里を鹿のように駆け抜けることができた。三百年以上経った後、嵩山で薬草を採っていたところ、「私は三天の至尊の官吏です」と言う女性に出会った。呂女は彼に五聖山の真の姿を教え、修行法を授けた。悟りを開いた呂女は、華山へ行くと言って友人や知人に別れを告げた。五十年後、かつて彼女を知っていた人々は、華山の寺の前で、白い鹿に乗り、三十人の玉女を伴った呂女に出会った。彼らは皆、呂女に故郷の親戚や友人に感謝するように頼んだ。

後漢書(四庫全書本)

長楽というのは福建省ですから南東、ここ出身で胡麻を食べて長寿だった、という話しです。やはり「長寿」の話に繋がっている食品ですね。これは『後漢書』ではなく『漢武内傳』に書かれているという注訳です。

『漢武内伝(別名:『漢武帝内伝』)』は、前漢の武帝の一生、特に神仙思想に傾倒し、西王母などの女仙から信物や不老不死の教えを授かる様子を叙述した中国の道教的な仙伝小説(志怪小説)です。4世紀後半〜5世紀前半(東晋末期から劉宋期、いわゆる六朝時代初期)に成立したと推定されています。
『漢武内伝』の成立には、道教の上清派や霊宝派といった、4世紀後半に茅山を中心に形成された新興道教の教理・神仙系譜が深く関わっています。作中に登場する神仙の位階や、西王母が武帝に授けるとされる「六甲霊飛之符」などの呪術的・経典的要素は、東晋の「上清経」の出現以降でなければ整合性がとれません。そのため、歴史・文献学的には4世紀末から5世紀初頭の六朝期、上清派道教の周辺にいた作者未詳の道士(あるいは教団関係者)によって執筆されたと見るのが定説となっています。
つまり、『後漢書』と同時期に書かれた新興宗教勢力が作った創作神話ですね。また、この時代は『胡麻』はどうも『大麻の実(巨勝)』の事で、所謂現在で言う『胡麻』ではないようです(これは後述しますが、これはどうも、日本での別の植物の「古麻(古末)」という呼び方が伝播したもののようです)。

確実なのは、「張騫」は『胡麻』と関係が無いという事です。

『胡麻』は後世に出てくる

では、「胡麻」という言葉自体はいつからあるのか。
前漢〜後漢初期にはありません。前漢代の農書『氾勝之書』には、大豆、アワ、麦、麻などの栽培法が詳しく書かれていますが、「胡麻」の文字はありません。
また、後漢のAD100年頃に完成した最古の部首別漢字辞書『説文解字』にも、植物の「麻」や「蕡(麻の実)」はありますが、「胡麻」という熟語は登録されていません。

初現するのは後漢末期〜魏晋時代であり、文献上で「胡麻」という言葉がはっきりと確認できるようになるのは、後漢末期の医師・華佗の処方や、魏晋時代の本草書(『神農本草経』の系統を整理した『本草経集注』など)からです(ただし、原本はないのですが)。

この『神農本草経』は、中国ではほとんどない植物・利用されていない植物だが、日本では当たり前の植物などが記載されており、日本からの影響が考えられる書ですね。
これについては後述します。

更に調べると、『胡麻』というのは中国では二転三転して使われているようで、どうも、この時代の『胡麻』こと『巨勝』は「主に大粒の大麻の種子」の事を言っているようです。
「胡麻」という言葉が、麻や亜麻から離れて「現代のゴマ」を指すようになる、あるいは「芝麻」の呼称が完全に一般化するのは、元代(13-14世紀)の農書(『農桑輯要』『王禎農書』)から明代にかけてと、かなり新しいです。

500年後の勘違い

ではなぜ「張騫が胡麻を持ち帰った」という説が流れているかというと、AD500年頃、陶弘景という人物が『神農本草経』をアップデートした『本草経集注』を著しました。その中の「胡麻」の解説(注釈)部分に、初めてこの話が登場します。
さらに、西暦530年代の農書『斉民要術』巻二・胡麻第十三の冒頭には、以下のように引用されています。
「《漢書》云:張騫外國得胡麻(『漢書』に、張騫が外国で胡麻を得た)」
つまり、600年後に創作された注訳で「張騫が胡麻を持ち帰った」という通説が作られたのです。

――考えてみたのですが、これ、「アルファルファの種」を勘違いしたのではないでしょうかね?
アルファルファの種子は、わずかに腎臓形(あるいは楕円形)をした数ミリ程度の極小の粒です。これは、本物のゴマの粒や、大麻の種子(麻子)の小粒のものと、パッと見のサイズ感や形状が非常に酷似しています。また、マメ科であるアルファルファの種子は油分を豊富に含んでおり、絞れば良質な油が採れます。ここら辺から写本した人が間違えたのではないでしょうかね。


調べていくと、漢代というのは日本の先に進んだ文化技術を得ようとしている傾向が見られます。
生活インフラから食文化などが、日本から中国に伝わっているようです。

胡麻が中国に来る時期

これは中国の周辺を調べていく必要があります。
「胡麻はインドから来た」という説もあります。

胡麻は西から来ていない

西域の胡麻の歴史を遺物から確認すると、

  • インド沿岸(BC 2,500年頃)のインダス文明の沿岸部で胡麻が出土しています。

  • これが、西アジア(メソポタミア・レヴァント)ではBC2,000年頃(インダス文明との交易期)に一旦普及しています。しかし、その後の「ブロンズエイジ・コラプス(前1,200年の崩壊)」以降、西アジアでの胡麻の出土は激減し、主要な油糧作物から姿を消しています。「前1,200年の崩壊」と呼ばれる地中海・西アジア規模の文明崩壊が起こり、高度な農業ネットワークが切断。この時期、西アジアから胡麻の出土は激減し、主要な油糧作物の座を失い、「廃れた」状態になります。

  • そして、BC2世紀の西域(タリム盆地周辺)ではこの時期、シルクロードの要所であるトゥルファンやニーヤなどの遺跡から、「胡麻の栽培」を示す遺構や種実は見つかっていません。

つまり、タンドールで焼く無発酵パン「窯焼きパン」のルートで胡麻は入ってきていないません。タンドールで焼く無発酵パンが西から東に伝播していきますが、胡麻はそこにはありません。

AD6世紀の中国の文献が「胡麻を張騫が西域から持ち帰った」とするBC2世紀末、肝心の西域には「中国へ輸出できる胡麻文化」が物理的に存在していなかったのです。

中国の胡麻の最古は……

さらに言うと、実は中国では漢代では「胡麻が見つかっていない」です。「胡麻を張騫が西域から持ち帰った」という通説自体が成り立ちません。1950年代〜80年代の中国の古い発掘報告書には、「山東省の龍山文化の遺跡(約4,500年前)からゴマの種子が出た」という記述がありました。しかし、近年の国際的な植物考古学チームによる再検証(顕微鏡による細胞壁の定量分析)により、これらはすべて「アマ(亜麻)」や「オオイヌノフグリの仲間(雑草)」の種子の誤認であったことが学術的に証明され、現在は完全に修正(撤回)されています。
そう、中国最古の薬学書である『神農本草経』には『胡麻』が書かれているのに、同時期の中国では痕跡が出土しません。

中国で胡麻の最古は、「中国人の歴史」とはまるで関係なく、現代では中国の領土内にある新疆ウイグル自治区・トルファン盆地のアスターナ古墓群で、約1,300年前(西暦600年代〜700年代・唐代)です。墓室の副葬品、およびトルファン盆地のベゼクリク千仏洞の遺構から、炭化した状態のゴマ(Sesamum indicum)の種実が大量に出土。放射性炭素年代測定により実年代が確定しています。
このアスターナ古墓群の胡麻は、西から来ています。
西側(中央アジアから見て西・南西方向)では、「前1200年の崩壊」で中東の主要作物の座から転落したものの、完全に絶滅したわけではなく、一部の地域で「栽培」が確実に温存され、この直前の時代(ササーン朝期など)に再び周辺へ広がり始めていました。AD3〜7世紀だと中央アジアの西隣に位置するイラン高原(ササーン朝)の遺構からは、限定的ですがゴマの出土例や、料理・薬用としてゴマ油を用いた記録が存在します。
アスターナ古墓群から西へシルクロードを遡った中央アジアのオアシス都市遺跡から、まさに6世紀後半〜8世紀(唐代と同時代)のゴマの炭化種子や油搾りの遺構が明確に出土しています。
6〜8世のペンジケント遺跡(タジキスタン)はソグド人の代表的な都市遺跡です。ここの住居層やキッチンの遺構から、大量の炭化されたゴマの種子が出土しています。
7〜8世紀のアフラシヤブ遺跡(ウズベキスタン・サマルカンドの古層)だと、ここで発見された植物遺物の分析(浮選法)により、アワや麦と並んで、ゴマが日常的な「油糧作物」として大量に消費されていたことが確定しています。

実際、中国の中原で胡麻の痕跡を見掛けるようになるのは、宋代以降。この時代になって強火の炒め物・揚げ物の爆発的に始まり、胡麻油が普及し始め、中原の遺跡でも出土し始めます。

胡麻の搾り方で判る

『胡麻の扱い方(油の採取方法)』から、中国の「胡麻」は西(中央アジア)からきたものか、東(日本)から来たものがが予想が付きます。
結論から言うと、中国中原の「胡麻(ゴマ)」は、アスターナ(中央アジア・西域)からではなく、日本から来ています。

もし中央アジア(ソグド人・アスターナ経由)から中原にゴマがやって来たのであれば、中原のゴマ文化は「西域・中央アジア流の使い方」になっていなければ矛盾します。しかし、宋代に中原で爆発したゴマの使い方は、中央アジアのそれとは完全に異なり、日本が数千年前から温存・洗練させていた「油脂調理・粉食」そのものです。

「使い方」という視点から、アスターナ(西域)ルートの物理的矛盾と、日本(東)ルートの必然性が明らかです。


中央アジアのゴマ油の搾り方は西暦6〜8世紀の中央アジア(ペンジケント等)の搾油遺構で判り、西アジア・地中海系の「大型の石製・木製のテコ式やネジ式の圧搾機」です。これはロバや牛、あるいは大勢の人手を使って、ゴマの種子を力任せにギューギューと「冷間圧搾(コールドプレス)」して油を搾り取るシステムです。

しかし、唐代はもちろん、宋代にいたるまで、中国中原の農村や都市遺構から、このような西アジア・中央アジア型の大型圧搾機(ハードウェア)は「一基も」出土していません。 つまり、中原の人間はアスターナの「油の搾り方」を全く導入していません。


中原で確立された伝統的な胡麻油の搾り方は、中央アジアのような巨大な石の機械でそのまま潰すのではなく、「ゴマを香ばしく煎り(焙煎)、それを蒸してから、臼で細かく擦り潰して湯を加え、油を浮かび上がらせて搾る」という非常に精緻なプロセス(水調法・温熱圧搾)です。
これは日本伝統の「煎り・蒸し・水調法(熱間圧搾)」の手法です。

つまり、「中国の胡麻」は宋代あるいはその前ぐらいの時代に、その調理での利用方法と共に日本から来たものだという事です。

『油炒め』と『油揚げ』

ここでもう1つ疑問が「宋代で現れる炒め物・揚げ物」で、これがどこから来たのか?
中国の北方に位置する遊牧民族の国家(遼や金など)は、この時代になっても油での調理文化を持っていません

これはどうも、中国には2箇所から来ているようです。


1つは日本からですね。

日本では数千年前の縄文時代から、世界最古の「油脂加熱調理」の物証があります。近年の考古化学(土器や石器の脂質分析)により、縄文人が「油を使って食材を加熱する」という、広義の炒め・煎り調理を日常的に行っていたことが科学的に証明されています。
縄文土器の底や内壁に残る焦げを分子レベルで分析した結果、単に水で煮ただけでは発生しない、「動物性脂肪(シカやイノシシの肉脂)や植物油(ゴマ・エゴマ)が、高温で直接土器の肌と接して加熱された」特有の脂質(熱変性物質)が検出されています。
鳥浜貝塚や全国の縄文遺跡から出土する「縄文クッキー」や「縄文ハンバーグ」と呼ばれる炭化食品は、ドングリなどの粉に、クルミなどの植物油、シカやイノシシの脂、さらには鳥の卵などを練り込み、平らな石皿の上(あるいは土器の底)で「油を敷いて焼き、炒めるように熱を通した」ものです。これは、水分で煮る文化とは完全に異なる「油脂加熱OS」の証明です。

弥生〜古墳時代になると鉄製器と「煎」があります。鉄器(平らな鉄平鍋など)や高度な冶金技術が定着すると、調理としての「炒め・煎る」行為はさらに洗練されます。日本の古い食文化において、油を使って食材を加熱したり、水分を飛ばしながら火を通す行為を「煎る(炒る)」と呼びます。これは、中国中原が「ひたすら煮る・蒸す」に終始していた時代に、日本で独自に洗練されていた「少量の油を使い、直接熱を伝える」鉄器時代の調理技術です。

奈良・平安時代で中国の唐代(7〜8世紀)にゴマの種子が中原で「ゼロ」だった時代、日本ではすでに律令制下の公式文書や『延喜式』(平安時代の朝廷の儀式帳)に、「植物油や動物脂を用いて食材を炒め・揚げる料理」が記録されています。
『膏煎』と『油煎』と、『延喜式』の内膳司(天皇の食事を司る部署)の規定には、「膏(動物の脂)」や「胡麻油」を用い、食材を鍋で炒めたり、炒め煮にしたりする「煎」という調理法が明確に登場します。今の中華料理では当たりまえな「油煎」という手法、これは日本から来ているようですね。
また、日本独自の乳製品である「蘇」に、蜜やクルミ、ゴマなどを加え、油を敷いた鍋で炒め練り上げた高級な加熱料理である『蘇蜜煎』の記録があります。どうも、これは高句麗から紹介された「蘇」を、独自に魔改造したもののようです。

日本には奈良〜平安時代に「ぶと(餢飳)」「まがり(団喜)」といった、米粉や小麦粉を練って胡麻油やエゴマ油でカリカリに揚げる菓子が定着し、朝廷の儀式や大寺院で大量に作られています。
宋代と同時期の日本(鎌倉時代)では、禅宗の伝来とともに「精進料理」が洗練されていきます。肉や魚を使わない代わりに、コクを出すために植物油(胡麻油や菜種油)で野菜を「炒める」「揚げる(豆腐を揚げて油揚げにするなど)」という調理OSが、日本国内で完全に爆発していました。
宋代の中原がようやく民衆レベルで「炒・炸」に目覚めていた頃、日本ではすでに油で揚げる・炒める技術が「精進料理」として完成されていたのです。
唐代の中原には、このような「植物油や動物脂を鍋に引き、食材を炒めて水分を飛ばす」という日常料理のジャンルは文献にも見当たりません。

「ぶと(餢飳)」ですが、同名の料理は確かに存在します。
しかしそれは、「小麦粉や米粉の生地を、蜜の水(あるいは汁)で茹でた、またはスープで煮込んだ団子」です。
 
これはきちんと記録にあり、
唐代の密教僧・慧琳が807年に完成させた『一切経音義』の中に収録されています(※仏典中の「乳餢」などの難語を解説する箇所です)。

「諸字書本無此字。顔之推《證俗音》從食作『餢飳』……顧公云、今内国餢飳以油酥煮之。案、此油餅本是胡食、中国効之、微有改變、所以近代方有此名。諸儒随意見字、元無正体、未知孰是。」

「(餢飳という文字は)通常の漢字辞書には本来存在しない文字である。顔之推の『証俗音』において、食へんを用いて『餢飳(ぶとう)』と書かれた。顧公(※あるいは顔公)が言うには、『今、内国(宮中・中原)の餢飳は、油酥(バターや動物脂)を以てこれを調理している』と。
私(慧琳)が考えるに、この油餅(油で調理した粉もの)はもともと胡食(外来の食べ物)である。中国がこれを真似たのだが、わずかにアレンジ(改變)を加えている。それゆえ、近代(隋や唐の時代)になって初めてこの名前(餢飳)が現れたのだ。 学者たちがそれぞれの好みに任せて(随意に)漢字を勝手に作って当てはめたため、もともと正しい文字(正体)など無い。どれが正しいかも分からない状態である」
 
とあるように、中国の「餢飳」の方が外来から来たものであり、もとは油で調理したもの。
そしてその「油で調理する餢飳」は日本にあるのですね。
 
唐代(7〜9世紀)に作られた国定の辞書(韻書)である『祝氏切韻』や、日本に伝わった『蒋魴切韻』に、「餢飳」という言葉が登録されています。
日本の平安時代の辞書『和名類聚抄』(930年代)は、この唐代の中国の辞書を引用してこう説明しています。

「蒋魴切韻に云わく、餢飳は油煎餅(あぶらで煎ったもち)の名なり。和名は布止(ふと)、俗に伏菟という」
 
と、元は和名がある日本の食べ物である事が書かれています。

唐代の史料において「菓子」に分類されるもの、すなわち「餅」「団(」などは、現代の私たちがイメージする「甘いお菓子」とは決定的に異なります。唐の調理体系における菓子とは、主として「蒸す」「煮る」「焼く」という3つの技法で作られたものです。
・餅:現代のパンに近いもの、あるいは蒸した団子状のもの。
・蒸餅:蒸した粉食。現在の饅頭に近い。
・焼餅:窯(タンドールのような構造)で焼いたもの。いわゆる胡餅のようなもの。
・湯餅:湯の中で煮たもの。現在の水餃子やうどんに近い。
これらは全て「主食」の延長線上にあり、現代のような「嗜好品としての甘い揚げ菓子」というカテゴリーは唐代の調理体系の中にはありません。
唐代の史料、および唐代以前の漢籍において、「甘い揚げ菓子」というカテゴリーそのものが存在しません。
 
当時の食に関する記述(『食経』等の断片や、後代に引用された記録)に登場するレシピを分析すると、当時の「甘味」は蜂蜜や、果物を煮詰めた「飴」、あるいは甘草などの植物の糖分に限られていました。砂糖が広く流通する前であり、菓子=甘いという概念は成立していません。記載されているのは「小麦粉・米粉・大豆粉」を練り、「蒸す」または「焼く」手順がメインです。これらに植物油を浸して揚げるという記述は、史料上ありません。
 
史料(『唐六典』や断片的な記録)に登場する、当時の「餅(菓子)」の代表的なものは以下の通りです。
・胡餅:窯で焼いたもの。最も一般的な「外来風味」の粉食。
・蒸餅:蒸しパン。
・餠:臼でついた餅ではなく、粉を練ったもの全般。
これらの中に「油で揚げたもの」は存在しません。

つまり、遣唐使が「唐菓子を持って来た」という通説は間違いなのです。当の唐の方にその様な菓子は存在していませんし、タンドールで焼く無発酵パンも来ていません。
すると「唐菓子」というのは、日本人は奈良時代からある「植物油で加熱する」という技術を用いて、それまでにない食感や風味の菓子を作った。その「新しさ」を、当時の最新トレンドであった「唐」というラベルを貼った、というとても日本的な名付けだという事です。

「唐菓子」という名称は、レシピの伝来や技術の導入を示すものではなく、既存の日本独自の技術で作られた「菓子」なんですね。
日本の「唐菓子」は、米粉や小麦粉を練り、甘味(甘葛煎や蜂蜜など)を加えて作る「デザート」を指しており、唐とは全く異なります。米粉や小麦粉というのは、前漢代になって中国で初めて現れるものですが、日本では数千年前からあるというので、この「粉もの」も日本から中国に、という技術です。
当時、甘味は極めて贅沢な「神仏へ供えるもの」や「高貴な身分のための贅沢品」ですので、「特別感」を出したくて名付けたのでしょうね。

もう1つは、宋代のもう一つの重要な周辺圏である現在のベトナム中部にあったチャンパ王国(林邑)や、インドネシアのジャワ島(ケディリ王国など)をはじめとする東南アジアの沿岸都市国家群です。これらの地域は、モンスーン気候による強烈な「高温多湿」環境であり、食材がすぐに腐敗する環境圧に晒されていました。
彼らは熱帯の豊かな恵みであるココナッツ(椰子)から極めて容易に良質な植物油(ココナッツオイル)を大量抽出する技術を古くから持っています。食材の水分を完全に飛ばして長期保存可能にするため、魚介類やバナナなどの澱粉質を油で揚げる、あるいは多量の油で炒り焼きにする調理が、民衆の基層文化として存在しています。
また、宋代だとチャンパから中国へ「占城米(チャンパ米)」という日照りに強い早稲米が導入され、中原の農業を大激変させました。


中国での調理方法「炒(チャオ)」と「炸(ジャ)」ですが、どうも、
・「炒」が日本の古代から続く技術系譜
・「炸」が東南アジア沿岸部(熱帯海洋民)の技術系譜
のようです。
「海のルート」の交易ネットワークを通じて、日本や東南アジア沿岸が保持していた「多湿環境を生き抜くための油脂調理(揚げ・炒め)」が、宋代の中原へと大量に逆流入したようです。

「炒(チャオ)」とは、一言で言えば「少量の油で、手早く炒める」調理法です。日本で一般的にイメージされる「野菜炒め」や「チャーハン」の動きがこれに該当します。
油の量は鍋底に薄く広がる程度の少量で、強火で一気に、短時間で仕上げるというもので、食材の水分を適度に残し、シャキシャキした食感(脆・ツォイ)やジューシーさを活かすというものです。
代表料理としたら、青椒肉絲や生姜鴨炒めなどですね。

「炸(ジャ)」とは、一言で言えば「多量の油で、揚げる」調理法です。
油の量は食材が完全に浸る(または泳ぐ)くらいの多量で、食材や目指す食感に応じ、中火から強火でじっくり、あるいは二度揚げなどで調整するものです。食材の表面の水分を飛ばし、サクサク(酥・スー)またはカリカリ(脆・ツォイ)とした食感に仕上げます。旨味を衣や皮の中に閉じ込める役割もあります。
代表料理だと、炸鶏(中華風フライドチキン)や春巻、油条(揚げパン)などです。

さらに言えば、東南アジアの古層で定住文化が現れるこの基盤文化もまた縄文系文化が見られるものです。
つまり日本で作られた「炒」という手法、これが東南アジアに行くとココナッツオイルに出会い、胡麻・エゴマなどより簡単に油を使える環境となり、「炸(たっぷり油で揚げる手法)」に変化し、この両方が中国に宋代に来た、というものです。
「中華料理」の多くは、「中国四千年」ではなく「中国千年」ですね。

ちなみに、「油でたっぷりと(少量ではなく、多少浸かる程度には)使って揚げる」方法は、奈良時代に東南アジアから日本に来ているのだと思います。ただ、たっぷりではない揚げ方(所謂揚げ焼き)は日本には既にあったようです。
遺物で辿っていくと、「植物油を使った調理」というのが日本から、これが縄文人の拡散で東南アジアに行くと、そこでココナッツという大量に油が獲れる植物に出会い「揚げ焼き」から「たっぷりの油で揚げる」が出来たようです。
ただ、日本ではそこまで大量の油を使うほどまでは採れていないので、縄文時代から「煎」や「揚げ焼き」という少量の油で揚げる方法が使われています。奈良・平安〜中世時代、それ以降も続いている「揚げ」は続いている手法です。宋代以前の中国では「揚げ」は殆ど見られません。

記録としても最も古いものだと、『養老令』の内膳司条(大宝律令を継承)で、主膳(官人の役職)の職掌の中に「煎熬」という言葉が出てきます。「煎」も「熬」も、少量の油や水分を加えて火にかけ、水分を飛ばしながら炒り焼きにする調理法を指すものですので、1300年前より昔から既に中国で言う「炒」という技法が日本にあった訳です。ただ、対象は植物か野菜ですが。肉を揚げるのだと『南蛮料理書』に記された「カステラホウタ(パステラ・ホウタ)」で、ポルトがある料理が記録にある最初で、これは420年前前後ですね。

中国から出ないのは確実なのが、中国にはこの奈良時代の頃にはまだ植物油がほとんどないからですね。


どうも、通説でいわれるより「中国から来た」という料理、辿っていくとかなり少なくなりそうです。少なくとも、宋代より以前だと殆ど無いという事です。
例えば、「包む」という料理も既に日本ではあり、それを揚げ焼きしていますから、これこそが「唐揚げの源流」とも言えるものですね。(そもそも、縄文時代から粉ものに肉や魚などを混ぜ込んで焼いた団子は出土しているという縄文ハンバーグもある)。
宋代以前を見ると中国にも「包む」はありますが、これは「煮る」か「蒸す」です。西アジアにも「包む」という料理はあるのですが「揚げる」、西アジアに行くと「焼く」ですね。


よく「中国四千年の歴史」と言います。
これは一概に間違いではなく、4,000年以上前の古層は別民族(縄文系民族)であり、彼らが去った後に入って来た大陸内陸系民族が今の中国人の先祖になるからですね。
ただ、料理になると、粉ものにして加工する文化は「中国二千年の歴史」ですし、炒める・揚げるといった現在の油をしっかりと使う料理は「中国千年の歴史」だという事です。

ただし、料理が「中国四千年の歴史」ではなく「中国千年の歴史」であっても、そこからの食文化が花開いていったのは、それはそれで本物だという事です。
日本で言えば平安時代頃からですね。
その時代から「食に拘り色々と試行錯誤してきた千年間の料理」が、今の中国料理なのです。


ちなみに、中国料理のイメージとして「油をふんだんに使った炒め物や揚げ物」が語られがちですが、歴史的な実態として、現在のようなピーナッツ油やなたね油(菜油)が中国の一般の食卓や調理の主流として広く使われるようになったのは、決して古代や中世からのものではなく、非常に新しい(近現代以降、あるいは明清代以降の展開)話です。
その背景には、油の原料となる作物自体の伝来や、搾油技術・インフラの歴史があるります。

  • ピーナッツ油(花生油)
    落花生自体が新大陸原産であり、コロンブス交換以降に世界へ拡散した作物である。中国へ伝来したのは16世紀(明代の後半)以降であり、本格的に栽培され、食用油として利用されるようになったのはさらに下った清代以降、あるいは近代になってからである。

  • なたね油(菜油)
    中国においてアブラナ科の栽培や利用の歴史自体は古いものの、現在のような食用油として大々的に普及し、日常の調理を支える基幹の油となったのは、人口爆発が起きる明清代以降、特に流通網や搾油技術が大きく発達してからのことである。

そもそも、古代から中世の中国における調理法の基本は「煮る・蒸す・焼く」であり、油は非常に高価な嗜好品や灯火用(明かり)としての用途が主です。現代のような「大量の油で食材を炒める(中国料理の代名詞的なイメージ)」という調理スタイルや、それを支える安価な植物油の大量生産体制が社会全体に行き渡ったのは、歴史のスケールから見ればごく近代の現象なんですね。

精進料理の真実

更にこの「油」について調べると、「日本の精進料理は中国の精進料理を模倣した」という定説も誤りですね。

同時期で比較すると、中国の精進料理は採食ですが調理法は素朴です。素材の味そのままを、宋代以降の文献に記載される菜食の調理法は、味は野菜の味そのままと言えるもので、水と熱を組み合わせた「煮」「蒸」が中心です。豆腐は重しを掛けて硬くする豆腐干がありますが、この手法が出てくるのは明代以降です。そしてその手法自体は日本では鎌倉時代でも確認できる手法ですね。
それに対して日本の精進料理は、中国の菜食体系には存在しない「揚げ」「凍結」「高度な脱水」といった、中国では明代以降でもほぼ無い技術が多彩に使われています。味を染み込ませたり、肉を模倣したりといった手法であり、これは中国の精進料理にはありません。室町期の寺院献立記録(『尺素往来』等)には、豆腐を油で揚げ、乾燥させ、組織を「スポンジ状」に変質させる調理法が明記されている。同時代の寺院厨房遺構からは、高温での揚げ調理を可能にする焜炉や、豆腐の水分を完全に抜くための「圧搾用具(木枠・重石)」がセットで出土しています。

日本仏教は「肉食を禁じる宗教的制約」に対し、動物性脂肪の代わりとなる「油脂」と「満足感のある食感」を人工的に付与するという技術体系でそれをクリアしているのです。豆腐の組織をスポンジ状にし、ダシを強引に染み込ませるプロセスは、植物を「動物性の旨味に近い味」へと変質させているわけです。
つまり、「中国から日本に来た精進料理」というのは、「肉を一切使わない料理」という基本概念だけだという事です。その概念を守った上で、日本は自国の料理技術で「精進料理」を作り出しているのです。
中国の精進料理にある「豆腐干」などは、どうも日本の精進料理からの輸入のようですね。

纏めると『中国の仏教の「肉由来のものは使わない」という精進料理の概念は来た。それを受容した日本の仏教は「日本の独自技法を使い肉由来は使わなくて美味い物」という料理開発が行われて定着した。それを中国の仏教がつまみ食いの様に真似をした』という歴史になる訳です。
日本の美味い物への執念が凄いですね。


この「仏教の料理」としての「精進料理」は鎌倉時代に日本に概念が来ています。

『禅宗の僧である栄西や道元が中国(宋)から禅の教えとともに精進料理の調理法を持ち帰りました。特に道元は、食事を作る役職「典座(てんぞ)」の重要性を説き、料理自体を修行の一部としました』と説明をされていますが、これは少し違います。道元が中国から持ち帰ったのは、調理技術や料理ではなく、「典座(調理担当の僧)はいかにあるべきか」という精神的な規範と、食事を供する際の規律(赴粥飯法など)です。「精進料理のメニュー」ではなく、「殺生を避け、五葷(ネギ類など)を禁じ、素材を余さず使い切る」という仏教的禁欲の枠組みが持ち込まれています。この枠組みを日本の食材で再構築したものが日本の精進料理です。この時の中国の精進料理は油を使い揚げるようなものではありません。
ですので、「調理法を持ち帰った」というのは間違いで、「精進料理と言う概念を持ち帰った」ですね。

「薄く衣をつけた少量の油で揚げる」というのは、日本ではその前からありますので、「肉類、あるいは肉由来の物は使わない」というので――というか、日本では食が豊かなので、元から肉主体の食事体系ではないので、特に問題は無いのですが――精進料理として取り入れたのでしょうね。

つまり、中国やポルトガルから衣をつけて揚げる、という手法が入って来る前から、日本独自であるのです。

日本で油は古代から利用

ちなみに「日本では油が貴重だったから灯りに使われていて調理には使われていない」という通説は間違いです。これは日本ではなく、当時の中国側の話ですね(宋代以前に油を使う料理はほとんどない)。
確かに古代日本では「胡麻」「荏胡麻」の油は税にもなり珍重されています。
ですが、日本では油の採取はそれ以外にもアブラナ系統やツバキ系統、そしてくるみ等の油脂植物の実を利用していますし、採取していた痕跡もしっかりあります。また、宮のような場所ではなく庶民の遺構でも、油を食用に利用していた痕跡が見つかっています。
つまり、「油を利用する調理」は広く広がっていたのです。

  • 荏胡麻は縄文期からの油脂・調味料源。食用利用が主。

  • 胡麻も縄文時代から食用・油として高付加価値。

  • ツバキは自然群生で粘度が高く不乾性。灯りおよび整髪・防蝕・防錆・食用。

  • アブラナ属も縄文時代から原野や休耕地・水辺などで簡単に採取でき、食用・灯り両用。

大体どれも、6,000年前から油として利用されています。
ツバキの場合は、種子ではなく、油分を多く含んだ木材、としての利用からなのですが。種子からの採取は、古いものは確認がまだ出来ていません。


ちなみに最近、中国では「茶油というのがあり、古代から油が採取されていた」という俗説が流れていますが、これも嘘です。

「茶油」というのは茶の葉を利用した「飲み物(油茶=茶葉、生姜、ナッツ等を煮出したもの)」とスープを指しています。ナッツも加えて煮だしているので、その油分が出てくるものでしょう。これは古くからあります。
それとは別に、近代になって「茶葉」をアロマオイルの様に抽出する「油茶」というのがあります。これは現代工芸品です。
これが混ざっており、「中国では茶から油を抽出していた」という俗説が最近は生まれています。

中国古代『胡麻』の正体

しかし先述しているように、初現するのは後漢末期〜魏晋時代であり、文献上で「胡麻」という言葉がはっきりと確認できるようになるのは、後漢末期の医師・華佗の処方や、魏晋時代の本草書(『神農本草経』の系統を整理した『本草経集注』など)からです(ただし、原本はないのですが)。
つまり『胡麻』と書かれているのは確かです。

「其茎亦堪作燭故名脂麻」という説明もありますが、ゴマの茎は中空に近く、外皮は硬いものの、内部は髄質で密度が低いです。火を灯しても長持ちせず、すぐに燃え尽きてしまうか、あるいは逆に油脂分が十分に浸透しないため、安定した「灯り(燭)」にはなりません。

現代で言う『胡麻』は遺物として痕跡が出てきません。説明も胡麻には合いません。
ということは、これは『胡麻』と書かれていますが『現代で言う”胡麻”』ではないという事です。

答えは日本にあった

似たような物で、『麻の実』や『亜麻の実』なども考えられるのですが、『亜麻の実』は時代が合いません。
かといって、『麻の実』であるかも、中国書を探しましたが出てきませんでした。

ところが、これが『麻の実』の事である事が日本の方でしっかりとありました。


918年に『本草和名』では、「巨勝一名胡麻和名古麻」とあります。
また、「麻味辛平無毒一名枲一名枲麻和名於保末」ともあります。
「巨勝」こと別名「胡麻」は、日本の「古麻」だとあるのですね。
この「古麻」は『胡麻』の事かというと、これより古い木簡で「胡麻」と書かれており、『現代で言う”胡麻”』は『胡麻』という名称で日本では使われています。

これが、931~938年『倭名類聚抄』でも「胡麻」の説明があり、
「胡麻兼名苑云巨勝〈一名胡麻和名古末一名方莖俗云於保末一云五末〉」
とあります(そもそも「巻17・稲穀部第25・麻類第220・6丁裏5行目」に書かれており、判るように「麻」です)。
この書かれている部分は、日本の説明ではなく、中国の漢字(巨勝・胡麻)そのものの意味(植物の形態や分類)を解説している部分、つまり辞書の様な部分に書かれていますですね。『兼名苑』は、中国の魏晋南北朝時代(あるいは唐代)に編纂された、言葉の異名(別名)を集めた辞書(類語辞典)の事です。
訳は「(中国の)”胡麻”は”巨勝”とも呼ばれます。この”胡麻”の和名は”古末(こま)”で、別名は方莖(ほうけい)、俗称に於保末(おほま=おおま:大麻)といい、または五末(こま)とも言います」とあります。「方莖」は「四角い茎」、「五末」とは「葉先が5つに分かれている」という事です。
これですが、
・中国の「胡麻こと巨勝」の和名が「古末」
・中国の「方莖」に類する和名の別名は「於保末」、他に「五末」とも呼ばれる
という事が書かれています。
和名の別名で「於保末(おほま)」と書かれている事から判るように、これは「大麻(麻の実)」の事です。

「五末」は中国の俗称と最初は思いましたが、再度確認すると中国側にこの名称はありません。
中国側の「方莖」が植物の形状特徴を示している俗称ですから、日本側の植物の形状特徴を示している俗称、胡麻よりも大きい植物である事から「於保(大きい)末」や、「五(葉っぱが5つに分かれている)未」と日本でも俗称がある事を書いているのですね。

その注記で
「陶隠居本草注云胡麻音五万訛云宇古末本出大宛故以名之」とあります。
「大宛」ですから中央アジアを指していますが、「胡麻」とは「五万」が訛って「宇古末」とあります――「五末」と「古末」でしょうね。
やはり日本から名称が来ているようです。

それとは別に、『倭名類聚抄』には和名『胡麻』が別にきちんとあります。
十巻本(特に最古の写本とされる真福寺真福寺本など、古本系)だと、
 「油内膳式云胡麻油 和名胡麻乃安布良」
二十巻本(那波本など、広本系)ではどうかというと、
 「油内膳式云胡麻油 和名胡麻乃安布良」
同じです。
日本では「胡麻=ゴマの実」と「古末(古麻)=大麻の実」がきちんと分けられているのですね。

『倭名類聚抄』巻第十八 草部における構成
実物(あるいは翻刻本)において、以下のように別々に項目が立っています。

また「未熟」というのは果実などでは書かれています(例えば「未熟なリンゴは酸っぱい」とか)。でも「未」とあるのは、

  • 胡麻(大麻)で「古”末”」「於保”末”」「五”末”」

  • 桂皮で「加都良乃”末”」

  • 浜木綿で「波摩乃”末”」

と、「油分が採れる実」として主に「未」は使われています。

少し驚きましたが、古代中国の『胡麻』の正体が、日本の史料側に答えがはっきりありましたね。
胡麻にしろ、麻の実にしろ、中国より日本の方が古くからありますからね。日本語には『胡麻の実』を指す「ごま」と『麻の実』を指す「こま」という別々の呼び方があったのでしょう(大麻の原産地は日本です)。

語源を考える

中国では周代から秦代において、「麻」という文字は、特定の大麻(Cannabis sativa)のみを指しています。ですので、『胡麻』を『現代の”胡麻”』という定義で、中国では明代など議論している事態が本来は中国では不自然なんです。

しかし日本では「麻(マ)あるいは末(マ)」は「油分を含んだ種を持つ植物」と纏めて指します。
「麻」は「チベット語 (下、下部)と関連する可能性がある」とも言われてますが、これは『麻(大麻)』の植物伝播から考えると、日本から西に呼び方「麻(マ)」は流れたのでしょうね(大麻の原産は日本で、その植物利用の痕跡も1万年以上前からあります)。


「古麻」あるいは「古末」は、その葉の形です。

「葉が5つに分かれている」というので「五(こ)」「末(ま)」ですね。

中国では後漢末期辺りだと「巨勝」は「胡麻」、俗称が形状から「方莖」と読まれており、発音は違います。
日本だと「古末(あるいは古麻)」で俗称が形状から「於保末(おほま)」「五末」。「古末」と「五末」は両方「コマ」と読みます。

ただ、読み方で考えると、呉音では「古」は「ク」で、漢音で「コ」です。
たぶんですが、元々は「古末」「古麻」だから「クメァッ」という感じで呼ばれ、俗称が「五末」という意味で、呉音で考えれば「ゴマ」と呼んでいるのでしょうが、日本では一部では「五枝」を「こえだ」と、清音化している事があります。他にも「五位」が「こい」、「五代」を「こだい」などがあります(特に鹿児島など九州南部で)。
つまり「五末」は「コマ」と読みます。
初めは「マ」あるいは俗称で「コマ」だったのが、胡麻も利用を始めたのでで「古末(クマ=古い方の末)」と呼び始めたのでしょうかね。

AD500年頃、陶弘景という人物が『神農本草経』を編纂した『本草経集注』の注記で「陶隠居本草注云胡麻音五万訛云宇古末本出大宛故以名之」と書かれているとあるので、日本の「古末」の俗称、「五末(コマ)」という発音だったのが、漢字から「ゴマ」と変わって「胡麻」になったようですね。

注記にある「音五万、訛云宇古末」という記述は、中国側が「ゴマ(現代で言う胡麻)」と「コマ(現代で言う大麻す)の区別ができないまま、「五万(ゴマン:胡麻の音)」と「宇古末(うこま:大麻を指す音の転訛)」を同一の植物に対する、単なる「標準音と方言(訛り)の関係」であると誤認・記録してしまったのだ、と考えるといいのかもしれません。


すると、「胡麻」も何か意味があるのかな?と思います。
考えてみたのですが、「種がたくさん詰まっている」と「凝(ご)」「麻(ま)」だったのではないでしょうかね?

読み方も、「胡」の呉音は「ゴ」で漢音で「コ」ですので、「胡麻」は最初から「ゴマ」と呼ばれているのですね。


ところが、中国だと「ゴマ」と呼んでいるのは、「胡麻」も「大麻」も日本から来ているからでしょうね。大麻の「古麻(クマ)」俗称「五未(コマ)」が後漢代に呼び名と共に伝播した際に、胡麻の「胡麻(ゴマ)」も紹介されているのではないかと思います。ただ、中国では麻は昔から繊維として利用されていますが、胡麻は繊維利用ができない、食べ物とは思えない極小の粒ですので興味が持たれず伝播せず、言葉だけ残ったのだと思います。
また、中国からだと「五未」は「コマ」とは読めず「ゴマ」と読みます(当時の中原の発音からするともう少し違うのですが、呉音なので中国には中原以外から上陸したのでしょう)。

つまり『巨勝』こと『大麻』を指す俗称「五未」、これが似た呼び方だけれど別の植物の指していた別称「胡麻」へとすり替わっていったのではないでしょうかね。
これは「植物の呼び方に漢字の当て字をしたのが日本側」という事です。

日本ではより古くから利用している『大麻』の方を「クマ」、そしてその俗称から葉の大きさから「オホマ」、葉の形から「コマ」と太古から、それこそ大麻と胡麻が両方ある10,000年前には呼んでいたという事です。
そして『現在で言う”胡麻”』は「ゴマ」と呼んでいます。
これは「呉音」体系ですね。
漢字が来た際に、「クマ」を「古麻あるいは古末」と当て字をし、俗名の「オホマ」を「於保末」、そして「コマ」を「五末」と当て字します。「ゴ」を清音化してしまっているのですね。
「胡」は「古」に「月」と書き「古の次」と情調的に感じ、音が合っていたから利用した、というぐらいだとは思います。特に意味があって、ではなく「字の形」と「発音」だけで、ただの当て字として。


中国の史料だと『胡麻(巨勝)』の説明に「其茎亦堪作燭故名脂麻」という説明もあります。この文章の内容は胡麻の茎では整合性が取れませんが、大麻の茎(おがら)だと整合性があります。
大麻の茎は外皮を除いた中心部分が非常に乾燥しやすく、内部に中空の髄を持つため、極めて燃焼効率が良いという特徴があります。内部がスポンジ状の木質部であるため、乾燥させたおがらはゆっくりと、かつ一定の火力を保って燃えます。日本を含め、アジア各地の伝統的な生活において、おがらは松明の芯や、そのまま手で持って移動する簡易的な「燭」として、夜間の明かりに日常的に使われてきた歴史があります。

『神農本草経』の日本食品

中国では、「胡麻」という記述が初めて出てくるのが、

  • 後漢から三国時代(AD2世紀〜AD3世紀頃)に書かれた『神農本草経』ですが原本ではなく、魏晋時代の本草書(『神農本草経』の系統を整理した『本草経集注』など)

  • 後漢末期の医師・華佗の処方ですが、これも現存しておらず、現在伝わっている『華佗中蔵経』は、華佗の教えをまとめたものとして知られていますが、学術的には華佗本人の直筆ではなく、後世の偽作(あるいは華佗の学派による伝承を後世にまとめたもの)であるという見方が極めて強いものです。内容や文体から判断して、華佗の生きた後漢末から数世紀後の南北朝時代から唐代にかけて編纂された可能性が高いとされています。

なので、早くても後漢末(AD2世紀)以降になります。
日本で言えば卑弥呼の時代の少し前ぐらいに、それまでは「巨勝(大麻の実)」と呼ばれていたのが、「巨勝の別名が胡麻」と書かれはじめたわけですね。

周代だと小麦や大豆、小豆といったものは「まずい」「貧民の食料」とされていたものが、前漢代頃から回転石臼や水車がパッケージで現れ、粉食ができ、麹や豆腐といった食文化が人為的工夫で中国で作られるようになります。この時期というのは、日本から中国に文化の基盤とインフラ的な技術などが伝播しているようです。「麻(大麻)の布」も日本からのようですが、古層の住民が去ると技術が劣化しています。漢代の頃まで、かなりぼろい織物ですね。ところが漢代にはいると、途端に丁寧に編まれたものと、技術が急に上がります。

『神農本草経』には西から来たらしい錬金術的なもの以外に、中国ではほとんどない植物など・利用されていない植物などだが、日本では当たり前の植物などが記載されており、日本からの影響が強く考えられる書ですね。

『神農本草経』が日本からの知恵が多く含まれており、それは特に「不老長寿の妙薬」とされているものでは顕著です。『史記』秦始皇本紀・封禅書でも、「不死之薬」や「神薬」として『東方の海中の三神山(蓬莱・方丈・瀛洲)に実在するとされ、始皇帝や武帝が使者を送って捜索させた、肉体を朽ちさせないための具体的な薬物・食物』や「奇薬」として同じく仙境に存在すると記録されている、通常の土地では採れない長寿の薬物が書かれていますね。
『神農本草経』に記録されている不老不死・長寿に関する物・食料(「上品」「中品」の記述)をみると、
・丹沙:久しく服せば神明に通じ、老いることなしとされる最高位の神薬。
・玉泉:久しく服せば寒暑に耐え、飢渇せず、老いず神仙となるとされる玉の粉末・液体。
・芝(赤芝・黒芝などの菌類):久しく食せば身を軽くし、老いず、年を延ばして神仙となるとされる「不死草」。
・大豆黄巻:大豆の発芽・発酵加工品。五臓の邪気を主り、久しく服せば老いず、年を延ばすと明記されている穀物加工品。
・生大豆:すりつぶして(研、泥のごとくす)用いることで毒を消す薬能を持つとされる大豆のインフラ。
・麦:久しく食せば人をして肥健(頑強な長寿の体)にせしむと記録されている穀物。
・神麹(麦麹):消食し、下気し、お腹のなかの結塊を破る、長寿のための発酵穀物。
・牡蛎:カキの貝殻粉末。久しく服せば骨節を強くし、邪鬼を殺し、年を延ばす(延年)とされる海産物。
・海藻:首のしこり(癭瘤)を主治し、滞った水を下すとされる海の草。
・鴈肪:雁の脂身。久しく服せば気を益し、身を軽くし、老いに耐える(耐老)とされる動物性脂肪。
・鯉魚膽:コイの胆嚢。久しく服せば強悍となり、志気を益す(肉体を若返らせる)とされる水産物。
などがあります。
前漢代でも「貧者の食べ物」とされた大豆に麦があり、また石臼を使うなど、原書が記載されていた当時だと中国では忌避されていた食物や器具が入っています。
これらの食物は「日本では当たり前にある」ものですが、「中国では手に入らない輸入品」あるいは「中国で手に入れるには人為的努力が必要」なものが複数あります。

例えば「麦麹」、日本では蒸した麦を置くと麹菌が付いて麹が出来ます(葉っぱの上に置くと納豆になりますが)。ですが中国では漢代に、煉瓦でつくった密閉質で温度と湿度を上げて人為的に作る、という外来環境を模した上でやっと作れるものです。
「海藻」や「牡蛎」、そしてここには無いのですが同じく長寿の薬とされた「鮑」なども黄河下流域で採れるものではありません。
「芝(霊芝)」は日本では山中で生えており鳥浜貝塚や三内丸山遺跡と縄文時代前期でも採取利用している事が判るものですが、乾燥化した中原では、大気の湿度が足りず自然自生が極めて困難(『漢書』武帝紀には、前漢の武帝が宮殿の奥で偶然「芝」が自生した――実際には湿気によるもの――を見て、東方の仙境の神が降臨したと狂喜し、大赦(天下の罪人を許す)を行った記録が克明に刻まれています。武帝が宮廷で見つけただけで天下に大赦を出すレベルです)。
「丹沙」は日本では多用していたもの(食べてはいませんが)であり、「玉泉」は翡翠などのことでこれも日本からですね(食べていませんが)。

『神農本草経』に記録されている不老不死・長寿に関する物・食料は、明らかなほどモデル『日本』なんですね。

中国最古の薬学書である『神農本草経』(後漢代頃に成立しているが、写本しか現存しない)の「胡麻(現在で言う麻の実)」の項目には、以下のようにしか書かれていません。

「胡麻一名巨勝
 味甘平
 主傷中虚羸補五内益気力長肌肉填髄脳
 久服軽身不老」
胡麻、またの名を巨勝という。味は甘、性質は平。内臓の傷や衰弱を治し、五臓を補い、気力を益し、筋肉を育て、骨髄や脳を満たす。長く服すれば、体が軽くなり老いない。

『胡麻(現在で言う麻の実)』は「不老長寿の薬」の1つとして書かれているのですね(この「不老長寿」という所に、秦の始皇帝が求めたものが通じますね)。「張騫」という単語も「西域」という言葉も、一文字も出てきません。
この「ごま」あるいは「こま」という名称は日本から中国に来た可能性が高いです。ただ、何処で入れ替わったのか、勘違いしたのか、日本では「古麻」が中国では『胡麻』となっています。

中国の勘違い

これをもう少し考えたのですが。

日本では「麻」は「実に油分を沢山含んだ植物」として指します。
ところが、当時の中国では元々は「大麻」は食べ物ではなく、繊維をとるだけのものです。日本は「麻」として「胡麻」も「古麻(大麻)」も「主に食品、ついでに繊維(繊維は既に中国で利用されている)」として紹介をしたのですが、「(現代で言う)胡麻」は繊維利用できる植物ではなかったので、興味がなかったのかもしれません。

ゴマ科植物(Sesamum indicum)の茎にはセルロースなどの繊維質は含まれていますが、麻(アサ科)やカラムシ(イラクサ科)の茎のように、引き剥がして「長く、丈夫で、しなやかな紐状の繊維」として加工するのに適した維管束構造を持っていません。ゴマの茎は比較的硬く折れやすいため、繊維をとるための作物としての適格性が、麻とは決定的に異なるのです。

結果、「今まで作っていた麻、これが食物にもなる」ともたらされた知識だけが残り、「胡麻」「古麻」という一緒に紹介された名称が何を指すかが明確でないまま中国に残ったのではないでしょうかね。

「一名胡麻」と「一名巨勝」

元は「巨勝一名胡麻」と書かれたいたようです。

敦煌写本(実物は7〜8世紀)だと、砂漠から出土した現物そのものは古いですが、これは唐の地方(辺境の敦煌)で、現地の役人や医師、あるいは素人の写本生が「当時の最新の流行や、独自の省略・改変」を加えながら書き写した民間流通本です。
これには『胡麻』で『一名巨勝』となっています。

16世紀(明代)の李時珍が著した『本草綱目(1596年・金陵版など)』だと、李時珍は実用性を重んじるあまり、過去の古層テキストの主名を自分の判断で大量に書き換えています。巻二十二の「穀部」において、李時珍は項目名を「胡麻」と大書し、その下に「【釈名】(名前の解説)」というコーナーを新設して、そこに「神農本草経にいう巨勝とは、これのことである」と書いています。

ところが、それよりも原本に近いものを写本したらしいものが、実は日本にあります。
日本にある現物(『本草和名』の引用や仁和寺本など)の成立年代は敦煌より遅い(9〜11世紀)です。しかし、これらは奈良時代〜平安初期に、日本の遣唐使や国家の知識人たちが、唐の都(長安・洛陽)の中央官庁に保管されていた「最も正統で、最も古い改変前の親本(公式テキスト)」を、国家の威信をかけて1文字も変えずに完コピして持ち帰ったものです。日本の『本草和名』(918年)が引用する『新修本草』の記述や、平安写本系統の書籍を確認すると、そこには中央の頑固な官僚たちが守り抜いた「改変前の歪み」がそのまま残っています。そこには、大文字で「巨勝」と書かれたすぐ後ろに、小さな文字(注)で「一名胡麻」と割り込んでいます。

巨勝
一名胡麻 一名方茎 一名狗虱 一名鴻蔵 一名仙薬 一名巨勝子
陶景注云……(中略)
和名 古麻

とある。和名が付いているように、元は日本にあったという事ですね。

宋代の『経史証類大観本草』(1108年)および『政和証類本草』など唐代の国定本草(写本)の文字を極めて正確に木版に彫り直した、現代の文献学者にとっての「神聖な一次史料」ですが、これの巻六の「上品」のページを開くと、黒枠で囲まれた最も大きな文字で「巨勝」とだけ書かれています。そして、そのすぐ下に、一回り小さな文字(二列の小文字注釈)で「一名胡麻 一名方茎」と書かれています。




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