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『胡餅』を辿る

私の好きなYouTube『歴史再現飯』、これで少し気になったのが。

『胡餅は西域から来た』というのですね。
でも、ふと、栽培種の胡麻は日本が最古ですし、穀物を粉にする石臼も日本から中国に伝わったものです。かといって、小麦は西からですし、タンドールで焼くというのも西からです。
では、この『胡餅』はどのように出来たものなのかと気になって調べたものです。


石臼の伝播

『石臼』では別で話しているように、日本で発展して中国に2,300年前に伝播しているものです。ただし、その機能は日本式の軸無し石臼(日本では2,400~2,500年前ぐらいから日本全国で出土)にそっくりです。

『石臼』の前身である『石皿と磨石』、薬研の祖になるものですが、これも日本が古く、その後、中国沿岸部の古層文化、すなわち縄文系文化に伝播しています。それが、中国では4,000年前から余り姿を見せなくなり、その後、2,300年前になり急に石臼として再登場します。
仰韶文化(5000年前頃)の石皿以降、西周・春秋・戦国時代にかけて、中国全域で穀物粉砕具はほぼ消失しています。この間、中国の食文化は一貫して「粒食」に特化していました。軸有り石臼は満城漢墓(中山王劉勝の墓で2,100年前)から、精巧な青銅製の軸受けを持つ石臼(半軸受けの試行錯誤系の石臼)が出土しているのが最古で中国的試行錯誤が見えますが、時を置かずに廃れており、日本式の軸受け石臼になっています。
その間も日本では、『凹面石皿(4,000年前)』『軸無し石臼(2,500年前)』『半軸石臼(2,300年前)』『軸有り石臼(2,100年前)』と、時代を経るにつれて変化していく事が判っています。道具の進化に「試行錯誤」が存在する場所が源流であるという考古学の原則に基づけば、回転式石臼の技術は、日本列島の粉食文化圏から大陸へ、漢代の交流を通じて渡ったものと判断されるものですね。

石臼は西洋から?

ところが、よく「中国の石臼は小麦栽培と共に西から来た」と言われます。
これは確実に大間違いで、小麦栽培の方が圧倒的に早くから来ています。
中国西北部(甘粛省など)の遺跡で、約5000年前の小麦の炭化粒が見つかっています。約4000年前から3500年前頃には、黄河流域の遺跡(斉家文化、二里頭文化)から大量の小麦炭化粒が出土しており、
1,700年ほども「小麦」と「石臼」は時代が乖離しています。

中国の「石皿・磨石」を時系列に並べると、
8,000年前だと裴李崗・磁山文化などでは大量に出土します。堅果類を食しており、縄文系文化を持つ古層文化ですね。
5,500年ぐらいの仰韶文化から出土数が減ってきます。大陸内陸系が西からやってきている時代ですね。
4,000年前ぐらい、龍山文化の後期になると、一般遺跡からほぼ姿を消えます。この時代、沿岸定住していた古層民族が縄文海退と共に海の向こうに撤退している時期です。
3,500年前、夏・殷代にんあるとほぼ絶滅状態になります。
これが2,300年前以降の後漢〜魏晋代で再度出現するようになります。
つまり、小麦を持って来た大陸内陸系民族には、もともと石臼系技術がなく、粉食が無かったという事です。

ちなみに日本では4,000年前ほどから小麦は作られています。岡山の津島遺跡などで4000年前の小麦のプラントオパールが見つかっている。そのほかにも、坂戸山遺跡などからも土器の圧痕やプラント・オパール分析によって、小麦を含む雑穀の存在が確認されている。
それだけではなく、2,800年前だと既に小麦が石皿で挽かれていた痕跡が残っています。他の穀物自体は9,000年前には既に挽かれている痕跡がありますし、小麦のデンプン質は分解しやすいので見つかっていないだけで、4,000年前の時点で挽かれていてもおかしくありません。


では西から来ているののか?をさらに調べる為に、西アジアの発症から調査していくと、こうなります。日本の「石皿・磨石」に相当する「往復式石皿(サドル・カーン)」、これが小麦の栽培と共にある、西側の「石臼」前史です。

  • 10,000年前、つまり日本とほぼ同時期にメソポタミアで見られます。

  • インダス流域では約5,000年前です。ただし、インダスの石皿は、西アジア(メソポタミア)のものよりも、形態的に日本列島の縄文〜弥生移行期の石皿に近い「深い凹みを持つタイプ」が見られます(これについては後程、胡麻とも関係してきます)。

しかし、インダスより前の時代に中国には既にあり、そして消えています。すなわち、「石皿・磨石」は中国に来たのは西からではなく、東(日本)から来たものだという事です。


「石臼」は?というと、こうなっています。

  • 地中海・西アジアで2,500~2,400年前、ギリシャ・ローマ周辺で発明(ルベル型など)されています。日本とほぼ同じ時期ですね。

  • 中央アジアには2,200~2,100年前にアレクサンドロス大王の東征以降のギリシャ文化の影響(ヘレニズム)で到達しています。

  • 中国西域には、1,900年前頃にシルクロードのオアシス都市まで到達しています。

中国西域に到着するより早く、中国中原には『石臼』が現れています。すなわち、『石臼』もまた中国に来たのは西からではなく、東(日本)から来たものだという事です。

石臼関連、中国より日本の方が古くからありますからね。

前漢代は粒食

漢代の辞書や教本には、穀物を調理する用語が厳密に区別されています。

  • 「飯(はん)」:穀物を煮る、あるいは蒸したもの。

  • 「餱(こう)」:干し飯。蒸した後に乾燥させた保存食。

  • 「蒸(じょう)」:甑(こしき)を用いて熱気で火を通すこと。

ただし、これらの言葉が指す対象が「粒」であることです。漢代の記録にある「蒸し料理」の主流は、アワ・キビ・米、そして小麦を「粒のまま」蒸した「麦飯」です。

さらに当時は、当時の「小麦」への評価は大変に低いものです。漢代の農書『氾勝之書』や王充の『論衡』などには、小麦の食味についての記述があります。
「小麦は毒がある(消化に悪い)」
粒のまま蒸して食べると、外皮が硬く消化不良を起こしやすいため、当時は「不快な食べ物」として扱われていました。粉にする技術(石臼)が一般化していなかったため、粒のまま蒸して食べる小麦は、粟・稷の代わりにやむを得ず食べる代用品だったのです。「奴隷や貧民の食べるもの(東漢の文献に見られる記述)」とも書かれていますね。
小麦を粉にして食べるのは後漢に入ってから、それも後半に入ってからの話になります。


中国での中原での『粒食』の歴史を見ると、

  • 4,000~2,300年前だと、中原中心の中国全土では「粒食」の時代です。小麦は消化に悪い貧民の食事として、「麦飯」や「粥」として食べられています。遺構からは「甗(蒸し器)」が出てきますが、製粉具や窯は出てきていません。

  • 2,200~1,800年前の漢代の中原では依然として粒食が主流です。小麦は「不味い食べ物」とされていた。一部で「水引(中国の麺類の原型)」が現れるが、まだ「茹でる」調理ですね。この頃に「石臼」、つまり「中国の粉食文化が生まれた時代」という事です。「中国四千年の歴史」は大陸系内陸民がやってきた新層からの歴史なので正しいのですが、麺類に関しては「中国二千年の歴史」しかありません(たぶん、粉食が中国より1万年以上まえからある日本から来たものだとは思います)。

後漢末期(2世紀末)の字書『釈名』、および2世紀中頃の農書『四民月令』に記録されている小麦粉(麦粉)食品の正確な名称と実態は以下の通りです。

『釈名』の「釈飲食」の項目において、小麦粉を水で練った食品(総称:餅)として実際に挙げられているのは以下の4つのみ。
・蒸餅:蒸器で蒸した、団子・饅頭の原型。
・湯餅:熱湯やスープで煮た、すいとん・団子汁の類。
・索餅:縄状にねじって茹でる(あるいは揚げる)もの。
・胡餅:「平らに押し潰して炉で焼いたナンやフラットブレッド」の、当時における本物の名称。

崔寔が著した『四民月令』(2世紀中頃)には、五月の条に「煮餅」および「水溲餅」という言葉が出てきます。これらは、夏場に水で冷やして食べる団子や麺の原型(水引餅の類)を指しており、「夏にこれらを食べると、水で冷えてお腹の中で固まり、消化に悪いので慎むべし」という生活の知恵として記録されています。
このように1,800年前の五胡十六国の少し前の時代の中原で「粉食」から、北方・西域民族の流入により、初めて「焼くパン(胡餅)」が主食級の地位を得ています。

ただ、胡餅のような「水を使わない」のは兎も角、他は「水をたっぷり使う調理方法」です。そして「水で冷やす」という食べ方も安全な水が多い日本での食べ方です。これらの団子にしたり縄状にしたりしてたっぷりの水で作る料理は、日本から伝播した料理だと思われます。

これの証拠ともなるのが、今回の『胡餅』です。もし通説通りに「日本には中国から石臼と共に粉食文化のパッケージが伝播」したのだとしたら、当時の中原で大流行し、皇帝から庶民まで熱狂していた「胡餅(窯で焼くパン・ナン文化)」が、日本に全く伝来せず、綺麗にスルーされている事実を説明できません。
唐代(長安)だと白居易(白楽天)が「寄胡餅与楊万州」という詩の中で、長安の店で買った出来立ての胡餅(現代のナンや焼餅に近い、胡麻をまぶして窯で焼いたパン)の美味さを友人に自慢しているように、当時の中国の都市インフラは「胡餅の焼き窯」だらけです。
もし日本が「中国文化を輸入した」のであれば、正倉院の時代に平城京の市場に胡餅の焼き窯が並び、貴族たちが焼き立てのパンを食べていなければ完全に不自然です。しかし、日本の古代遺跡から『胡餅』のような料理を焼くための「粘土製の焼き窯(タンドール型の炉)」の遺構は、ただの一件も出土していません。

陶器をチンチンに焼いたり、竈の上にひっくり返したりすれば焼けるというお手軽な焼きパンで、当時の中国では身近な料理です。これが日本に伝播していない事こそが「日本の粉食文化や石臼」は「中国から来たものではない」という証拠になっています。

窯焼きパンのルーツ

これは間違いなく、西から中国に入ってきます。
日本では蒸しパンはそれこそ縄文時代の縄文クッキーから見られますし、蒸し用の土器もはるか以前から出土しているのですが、窯焼きとなると江戸時代から(もう少し前の室町末期~戦国時代からあるとは思いますが)と近世からです。
というか、「パン?何それ?」というぐらい、それより前の時代では見掛けませんね。中国だとメジャーなものなのに。

西アジアで確立された「窯で焼く無発酵パン」の技術である”タンドール(窯焼き・粉食)”の東進限界、どこまで到達していたかを物証から辿っていくとこうなります。

  • 発祥は4,000年前のメソポタミア〜インダス粘土製のドーム型窯(タンドールの原型)が一般化した事から始まります。

  • 3,000年前頃だと中央アジア(バクトリア等)などに伝播しており、泥煉瓦製のパン焼き窯が出土しています。小麦粉を練った無発酵パンが主食になっていますね。

  • 2,300~2,100年前にやっと西域(タリム盆地)のニーヤ遺跡やトゥルファン周辺で「ナン」に酷似した無発酵パンの遺物が出土しています。チーズもこれと同時期です。

  • 2,200年前頃だと河西回廊(敦煌付近)が当時の物理的な限界線で、これより東(中原)には、この時期まで「パン焼き窯」の遺構は見られません。

  • そして先にも書いてあるように、1,700~1,600年前頃になって、中原(五胡十六国)で北方・西域民族の流入により、初めて「焼くパン(胡餅)」が主食級の地位を得る事になります。

正し、初期(BC2,000年〜BC2世紀頃)のタンドールパンは、小麦粉と水、わずかな塩による「無発酵または天然発酵の平焼きパン(ナンの原型)」であり、表面に種実類をまぶすようなものではありません。
また、中国に石臼が来て粉食文化が出来てから数百年後の事だという事です。
つまり、関羽の『胡餅』は、関羽が居た当時にとっては「最近になって一般化した料理」という事です。戦後の日本、高度経済成長後に朝食にパン食が増えたようなものですね。
「小麦栽培と共に石臼が西から中国に来た」という通説自体がまるで嘘なわけです。

「粉食」や「煮る」「蒸す」「揚げる」は日本では土器の付着物で中国より古くから確認できますが、「窯焼き」という手法はずっと後の江戸時代以降。これはどうも環境(安全な水資源が豊富かどうか)というのがありそうです。
大気が乾燥しており水が貴重なところでは「窯焼き」で、水分を飛ばして焼き締める調理法、これは保存食としても良かったわけです。
ところが日本だと湿度があるので焼き締めても保存食として向いているわけでもありません。なにより遊牧しておらず定住しています。水分を抜いても結構簡単に湿気ます。わざわざ水分をなくすより、液体を使った保存や料理の方が楽なんですね(もちろん、携帯用には焼き締めたものもありますが)。

というか、中国料理と言うと調理方法「炒(チャオ)」と「炸(ジャ)」というのは油を使って炒めたり揚げたりという料理ですが、後述してますが思ったより若い料理です。
中国千年の歴史ぐらいしかありません。

窯焼きパンから蒸しパンに

唐代以降の中国(中原)において、窯の壁面に貼り付けて焼くタイプのパン(胡餅・焼餅の類)は、「大衆的なストリートフード(軽食・主食)」としては極めてメジャーでしたが、宮廷料理や正式な宴席で出されるような「ステータスの高いメイン料理(ハレの日の御馳走)」としては、むしろマイナー(格下の扱い)に没落していきます。

唐代の前半(7〜8世紀)、西域の文化(胡風)が爆発的に流行した時期には、貴族から庶民にいたるまで、窯焼きパン(胡餅)を競って食べました。白居易が「長安の街で焼かれている胡餅は、故郷の味にそっくりだ」という詩を残している通り、国の味、都市のインフラとして完全にメレンジ(メジャー化)していました。

しかし、唐代後半になると、これは「最先端の流行料理」ではなく、「安価で手軽に腹を満たせる、労働者のためのファストフード」へと市場のポジションが移行します。市場のスタンド(餅店)で職人がその場で焼き、旅人や役人が歩きながら、あるいは馬の上でかじるような、機動性重視の食べ物として中原の日常に深く埋め込まれました。

10世紀(宋代)以降、中原の厨房周りが成熟すると、窯焼きパンは主食の王座から引きずり下ろされます。中原の人間が熱狂したのは、窯で「焼く」テクノロジーではなく、「蒸す(スチーム)」と「茹でる(ボイル)」テクノロジーでした。

宋代の都市(開封や杭州)の記録『東京夢華録』などを読むと、街を埋め尽くしたのは、肉汁を閉じ込めた「包子(パオズ)」や「饅頭(マントゥ)」、そして「面(麺類)」の専門店です。中原の人間は、水分を失ってカサカサに硬くなる窯焼きパンよりも、ジューシーで柔らかい「蒸し・茹で」の小麦粉料理を圧倒的に好むようになりました。
この「蒸し」や「饅頭」、実はこれもまた日本の方が古くからあり、それより新しい時代で中国で同じ形状のものが出てきます。

また、宋代に強火の炒め物文化が爆発すると、おかず(菜)の油やタレをしっかり吸い込んで受け止める主食として、パサついた窯焼きパンよりも、水分を含んだ白いご飯(米飯)や、蒸しパン(花巻など)の方が圧倒的に相性が良かったという物理的な理由もあります。

明代や清代(14〜20世紀初頭)にいたると、中国全土の豊かな食文化(八大菜系など)の中で、窯焼きパン(名称は「焼餅(シャオビン)」や「鍋盔(グオクイ)」などに変化)は、さらに限定的な位置づけになります。

お米中心の南部(長江流域以南)では、窯焼きパンはほぼ存在感を失います。
しかし、小麦文化圏である北部(華北・中原)においては、日常の朝食や小吃(シャオチー:軽食)として、油条(揚げパン)などと並び、依然として「メジャーな大衆の味」であり続けましたが、格式高い中国料理の表舞台(宴席)に上ることは原則としてありません。

500年も無い歴史の料理がほとんどですね。

胡麻はどこから?

通説では「張騫が西域から持ち帰った」とされているのが定説ですね。名称も「西域(胡)から来た麻(油の取れる植物)」として「胡麻」と名付けられました」と言われています。

判りやすく言うと、これは『後世で捏造された創作逸話』です。

「張騫」と『胡麻』

結論から言うと、「張騫」が持ち帰った物に「胡麻」は存在しません。

『史記』大宛列伝には
「漢使、外大宛より来たるに、皆その葡萄・苜蓿の種を持ちて帰る。」
という司馬遷の記述では、「張騫個人の手土産」というよりは、張騫の遣使以降に往来した「漢の使節団(漢使)全体」が、大宛からブドウとウマゴヤシ(苜蓿)の種を持ち帰ったと書かれています。時代としてBC2世紀末~BC1世紀初頭ぐらいの時代ですね。
ウマゴヤシとは、簡単に言えばアルファルファの事です。

西北外國使更來更去
宛以西皆自以遠尚驕恣晏然未可詘以禮羈縻而使也
自烏孫以西至安息以近匈奴匈奴困月氏也匈奴使持單于一信則國國傳送食不敢留苦
及至漢使非出幣帛不得食不市畜不得騎用
所以然者遠漢而漢多財物故必市乃得所欲然以畏匈奴於漢使焉
宛左右以蒲陶為酒富人藏酒至萬餘石久者數十歲不敗
俗嗜酒馬嗜苜蓿
漢使取其實來於是天子始種苜蓿蒲陶肥饒地
及天馬多外國使來眾則離宮別觀旁盡種蒲萄苜蓿極望

史記

張騫が持ち帰ったものは「ブドウ」と「アルファルファ」ときちんと書かれていますね。「ブドウ」はお酒で、「アルファルファ」は馬が好んで食べたから持ち帰ったようです(日本では、牧草として明治時代に導入されています)。

『漢書』西域伝には「漢の使者、大宛より帰るに、その葡萄・苜蓿の種を得て、天子これに植う」と解説されているものがあり、こちらも同様に「漢の使者」とありますが、これにも持ち帰った物は「葡萄」「苜蓿」であり、「胡麻」はありません。
それとさらに言えば、『漢書』を確認しましたが、このような事は書かれていませんでした。

『史記』大宛列伝および『漢書』張騫伝・西域伝の原文をすべて読んでみましたが、「胡麻」または「ゴマ」に関する記述は文字通り「存在しません」。 持ち帰った植物として明記されているのは、一貫してブドウとウマゴヤシ(苜蓿)のみです。
張騫や漢の使節団が西北の異民族(胡)の地である西域と交通を開き、ブドウやウマゴヤシをもたらしていますが、この時、ゴマを持ち帰ったという記録は存在していないのです。
あと、「使節団」とありますが、書いてあることは征服侵略ですね。平和的なものではありません。

『胡麻』が出てくるのは、後漢書(四庫全書本)です。これは1782年に写本されたものですが、これの基になるのは清代の宮廷(武英殿)で刊行された「武英殿本」、あるいはそれに連なる汲古閣の「毛刻本」などの明・清代の精校本です。これらはさらに遡ると、南宋時代に刊行された「宋(元)刊本」の系統を引いています。先行史料をパッチワークのように整理・再構成しているので、『後漢書』には無い事も書かれています。

漢武内傳曰魯女生長樂人初餌胡麻及术絶穀八十餘年日少壯色如桃花日能行三百里走及麞鹿傳世見之云三百餘年後采藥嵩髙山見一女人曰我三天太上侍官也以五岳眞形與之并告其施行女生道成一旦與知友故人别云入華山去後五十年先相識者逢女生華山廟前乘白鹿從玉女三十人并令謝其鄉里親故人也

『漢武内傳』によれば、長楽出身の呂女は、最初はゴマを食べて穀物を断つ術を身につけた。八十年以上もの間、彼女は若々しく健康で、桃の花のような肌色を保っていた。一日三百里を鹿のように駆け抜けることができた。三百年以上経った後、嵩山で薬草を採っていたところ、「私は三天の至尊の官吏です」と言う女性に出会った。呂女は彼に五聖山の真の姿を教え、修行法を授けた。悟りを開いた呂女は、華山へ行くと言って友人や知人に別れを告げた。五十年後、かつて彼女を知っていた人々は、華山の寺の前で、白い鹿に乗り、三十人の玉女を伴った呂女に出会った。彼らは皆、呂女に故郷の親戚や友人に感謝するように頼んだ。

後漢書(四庫全書本)

長楽というのは福建省ですから南東、ここ出身で胡麻を食べて長寿だった、という話しです。やはり「長寿」の話に繋がっている食品ですね。

確実なのは、「張騫」は『胡麻』と関係が無いという事です。


では、「胡麻」という言葉自体はいつからあるのか、前漢〜後漢初期にはありません。前漢代の農書『氾勝之書』には、大豆、アワ、麦、麻などの栽培法が詳しく書かれていますが、「胡麻」の文字はありません。
また、後漢のAD100年頃に完成した最古の部首別漢字辞書『説文解字』にも、植物の「麻」や「蕡(麻の実)」はありますが、「胡麻」という熟語は登録されていません。

初現は後漢末期〜魏晋時代であり、文献上で「胡麻」という言葉がはっきりと確認できるようになるのは、後漢末期の医師・華佗の処方や、魏晋時代の本草書(『神農本草経』の系統を整理した『本草経集注』など)からです。
この『神農本草経』は、中国ではほとんどない植物・利用されていない植物だが、日本では当たり前の植物などが記載されており、日本からの影響が考えられる書ですね。

『神農本草経』が日本からの知恵が多く含まれており、それは特に「不老長寿の妙薬」とされているものでは顕著です。『史記』秦始皇本紀・封禅書でも、「不死之薬」や「神薬」として『東方の海中の三神山(蓬莱・方丈・瀛洲)に実在するとされ、始皇帝や武帝が使者を送って捜索させた、肉体を朽ちさせないための具体的な薬物・食物』や「奇薬」として同じく仙境に存在すると記録されている、通常の土地では採れない長寿の薬物が書かれていますね。
『神農本草経』に記録されている不老不死・長寿に関する物・食料(「上品」「中品」の記述)をみると、
・丹沙:久しく服せば神明に通じ、老いることなしとされる最高位の神薬。
・玉泉:久しく服せば寒暑に耐え、飢渇せず、老いず神仙となるとされる玉の粉末・液体。
・芝(赤芝・黒芝などの菌類):久しく食せば身を軽くし、老いず、年を延ばして神仙となるとされる「不死草」。
・大豆黄巻:大豆の発芽・発酵加工品。五臓の邪気を主り、久しく服せば老いず、年を延ばすと明記されている穀物加工品。
・生大豆:すりつぶして(研、泥のごとくす)用いることで毒を消す薬能を持つとされる大豆のインフラ。
・麦:久しく食せば人をして肥健(頑強な長寿の体)にせしむと記録されている穀物。
・神麹(麦麹):消食し、下気し、お腹のなかの結塊を破る、長寿のための発酵穀物。
・牡蛎:カキの貝殻粉末。久しく服せば骨節を強くし、邪鬼を殺し、年を延ばす(延年)とされる海産物。
・海藻:首のしこり(癭瘤)を主治し、滞った水を下すとされる海の草。
・鴈肪:雁の脂身。久しく服せば気を益し、身を軽くし、老いに耐える(耐老)とされる動物性脂肪。
・鯉魚膽:コイの胆嚢。久しく服せば強悍となり、志気を益す(肉体を若返らせる)とされる水産物。
などがあります。
前漢代でも「貧者の食べ物」とされた大豆に麦があり、また石臼を使うなど、原書が記載されていた当時だと中国では忌避されていた食物や器具が入っています。
これらの食物は「日本では当たり前にある」ものですが、「中国では手に入らない輸入品」あるいは「中国で手に入れるには人為的努力が必要」なものが複数あります。

例えば「麦麹」、日本では蒸した麦を置くと麹菌が付いて麹が出来ます(葉っぱの上に置くと納豆になりますが)。ですが中国では漢代に、煉瓦でつくった密閉質で温度と湿度を上げて人為的に作る、という外来環境を模した上でやっと作れるものです。
「海藻」や「牡蛎」、そしてここには無いのですが同じく長寿の薬とされた「鮑」なども黄河下流域で採れるものではありません。
「芝(霊芝)」は日本では山中で生えており鳥浜貝塚や三内丸山遺跡と縄文時代前期でも採取利用している事が判るものですが、乾燥化した中原では、大気の湿度が足りず自然自生が極めて困難(『漢書』武帝紀には、前漢の武帝が宮殿の奥で偶然「芝」が自生した――実際には湿気によるもの――を見て、東方の仙境の神が降臨したと狂喜し、大赦(天下の罪人を許す)を行った記録が克明に刻まれています。武帝が宮廷で見つけただけで天下に大赦を出すレベルです)。
「丹沙」は日本では多用していたもの(食べてはいませんが)であり、「玉泉」は翡翠などのことでこれも日本からですね(食べていませんが)。

『神農本草経』に記録されている不老不死・長寿に関する物・食料は、明らかなほどモデル『日本』なんですね。

中国最古の薬学書である『神農本草経』(後漢代頃に成立しているが、写本しか現存しない)の「胡麻」の項目には、以下のようにしか書かれていません。

「胡麻、一名巨勝。味甘平。主傷中虚羸、補五内、益気力、長肌肉、填髄脳。久服、軽身不老(胡麻、またの名を巨勝という。味は甘、性質は平。内臓の傷や衰弱を治し、五臓を補い、気力を益し、筋肉を育て、骨髄や脳を満たす。長く服すれば、体が軽くなり老いない)」

ただし、これも唐代以降の写本の話です。
敦煌写本(実物は7〜8世紀)だと、砂漠から出土した現物そのものは古いですが、これは唐の地方(辺境の敦煌)で、現地の役人や医師、あるいは素人の写本生が「当時の最新の流行や、独自の省略・改変」を加えながら書き写した民間流通本ですが、これには『胡麻』で『一名巨勝』となっています。16世紀(明代)の李時珍が著した『本草綱目』です。李時珍の『本草綱目(1596年・金陵版など)』だと、李時珍は実用性を重んじるあまり、過去の古層テキストの主名を自分の判断で大量に書き換えています。巻二十二の「穀部」において、李時珍は項目名を「胡麻」と大書し、その下に「【釈名】(名前の解説)」というコーナーを新設して、そこに「神農本草経にいう巨勝とは、これのことである」と書いています。

ところが、それよりも原本に近いものを写本したらしいものが、実は日本にあります。
日本にある現物(『本草和名』の引用や仁和寺本など)の成立年代は敦煌より遅い(9〜11世紀)です。しかし、これらは奈良時代〜平安初期に、日本の遣唐使や国家の知識人たちが、唐の都(長安・洛陽)の中央官庁に保管されていた「最も正統で、最も古い改変前の親本(公式テキスト)」を、国家の威信をかけて1文字も変えずに完コピして持ち帰ったものです。日本の『本草和名』(918年)が引用する『新修本草』の記述や、平安写本系統のデータを精査すると、そこには中央の頑固な官僚たちが守り抜いた「改変前の歪み」がそのまま残っています。そこには、大文字で「巨勝」と書かれたすぐ後ろに、小さな文字(注)で「一名胡麻」と割り込んでいます。

巨勝
一名胡麻 一名方茎 一名狗虱 一名鴻蔵 一名仙薬 一名巨勝子
陶景注云……(中略)
和名 古麻

とある。和名が付いているように、元は日本にあったという事ですね。

宋代の『経史証類大観本草』(1108年)および『政和証類本草』など唐代の国定本草(写本)の文字を極めて正確に木版に彫り直した、現代の文献学者にとっての「神聖な一次史料」ですが、これの巻六の「上品」のページを開くと、黒枠で囲まれた最も大きな文字で「巨勝」とだけ書かれています。そして、そのすぐ下に、一回り小さな文字(二列の小文字注釈)で「一名胡麻 一名方茎」と書かれています。

「不老長寿の薬」の1つとして書かれているのですね(この「不老長寿」という所に、秦の始皇帝が求めたものが通じますね)。「張騫」という単語も「西域」という言葉も、一文字も出てきません。

更に調べると、『胡麻』というのは中国では二転三転して使われているようで、どうも、この時代の『胡麻』こと『巨勝』は「主に大粒の大麻の種子」の事を言っているようです。
「胡麻」という言葉が、アサやアマの手を離れて「100%現代のゴマ」を指すようになる、あるいは「芝麻」の呼称が完全に一般化するのは、元代(13-14世紀)の農書(『農桑輯要』『王禎農書』)から明代にかけてです。

ではなぜ「張騫が胡麻を持ち帰った」という説が流れているかというと、AD500年頃、陶弘景という人物が『神農本草経』をアップデートした『本草経集注』を著しました。その中の「胡麻」の解説(注釈)部分に、初めてこの話が登場します。
さらに、西暦530年代の農書『斉民要術』巻二・胡麻第十三の冒頭には、以下のように引用されています。
「《漢書》云:張騫外國得胡麻(『漢書』に、張騫が外国で胡麻を得た)」
つまり、600年後に創作された注訳で「張騫が胡麻を持ち帰った」という通説が作られたのです(しかし、先に調べたように『漢書』にそのような記載はありません。明らかな陶弘景説の無批判な孫引き、あるいは記憶違いによる「偽引(存在しない文言の引用)」です)。

――考えてみたのですが、これ、「アルファルファの種」を勘違いしたのではないでしょうかね?
アルファルファの種子は、わずかに腎臓形(あるいは楕円形)をした数ミリ程度の極小の粒です。これは、本物のゴマの粒や、大麻の種子(麻子)の小粒のものと、パッと見のサイズ感や形状が非常に酷似しています。また、マメ科であるアルファルファの種子は油分を豊富に含んでおり、絞れば良質な油が採れます。ここら辺から写本した人が間違えたのではないでしょうかね。

胡麻は西から来ていない

西域の胡麻の歴史を遺物から確認すると、

  • インド沿岸(BC2,500年頃)のインダス文明の沿岸部で胡麻が出土しています。

  • これが、西アジア(メソポタミア・レヴァント)ではBC2,000年頃(インダス文明との交易期)に一旦普及ています。しかし、その後の「ブロンズエイジ・コラプス(前1,200年の崩壊)」以降、西アジアでの胡麻の出土は激減し、主要な油糧作物から姿を消しています。「前1,200年の崩壊」と呼ばれる地中海・西アジア規模の文明崩壊が起こり、高度な農業ネットワークが切断。この時期、西アジアから胡麻の出土は激減し、主要な油糧作物の座を失い、「廃れた」状態になります。

  • そして、BC2世紀の西域(タリム盆地周辺)ではこの時期、シルクロードの要所であるトゥルファンやニーヤなどの遺跡から、「胡麻の栽培」を示す遺構や種実は見つかっていません。

つまり、「窯焼きパン」のルートで胡麻は入ってきていないのです。

AD6世紀の中国の文献が「胡麻を張騫が西域から持ち帰った」とするBC2世紀末、肝心の西域には「中国へ輸出できる胡麻文化」が物理的に存在していなかったのです。

インダス文明は縄文文化からの派生

しかし、インダス文明より古くから胡麻を栽培していた痕跡がある地域があります。
日本ではBC3,500年前、つまり5,500年前には、福井県の鳥浜貝塚や東京都の下宅部遺跡で、既に栽培化されたゴマを縄文人が利用していた痕跡があります。また、石皿と磨石の付着痕跡に胡麻の油脂抽出・練り加工をしていた痕跡があり、この時代には既に油として利用していたようです。
近年の植物考古学において、福井県・鳥浜貝塚(約5,500年前)や富山県・千坊山遺跡(縄文中期)よりもさらに古い、縄文早期(約7,000年〜9,000年前)の土器破片から「ゴマ属(Sesamum sp.)」の種実圧痕が検出される事例が、日本各地の湿地遺跡や貝塚の網羅的調査で報告され始めています。つまり「ゴマ」になる前の野生種も日本に存在していたという事です。

そしてインダス文明の東側、アンダマン諸島では7000年前にはD1aの文化系統であるD1a1系統が住んでいますが、明確な定住文化が現れてくるのは5,000~4,500年前で、これが「インダス文明の時代」です。
この時代にD1a2b系統、すなわち日本の「孤立した遺伝子」の系統がこのアマンダ諸島で確認できます。
また、ここで確認されるインダスの石皿は、西アジア(メソポタミア)のものよりも、形態的に日本列島の縄文〜弥生移行期の石皿に近い「深い凹みを持つタイプ」です。

インダス文明では4,500年前から胡麻が出土しており、現在の学会ではこのインダス地域をゴマの発祥地としていますが、問題としてはそれより前のインダス前史では胡麻の痕跡が見当たらないという事です。日本の様に10,000年に渡り途切れず胡麻が出土して利用されています。
発祥だとしているのはインダスの胡麻には多様性があり、日本の胡麻は純粋性があるから、という事なのですが。日本のゴマがインダス文明の基盤に石皿と共に入って来て、そこから零れた胡麻が周囲で野生化して、それが混ざって来た、と考えると合います。


他にも、インダス文明の主要遺跡(ハラッパー、モヘンジダロ、沿岸のバラコット等)からは、大量の「魚骨」とそれを捕獲するための「漁具」が出土しますが、そのシステムが日本の縄文~弥生移行期の海洋民の道具と酷似しています。インダスでは青銅製の銛(もり)が出土しますが、これは獲物に突き刺さると頭部が外れて横を向き、ロープで獲物を引き寄せる構造(トグル式)を持っています。これは、日本の縄文人が鹿角や猪骨で完成させ、外洋民(D系統)の象徴とも言われる「結合銛・有倒銛」と機能的・形態的に完全に一致する思想です。

また、器の破片の端を削って溝を掘った「土器片錘」や、石に溝を彫った「石錘」が、インダスの河川・沿岸遺跡から大量に出土します。これは日本の縄文貝塚から出る「土器片網錘」「石錘」と区別がつかないほど形態・製法が共通しています。

さらにインダス文明では、土器の表面に「編みかご」の痕跡(圧痕)が残る土器片(Basket-marked pottery)が多数出土します。木や竹、蔓(つる)を編んだ「編みかご・編み組織」を高度に使いこなしていました。これは、日本の縄文低湿地遺跡(鳥浜貝塚など)から出土する精緻な編みかご(セイロの原型)や、有孔土器(蒸し器)と組み合わされた有機質繊維の利用法と完全にパラレルな関係にあります。乾燥したメソポタミアの「粘土とレンガの文化」に対し、インダスは「植物繊維・木製品を多用する高湿・河川適応文化」の側面を強く持っています。

食事事情でも、インダスの生活遺構(ゴミ捨て場:灰坑)からは、内壁に有機物が濃密に残留した大型の貯蔵用土器(Pointed-base jarsなど)が出土します。近年の脂質・化学分析において、これらの土器から「魚類の脂質」や「加熱変性の極めて低いアミノ酸成分」が検出されるケースが報告されています。これは、火にかけて「煮る」ためではなく、「常温で長期間、魚介類を塩漬けにして発酵させる(魚醤やなれずしのシステム)」ために土器が使われていた強力な証拠です。
インダス川流域および沿岸部は、モンスーンの影響を受ける「高湿・高温」の環境です。放置すればすぐに腐敗する環境において、「微生物を味方につけて長期保存する」という縄文最古級の発酵OS(大平山元I遺跡の魚醤痕跡など)と全く同じ生存戦略が、この地でも選択されています。
鳥浜貝塚に見られるような「編みかご(セイロ)」による蒸し調理も日常化させています。

ここより西のメソポタミアやエジプトの初期の偶像が「神や王」の幾何学的・権威的な表現に特化していくのに対し、インダス文明の住居層からは、素朴で愛嬌のあるテラコッタ(土製品)が大量に出土します。女性を象った豊満なフィギュアや、手足が動くおもちゃのような動物の土製品(瘤牛や鳥)です。これらは王の墓に納められる象徴物ではなく、一般の住居跡から日常の雑器と共にゴロゴロと出土します。これは日本の縄文土偶や動植物形土製品(猪形土製品など)が、生活空間から割られた状態で出土する精神世界(日常的な祈り、再生への呪術、身代わり信仰)と、極めて近い距離感を持っています。

すなわち、丁度、縄文海退(上昇していた海水面が下がってくる時代)の期間であり、中国沿岸部を中心にその古層で定住していた縄文系民族がその沿岸部から去り始めた時代に、中国の次にこのインダス地域で新しい文明の基礎を作り始めたのが、やはり定住文化インフラを揃えていた縄文系民族になります(中国の遼河・黄河・長江文明も縄文系民族ですので、四大文明のうち2つは、それより古くから文明を作っていた縄文系民族が基礎を構築した事になります)。

  • 常温発酵(魚醤・醤)だと日本は約16,500年前頃(大平山元I遺跡の遺物)ですが、インダスだと約5,000年前頃(インダスの土器/仰韶末期)からで、約11,000年ほど縄文人が先行しています。

  • トグル式銛(外洋漁猟)は日本は約9,500年前頃(早期の結合銛遺物)があります。これはインダスでは約4,500年前頃(インダスの青銅銛)からで、約6,000年ほど縄文人が先行しています。

  • 深い凹みを持つ石皿は日本では約13,000年前(草創期・早期の石器)には既にある者です。インダスでは約4,500年前頃(インダスの石皿)で、約10,000年ほど縄文人が先行しています。

  • 蒸し調理(セイロ・甑)は日本では約9,500年前(上野原遺跡の底部穿孔土器)には既に調理しています(たぶん、温泉蒸気利用でもっと古い)。インダスでは約5,200年前頃(仰韶の甑)~約4,500年前頃(インダス)からで、約4,000〜6,000年ほど縄文人が先行しています。

と、これも中国沿岸部の古層文化と同じで、縄文文化に似すぎているのですね。


すると、胡麻は
・日本からインダス、そしてメソポタミア
という西進経路で伝わったと判ります。
ただし、西アジアでは「前1,200年の崩壊」と呼ばれる地中海・西アジア規模の文明崩壊でほぼ断絶。そしてそれがその時に東(中央アジア)に伝播した形跡はありません。
復活するのはAD3〜7世紀のササーン朝時代の約1,500年以上後の時代になります。それまでは、細々と辺境で生き残ったぐらいです。
胡麻文化が延々と続いていたのは、日本だけなんですね。

中国の胡麻の最古は……

さらに言うと、実は中国では漢代では「胡麻が見つかっていない」です。「胡麻を張騫が西域から持ち帰った」という通説自体が成り立ちません。1950年代〜80年代の中国の古い発掘報告書には、「山東省の龍山文化の遺跡(約4,500年前)からゴマの種子が出た」という記述がありました。しかし、近年の国際的な植物考古学チームによる再検証(顕微鏡による細胞壁の定量分析)により、これらはすべて「アマ(亜麻)」や「オオイヌノフグリの仲間(雑草)」の種子の誤認であったことが学術的に証明され、現在は完全に修正(撤回)されています。
そう、中国最古の薬学書である『神農本草経』には『胡麻』が書かれているのに、同時期の中国では痕跡が出土しません。どうも「輸入品」だったようですね。

中国で胡麻の最古は、「中国人の歴史」とはまるで関係なく、現代では中国の領土内にある新疆ウイグル自治区・トルファン盆地のアスターナ古墓群で、約1,300年前(西暦600年代〜700年代・唐代)です。墓室の副葬品、およびトルファン盆地のベゼクリク千仏洞の遺構から、炭化した状態のゴマ(Sesamum indicum)の種実が大量に出土。放射性炭素年代測定により実年代が確定しています。

このアスターナ古墓群の胡麻は、西から来ています。
西側(中央アジアから見て西・南西方向)では、「前1200年の崩壊」で中東の主要作物の座から転落したものの、完全に絶滅したわけではなく、一部の地域で「栽培」が確実に温存され、この直前の時代(ササーン朝期など)に再び周辺へ広がり始めていました。AD3〜7世紀だと中央アジアの西隣に位置するイラン高原(ササーン朝)の遺構からは、限定的ですがゴマの出土例や、料理・薬用としてゴマ油を用いた記録が存在します。
アスターナ古墓群から西へシルクロードを遡った中央アジアのオアシス都市遺跡から、まさに6世紀後半〜8世紀(唐代と同時代)のゴマの炭化種子や油搾りの遺構が明確に出土しています。
6〜8世のペンジケント遺跡(タジキスタン)はソグド人の代表的な都市遺跡です。ここの住居層やキッチンの遺構から、大量の炭化されたゴマの種子が出土しています。
7〜8世紀のアフラシヤブ遺跡(ウズベキスタン・サマルカンドの古層)だと、ここで発見された植物遺物の分析(浮選法)により、アワや麦と並んで、ゴマが日常的な「油糧作物」として大量に消費されていたことが確定しています。

中国の中原で胡麻を見掛けるようになるのは、宋代以降で、この時代になって強火の炒め物・揚げ物の爆発的に始まり、胡麻油が普及し始め、中原の遺跡でも出土し始めます。


ここでもう1つ疑問が「宋代で現れる炒め物・揚げ物」です。
これがどこから来たのか?
中国の北方に位置する遊牧民族の国家(遼や金など)は、この時代になっても油での調理文化を持っていません

どうも、2箇所から来ているようです。
1つは日本からですね。

日本では数千年前の縄文時代から、世界最古の「油脂加熱調理」の物証があります。近年の考古化学(土器や石器の脂質分析)により、縄文人が「油を使って食材を加熱する」という、広義の炒め・煎り調理を日常的に行っていたことが科学的に証明されています。
縄文土器の底や内壁に残る焦げを分子レベルで分析した結果、単に水で煮ただけでは発生しない、「動物性脂肪(シカやイノシシの肉脂)や植物油(ゴマ・エゴマ)が、高温で直接土器の肌と接して加熱された」特有の脂質(熱変性物質)が検出されています。
鳥浜貝塚や全国の縄文遺跡から出土する「縄文クッキー」や「縄文ハンバーグ」と呼ばれる炭化食品は、ドングリなどの粉に、クルミなどの植物油、シカやイノシシの脂、さらには鳥の卵などを練り込み、平らな石皿の上(あるいは土器の底)で「油を敷いて焼き、炒めるように熱を通した」ものです。これは、水分で煮る文化とは完全に異なる「油脂加熱OS」の証明です。

弥生〜古墳時代になると鉄製器と「煎」があります。鉄器(平らな鉄平鍋など)や高度な冶金技術が定着すると、調理としての「炒め・煎る」行為はさらに洗練されます。日本の古い食文化において、油を使って食材を加熱したり、水分を飛ばしながら火を通す行為を「煎る(炒る)」と呼びます。これは、中国中原が「ひたすら煮る・蒸す」に終始していた時代に、日本で独自に洗練されていた「少量の油を使い、直接熱を伝える」鉄器時代の調理技術です。

奈良・平安時代で中国の唐代(7〜8世紀)にゴマの種子が中原で「ゼロ」だった時代、日本ではすでに律令制下の公式文書や『延喜式』(平安時代の朝廷の儀式帳)に、「植物油や動物脂を用いて食材を炒め・揚げる料理」が記録されています。
『膏煎』と『油煎』と、『延喜式』の内膳司(天皇の食事を司る部署)の規定には、「膏(動物の脂)」や「胡麻油」を用い、食材を鍋で炒めたり、炒め煮にしたりする「煎」という調理法が明確に登場します。今の中華料理では当たりまえな「油煎」という手法、これは日本から来ているようですね。
また、日本独自の乳製品である「蘇」に、蜜やクルミ、ゴマなどを加え、油を敷いた鍋で炒め練り上げた高級な加熱料理である『蘇蜜煎』の記録があります。どうも、これは高句麗から紹介された「蘇」を、独自に魔改造したもののようです。

日本には奈良〜平安時代に「ぶと(餢飳)」「まがり(団喜)」といった、米粉や小麦粉を練って胡麻油やエゴマ油でカリカリに揚げる菓子が定着し、朝廷の儀式や大寺院で大量に作られています。
宋代と同時期の日本(鎌倉時代)では、禅宗の伝来とともに「精進料理」が洗練されていきます。肉や魚を使わない代わりに、コクを出すために植物油(胡麻油や菜種油)で野菜を「炒める」「揚げる(豆腐を揚げて油揚げにするなど)」という調理OSが、日本国内で完全に爆発していました。
宋代の中原がようやく民衆レベルで「炒・炸」に目覚めていた頃、日本ではすでに油で揚げる・炒める技術が「精進料理」として完成されていたのです。
唐代の中原には、このような「植物油や動物脂を鍋に引き、食材を炒めて水分を飛ばす」という日常料理のジャンルは文献にも見当たりません。

「ぶと(餢飳)」ですが、同名の料理は確かに存在します。
しかしそれは、「小麦粉や米粉の生地を、蜜の水(あるいは汁)で茹でた、またはスープで煮込んだ団子」です。

これはきちんと記録にあり、
唐代の密教僧・慧琳が807年に完成させた『一切経音義』の中に、貴殿が挙げられた記述が確かに収録されています(※仏典中の「乳餢」などの難語を解説する箇所です)。

「諸字書本無此字。顔之推《證俗音》從食作『餢飳』……顧公云、今内国餢飳以油酥煮之。案、此油餅本是胡食、中国効之、微有改變、所以近代方有此名。諸儒随意見字、元無正体、未知孰是。」

「(餢飳という文字は)通常の漢字辞書には本来存在しない文字である。顔之推の『証俗音』において、食へんを用いて『餢飳(ぶとう)』と書かれた。顧公(※あるいは顔公)が言うには、『今、内国(宮中・中原)の餢飳は、油酥(バターや動物脂)を以てこれを調理している』と。
私(慧琳)が考えるに、この油餅(油で調理した粉もの)はもともと胡食(西域の外来の食べ物)である。中国がこれを真似たのだが、わずかにアレンジ(改變)を加えている。それゆえ、近代(隋や唐の時代)になって初めてこの名前(餢飳)が現れたのだ。学者たちがそれぞれの好みに任せて(随意に)漢字を勝手に作って当てはめたため、もともと正しい文字(正体)など無い。どれが正しいかも分からない状態である」

とあるように、中国の「餢飳」の方が外来から来たものであり、もとは油で調理したもの。
そしてその「油で調理する餢飳」は日本にあるのですね。

唐代(7〜9世紀)に作られた国定の辞書(韻書)である『祝氏切韻』や、日本に伝わった『蒋魴切韻』に、「餢飳」という言葉が登録されています。
日本の平安時代の辞書『和名類聚抄』(930年代)は、この唐代の中国の辞書を引用してこう説明しています。

「蒋魴切韻に云わく、餢飳は油煎餅(あぶらで煎ったもち)の名なり。和名は布止(ふと)、俗に伏菟という」

と、元は和名がある日本の食べ物である事が書かれています。

もう1つが、宋代のもう一つの重要な周辺圏が、現在のベトナム中部にあったチャンパ王国(林邑)や、インドネシアのジャワ島(ケディリ王国など)をはじめとする東南アジアの沿岸都市国家群です。これらの地域は、モンスーン気候による強烈な「高温多湿」環境であり、食材がすぐに腐敗する環境圧に晒されていました。
彼らは熱帯の豊かな恵みであるココナッツ(椰子)から極めて容易に良質な植物油(ココナッツオイル)を大量抽出する技術を古くから持っています。食材の水分を完全に飛ばして長期保存可能にするため、魚介類やバナナなどの澱粉質を油で揚げる、あるいは多量の油で炒り焼きにする調理が、民衆の基層文化として存在しています。
また、宋代だとチャンパから中国へ「占城米(チャンパ米)」という日照りに強い早稲米が導入され、中原の農業を大激変させました。

中国での調理方法「炒(チャオ)」と「炸(ジャ)」ですが、どうも、
・「炒」が日本の古代から続く技術系譜
・「炸」が東南アジア沿岸部(熱帯海洋民)の技術系譜
のようです。
「海のルート」の交易ネットワークを通じて、日本や東南アジア沿岸が保持していた「多湿環境を生き抜くための油脂調理(揚げ・炒め)」が、宋代の中原へと大量に逆流入したようです。

「炒(チャオ)」とは、一言で言えば「少量の油で、手早く炒める」調理法です。日本で一般的にイメージされる「野菜炒め」や「チャーハン」の動きがこれに該当します。
油の量は鍋底に薄く広がる程度の少量で、強火で一気に、短時間で仕上げるというもので、食材の水分を適度に残し、シャキシャキした食感(脆・ツォイ)やジューシーさを活かすというものです。
代表料理としたら、青椒肉絲や生姜鴨炒めなどですね。

「炸(ジャ)」とは、一言で言えば「多量の油で、揚げる」調理法です。
油の量は食材が完全に浸る(または泳ぐ)くらいの多量で、食材や目指す食感に応じ、中火から強火でじっくり、あるいは二度揚げなどで調整するものです。食材の表面の水分を飛ばし、サクサク(酥・スー)またはカリカリ(脆・ツォイ)とした食感に仕上げます。旨味を衣や皮の中に閉じ込める役割もあります。
代表料理だと、炸鶏(中華風フライドチキン)や春巻、油条(揚げパン)などです。

さらに言えば、東南アジアの古層で定住文化が現れるこの基盤文化もまた縄文系文化が見られるものです。
つまり日本で作られた「炒」という手法、これが東南アジアに行くとココナッツオイルに出会い、胡麻・エゴマなどより簡単に油を使える環境となり、「炸(たっぷり油で揚げる手法)」に変化し、この両方が中国に宋代に来た、というものです。
「中華料理」の多くは、「中国四千年」ではなく「中国千年」ですね。

ちなみに、「油でたっぷりと(少量ではなく、多少浸かる程度には)使って揚げる」方法は、奈良時代に東南アジアから日本に来ているのだと思います。ただ、たっぷりではない揚げ方は日本には既にあった可能性があります。可能性は低いとは思いますが。
最も古いものだと、『養老令』の内膳司条(大宝律令を継承)で、主膳(官人の役職)の職掌の中に「煎熬」という言葉が出てきます。「煎」も「熬」も、少量の油や水分を加えて火にかけ、水分を飛ばしながら炒り焼きにする調理法を指すものですので、1300年前より昔から既に中国で言う「炒」という技法が日本にあった訳です。ただ、対象は植物か野菜ですが。肉を揚げるのだと『南蛮料理書』に記された「カステラホウタ(パステラ・ホウタ)」で、ポルトがある料理が記録にある最初で、これは420年前前後ですね。

中国から出ないのは確実なのが、中国にはこの奈良時代の頃にはまだ植物油がほとんどないからですね。


ここで、この『胡麻の扱い方(油の採取方法)』から、中国の「胡麻」は西(中央アジア)からきたものか、東(日本)から来たものがが予想が付きます。
結論から言うと、中国中原の「胡麻(ゴマ)」は、アスターナ(中央アジア・西域)からではなく、日本から来ています。

もし中央アジア(ソグド人・アスターナ経由)から中原にゴマがやって来たのであれば、中原のゴマ文化は「西域・中央アジア流の使い方」になっていなければ矛盾します。しかし、宋代に中原で爆発したゴマの使い方は、中央アジアのそれとは完全に異なり、日本が数千年前から温存・洗練させていた「油脂調理・粉食」そのものです。

「使い方」という視点から、アスターナ(西域)ルートの物理的矛盾と、日本(東)ルートの必然性が明らかです。

中央アジアのゴマ油の搾り方は西暦6〜8世紀の中央アジア(ペンジケント等)の搾油遺構で判り、西アジア・地中海系の「大型の石製・木製のテコ式やネジ式の圧搾機」です。これはロバや牛、あるいは大勢の人手を使って、ゴマの種子を力任せにギューギューと「冷間圧搾(コールドプレス)」して油を搾り取るシステムです。

しかし、唐代はもちろん、宋代にいたるまで、中国中原の農村や都市遺構から、このような西アジア・中央アジア型の大型圧搾機(ハードウェア)は「一基も」出土していません。つまり、中原の人間はアスターナの「油の搾り方」を全く導入していません。
中原で確立された伝統的な胡麻油の搾り方は、中央アジアのような巨大な石の機械でそのまま潰すのではなく、「ゴマを香ばしく煎り(焙煎)、それを蒸してから、臼で細かく擦り潰して湯を加え、油を浮かび上がらせて搾る」という非常に精緻なプロセス(水調法・温熱圧搾)である日本伝統の「煎り・蒸し・水調法(熱間圧搾)」です。

「中国の胡麻」は宋代あるいはその前ぐらいの時代に、その調理での利用方法と共に日本から来たものだという事です。


どうも、通説でいわれるより「中国から来た」という料理、辿っていくとかなり少なくなりそうです。少なくとも、宋代より以前だと殆ど無いという事です。
例えば、「包む」という料理も既に日本ではあり、それを揚げていますが、「唐揚げの元祖」とも言えるものですね。(そもそも、縄文時代から粉ものに肉や魚などを混ぜ込んで焼いた団子は出土しているという縄文ハンバーグもある)。
中国にも「包む」はありますが、これは「煮る」か「蒸す」です。西アジアにも「包む」という料理はあるのですが「揚げる」、西アジアに行くと「焼く」ですね。

麻の実かも?

すると、「胡餅」で塗されていたのは「胡麻」ではなく、考えられるのは「麻の実(大麻子)」かと思いましたので、これも調べていきます。


日本では約10,000年前の千葉県・沖ノ島遺跡から出土していますし、その後も各地で見られますが、代表的なものと言えば約6,500〜5,500年前の福井県の鳥浜貝塚の草創期層、大麻の「縄(繊維)」が出土しています。前期の層(第6次・第7次調査など)からは、水漬け層によって腐らずに残った「大麻果実(種子)」が複数粒、実物として検出されています。ヒョウタンやエゴマ、シソなどと共伴しており、栽培管理していた事が判ります。
そしてその後も継続して出土しています。


「麻の繊維」ではなく「麻の実」ですので、注意が必要です。「大麻を繊維として利用する」は古層から続いています。繊維を目的として栽培する場合、収穫時期は「繊維の質がいいタイミング」に合わせるため、実が完全に成熟する前に収穫されます。

中国だと痕跡として、最新研究だと山東省の龍山文化である約4,500〜3,400年前の遺跡、北台上遺跡および前中梓頭遺跡で種子(実)そのものではなく、大麻の「植物珪酸体(フィソリス/細胞の化石)」が、住居跡や灰坑(ゴミ捨て場)のサンプルの7割近くから検出されています。しかし、同時にこの岳石文化期(約3800年前)に移行すると麻の実の痕跡は激減し、そしてほとんど見られなくなり、そしてまったく見られなくなります。

次に出てくるのが、約2,100年前後の漢代になります。
中国での「実(種子)」としての最古の出土は、実(種子)そのものが「食用・油糧」として大量に発掘されている最古の遺跡は、雲南省の「海門口遺跡」です。これは約2,200〜2,100年前年前とかなり新しい時代ですね。2008年の発掘(浮選法)により、800粒を超える大量の炭化大麻種子が、米やアワと共に出土しています。これが、中国で「実」を明確にコントロールしていた最古の物証です。

ただし、これは気付いたのですが、この遺跡には「麻の繊維」が存在しません。大麻が繊維作物として栽培されていれば、収穫の副産物や、加工工程(苧麻や大麻の繊維を剥ぐ作業)で大量の茎や屑が出るはずです。海門口遺跡からそれらが出土しておらず実だけです。ですので、この「大麻の実」は「輸入品」の可能性があります。

さらに時代を広げて調べてみると、雲南省において、大麻の種子は海門口遺跡だけでなく、同時期からやや下る時代にかけての複数の遺跡で確認されています。しかし、それらは非常に限定的で、雲南省全体で網羅的に出土するわけではなく、海門口のように「穀物セット」として意図的に管理されている遺構からのみ出土します。ほとんどが「甕」や「土器」の中に、他の穀物と一緒に詰め込まれた状態で発見されます。これらは明らかに「貯蔵・食糧」の文脈です。
もし現地で栽培・加工(皮剥ぎ)をしていれば、必然的に茎や皮の炭化片が混入するはずですが、それが全くありません。これは、栽培(茎の処理)が、出土地点(生活・保管の場)の外部で完結していることを強く示唆します。
「食料」としている形跡はあっても、「栽培」の形跡がありません。

中国・中原だと前漢時代初期の約2,200〜2,100年前になる湖南省長沙市の馬王堆漢墓、このM1号墓(利蒼の妻の墓)に副葬されていた、麻布の袋(堅夾繐袋)の内部から、当時の主食や食物として、アワ、キビ、米、大豆などと共に、「大麻種子(麻の実)」がそのままの姿で直接出土しています。墓に副葬された竹製の「竹笥」や、衣服の入った袋などから、当時の主食・食物セットとして、稲・小麦・大麦・黍・粟・大豆・小豆と共に、「麻実(大麻子=大麻の種子・実)」がそのままの姿で直接検出されています。炭炭層と白膏泥によって墓室が完全に密閉・真空状態になっていたため、2,100年以上前のものとは思えない極めて良好な未炭化の状態で発掘されました。

こちらは別に大麻の繊維(繊維利用)も存在します。つまり、栽培をしていた証拠です。雲南省の海門口遺跡と湖南省の馬王堆漢墓は、ほぼ同時期にあります。雲南省の「麻の実」は、湖南省から輸出されたものの可能性が高いですね。

また、前漢中期(馬王堆の時代)から後漢にかけて、麻布の織り方や品質は劇的に変化します。馬王堆漢墓以前の戦国時代の麻布と比較すると、前漢の麻布は、糸の均一性が飛躍的に向上しています。繊維の選別(細い繊維のみを抽出する技術)と、紡績技術の向上が見て取れます。
繊維加工の技術が向上したことで、単なる平織りだけでなく、強度と光沢を兼ね備えた複雑な組織の麻布である斜文織り(綾織り)が普及し始めます。そして、漢の国家が中央集権的に「麻」を徴税対象や軍需物資として位置づけたことで、各地の工房で標準化された高品質な紡績技術が共有されたことが大きな要因です。

この斜文織りは日本では古くから行われているものです。約8,000年前の佐賀県の東名遺跡などから出土品の圧痕で、この時期には「連続桝網代」や「波形網代」といった、高度な斜文組織(綾組織)を構成する編組技法がすでに確立されていたことが確認されています。
 
そもそも、「織り機」だが、中国の最古となる古層文明(約6,000〜5,000年前の仰韶文化等)で出土する「織機」の認定基準は
・地面または枠への経糸固定(地面に杭を打つ、あるいは単純な木枠に経糸を張るだけ)。
・開口棒(これがあるだけで、「織機」として分類される)。
だけで、杼は不在です。
これと同等レベルのものは、日本では約8,000年前の東名遺跡にあります。住居跡や作業場跡から、一定の間隔で打ち込まれた「杭(または柱)の痕跡」が確認されています。これは住居の壁構造とも解釈されていますが、繊維生産の文脈で見れば、「経糸の片端を固定し、張力を与えるための固定具」として完全に機能します。
また、同時期の層から出土する、扁平で滑らかな木製品や骨製品は、現代の機織りで使われる「開口棒(綜絖棒)」や「打ち込みヘラ」と形態・摩耗痕が一致します。これらは「用途不明の棒」として分類されていますが、機能的には間違いなく開口操作を行うための機械部品です。

さらに言えば、中国の仰韶期の布は糸の太さが極めて均一で、撚りの回数も緻密に制御されています。しかし、4000年前頃からの布は、糸が太く、撚りが甘く、組織(経緯の交差)が不均一なものが目立ちます。仰韶期の布に見られた斜文の力学(高度な綾組織)が、4000年前以降には姿を消していき、単純な平織りや、さらには「組織を維持できていない不規則な絡み」が激増しています。
これは、中国古層文化を担った縄文系民族が、縄文海退で定住地では海洋利用ができなくなってきたので、定住地を捨て移動した時期とも一致します。
この後に入って来る新層の大陸内陸系民族が入って来ると急に低下しており、文化を継承できていない事が判ります。「織り布」の文化技術レベルが復活するのは、日本系文化を受容しているらしい前漢代萌芽期前後以降になっています。
つまり、この「布の文化」はどちらも日本から来ているという事です。

考古学が中国の遺物には「これは織機である」とラベルを貼り、縄文の遺物(類似の構成要素)には「これは道具ではない(あるいはアンギンだ)」とラベルを貼る。この「同じ構造をしているのに、出土地域が大陸か日本かによって定義を変える」という二重基準こそが、技術史の歪曲の正体です。

中原以外でそれ以前に何処で出てくるか、というと現在は中国に含まれますが、新疆ウイグル自治区の洋海墓地、今から約2,800〜2,500年前にM90号墓などのシャーマンの墓から、未炭化の大麻の葉や種実(実)がまとまった量(キログラム単位)で出土。近年(2016年)には同地域の加依墓地などで整株(植物体のそのままの形)の大麻も確認されています。また、約2,500年前の吉爾賛喀爾墓地だと、木製香炉から大麻の燃焼成分(THC)が検出されています。
ただ、これは食用や油脂目的ではなく、明確に精神変容を引き起こす「麻薬・精神異常・呪術(シャーマニズム)用」として利用されていたものですね。これは、日本から来たものではなく、野生化した大麻を見つけて自分たちで麻薬成分を使うようになった可能性が高いとは思います(というのも、麻布文化が入っていない、種子だけの利用なので)が、日本からの可能性も捨てきれません。大麻を信仰的なものとして、というのは神道の一部でありますので。

でも、華佗の記述でてくる『胡麻』こと『麻の実』は、麻酔などとは関係なく、長寿健康の食べ物として出てきます。つまり、湖南省の「大麻の実」を食べる文化は、西域から来ている言葉ではないんですね。
これは他の遺物、回転石臼や小麦・大豆・小豆といった食品の地位(加工方法の急激な変化)などと一緒で、食用としての「麻の実」の使い方・育成から、日本から来ているのだと思います。大陸になかった「大麻の実を主食として管理する文化」が、漢王朝の墓に「食の文明セット」として副葬された、という形ですね。
また、麻の繊維の織り方も、これ以降で急激に良くなります。


それ以降でも、麻の実を食用にしていた数奇なのは少ないようです。
これは、実は日本の「麻の実」としての差があるようで、日本の麻の実は麻薬になる様な種ではない(成分を持っていない)ようです。これも理由があるようですね。

『麻(大麻)』ですが、これも長年、中央アジアや大興安嶺に自生する野生アサが起源とされていましたが、近年の全ゲノム解析により違う事が判ってきています。中央アジアや世界各地に自生している「野生大麻」とされていたものは、すべて約12,000年前(縄文草創期)に東アジア(日本)で栽培化された「基底大麻(すべての栽培大麻の祖先)」が、人間の移動とともに西進し、その途中で野良化(エスケープ)して野生に先祖返りした二次的野生種(フェラル)であることが確定しています。
実際、日本では約12,000〜10,000年前の層から、『麻』の繊維で編まれた「縄」や「編みかご」、そして種実が出土しています。

さらに言えば、もっと前から日本では栽培は始めていたらしい事はその性質変化からも判ります。「野生種は大麻成分を持つが、縄文人が日本列島で手懐けて(栽培して)いた大麻には、現代のマリファナのような突出した麻薬成分(高濃度のTHC)は無い(選別はされた)」という事です。
日本の縄文人が求めたのは、ハイになるための麻薬ではなく、衣服を作り、頑丈な魚網を編み、土器に模様をつけるための「真っ直ぐで強靭な繊維」です。植物のゲノム解析によると、「繊維の質や茎の長さを重視して選別(栽培化)を進めると、遺伝子の相関関係によって、THC(麻薬成分)を合成する酵素の遺伝子が自然と『機能喪失(シャットダウン)』していく」という現象が起きることが証明されています。つまり、縄文人が住居の周りで管理し、繊維の摂りやすい個体を選別し続けた結果、日本列島の大麻は「麻薬成分が極めて低い、安全な繊維専用の植物(現代でいう産業用ヘンプの祖先)」ものが食用にも利用されていたわけです。


かといって、野生種はあるので麻薬成分がないわけではなく、口伝レベルですが、お産の後の激しい後陣痛の「痛み止め」として、大麻の種子(麻子仁)を煎じて飲む口伝・習俗が実在しますし、乳腺炎などによる激しい腫れと「痛み」を止めるため、生の麻の葉をすり潰して直接患部に貼る(局所鎮痛・消炎)民間療法が実在します。ひどい腫れ物(悪瘡)や毒虫に刺された際の「痛み止め」として、麻の葉や根の絞り汁を塗布する具体的な処方記録が昔には実在していますね。
戦後、GHQは日本で栽培もされているこの麻薬成分があるものは、悉く排除されました。時々「日本の大麻には麻薬成分がない」というのも見掛けますが、これは少し間違いで、「麻薬成分のある大麻は伐採されていき近年にはほとんどなくなった」のと「古代から管理栽培しており麻薬成分が低い種が作られており、主にそれを繊維や食用に利用していた」という話しです。
七味唐辛子に芥子の実が入っているのは、そういう古代からの管理栽培(農耕)のおかげなのです。


植物学的に、大麻が分泌するTHCなどの樹脂成分は、本来人間に幻覚を見せるためにあるのではなく、「強烈な紫外線」や「乾燥」「害虫」から自分自身の種子や花を守るための防御物質(日焼け止め・毒)です。日本では温暖多湿で水が豊か、適度な日照であるため、植物が自己防衛のために過剰な樹脂(THC)を分泌する必要が環境的になく「健全」に育ちます。
しかし日本から大陸へ渡り、人間の管理を離れて中央アジアや南アジアの過酷な乾燥地帯・高日照地帯へエスケープ(野生化)した個体は、生き残るために「眠っていたTHC合成酵素のスイッチを再びONにし、樹脂を大量分泌する野生の能力」を先祖返り・爆発させた、というのが『大麻麻薬の始まり』となります。
この歴史的・遺伝的プロセスは、日本の近代にいたるまでの「在来種大麻」の性質に、物証としてそのまま残っています。昭和時代まで日本各地(特に栃木県など)で国益として栽培されていた日本の在来大麻(「トチギシロ」などの元となった在来系統)は、諸外国の薬用大麻と比べて、もともと麻薬成分(THC)が劇的に低い(ほぼゼロに近い)ことで知られています。
・海外の薬用大麻
  THC濃度:10%〜20%以上(幻覚作用・麻薬)
・日本の伝統的在来種
  THC濃度:0.2%以下(吸っても何も起きない、ただの強靭な植物)
日本の伝統的な大麻をいくら集めて吸引しても、いわゆる「大麻中毒」には絶対になりません。なぜなら、12,000年前の縄文草創期から「麻薬成分を作らせない、健全な繊維用素材」の血統を何千年も実直に守り抜いてきた、世界で最も平和的に手懐けられた植物だからです。

ですが、古代中国において「麻」といえば、衣服の繊維であり、その種子(麻子・火麻仁)は五穀の一つとして常食されていました。西域(胡地)から、在来種よりも種子が大きく含油量の多い大麻の優良品種が伝わった際、それを「胡の国から来た優れた麻」は「巨勝」と呼ばれています。大麻の幻覚成分(THC)は葉や花穂の樹脂に含まれるもので、種子の内部には基本的に含まれていませんので食べれますが、これを救荒食物としていた記録もあります。

また、大麻の実(麻子)は、古代の中国(中原)において、馬の健康維持や肥育に欠かせない極めて重要な「高級飼料」として大々的に利用されています。陶弘景とほぼ同時代(6世紀前半)の農書である『斉民要術』巻第六「養牛馬驢騾篇」(牛・馬・ロバの飼育法)には、馬の健康を保ち、肉体を頑強にするための具体的な配合飼料のレシピが克明に記録されています。
「凡そ馬を肥やさんと欲せば、必ず麻子(大麻の実)を混ぜてこれに食らわすべし」
具体的な処理法として、大麻の実をそのまま与えるのではなく、「一度軽く煮るか、あるいは擦り潰して他の穀物(アワや麦)の糠(ぬか)と混ぜて与える」とあります。これを行うと、「馬の骨を強くし、内臓の邪気を去り、驚きやすい性質(臆病さ)を治し、極めて短期間で馬が肥え太り、毛並みに素晴らしい艶が出る」と絶賛されています。

つまり、AD500年頃、陶弘景という人物が『神農本草経』をアップデートした『本草経集注』を著したなかで「張騫が胡麻を持ち帰った」と書いたのは、
・「張騫が『苜蓿の種』を持ち帰った。馬が好んで食べた」
・「馬に与えているのは『大麻の実(胡麻)』だ」
・「つまり、『苜蓿の種』は『大麻の実(胡麻)』の事だ」
と思い込んで追記したのが「張騫が『胡麻』を持ち帰った」という誤解の始まり、というわけです。

実際、前漢の農書『氾勝之書』にある「区種法」の記述などに出てくる「麻」の栽培法は、のちの「胡麻」の記述と混同されています。


大麻も元は繊維と食用として書かれています。
『斉民要術』等の諸書に引かれる『氾勝之書』の「麻」の栽培法の記述があります。

「種麻法:擇不湧地。……」
麻を種える法:水の湧き出ない地を選ぶ。……

最も強調しているのが、収穫における「蕡(ふん=麻の実・種子)」の確保です。当時の大麻の実は、五穀(あるいは九穀)の一つに数えられる立派な主食(穀物)でした。

「薄布薄席鋪地 三人以木杖撃之 三撃一翻 務令子尽 其蕡即日漉下晒乾」
薄い布やむしろを地面に敷き、三人で木の杖でこれを叩く。三回叩いたら一回ひっくり返す。必ず種子を出し尽くさせよ。その蕡(ふん=大麻の種子)は、その日のうちに篩(ふるい)にかけ、天日干しにして乾燥させよ。

わざわざ「種子を出し尽くさせよ(務令子尽)」と指示し、収穫した種子の乾燥法まで細かく指示しています。

一方で、同じプロセスの中で「繊維」の採取についても同時に、極めて具体的に指示しています。上記の「叩いて種子を落とす」作業の直後のテキストには、以下のように続きます。

「(撃子畢)却皮、著水中。薄布・薄席,鋪地……」
種子を叩き落とし終えたら、皮(外皮の繊維部分)を剥ぎ取り、水の中に浸せ……

この「皮を水に浸す(著水中)」という工程は、大麻の靭皮繊維を柔らかくして、糸や布(麻布)に加工するための「浸水(レッティング)」と呼ばれる極めて重要な繊維加工技術そのものです。

これらの方法は、日本においてはそれより数千年も前の縄文人が日常的に行っていた加工技術と、構造的に完全に一致しています。
つまり、この「麻(大麻)」の利用は、日本から来ているものなのです。

これは、中国古層の縄文系民族が住んでいた時は麻布は中国でも利用されていますが、4,000~3,800年後にぷつりとそれが消えます。次に出てくるのは3,300年前ぐらいですが、これはごわごわして中国古層時代の物より質が低下しています。
麻布の質が「本当に改善・変革した」と言える確実な時期は、今から約2,600年前〜2,500年前(春秋時代中期から後期)で、日本との交易等が行われている事が確実な頃からです。

亜麻の実ではない

他にありえるのは「亜麻」の可能性もあります。これは西アジアからで、

  • 9,500〜8,500年前頃のアリカシュ遺跡(アリ・コシュ/イラン南西部)の初期の農耕地層から、野生種から栽培化(大粒化)へ移行するプロセスの炭化アマ種子が出土しています。

  • 9,000年前頃のテル・アブ・フレイラ遺跡(シリア北部のユーフラテス川流域)では、住居跡の土壌浮選により、穀物(コムギ、オオムギ)とセットで炭化アマ種子が出土。

  • 8,500〜8,000年前頃のチャタル・ヒュユク遺跡(トルコ・アナトリア半島)では、炭化したアマの種子だけでなく、世界最古級の「編まれた亜麻布(リネン)の断片」が物理的に出土しています。

西アジアで栽培化されたアマは、灌漑農業テクノロジーの伝播とともに、中央アジアのオアシス地帯へと東進します。

  • 7,000年前頃のジェイトゥン遺跡(トルクメニスタン、コペトダグ山脈北麓)で、中央アジア最古の農耕集落遺跡があります。土器の胎土(粘土のなかの混ぜ物)や灰坑から、コムギ・オオムギと共に炭化アマ種子の圧痕および実物が出土。

  • 6,000〜5,000年前頃のアナウ遺跡(トルクメニスタン)では、集落の生活層から、油糧・繊維用として管理されていたアマの種子が出土しています。

  • 4,300〜3,700年前頃のゴヌール・デペ遺跡(トルクメニスタン、バクトリア・マルギアナ複合:BMAC)では、大規模な城塞都市遺構のキッチンのゴミ捨て場(灰坑)から、大量の炭化アマ種子が出土。この段階で中央アジアのオアシス農耕の必須作物として完全に定着。

そこから中国に西端に入ります。
3,000年〜1,700年前頃(漢・三国時代)の新疆ウイグル自治区(西域)、天山山脈やタリム盆地の周辺(中原から見た「西域」)へアマが到達する年代です。

  • 3,000〜2,800年前頃の五堡墓地(新疆ハミ市)で、乾燥地帯特有のミイラとともに、亜麻の繊維で織られた衣服・紐、および未炭化の種実が物理的に出土しています。

  • 2,100〜1,900年前頃(前漢中期〜後漢初期)の懸泉置遺跡(甘粛省敦煌市・シルクロードの要衝)だと、官営の郵便・宿泊施設(駅置)の遺構でゴミ捨て場層から、漢の守備隊や使節が消費・管理していたアマの種実が出土。また、動向を記した木簡(文字データ)とも一致します。

  • 1,900〜1,600年前頃(漢・三国〜西晋時代)の尼雅遺跡(新疆ホータン地区・精絶国の跡)だと、宅地跡および高官の墓地から、非常に保存状態の良い亜麻布製品、および穀物袋に混入したアマの種実が出土。

しかし、中国中原だと1,400年以降(唐・宋代)でやっとです。
「植物考古学の顕微鏡定量分析」により、新石器時代(仰韶・龍山文化)の出土報告がすべてオオイヌノフグリ等の誤認として修正・撤回された結果、中原における「本物のアマ(亜麻)」の確実な出土年代は以下の時代まで下ります。

1,300〜1,000年前(唐代)の唐朝墩古城遺跡(新疆昌吉回族自治州・唐代の拠点都市)で、都市の生活雑排水遺構および調理遺構から、浮選法により数万粒規模の炭化アマ種子が、ゴマ(胡麻)の種子とともに物理的に検出しています。ただ、これは唐として最西の辺境です。
中原まで入って来るには、1,000年前遺構(宋代以降)で洛陽・長安の都市遺構および宋代の集落遺跡に見つかるようになります。強火の炒め物文化の爆発とともに、植物油の搾油原料として、中原の日常的な地層(ゴミ捨て場)からもアマ(当時の文献名:亜麻・胡麻の混同期)の種実が系統的に出土し始めています。

ちなみに、日本では亜麻の実が利用されるのは明治以降です。
中国から来ている、というならこれも来ているはずなのですが、こういう食文化的なものはかなり限られるようです。


また、「亜麻の実」も油を採られますが、その方法は「胡麻」とはまるで違います。

  • 破砕:亜麻の実を石臼(牛が引くローラー)で粉砕する。

  • 蒸煮:粉砕した種子を大釜で「蒸す」。これにより細胞壁が破壊され、油が分離しやすくなります。

  • 製餅:蒸した亜麻の粉を、藁(わら)を敷いた鉄のリング(鉄環)の中に詰め、足で踏み固めて「平たい丸餅状の固まり(油餅)」を何枚も作ります。

  • 楔打圧搾:巨大な大木(直径数十センチのクヌギやクスノキ)の芯をくり抜いた、水平な「木製のベッド(搾槽)」の中に、先ほどの油餅を縦に何枚も並べてセットします。その隙間に木製の「楔(くさび)」を差し込み、天井からロープで吊るした巨大な「鉄頭の木槌(ハンマー)」を人間がブランコのように全力でスイングさせ、楔をガンガンと横から打ち込みます。

破砕までは西域と一緒なのですが、それ以降は工業的な独自手段を使っています。つまり、西域式の方法をアップデートした手法という事です。

後世の解釈が間違っている可能性

すると、後漢末期の『釈名』(写本しか現存していない)に書かれている、「胡餅作之大漫沍也亦言以胡麻著上也」
ここにある『胡麻』は「ゴマ」でも「亜麻の実」でもない(時代が合わない)のです。

これは「麻の実」なのか、あるいはこれは、後世の解釈「胡麻を乗せた」自体が間違っている可能性があります(どちらかというとこの当時だと「巨勝」と書かれるだろうから)。


劉熙の『釈名』が持つ本来の言語ロジック(声訓:同じ音の響きで意味を説明するルール)に従って、この一文を一切の先入観なしに真っ直ぐに直訳すると、全く異なる「言葉の正体」が剥き出しになります。

後世の誤訳は、「著」という文字を「(胡麻をパンの表面に)くっつける、まぶす」という意味で解釈しています。しかし、『釈名』の執筆ルール(声訓)において、この文脈の「著」は「付着させる」という意味ではありません。
古代中国語における「著(*ṭak)」は、「(衣服を)身にまとう」「(性質や形を)表す、形づくる」「拠って立つ、定着する」という意味で使われます。

『釈名』は、「胡」という言葉の響きを説明するために、同じの音を持つ「沍」「胡」の言葉を数理的に並べています。

胡餅(ɡa-peŋ)
漫沍(mo-ɡa)
胡麻(ɡa-ma)または*胡(ɡa)

これを踏まえて、原文を直訳すると、

「胡餅、之を作るは大いに関漫(漫沍:のっぺりと平たくて汁気がない状態)なり。亦た、胡(外来の)麻(繊維)の性質を、その(餅の)上に体現して(形づくって)いることを言うなり」

この翻訳だと、これまでのすべての矛盾(地層からゴマが出ないのに、なぜ文献に胡麻と書かれているのか)が、こうではないかと考えられます。

中原の人間は、西域から入ってきた小麦粉の焼きパン(胡餅)を見たとき、「水気がなくてカサカサして平べったいな(漫沍)」
「このカサカサした乾燥感、そして実をすり潰して油っ気を感じるスナックの質感は、俺たちが知っている『麻(大麻の繊維やカサカサした実)の質感』にそっくりだ」
「つまりこれは、『西域(胡)から来た、麻のような質感・性質を、その上にまとっている(著)餅』だな!」
と認識した、という事です。

つまり、劉熙が言いたかったのは、「パンの上に植物のゴマの粒々をふりかけている」というトッピングの話(胡麻著上)ではなく、「西域(胡)の、麻(カサカサした植物OS)のような乾燥・油糧の性質を、その小麦粉生地の上にまとわせた(形づくった)食べ物である」という、食べ物全体の質感・属性(胡麻=外来の麻の性質)の説明ということですね。
書かれた『釈名』のルールとしては、こちらの「見た目」の方が可能性が高いです。

どちらにしろ、『歴史再現飯』の「胡餅」は「後世の解釈で作られた物」となりますね。


ふと気になって調べてみると、思ったより深くなりました。

特に『胡麻』。
「中国からやって来た」
「中国が西域から持って来た」
こう言われていて信じていたのですが、全く違ったどころか、日本からやってきており、その油の搾り方も日本式なのには驚きました。

中国人は区別がついてない

どうも、唐代あたりだと中国人は日本の「胡麻(中国には無い)」と「麻の実(中国でも既にある)」の区別がついていなかったのではないかと思います。

中国の本草学における致命的な弱点は、「粒が小さくて油が採れる種子」を、植物としての形態が全く違うにもかかわらず、名前の上で激しく混同する癖があったことです。
中国の古い文献(16世紀末(明代末期)から17世紀以降(清代)にかけての時代『弁証施治』や後世の『本草綱目』の考証など)でも、「胡麻とは大麻の種子のことか、それとも別の油麻(ゴマ)のことか」という大論争が何度も起きています。

中国の文献でこの混迷に最終的なメスが入ったのは、明代の李時珍(りじちん)が編纂した『本草綱目(ほんぞうこうもく)』(1596年刊行)の時代です。李時珍は、それまでの唐・宋代の古い本草学者たち(陶弘景や蘇恭など)の説を並べた上で、以下のように断じました。

「古く中国にあったのは大麻だけであり、その実は『蕡(ふん)』といった。漢の張騫が大宛国(西域)から『油麻(現在のゴマ)』の種を持ち帰ったため、中国の大麻と区別するためにこれを『胡麻』と名付けたのだ。したがって、古い本のいう胡麻とは今の油麻(ゴマ)のことである」

李時珍はここで「胡麻=ゴマ、大麻=火麻(漢麻)」と分類を無理やり統合しようとしました。しかし、清代の『弁証施治』などの医学書や考証学の時代になっても、「いや、やはり古典の記述(葉の形など)を読めば、昔の胡麻は大麻の実のはずだ。今のゴマとは違う」という議論が蒸し返され続けたという内容のものです。

つまり、中国人が「これは優れた油の採れる粒だ、巨勝(胡麻)だ」と言って本に書いていたものの正体は、日本人の目から見れば、衣服の原料として日本に大昔からあり、その種子(実)を日常的に利用していた「古麻(大麻の実、あるいは列島固有の粗大穀物としてのマの実)」のバリエーションに過ぎなかった、というわけです。

日本では使い分けられている

918年に『本草和名』では、「巨勝、一名胡麻、和名古麻」とあります。
「巨勝」こと別名「胡麻」は、日本の「古麻」だとあるのですね。

931~938年『倭名類聚抄』でも「胡麻」の説明があり、
「胡麻兼名苑云巨勝〈一名胡麻和名古末一名方莖俗云於保末一云五末〉」
とあります。これは、日本ではなく、中国の漢字(巨勝・胡麻)そのものの意味(植物の形態や分類)を解説している部分ですね。『兼名苑』は、中国の魏晋南北朝時代(あるいは唐代)に編纂された、言葉の異名(別名)を集めた辞書(類語辞典)の事です。
意味は「(中国の)”胡麻”は”巨勝”とも呼ばれます。この”胡麻”の和名は”古末(こま)”で、別名は方莖(ほうけい)、俗称に於保末(おほま=おおま:大麻)といい、または五末(こま)とも言います」とあります。「方莖」は「四角い茎」、「五末」とは「葉先が5つに分かれている」という事です。
これですが、
・中国の「胡麻こと巨勝」の和名が「古末」
・中国の「方莖」に類する和名の別名は「於保末」、他に「五末」とも呼ばれる
という事が書かれています。
判るように、これは「大麻(麻の実)」の事です。

それとは別に、和名『胡麻』があります。
十巻本(特に最古の写本とされる真福寺真福寺本など、古本系)だと、
 「油内膳式云胡麻油 和名胡麻乃安布良」
二十巻本(那波本など、広本系)ではどうかというと、
 「油内膳式云胡麻油 和名胡麻乃安布良」
同じです。
日本では「胡麻=ゴマの実」と「古末(古麻)=麻の実」がきちんと分けられています。
日本の史料側に答えがはっきりありましたね。
ちなみにこれらより古い木簡にも『胡麻』としっかり書かれています。

胡麻にしろ、麻の実にしろ、中国より日本の方が古くからありますからね。日本語には『胡麻の実』を指す「ごま」と『麻の実』を指す「こま」という別々の呼び方があったのでしょう。
中国側は元は『麻の実』を指す「巨勝」という語彙を持っていたけれど、その後に、華佗が日本式の発音を使い始めて、「胡麻」自体がない中国では日本の「こま」と「ごま」の差が分からず、当時の発音だと発音しやすい「ごま」を勘違いして使い始めた、というのが可能性が高そうです。

大麻自体、栽培していた日本の植物が大陸に渡り、野生化して麻薬成分を持ったものです。元の野生種にも麻薬成分があり、聖域ではシャーマニズムで使われています。
しかし『華佗が使い始めた”胡麻”』は、西域のような使い方ではなく、「飢えを耐え忍び、長生きをし、肌を潤して若返る(不老長寿の食養生)」と日本的な「食料として」で使われています。これは、この「大麻の実=胡麻」は日本から来ている可能性が高く、それが中国に渡ったさいに華佗は知り、日本式の名称(でも「ごま」と「こま」を間違えている)で使い始めた、とすると突然に使い始めた理由にも合うかとは思います。

中国でも漢の時代だと「ɡʰoma」や「ɣameai」ぐらいの発音です。
日本で古くからあるとすると「古麻」は呉音で「くま」や「くめ」と呼ばれていた可能性もあります。
日本の発音に「胡麻」と当て字したのは中国側でしょうね。

ただし、「油脂のあるすし系統」を「”ま”(あるいは”め”)」としていたのは日本からでしょうね。というのも、中国では「麻」は最初は「紐状」という趣旨で使われ始め、後世になってから「麻」が「痺れる」という使い方の意味も増えているからです。
この増えた部分は、日本の民間的な消炎・痛み止めの使い方や儀式的なトランスなどの利用が大麻とともにやって来たと考えると整合していきます。というのも、西域などでは「大麻植物と共に、同時にシャーマニズム的な使い方が同時に現れるパッケージ」だからですね。最初から「高濃度大麻の栽培」「用途に応じた加工」「香炉やボウルによる吸引」という、完成されたトランス・シャーマニズムがパッケージで突然に出現しています。試行錯誤をした形跡、植物が来てから麻薬利用までの段階的ステップがないのですね。
ですから、これらは日本から東に、そして使い方が過剰になっていったのだと思います。

『胡』の意味

また、明代の改変や近代・現代的な解釈でよく間違いがあるのが、『胡』の意味です。
これを「西域や中央アジアを指す」というのは、間違いです。

「胡」というのは、複数の意味を持ちます。

文字本来の原義(解剖学的部位)

説文解字』に「胡、牛頷垂𦡁なり(牛のあごの下の垂れ肉)」と明確に定義されています。『詩経』狼跋(ろうばつ)の「狼跋其胡(狼はそのあごの肉を踏み)」など、古代の文脈における解剖学的な原義です。

言語・訓詁上の仮借(疑問詞)

『詩経』や『楚辞』などで「何」「安」と同じく「なんぞ・いかに・なぜ」を意味する仮借(音を借りた表記)として頻出します(例:『詩経』「胡為乎泥中=なんとしてか泥中にあらんや」)。

特定の固有名詞(地域・国家・部族)

『左伝』に登場する滅亡した「胡国」(安徽省周辺の姫姓の国)や、『史記』の「東胡」、前漢期における「匈奴」そのものの指称(単于の手紙「南有大漢、北有強胡」など)と完全にと符合します。

「中原以外(華外・化外)」という境界概念

『塩鉄論』や『漢書』等において、「中夏(中原)」の対概念として、特定の国名や方位(東・西・南・北)を問わず「中原の礼節や農耕・統治構造の枠外全般」を指して用いられています。正体不明の外来食材(胡瓜、胡桃など)に冠される「胡」の正体もこの概念です。

中原へ移住・君臨した特定種族(血統・政権)

魏晋南北朝時代の史料(『晋書』『十六国春秋』等)において、中原に侵入・定着した「五胡(匈奴・鮮卑・羯・氐・羌)」を、中原の漢族と血統・風俗の面で明確に区別・特定するために使われた概念です。

特定の交易民・西域系エスニシティ

隋・唐代の正史や『唐律疏議』、唐詩において、シルクロード交易を担ったソグド人(昭武九姓)や波斯(ペルシャ)系渡来人を集中的に指し、「胡姫」「胡旋舞」「胡店」などの風俗語として定着した用法です。
「西域や中央アジアを指す」というのは、この使われ方です。

政治的・軍事的な対立相手(敵対国家への蔑称)

宋代(『宋史』、岳飛の『満江紅』等)における遼(契丹)・金(女真)、および明代(『明史』等)における北虜(モンゴル)など、中原王朝を圧迫・侵攻する北方の軍事勢力・対立国家に対する政治的な呼称・蔑称です。

分類・制度上の規定語

『元史』や『元典章』等において、身分制度上の「色目人」や、パスパ文字・ウイグル文字・ペルシャ文字などの非漢字圏文字を「胡字」、その言語を「胡語」と規定した行政法上のコードとしての用法です。


食べ物などで「胡〇」とあるのは、「西域から来た食べ物」という意味ではなく、「外来の食べ物」という意味で使われています。

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