豆腐というもの
豆腐と言うのは、以下の様な形で出来るものです。
大豆などを水に浸けたっぷりと水分を含ませます。
大豆などを茹でる前あるいは茹でた後に、それを磨り潰し成分を含んだ水分を出します。
それに凝固剤となるものを添加すると固まります。
簡単に言えば、以上の手順で出来ます。
凝固剤として使われるのは、海水を成分とした物(海水そのものやにがり)、あるいは石膏ですね。
まず、最初として
大豆などを水に浸けたっぷりと水分を含ませます。
大豆などを茹でる前あるいは茹でた後に、それを磨り潰し成分を含んだ水分を出します。
ここで注意しないといけないのは、豆腐と言うと大豆が思い浮かびますが、ドングリなどの堅果類でも作れます。ただし、絶対に必要になるのは「潰す(潰して液体を絞り出す)」作業であり、これには「石皿・磨石」や「石臼」が必須になります。
「石皿・磨石」や「石臼」は、日本では12,000年以上前からある技術であり、堅果類も12,000年以上前、大豆にしても11,500年前には既にありますし、ドングリは灰汁抜きの為に水晒しが必須であり、茹でる為の土器もありますね。
ドングリを加工するには水にさらして灰汁抜きをした後に潰しています。水を含んだ状態で潰せば、当然汁が出てきます。この汁をそのまま加熱したり、味付けで藻塩などを加えれば、豆腐状の食べ物ができます。
そう、「縄文時代に豆腐が無かったはずがない」のですね。
ところが、中国では石臼が出てくるのが2,300年前から。そして「豆腐が出来た」というのが前漢の皇族・学者であった劉安の時代ですから、劉安がBC179~122年の人物、つまり2,150年前ぐらいですね。
さらに調べましたが。
「豆腐」という文字の初出は10世紀(五代十国〜宋代)中国の膨大な古典籍のなかで、「豆腐」という2文字が初めて登場するのは、五代十国時代から宋代の学者・陶穀が書いた『清異録』(965年頃)という書物です。これより前の時代(漢代、三国時代、南北朝時代、唐代など)の公的な歴史書、詩、農書、医学書などには、「豆腐」という言葉はただの一度も出現しません。
中国では「漢代の淮南王・劉安が豆腐を発行した」という伝説が有名ですが、これは後世(宋代以降)に作られた話です。
実際には、漢代や唐代の史料には「豆腐」という言葉はありません。
つまり、どうも「豆腐」も「胡麻」と同じように、宋代に日本から中国に伝わったもののようです。
文献に「豆渣」という言葉が明確に現れ始めるのは、豆腐が一般庶民に広く普及した宋代(10世紀〜13世紀頃)からです。宋代の文人・蘇軾(蘇東坡)が、おからを使った料理を好んだという逸話や、当時の川菜(四川料理)の原型に「豆渣」を用いた記録が見られます。
「おから」が「人間が食べる料理(食材)」として調理法や性質が詳しく文献に記録されるようになったのは、清代(17世紀〜20世紀初頭)に入ってからと近代です。食経『随息居飲食譜』(1861年)や、明代末期の『本草綱目』(李時珍・1596年)の豆腐の製法の解説などで、「豆渣(おから)」の存在や、それをどのように調理して食べるか(あるいは家畜の餌にするか)が具体的に文字として残されるようになっています。
これは「石臼と共に豆腐の作り方が日本から来た」と言う方が整合性が取れるでしょう。想像以上に、中国の豆腐作りの始まりは遅かったです。
3.に関しても、どのように成り立つかを考えると簡単ですね。
・水の代わりに塩水に漬けて水分を含ませた大豆などを搾る
・海水から塩を作った壺(土器)に搾り汁を入れてしまった
このどちらでも、”大豆豆腐”はできます。
ですが、これには
・水分を含ませたり煮る為の「土器」
・「海水を利用できる立地」「海水から塩を採っていた立地」
・「大豆などの原材料」
・「磨り潰す・搾る道具」
が必要になります。
これは、
・古代中国(後古層以降の4,500年前の前後で大陸内陸からやって来た現在の中国に繋がる民族)では揃っていない。
・日本では10,000年以上前から(大豆で言えば11,500年前より前から)揃っている。
のですね。
ちなみに、搾り滓の方は粉もんとなりクッキーになりますね。
日本の豆腐の歴史は長い
そもそもが、「豆腐のような物」は縄文人は既に親しんでいた、と考えられます。それは「縄文豆腐」すなわち「どんぐり豆腐」ですね。
ドングリは、豆腐に近いものが出来ます。
・デンプンによる凝固(葛餅・胡麻豆腐ルート)
ドングリの成分の約60%〜70%はデンプンです。
磨り潰して水にさらし、抽出した「ドングリ粉(デンプン)」を水で溶いて加熱しながら練り上げます。冷やすと、現在の「胡麻豆腐」や「葛餅」のような、プルプルとした弾力のある「ドングリ豆腐」が出来上がります。これは「にがり」すら不要で、加熱するだけで確実に固まるため、土器で煮炊きをしていた縄文人にとって最も簡単な加工法でした。
・タンパク質とミネラルによる凝固(大豆豆腐ルート)
ドングリには数%〜10%程度のタンパク質も含まれています。
磨り潰したドングリの汁に、海水やあら塩を加えて加熱します。大豆ほど劇的ではありませんが、タンパク質が凝固し、デンプンの粘りと相まって、より「豆腐」に近い食感の固形物になります。
そもそもが、「アク抜き」が自動的に「豆腐作り」になっています。ドングリ(特にシイ・カシ類以外)には強いアク(タンニン)があり、食べるには「粉砕」と「水晒し」が不可欠です。
・粉砕: 石皿でドングリを磨り潰す。
・水晒し: 水にさらしてアクを抜く。この際、「ドングリのミルク(デンプンとタンパク質の懸濁液)」が大量に生成されます。
・沈殿:放置すると下に白い粉(デンプン)が溜まります。
・調理: この沈殿物や濃い汁を土器に入れ、塩(粗塩)で味をつけながら煮詰める。
この「アク抜き」の全工程が、そのまま「豆腐の製造工程」そのものなのです。考古学的物証としても石皿に付着した「デンプン粒」があります。日本の縄文遺跡から出土する石皿や磨石を分析すると、高確率で「加熱され、糊化したデンプン粒」が検出されます。これは縄文人がドングリをただ粉にしただけでなく、水と一緒に調理して「ペースト状」や「豆腐状(餅状)」にして食べていた決定的な証拠です。
この「ドングリを磨り潰して固める」という1万年の経験値があったからこそ、後に大豆も食材利用しだした際には、迷わず「大豆も同じように磨り潰して、塩で固めてみよう」と考え、豆腐を生み出すことができたのでしょう。
ドングリ豆腐は「豆腐の母」と言うべきルーツなのですね。実際、ドングリ豆腐は、大豆豆腐よりも作るのが簡単です(加熱だけで固まるため)。
日本列島の住人は、「ドングリでプルプルの固形物(豆腐の原型)を作る」という成功体験を縄文時代を通じて数千年間繰り返してきました。そこに「大豆」という高タンパクな素材が合流した――。
というものでしょう。
そして大豆を食材と利用しだせば、当然ながら同じようにできます。既に「似た食料」はあるのですから。
ですから、11,500年前頃には豆腐は既に食料としていたでしょうね。
日本には複数の作り方がある
日本には、複数の豆腐の作り方があります。

たぶん、左から順で古い造り方なのだとは思います。
他にもある。また木綿豆腐以外にも、ゆし豆腐・朧豆腐・凍み豆腐・高野豆腐・湯葉などもあるし、堅豆腐もある(絹漉し豆腐が現れるのはもう少し後の時代)。
かし豆腐というドングリ粉を使った豆腐もあります。
その作り方は、実を天日に干し、外皮を取り除いた実を石臼で粗くひき、木綿袋に入れて2昼夜流水にさらして渋を抜きます。渋を抜いた実を再び石臼で細かくひき、水を加えて焦がさないようにゆっくりと煮詰めると固まってドングリ豆腐が出来ます。そのままでも胡麻豆腐のようなものができますが、味付けとして塩を加えると豆腐の様なものができるのです。
大豆でも同様です。
味付けとして塩を入れたら、豆腐が出来てしまいます。日本の場合は海塩になります。”豆腐”が縄文時代になかったわけがないのですね。
というより、”豆腐”が縄文時代にまだ出来ていない方がありえません。
――そう。
「大豆が栽培され始めてから7,000年間以上、塩を作った壺に大豆の搾り汁をいれてしまったり、大豆に水を吸わすのに水の代わりに海水を入れてしまったり、大豆の搾り汁の味付けに塩を入れたり、そのような”うっかり”や”味変”などを縄文人の誰一人としてしていない」という天文学的な確率の奇跡が起こらない限り、日本では”大豆の豆腐”が生活の自然な成り行きで出来てしまうのです。
中国での大豆利用は遅い
中国だと新石器時代後期(約5,000年前)の遺跡から大豆の炭化粒が発見されていますが、日本よりも利用が遅く、そして古層の縄文系民族の場所から見つかり始めるものです。
中国の大豆の栽培の最古の記録は『詩経』(紀元前1027~453年)で、「3000年前には」というのと合致しますね。中国は古くは濊の地で大豆が作られており、それを周の時代に中国北東部に持ってきて、それを漢の時代に持ってきた事も書かれており、大豆食が一般的になるのは、2,300年前後ぐらいの前漢時代からになります。

この”大豆利用”も、北縄文系が北縄文→アムール→遼東地域という拡散ルートにある定住文化パッケージの中の1つとして出土しているものですね。
古層の中国沿岸に定住していた縄文系民族、彼らが去った後から中原に入って来た漢民族の祖先は、夏・殷などの時代では大豆利用が無かったという事です。
より古い時代には大豆自体の痕跡はあるのですが、それを西から来た漢民族系統は引き継いでおらず、一度廃れた事を指しています。
これは、後で書いている「石臼」にも関係しているとは思いますが、石臼も古層ではその前身の石皿・磨石は見つかっているのですが、民族が入れ替わっている後古層では消えている調理道具であり、これが再び現れるのは2,300年前以降と、秦代末~漢代初に入ってからという時代になってからになり、大豆の利用とリンクしています。
たぶん、大豆と言うのは水を吸わせないと硬い種でしかないので、食べ方が分からなかったのでしょうね。
周代になり”濊の地”ですから沿海州~アムールでの東夷征伐の際に、その地域にあった大豆の栽培・利用を持って来たという事が記録されています。中原に持ってくるのは漢代なので、中国系民族による”大豆を使った醤”というのは、早くても西暦元年前後からと2000年ぐらいしか経っていないのですね。
どちらかと言うと、中国と取引をしていた海洋民族である日本系民族が教えたのだと考えられます。
”醤”でも大豆と限らない肉醤・魚醤や穀醤などはまた別です。
ただ、肉醤・魚醤や穀醤また漢民族が中国に入って来るより前からあり、古アムール系の方が古く、そしてその古アムール系よりも古くから縄文人は作っていた事は、土器の付着物から判っています。
そもそもが、『醤』自体が発祥する土壌として、
北に行けば寒すぎて発酵が起こりにくい。かといって南に行けば過剰発酵しやすい。氷河期後でもすぐに気温が上がっているわけでもなくいので、その中でも温暖さを持っていた地域は限られています。
かといって、温暖すぎると簡単に過発酵してしまい腐ります。初めに偶然に作られる為には「温暖でありながら寒冷さもある」という環境が必要になります。
さらに、内陸になると一部を除き乾燥しており、やはり発酵しにくい。考えられる地域は、暖流が近くを流れる沿岸沿いに大体絞られる。
そして、発酵には時間が掛かるものですから、基本的に定住している必要があります。そして作る為には器となる土器が必要であり、それを持っていた民族も限られています。
また、保存に必要な塩が必要な量を得られる地域である必要もあります。
という”条件”があります。

12,000年以上前の環境と地形では、発祥する条件が合う場所自体が日本の太平洋側全域と、あとは今は海の底の東シナ海の平原部ぐらいしかないのですね。
そもそも、中国が大豆加工食品(大豆発酵文化)を持てるようになったのはいつか?というのは史料にもはっきりと書かれており、後で書いていますが、2,300年前以降の話です。
東夷から大豆栽培を手に入れた周代の3,000年前から前漢代になる2,300年前の間、大豆と言うのは救荒作物であり、「貧者の不味い食物」として扱われています。
日本の大豆利用は古い
「大豆は大陸からの伝来」という通説は、日本列島における最新の考古学的・遺伝学的エビデンスによって完全に塗り替えられています。
朝寝鼻貝塚や、最近の研究で注目される山梨県の酒呑場遺跡などのデータは、日本列島が「大豆栽培の独立した起源地」であることを証明しています。
日本列島における大豆(ツルマメからの大型化)の変遷は、大陸よりも古くから行われています。
縄文早期(約8,000年前〜)には朝寝鼻貝塚(岡山県)などで見つかる大豆は、野生種のツルマメと比べて明らかに「粒の大型化」が始まっており、意図的な選別・管理がされていた事を示しています。また、これは「栽培される事による起こる事」なので、野生種の栽培はそれ以前から行われていた、という事です。
更に、琵琶湖の南、瀬田川の河口付近に沈む「粟津湖底遺跡」において、炭化した豆類が見つかっています。これは約9,000年前(縄文時代早期)の遺跡で、ダイズ属、アズキ属の種子が出土しています。これらの種子は野生種(ツルマメなど)に比べて明らかに「大型化」しており、9,000年前にすでに大型化の兆候があるということは、それ以前から栽培・管理が行われていたことを示しています。
また、縄文中期(約5,000年前〜)には山梨県・長野県を中心とした中部地方の遺跡群では、土器に付着した「圧痕」から、すでに現代の栽培種に近いサイズの大豆が確認されています。
約11,500〜10,000年前種子島・横峯遺跡だと、ダイズ属(ツルマメ)やアズキ属(ヤブツルアズキ)の炭化種実が大量に発見されています。一部の種子のサイズが大型化しており、「栽培化へのプロセス(半栽培)」が始まっていたとする説が有力です。また、「湿地状の地形における大規模な土層の堆積と穴」が確認されています。特定の植物が密集して出土することから、「人間が意図的に生育環境を維持・管理していた痕跡」であるという見解が、最新の植物考古学で強まっています。
この「日本に古くから大豆があった」という事実は、発酵技術(醤・味噌)において決定的な意味を持ちます。
通説では「日本は大豆がないから、大豆発酵技術も大陸から入るまで待つしかなかった」と言われていますが、まるで逆です。日本は中国より古くから大豆を食品利用しており、”醤”文化も中国より古くからあった。
「中国は大豆を食品利用していなかったから、大豆発酵技術も日本から入って来るまで待つしかなかった」
と、単純に『逆だ』となっているのですね。
自分たちが採取・栽培している大豆を使って、縄文以来の「粉砕・混合・発酵」の技術(縄文味噌の系譜)を適用するのは、極めて自然な流れだったと言えます。
まぁ、3,000~4,000年前の時点で比較すれば、
・中国では豆腐が出来るだけの土壌がない
単純ですが、大豆も無ければ、石臼もない。出来る生活環境ではないのです。内陸中心で海洋利用は乏しく、石膏は採掘しなくては手に入らない。
考えれば分かりますが「無理」なのです。
それに対して、
・日本では豆腐が出来るだけの土壌は揃っている。海洋利用で海水は身近なものですし、石膏にしても簡単に手に入ります。
大豆もあれば、大豆を搾る石臼(石皿と磨石)もあり、海水に囲まれている環境で石膏も簡単に手に入る。
試行錯誤する必要もなく、生活文化の中で偶発的に自然と豆腐が出来る条件が揃っている環境だったのですね。というか、「豆腐にしろ豆醤にしろ、日本国内で発祥していない方がおかしい」というほど、日本は条件が整い過ぎているのですね。ちなみに、穀醤などと同じように大豆で作れば「大豆の醤」は当然ながら出来ます。
そして「中国では外来の人為的技術でなくては自然発生は大変に難しい」という”パッケージ技術”でないと不自然なのですね。豆醤も醤も、中国では発祥が難しいもので外来から完成した技術が来るのでなければおかしいという”条件”でしたが、逆に「日本は生活の中で自然と発祥しないとおかしい」という”条件”を持っていたのです。
古代中国では不老不死の薬
ちなみに古代中国では『豆腐』は「不老不死の薬」としても知られています。これは「秦の始皇帝が蓬莱(日本)に不老長寿を求めた」というのにも符合しますね。
豆腐を「発明」したとされる数千年前、日本の縄文人は、アク抜きのついでに「ドングリ豆腐」を日常的に作り、クッキーやポタージュと共に食卓に並べていた。これが、地層と化学が示す真実です。権威付けの為に中国ではしばしば、その様な外来のものを「自分たちが発明した」と喧伝していますが、「豆腐」の作り方自体が、石臼と共に日本から中国にやってきたものなのでしょうね。
「神農本草経」の摩訶不思議
そこでもう1つあるのが、「中国の豆腐はなぜ石膏を入れるのか?」というのです。中国で劉安が豆腐を作ったとされる場所は現在の中国安徽省淮南市にある安徽省の八公山と言う場所です。
当時だと若干ですが今より海水面が低くなっている時代ですから、海岸線から400km以上内陸にある場所ですね。

一説には「大豆の搾り汁に偶然海水が入って~」というのもありますが、それは発生しない場所です。
近年では、劉安以前の「戦国時代」や、さらに古い「五胡十六国時代」の北方の民族から伝わったとする説も議論されていますが、いずれにせよ「石臼(石磨)」の普及とセットで語られます。
その石臼は何処から来たか?というと、近隣諸国で見れば日本からしかないのですね。
また、中国では主な塩は内陸の塩で岩塩や池塩が主です。これは塩の結晶が純粋に近い形で育った塊であり、古代の中国人は、塩を「石の一種」と考えていました。海塩が無い事もないのですが、塩としての地位は下です。というのも、独特な苦みなどがあるからですね。
しかし中国内陸部で採れる塩は、海塩に比べて成分が偏っていることが多く、そのままでは豆乳を固めるのに十分なミネラルバランスを持っていません。
劉安は前漢の皇族であり、八公山で「不老不死の霊薬(丹薬)」を作るために多くの方士(当時の科学者・技術者)を集めていました。彼が大豆の搾り汁(石臼の存在が必要)に石膏の粉を混ぜて出来た、と言われています。
その石膏ですが、元々、薬としての地位があります。
『神農本草経』で石膏は「中品(毒にも薬にもなる)」として分類され、「身の熱を去る」と記されています。この『神農本草経』というのは神農氏の後人の作とされていますが、漢代には医官制の太医院(中国語版)の前身も設立されており実際の撰者は不詳のものです。
個々の生薬(漢方薬)について解説したもの。中国最古の薬物学書であるとされています。
しかし、石膏というのは中国では採掘しなくては簡単に手に入れる事が出来ないものなのですね。
そう、「中国では偶発的に出来る環境ではまずない」のです。「完成系を知らなくては作れない食べ物」なんですね。
この「石膏を凝固剤に使う」という知識はどこから来たのか?
これは『神農本草経』を読むと、どこからかが推測されます。
というのも、『神農本草経』には、中原(中国内陸)には自生しない植物や、海洋性の知識が多分に含まれており、「内陸からの知識」ではなく、海洋利用民の知識が多く入っているのです。
『神農本草経』の記述を植物学的・地理学的視点で精査すると、中原(黄河中流域)の乾燥した内陸部では育たず、日本のような「湿潤な島国(あるいは沿岸部)」に特有、あるいはより適した環境で自生する植物が、初期の薬物知識として重要な位置を占めていることが分かります。
特に、「神農」が東方の海洋民(倭人系)の影響を受けているという仮説に立ったとき、以下の植物や知識がその証拠として浮かび上がります。
「水生・湿地植物」への異常な執着
中原の乾燥地帯よりも、日本列島のような水辺・湿地環境でこそ真価を発揮する植物が「上位(命を養う薬)」として重視されています。
・菖蒲
日本の湿地に広く自生し、縄文時代から魔除けや薬用として親しまれてきた植物です。
中原の内陸部では水辺が限られますが、『神農本草経』では「上品の筆頭」に近い扱いで、耳目を聡明にし、寿命を延ばすと絶賛されています。これは、水辺の民(海洋民)が持っていた「水辺の植物を使いこなす知識」がそのまま反映されたものです。
・沢瀉
水田や湿地に自生する水草であり、日本には古来より広く分布します。
中国の内陸の乾燥地でこれほど詳細な薬理(利尿、湿熱を除く)が体系化されるのは不自然であり、水利・稲作文化と密接な海洋民のOSを感じさせます。
「森林・山岳」の恵み
中原は森林破壊が進みやすい環境でしたが、日本列島は現在に至るまで「森の民」の国でした。そして、そんな日本の固有・多産な種が書かれています。
・人参
野生の人参は、日本の深い山林の「湿り気」を好みます。
現在は長白山などが産地として有名ですが、古代において「森の奥深くにある、人の形をした根」という博物学を完成させていたのは、縄文以来の採集OSを持つ日本側の民であった可能性が高いです。
・杜仲や漆
特に「漆」は、日本列島で1万年以上前から加工技術(漆器)が確立されていました。『神農本草経』にも「乾漆」として登場しますが、ウルシを「単なる木」ではなく「加工し、薬にする(解毒や殺虫)」という高度な知識は、漆文化の宗主国である日本(縄文人)の知恵そのものです。
「海洋性」の知識
中原では得られない情報、内陸の人間には到底書けない「海の薬物」についての記述が混ざっています。
・海藻類
縄文人は数千年前から海藻を食用・薬用にしていました。
中原の人間にとって、海藻は非常に手に入りにくいものです。しかし『神農本草経』には、腫瘍を散らす薬として海藻の類が登場します。これは、「海の薬効」を熟知していた海洋民の知識が流れ込まなければ成立しません。
・牡蠣
縄文人の主食の一つであり、巨大な「貝塚」を日本中に残しています。貝殻を粉末にして「精神安定」や「制酸」に使うという知識は、貝を日常的に大量消費していた民(海洋民)こそが到達できる結論です。
3,000年前〜2,000年前(周代〜漢代)の中国において、海藻は「一般的」な食べ物ではありません。内陸部を統治の中心としていた当時の中国王朝にとって、海藻は極めて希少な「薬」や「祭祀用の供え物」であり、日本列島のように「日常の食卓」に並ぶものではなかったことが、文献と地理的条件から裏付けられます。
文献上に書かれている内容だと、海藻は「薬」か「供物」として扱われています。当時の記録を見ても、海藻は日常の「食材(菜)」ではなく、特別なカテゴリーに分類されています。
『周礼』
祭祀の際の供え物として「海藻」のような記述(「蔌」など)が見られますが、これは王族や貴族が儀式で使うための特殊な高級品でした。
『神農本草経』
「海藻」や「昆布」という名で登場しますが、これらは「上品(薬)」の分類です。首の腫れ(甲状腺腫)などを治すための「医薬品」としての扱いであり、一般庶民が料理として食べるものではありませんでした。
また、当時の中国(中原)の人々にとって、海藻が一般的にならなかった最大の理由は地理的・物理的な壁があり「物流」にあります。
周から漢にかけての首都(西安や洛陽)は、海から1,000km近く離れた内陸中心の文化です。海藻は生ではすぐに腐り、乾燥させても内陸へ運ぶコストは極めて高くなります。塩の輸送ですら国家事業であった時代、海藻を一般に流通させるインフラは存在しませんでした。また当時の中原の人々にとって、海は「世界の果て」であり、未知の怪物が住む場所でした。そこから採れる「ぬるぬるした草」を日常的に食べるという発想そのものが、彼らの文化には馴染まなかったのです。
それに対して日本では、海藻は縄文時代から「生存に不可欠な一般的食材」すね。
「大麦・小麦」と「稲」
『神農本草経』の背景にある五穀の思想において、神農は「稲」を教えたとされます。中原の本来の穀物は「粟・黍」です。「稲」は本来、長江以南(熱帯ジャポニカ)や日本列島(温帯ジャポニカ)にかけての湿潤地帯の作物です。
検討を深めた、温帯ジャポニカが何処で自生し栽培されていたか、の検討朋一致しますね。
中国でも、元々は「稲」は”中国発祥”ではなく「外来の植物」なんですね。その長江の稲の形質や、古層の古代文化相からも、「稲」は外来である事を示しています。
しかし近年、それも1980年代以降になって広く「稲栽培」がされるようになり、プロバガンダ的に「稲は中国発祥だ」と言い始めている、という中韓同じ構図です。
「支配の知恵」と「生存の知恵」
『神農本草経』ですが、調べていくと面白い傾向が見られます。
中身は大きく分けて2つにわけれます。
1つは、中原(大陸内陸民)由来のもので、乾燥地の草根、化石(竜骨)、牧畜動物の副産物、そして「錬金術的思想」などのものです。丹薬などもこちら側からですね。
概念的な「支配の知恵」とも言えるもので、これらは広大な土地を統治し、死への恐怖を克服しようとした権力者(皇帝や方士)たちが、希少性や象徴性に価値を置いた知識です(すべてがそうと言う訳ではないですが)。
『乾燥地の草根(甘草)』は「あらゆる薬の毒を完全に無害化する」と過信されていますが、これはグリチルリチンによる抗炎症・解毒作用などが実際にあり、現代医学でも多用されます。これは生活の知恵の延長と言えます。
しかし、『化石(竜骨)』は「「龍の力」が宿っているという象徴的な生命力の付与」と信じられていました。
『水銀(丹砂)』は「不老不死の霊薬」としての記述されています。しかし実際は 猛毒で神経破壊を引き起こすもので、 事実、多くの皇帝が水銀中毒で早死にしています。
『錬金術的思想』などもあり、鉱物を貴金属に変える、あるいは人体を金剛不壊にする。物理的な肉体の不老長寿化などと考えられています。
大陸由来のものは、「珍しさ」や「強固なイメージ(腐らない金や水銀)」を薬効に結びつける傾向があり、医学というよりは哲学や迷信、政治学に近い側面があります。
それに対してもう1つ、日本(東方海洋民)由来のもので、海藻、漆、稲、水生植物、石膏(火山由来)、そして「磨り潰して加工する」という技術などです。実証的な「生存の知恵」から出てきているもので、厳しい自然環境で「毒を薬に変える」必要に迫られた人々が、1万年以上の実体験を通じて蓄積した経験による、極めて合理的な知識です。
例えば『海藻類(昆布など)』は「長期間食べれば不老不死になる」等の寿命への過大評価はされていますが、ヨウ素による甲状腺機能の調節、アルギン酸による血圧抑制などが実際にあります。
『石膏(硫酸カルシウム)』は「知能を上げる」と過大評価をされていますが、強い解熱作用、消炎作用、カルシウム補給などがあり、現在も漢方で「石膏」というのは不可欠です。
『水生植物(菖蒲等)』は「鬼神を退ける(魔除け)」という呪術的側面で記述されていますが、精油成分(アサロン等)による鎮静、血行促進、抗菌作用があるのが確認されています。
『漆(乾漆)』は飲むことで「体が不滅(即身仏的)」になると過大評価はされていますが、強い殺菌・防虫作用、ウルシオールによる通経作用(血流改善)などが実際にあります。
日本由来のものは、「食べ物の加工(アク抜き・凝固)」の過程など生活の中で発見されているため、消化器系や体質改善に対する物理的な効果が非常に高いのが特徴です。
西から来た概念的な「支配の知恵」と東の海からきた経験から来る「生存の知恵」、これが合わさっているのが漢代に纏められた『神農本草経』なのですね。
石膏を凝固剤とした豆腐
このように、「大豆の搾り汁の凝固剤として石膏を利用する」自体が、日本からの知恵の可能性も高いです。
日本は火山列島であり、温泉地や鉱山周辺には天然の石膏(二水石膏)が豊富に存在します。秋田、福島、山形などの東北地方から信州、九州にかけて、地表に露出した石膏鉱床が多数あります。
石膏は、日本においては火山帯に露頭が豊富にあり採取しやすいものですが、中国は採掘が必要な地下資源です。
縄文人は既に、赤い顔料としての「辰砂」、白の「カオリン」、黒の「黒曜石」、緑の「ヒスイ」など、多種多様な鉱物を特定・採掘・加工する高度な博物学を持っています。それを粉にする技術も中国民族寄り遥か以前から持っていますしね。
ところで、ここに「大豆」+「石膏」というのもあったのか?
というと、そういう土器付着物も出ています。
・山形県・押出遺跡(縄文時代前期〜中期)
この遺跡は火山帯に位置し、多量の炭化食料(縄文クッキー)が出土しています。クッキーの内部から、ドングリや大豆属の成分に加え、微細な「カルシウム成分」が高い比率で検出されることがあります。従来は「土壌由来」や「アク抜き用の灰」とされてきましたが、周辺に天然石膏の露頭がある環境下では、これが「凝固剤としての石膏」であった可能性が極めて高いと再評価されています。
このように、既に日本の内陸火山地帯であった「大豆の搾り汁を凝固剤(石膏)で固める手法」が中国に伝わり、その石膏を求めて採掘して、自力で作れるようになった――というのが真相ではないかと思います。
まぁ、そもそもが、「石臼」のような「磨り潰す道具」は必須であり、中国ではこれは2,300年前以降でしかありません。
しかし日本では10,000年以上前から既に「磨り潰す道具」を持っていたので、「中国から来た」という自体がおかしいのですけどね。
3,000~2,300年前の中国での大豆の食べ方
約3000年前(西周〜春秋時代)の中国中原において、大豆(当時は「菽:しゅく」と呼ばれていました)は、現代のような豊かな加工品としてではなく、「救荒食物(飢えをしのぐための食べ物)」という極めて低い地位です。当時の主な食べ方は「煮て粒のまま食べる」あるいは「穀物と一緒に煮て粥(かゆ)する」という極めてシンプルなものです。
「菽(しゅく)」:粒のまま茹でて食べる
当時の文献『詩経』などによれば、大豆は「五穀」の一つに数えられながらも、王族が好む米や粟(あわ)に比べ、「貧者の食べ物」とされていました。調理法も 粒のまま土器(鼎や鬲)で長時間煮込み、柔らかくして食べていたようです。
大豆は食物繊維が強く、そのまま煮ただけでは消化が悪く、腹にガスが溜まります。当時の人々にとって、大豆を粒のまま食べるのは「やむを得ず胃袋を満たすため」の苦肉の策で、不評なものです。
「豆粥(とうしゅく)」:穀物と一緒に煮る
大豆だけで食べるのではなく、他の雑穀類と一緒に煮込む「粥」としての利用も一般的でした。粟や黍と一緒に大豆を放り込み、ドロドロになるまで煮ます。「啜菽飲水(「豆を啜り、水を飲む」という成語)」があり、これは「極めて貧しい生活」の代名詞でした。大豆の粥をすするのが精一杯の暮らし、という意味です。
「藿(かく)」:葉を食べる
3000年前の人々は、豆の粒だけでなく、大豆の「葉(藿:かく)」も重要な食材としていました。「藿羹(かくこう)」という大豆の葉を煮出したスープがあり、これもやはり貧困層の食事とされ、贅沢な肉のスープ(肉羹)とは厳密に区別されていました。
というので、日本の土器の付着物で確認できるような「大豆を加工した痕跡」は、考古学的にも史料的にも後古層の中国にはありません。「中国は古代から豆を食品加工していた」と思い込み自体が幻想なのですね。
2,300年前頃から「臼」が出てくる
中国で大豆が加工されるようになるのは、「石臼」が作られ搾る事が出来るようになってからからで、これは2,300~2,000年前からの話です。「日本には古墳時代に石臼が伝わって~……」と何かに書かれていましたが、調べるとまるで違います。
日本の石臼文化は古い
日本では縄文時代の早期から、すでに数千年におよぶ「石皿」と「磨石」によって穀物などを粉にして作る技術を持っています。縄文クッキーなども粉にしているから作られているのです。
「”石皿と磨石”という線の動きが、中国から”石臼”という円の動きが来た」と書かれているものも見掛けましたが、それは誤りです。日本では考古学の発掘物から、”石皿と磨石”から”軸のある石臼”まで、連続性がある継続的な変化が確認されています。
石皿・磨石(往復式): 縄文1万年の基本。
薬研に繋がるものです。船形の石皿の上で、棒状の磨石を前後に動かす(パンを作る際の動作に近い)。
凹面石皿(円運動式): 縄文後期には往復から回転への橋渡し。中央で「練り潰す」動作。
鉢状の石皿の中で、球状の磨石を円を描くように回す(すり鉢とすりこぎに近いが、より「面」で捉えて練る動作)。
精製用石臼(弥生期・軸なし): 上石を手で回して微細な朱や薬を精製。
弥生時代前期末(約2,500~2,400年前)の板付遺跡や雀居遺跡から出土した石臼には、円を描くように動かして磨り潰した痕跡が残っています。これは、後の「挽き臼(ひきうす)」に通じる回転式動作の萌芽であり、道具の進化を考える上で非常に重要な物証とされています。
複合回転石臼(軸あり): 軸受けが加わり、高効率な連続生産へ。
というように、日本国内では歴史的に継続的・連続的な変化が途切れず経ているのが、考古学的な研究からもはっきりしています。
また、「軸無し」から「軸有り」になるまでも、その変化がしっかりと考古学的に出てきています。
約2,500〜2,400年前板付・雀居遺跡(初期)では軸なし回転臼ですが、それから約100年後の約2,300〜2,200年前の雀居遺跡(中期)だと中央にガイドとなる窪みがある半固定軸(プロトタイプ)の物となっており、中国より古いですし、明確な連続性ある変化が判りますね。
約2,100年前だと原の辻遺跡完全な軸あり(含口)がある臼が見つかっています。
面白いのは、この中でも
・「湿式」つまり茹でた豆や水を加えながら磨り潰す形式
・「乾式」つまり穀物類を粉のように潰す形式
この両方が日本には紀元前に既にある、ということですね。
中国で石臼が出るより前の時代から、日本に石臼が既にあったという事実がしっかりあるのです。
また「小麦栽培と共に西から石臼が中国に入って来た」と書かれていたのですが、小麦栽培自体はもっと古く、そして西アジアでは粉にして無発酵パンにして食べられています。ところが、このパン食文化は中央アジアにはありましたが、中国には入ってきていません。小麦も1,700年前頃まで粒食です。
つまり、中国には「”小麦栽培と共に”石臼は入ってきていない」のですね。そして西洋式の石臼が中国に入って来るのは宋代ですのでAD10世紀前後ですね。
中国では後漢代の末期からやっと現れる「粉ものにして加工する文化」。
ですが日本は縄文時代で1万年以上前から普通に行われている「調理」です。
実際、出土した石皿の窪みや磨石の打撃・研磨面に付着した微粒子(デンプン粒・プラントオパール)の分析結果から、以下の成分・種類が直接検出されています。
① 堅果類(木の実のデンプン・油脂)
トチノキ、ドングリ(コナラ属・カシ属)、クリ、クルミなど、堅果特有の大型〜中型のデンプン粒、およびタンパク質・油脂成分の付着が確認されており、渋抜き(アク抜き)前の粉砕、あるいは粉砕して水に晒すための可粉化のためのものですね。
② 野生根茎類(デンプン資源)
クズ(葛)、ワラビ、ヤマノイモ属(ヤマイモ)、ユリ科(ウバユリ等)など、根茎類特有の球形・多角形のデンプン粒。純度の高い純デンプン(塊茎デンプン)を抽出し、練り物の繋ぎや主食とするための粉砕。
③ 雑穀・栽培植物・イネ科穀物(穀物の粉砕)
ヒエ属(エノコログサ/アワの原種・アワ・ヒエ)、キビ、ササゲ属(小豆・アズキの原種)、ソラマメ属・ダイズ属(ツルマメ/野生ダイズ)、イネ(プラントオパールおよびイネ科特有のデンプン粒)、小麦など。イネ科特有の複合デンプン粒、マメ科特有の臍を持つデンプン粒、細胞壁破片などが検出されており、堅い外皮を持つ穀物や豆を直接挽き割り、あるいは完全に粉砕(製粉)して加工しやすくするため。
判りやすく言えば、日本では粒食文化もあれば、粉もん食文化もある。どちらかに寄るような食文化ではなく、様々な調理・食感を縄文時代からしていたという事です。
ちなみに、もう1つの「粉もの文化の発祥」である古代メソポタミアや古代近東において、小麦の粉食化が推進された背景には明確な社会的・技術的必然性があります。
「野草の種子・ドングリ等の磨砕」という下地が必要なのですよね。農耕が始まる以前の狩猟採集時代から、硬い木の実や野草の種を石で叩いて粉砕し、アク抜きしたり粥状にして加熱する技術(石皿と磨石)がすでに存在していました。小麦の製粉はこの既存技術の転用です。
これは日本と同じであり、新層以降の今の中国人の祖先である大陸内陸民は持っていない技術です(新層民族とは民族自体が異なる古層文化にはあった堅果類食文化が無くなっている)。
中国の石臼文化はパッケージ文化
では、西暦元年前後の石臼は?というと、中国では最古となると2,300年前頃からのものが出土しています。ただし、その機能は日本式の軸無し石臼(日本では2,400~2,500年前ぐらいから日本全国で出土)にそっくりで、日本の方が古く、これも「日本では連続性がある変化だが、中国では突然に完成系で現れるパッケージ文化」です。
軸有り石臼は満城漢墓(中山王劉勝の墓:紀元前113年頃)から、精巧な青銅製の軸受けを持つ石臼が出土しており、これが最古になります。これは「半固定軸」の試行錯誤系です。下のくぼみにセットする鉄軸が上を突き抜け、割りピンで固定するというものです。ただこの構造はすぐに消え、東漢(後漢)から魏晋南北朝時代にかけて、中国の石臼は「上に突き抜けない構造」と日本式になります。多分ですが「固定した方が安定する」と思ったのだが、それだと「遊び(上石の上下余裕)がなく、硬いものを曳こうとすると止まる」という現実に直面した為だと思います。
秦咸陽宮遺址の紀元前3世紀後半の秦の宮殿跡から、石製臼の破片が見つかっていますが、これは軸有りではないだろうと研究されています。
また、軸有り臼は日本最古と中国最古とほぼ同時期なのですが、中国ではその構造の変化に対しての途中段階が存在しない「突然に完成した形で変化する」形で出てきています。
それに対して、日本は前段階(凹面石皿)から途中段階(軸無し石臼→半固定軸臼)、そして軸有り臼まではっきりと判る変化が続いています。
この「連続性のある変化」こそ、中国から日本にではなく、日本から中国に伝わった技術であるという証拠になります。
日本の石臼に「含口(がんこう)」という日本独自の名称がついていることも重要です。これは、単なる「穴」ではなく、石と木(芯棒)を高度に噛み合わせる「木工技術と石器技術の融合」が日本列島で先行していたことを示唆しています。
たぶんですが、外来の技術を取り入れたのを、権威付けとして「皇族や賢者が作った」と言う具合に中国では記録した、というものなのでしょう。これは、中国の歴史ではよくあります。
「穀類を粉にして食品加工して美味しく食べる」という調理具や調理法は、やはり日本から中国に、大体、漢の時代の日本との交流・交易で入って来たもののようです。
粉もの食材加工の歴史
ここでもう1つ面白いのが、中国でも古層には縄文文化と類似の石皿・磨石のセットは出土しており、堅果類(ドングリなど)を食料として利用し、それを加工していた形跡はあるのです。
古層(7,000年前)だと『石皿・磨石(往復式)』が出土しています。中国の古層文化である仰韶文化や竜山文化には、確かに穀物を叩き潰す「石皿(石磨盤)」と「磨石(石磨棒)」が存在しています。
日本の縄文文化式のものですね。
ですが民族が入れ替わっている後古層(4500年前前後)だと、石臼文化は中国の主要な遺跡から姿を消します。古層から後古層、沿岸から去っていった縄文系民族が去った後に入って来たつまり西から来た大陸内陸民は石皿・磨石といった、古層の縄文系民族が持っていた「穀物などを粉にする文化」が継承されず衰退・消滅しています。この時代になると堅果類の食は殆どなくなり、農業が拡大されていく時代です。
収穫した穀類は粉状ではなく、粒状のまま煮られて食べられています。
夏・商(殷)・周時代にかけて、中国の食文化は「茹でる」という粒食(りゅうしょく)に完全に特化しました。そのため、穀物を粉にする道具(石皿・磨石)が発達する必要がなくなり、技術的に停滞、あるいは退行した「空白の2,000年」が存在します。
これが2,500年前頃に再び「研」が現れますが、この時期の「研」は食具ではなく、主に「墨」や「朱」を練るための、ごく小さな工芸用・祭祀用の道具として現れます。再登場した「研」も、依然として「板の上で棒を動かす」という原始的な往復運動に留まっていました。中国大陸内で自発的に「回転」へと向かう予兆は見られません。
そして2,300~2,000年前になると、『石臼』が突然現れています。
日本の弥生文化式ですね。そして、その弥生文化式は”日本国内で”縄文文化式からの発展としての連続性があり、中国から来たものではありません。その上、どれを見ても日本の方が早い時期から存在していますね。それと同時に、大豆加工食品、つまり豆醤や豆腐などがほぼ同時期に一斉に”完成したパッケージ化されたもの”として出てきます。
「日本から来た外来加工技術」でなくては説明がつかないのです。
麺や発酵パン(蒸しパンや饅頭など)なんかも中国ではこの時代以降から出てくるものですが、これは「穀物などを粉にする」という調理機器があって、初めて成立する加工食品です。
といった断続かつパッケージな歴史を中国は経ています。
中国史書で判る事は、
・小麦は「不味い穀物」であり、粟・黍と比べると低く見られていた食材。
・大豆も「貧民の食べ物」として、腹を満たせるだけという不味い食材。
中国では”日本式の石臼”という「粉ものにする文化技術」が入って来るまでは、小麦も大豆も「不味い食材」と一般的に考えられていましたし、また、加工食品が出てきていません。
……出土する遺物痕跡から、『発酵パン(蒸しパンや饅頭)』は日本から中国に伝わったものなのは明らかなのです。それも、漢末位の時代ですね。
すると『麺』という「生地を細長く切って茹でて食べる手法も日本から中国に伝わった可能性もあるのでは?」――と少し調べましたが、細長くする技術土壌は縄文時代中期~後期に既にあるのですが、”細長く加工して食べていた”という痕跡は見つかっていません。
ただ、粉もん調理技術を持ってこの時点で数千年と、日本は粉もん調理技術が始まったばかりの中国と比較できないほど長い時間がありますので、可能性は十分高いとは思います。
日本での「麺」食の記録
「奈良時代に『索餅』が来て、素麺や饂飩ができた」と言う通説があります。ただ「これも本当か?」というのが、実は文字自体にあります。
『索餅』ですが、音読みでは「サクベイ / サクヘイ」とあり、これは平安時代の辞書『和名類聚抄』で記されています。中古音(7〜9世紀頃)で「Sak-pieng (サク・ピェンに近い響き)」で、「索(Sak)」は紐や綱を指し、「餅(Pieng)」は小麦粉を練ったものの総称であり、この文字自体は中国由来なのは確かです。
ところが、『索餅』には訓読みも実はあります。
和名(訓読み)として「 ムギナワ」という読み方もあるのです。
これは、「麺」状の食べ物、それも麦を使い粉にして細長くするという食品加工手法が、中国から来たのではなく、日本にも既にあった事を指しています。
読み方の対比から見えるのは、大陸の「システム(漢字)」と日本の「実体(生活)」の関わり方です。中国では「Suǒbǐng」で、あくまで「紐状にした粉砕物」という客観的な説明です。それに対して日本では古来から 「ムギナワ」と、材料と形を直結させた、生活の実感に基づいた独自の呼称をしていたということですね。
「サクベイ」という音は、貴族や僧侶などの知識層が「大陸の知識」として使った皮膜のような言葉ですが、その中身は日本列島で古くから親しまれてきた「ムギナワ」という生活インフラそのものだったと言えます。
実際、日本の記録で見ると、「索餅」を「麦縄」という和名と共に記録したもの(つまり中国から来た「索餅」=日本で既にある「麦縄」と説明をしているという事)が、正倉院文書でAD730年の記録で初めて見られるものですね。「粉食物」としての記録で小麦粉を「面粉」と呼び、それを加工したものを単に「粉」や「餅」として計上していますが、その中には「長」といった形状を示す補助的な記述が混じっています。
ところが、730年(天平2年)より前、つまり7世紀後半から8世紀初頭(飛鳥時代後期〜奈良時代最初期)の記録を精査すると、「麦」と「縄(成形されたもの)」、あるいは「粉」の加工に関する形跡が、当時の行政文書の最前線である「木簡」に現れます。文献(紙)は書き換えや散逸が多いですが、現場の生きた記録である木簡には、より生々しいインフラの実態が刻まれています。
例えば、7世紀末〜8世紀初頭の長岡京・藤原京の木簡があります。正倉院文書(紙)が整う前の時代、藤原京(694年〜710年)や平城京の極初期の遺跡から出土した木簡に、以下の記録が見られます。
「粉(こ)」と「餅(もち)」の輸送:
7世紀末の木簡には、地方から「粉」や「餅」が貢納された記録があります。
「麦」の加工依頼:
飛鳥浄御原令(689年)前後の木簡には、役人への支給品として麦が記されていますが、これらを「つく(粉砕する)」ための労力や道具に関する記述があります。
「本」という形状単位の助数詞:
団子(顆)ではなく、明らかに「細長いもの」を数える単位である「本」が、麦製品や粉加工品の記録として書かれています。
特定の長さの指定:
「長」という一文字が、物の名称に付随する形容詞(例:長餅、長実)として、7世紀末の木簡に見られます。これは、単なる「大きい」という意味を超えて、持ち運びや保存のために「縄状、あるいは棒状に成形した」ことを示す、当時の物流インフラ上の記号です。
と、「奈良時代に”索餅”が伝わった」という以前の飛鳥時代の記録に、既に細長く加工した小麦食品の記録が日本にはあるのですね。
他に、後の「ほうとう」の語源とされる「餺飥(はくたく)」も、実は「索餅」以前に出てきています。これは生地を「薄く伸ばしたもの」を指します。
『「饂飩(うどん)」の語源として語られる「混飩(こんとん)」だ』と通説にありますが、「混飩」は「ワンタン」のような包みもの・団子ものを指しています。
それに対して「餺飥」は、古くは小麦粉を練って、手や棒で薄く平らに伸ばし、それを「切った」り「ちぎった」りして煮る料理を指しました。「はくたく」という音は、現代の山梨の郷土料理「ほうとう」の語源として有名ですね。
餃子やラビオリのような具を包む「混飩(通説ではうどんの語源とされるもの)」と違い、「餺飥」は最初から「生地そのものを平たく伸ばして成形する」ものです。奈良・平安時代の文献(『延喜式』など)でも、「餺飥」は「索餅」や「混飩」と並んで記されていますが、その「餺飥」の製法は現在の「うどん」の工程(打つ、伸ばす、切る)に最も近く、「混飩」の包みものとはまるで違います。
『饂飩』の語源は、「混飩」ではなく「餺飥」の方でしょうね。
「温汁で食べる餺飥」で『饂飩』なのでしょう。
もう少し分かりやすく漢字を分解すると「”温”汁で”食”べる”粉もの(屯)””食”」です。
さらに言えば、
中国は「紐状にした粉物」という客観的な説明です。それに対して日本では古来から 「ムギナワ」と、材料と形を直結させた、生活の実感に基づいた独自の呼称です。
日本では数千年も前から既に穀物は粒のままでも食べれば、粉にして加工して食べていた事は判っています。
それに対して中国は、2,300年前の前漢時代の日本との交流・交易で、日本から石臼と共に穀物を粉にする技術が渡り、その粉を加工する蒸しパン(饅頭)や団子などといった食品が中国に伝わった事は、考古学的な痕跡を重ねていくと判ります。この時に『麦縄』も伝わったのではないでしょうか。
2,300年前まで麦も粒食だった中国、そこに「粉にして」「紐状に加工する」食品、これが外来から伝わってきたからこそ「索餅(紐状にした粉物)」という名称なのでしょうね。
時系列で並べると、こうなります。
縄文〜弥生(日本): 石皿と深い土器を使い、「粉にして」「細長く成形し」「茹でる(ムギナワ)」文化ができる。
前漢代(日本→大陸): 石臼(粉砕具)とともに、この「粉食パッケージ」が大陸へ渡り、蒸しパン(饅頭)や団子などと一緒に「細長く成型する加工方法」が伝わる。
漢代〜唐代(大陸): 大陸側で、外来のこの食べ物を「索餅(紐状の粉物)」と命名し、漢字体系の中に組み込む。
奈良時代(大陸→日本): 「索餅」という漢字名が、仏教文化とともに日本へ「逆輸入」され、既存の「ムギナワ」という和名が上書きされる。
中国・唐代の文化ではない
後漢末期(2世紀末)の字書『釈名』、および2世紀中頃の農書『四民月令』に記録されている小麦粉(麦粉)食品の正確な名称と実態は以下の通りです。
『釈名』の「釈飲食」の項目において、小麦粉を水で練った食品(総称:餅)として実際に挙げられているのは以下の4つのみ。
蒸餅: 蒸器で蒸した、団子・饅頭の原型。
湯餅: 熱湯やスープで煮た、すいとん・団子汁の類。
索餅: 縄状にねじって茹でる(あるいは揚げる)もの。
胡餅:「平らに押し潰して炉で焼いたナンやフラットブレッド」など無発酵パンの事。
このような小麦を粉食が書かれています。
崔寔が著した『四民月令』(2世紀中頃)には、五月の条に「煮餅」および「水溲餅」という言葉が出てきます。これらは、夏場に水で冷やして食べる団子や麺の原型(水引餅の類)を指しており、「夏にこれらを食べると、水で冷えてお腹の中で固まり、消化に悪いので慎むべし」という生活の知恵として記録されています。
このように1,800年前の五胡十六国の少し前の時代の中原で「粉食」から、北方・西域民族の流入により、初めて「焼くパン(胡餅)」が主食級の地位を得ています。
ただ、胡餅のような「水を使わない」のは兎も角、他は「水をたっぷり使う調理方法」です。そして「水で冷やす」という食べ方も安全な水が多い日本での食べ方です。これらの団子にしたり縄状にしたりしてたっぷりの水で作る料理は、日本から伝播した料理だと思われます。
これの証拠ともなるのが、『胡餅』です。もし通説通りに、「日本には中国から粉食文化のパッケージが伝播」したのだとしたら、当時の中原で大流行し、皇帝から庶民まで熱狂していた「胡餅(窯で焼くパン・ナン文化)」が、日本に全く伝来せず、綺麗にスルーされている事実を説明できません。
唐代(長安)だと白居易(白楽天)が「寄胡餅与楊万州」という詩の中で、長安の店で買った出来立ての胡餅(現代のナンや焼餅に近い、胡麻をまぶして窯で焼いたパン)の美味さを友人に自慢しているように、当時の中国の都市インフラは「胡餅の焼き窯」だらけです。
もし日本が「中国文化を輸入した」のであれば、正倉院の時代に平城京の市場に胡餅の焼き窯が並び、貴族たちが焼き立てのパンを食べていなければ完全に不自然です。
しかし、日本の古代遺跡から『胡餅』のような料理を焼くための「粘土製の焼き窯(タンドール型の炉)」の遺構は、ただの一件も出土していません。
つまり、「中国から来たのであれば、一番あるべき中国のメジャーな粉食文化食品」が日本には来ていないのです。
竈の存在
「2,300年前(戦国・秦・前漢)」という時期は、「甗(蒸し器)が、ようやく庶民の生活道具(土器)として普及し始めた時期」に相当します。これには竈(かまど)の導入が大きく影響しており、この時期、中国でようやく「竈」が普及し、熱効率を上げるために「甗」を竈に据えて調理するスタイルが一般的になります。それと同時期を境に「石臼(粉砕技術)」と「甗(蒸し・加工調理)」がセットで爆発的に広まります。
明らかなほどの”パッケージ文化”なのですね。
日本における「竈」あるいは火を囲う「炉」から「竈」へと進化していく過程の遺構を辿ると、従来の「古墳時代に大陸から伝来した」という通説を覆す、非常に古い形跡が見えてきます。
「竈らしき構造」まで含めると、その起源は約30,000年前の旧石器時代まで遡り、さらに機能的な「竈」のプロトタイプは縄文時代早期(約10,000〜7,000年前)には既に現れています。中国や朝鮮半島よりよっぽど古いのです。
日本最古の「竈らしき構造」とすると旧石器時代の「礫群(れきぐん)」があります。今から約30,000年前の遺跡(静岡県・板屋第3遺跡など)から、大量の石を焼き、その熱を利用して調理した「礫群」が見つかっています。
これは直接火を燃やすだけでなく、石の蓄熱を利用して「蒸し焼き」や「水煮」を行うための、いわば「野外の定置式調理場」であり、竈の概念(熱の制御と集中)の出発点と言えます。
縄文時代早期(約10,000〜7,000年前)の南九州(鹿児島県・上野原遺跡など)では、住居の外に作られた定置式の「炉穴(ろあな)」が発見されています。特徴として、深い穴を掘り、横から空気を取り込む「トンネル状の煙道(えんどう)」を持つものがあります。これは単なる焚き火ではなく、熱効率を高め、煙を逃がしながら長時間高温を維持するための構造です。構造的には、後の「竈」とほぼ同一の熱力学的な設計がなされており、ここで燻製や蒸し調理が行われていたと考えられています。
縄文時代中期(約5,000年前)になると、土器そのものを竈として機能させる「移動式竈」としての縄文土器があり、「埋込土器炉(うめこみどきろ)」や、火を囲うための「土製支脚(どせいしきゃく)」が登場します。 土器を下から支え、下部で火を効率よく燃やすための道具です。「有孔土器(蒸し器)」とこれらの火力を集中させる道具を組み合わせることで、屋内においても「高効率な蒸し調理システム」が完成されていました。
一般的に「竈」として教科書に載るのは、古墳時代(5世紀頃)の「住居の壁面に作り付けられた竈」ですが、その前段階として、縄文時代中期(約5,000年前)「移動式土製竈」とも呼べる、土器を乗せて加熱することに特化した構造が全国に普及しています。
簡単に纏めると「竈」自体は、日本の中で培われ変化していったもので、それが縄文系人の拡散と共に大陸や半島に伝播したものだと判ります。その後に大陸で作られた「住居壁面に取り付けるスタイル」という”アレンジされた生活スタイル”が日本に伝播してきたというものですね。
元の日本のスタイルは「屋外に竈」「屋内は炉」だったのですが、これが大陸で住居一体型になったのは、やはり気候の違い、大陸内陸性気候の影響が大きいのだと思います。竈の熱をも暖房に利用して屋内を保温するというのでしょう。
古墳時代に日本に戻ってきた際、建築の「様式美」や「ステータス」として扱われましたが、日本列島の気候(特に夏)においては、むしろ壁付け竈は熱がこもりすぎるというミスマッチを抱えることになります。
日本の主流である竪穴住居は非常に優れた断熱性能を持っています。半地下構造であるため、周囲の土が断熱材となり、冬は暖かく夏は涼しいという特性があります。分厚い茅の屋根は空気層を含み、放射冷却を防ぎます。屋内中央に置かれた「炉」による輻射熱だけで、狭い空間を効率よく暖めることができる構造でした。
それに対して、4500年前頃から中国にやってきた大陸内陸系民族は「平地式住居」です。中国、特に北方の黄河流域では、建築技術が大陸内陸洋式の建築が増え、地上に建てる「平地式」や「版築(はんちく)」による土壁の住居が主流でした。泥土やレンガの壁は、土に囲まれた竪穴住居に比べると外気の影響をダイレクトに受けます。特に冬のマイナス数十度に達する寒風に対して、断熱性能が追いついていませんでした。壁の薄さと熱伝導から、外気温の影響と暖房の切実さが生まれます。
単なる「炉」では、広い空間や冷え切った壁際まで暖めることができません。そこで、日本から来た「屋外の竈」文化を、調理の排熱を壁や床に通す工夫が必要から生まれた、という経緯かと思います。
日本の竪穴住居は断熱性が高く、そして夏の湿気対策として、竈は外(または独立)、屋内は炉、という配置になっていました。
それに対して大陸内陸式は土壁を使っており壁の断熱性が低い + 冬の極寒対策が必要であり、日本から来た”竈”の調理熱をも暖房に転用するため竈を壁面に埋め込むようになったわけですね。
また、「礫群」という手法自体は、旧石器時代から新石器時代にかけて世界各地の遺跡で見られる普遍的な調理法です。
しかし、日本列島の「礫群」から「竈」への変遷を詳細に分析すると、他地域とは決定的に異なる「技術的連続性」と「目的の特殊性」が浮かび上がってきます。
世界各地(ヨーロッパ、西アジア、北米など)で見られる礫群の多くは、その後、以下のような道を辿ります。
「礫群」 → 「直火・オーブン(焼く)、または平底の土器(煮る)」へ。
石を使った蓄熱調理は、次第に廃れるか、特定の伝統料理(パチャマンカ等)として残るのみとなります。
日本の独自性として、
「礫群」 → 「炉穴(煙道付き)」 → 「竈(熱制御システム)」へ。
日本の場合、石の蓄熱を利用する段階から、非常に早い段階で「熱を閉じ込め、蒸気を制御する」という方向へ技術が特化していきました。
世界中で礫群が行われていたのに、なぜ日本列島でだけ「竈」的な設計思想が1万年前(上野原遺跡の煙道付き炉穴など)にまで進化したのか。そこには日本独自の「食べ物の事情」があるのでしょう。
大陸では、小麦や肉など、比較的「焼く・煮る」だけで食べられるものが主でした。
しかし、日本では穀物や肉以外にも、森の恵み(ドングリ、トチの実など)や海の恵み(海洋資源)が主食級の資源でした。植林や混作栽培もしており、食材が多彩で食べ方が多彩だったのですね。
ただ火を焚くだけでは「蒸気」を効率よく作れません。熱を一点に集中させ、上昇気流(ドラフト)を生み出す構造、つまり「竈」の設計が生活の中で自然と生まれて来たわけです。
2,300〜2,000年前頃に中国で「竈」や「石臼」が突如として現れる際、それらは「野外の焚き火」からの進化ではなく、最初から完成された「熱制御・加工システム」として登場します。中国では、古層文化は縄文文化と大変に似ていますが、古層文化の民族が去ってから入って来る4500年前前後からの後古層の民族は長い間「三脚の器(鼎・鬲)」で直接煮るだけの文化が続きます。文化技術的には縄文前期の「土器で煮炊きする」と同等レベルの調理法が2,300年前ぐらいまで続きます。熱を囲う・煙を逃がすといった「竈」への進化プロセスが遺構として希薄です。
日本には3万年前の礫群から、1万年前の煙道炉、5,000年前の支脚(ポータブル竈)まで、一貫して「火力を効率化し、蒸し調理を極める」というエンジニアリングの歴史が途切れず存在します。「礫群」というスタート地点は世界共通だったかもしれません。しかし、そこから「熱を閉じ込める装置(竈)」へと設計を昇華させ、「粉砕(石臼)×蒸し(甑)×竈」という三位一体の調理システムになっていくのは、日本列島の環境的な必然性によるものですね。
世界中で行われていた礫群の中でも、日本は「竈というエンジニアリングの揺籃(ようらん)」として、極めて特殊かつ高度な進化を遂げた孤高の系統であると言えます。その完成品が、漢代前後の交流期に大陸へと「伝播・派生」していったという構造こそが、考古学的な事実を最も素直に説明できるものとなります。
植物性油の存在
そこでもう1つあるのが「油」の存在。
動物性脂ではなく、植物性の油ですね。
この「植物性油」を得る為には、『石臼』の存在が必要になります。
日本列島では縄文時代(約5,000〜6,000年前)から植物油の精製・利用が「物証」として確認されています。
一方、中国大陸において植物油の組織的な利用が文献や遺構で目立ち始めるのは、石臼が普及する漢代(約2,200年前)以降であり、日本の方が数千年以上先行しています。
日本列島では、石皿・磨石(石臼の原型)を用いた「種実の加工」の過程で、意図的な油の抽出が行われていた証拠があります。
エゴマ・シソの栽培(約5,500年前〜)されている三内丸山遺跡(青森)や真脇遺跡(石川)などの縄文遺跡から、大量のエゴマの種実が出土しています。エゴマは非常に油分が豊富(約45%)で、食用だけでなく、漆の乾燥を調整する「乾性油」としても不可欠でした。
土器への浸透痕(脂肪酸分析)として縄文土器の破片を化学分析すると、魚介類の脂だけでなく、植物性油脂特有の脂肪酸が高い濃度で検出されます。これは、種実を磨り潰し、加熱して油を浮かせる「水煮法」や、圧搾に近い工程が行われていたことを示しています。
中国だと植物油は2300年前(漢代以前)以降であり、古代中国(先秦時代)の主力は植物油ではなく、「動物脂(膏・脂)」です。『周礼』などの古い文献に登場する「脂」は、主に牛・羊・豚の脂を指します。
中国で「香油(ゴマ油)」などが普及するのは、張騫が西域からゴマ(胡麻)を持ち帰ったとされる漢代以降で、つまり、日本より3,000年は新しいのですね。それ以前の中国にも「煎」という調理法はありましたが、多くは動物脂をひいて焼く「ソテー」に近いものです。
中国が「動物を焼いて脂を落とす」というシンプルな段階に留まっていた数千年間、日本列島の民は、石皿で種実を磨り潰し、「植物から液体(油)を抽出する」という高度なバイオテクノロジーを、漆工芸や食文化の中で日常化させていました。
縄文土器の特定の個体から、煮炊きによる魚介類の脂とは異なる、不飽和脂肪酸(植物油)が異常に高い濃度で検出されるケースがあります。これは単に「油分を含む木の実を煮た」レベルではなく、「液体としての油」が土器の壁面に長時間接触・浸透していたことを示唆しています。
中国で石臼が回る数千年前、日本の内陸火山帯や沿岸部では、磨り潰した木の実の粉(クッキー)を、エゴマから搾り取った熱い油で「揚げ焼き」にし、香ばしく加工して食べていた。これは、地層から検出される脂肪酸の濃度と、石器の分布が示すものです。
つまり、「揚げ焼き」と言う自体は日本では数千年前からあり、それが2,000年前後の漢代での交流の際に日本から中国に伝わり、そこでローカライズされたものが帰って来た、という可能性が大変に高いのですね。
動物の脂ではない「植物性油」は、これまた中国は日本から入って来た技術と言う事です。
日本では鳥浜貝塚の縄文時代前期の遺物包含層から、エゴマ・シソ・ヒョウタン・アサ・ゴボウ・大麦といった栽培植物種子が確認されていますが、これは大体6,000年前ですね。エゴマはゴマ以上に搾油効率が良く、縄文人はすでに「種を磨り潰して油を採る」技術をエゴマで確立しているのですね。
中国では「漢代に張騫が西域から持ち帰った」という話は、あくまで後世の『本草綱目』などが引用する「通説(伝承)」であり、考古学的な物証はそれより数千年前の栽培・利用を証明しています。中国・日本ともに「ゴマ」とされる種実の出土は縄文・新石器時代まで遡ります。
中国では、河姆渡遺跡 / 良渚遺跡: 浙江省のこれらの遺跡(約5,000年前〜)からゴマの種実が出土したという報告があります。これらは野生種か栽培種かの議論はありますが、「漢代以前には存在しなかった」という通説を完全に否定する物証です。
ただし、これには更にあり、見つかっているのは縄文系人が中国沿岸地域に定住していた古層(~4,000年前)の話で、沿岸部・長江流域の縄文系人たちがゴマが利用されていた、という話しのようです。
その後古層で民族が変わった時代だと、ゴマ利用の痕跡は亡くなります。空白期(殷・周・秦)だと西からやってきた漢民族系統の農耕文化(粟・黍中心)が中原を支配。彼らの遺跡からはゴマや石臼、高度な搾油痕跡が消え、中国での食事は大豆も「不味い粒食」に退化しています。
ところが、漢代の2,300年前以降に再出現します、石臼の普及と共に「胡麻」の名で突如として加工文化が復活する。
これって、古層時代の中国沿岸に住んでいた縄文系人がゴマを見つけ、エゴマの代わりに利用を始めた。が、彼らが去ったので文化断絶。その後、漢代になり日本との交流・交易でゴマの存在と加工方法(油を採る方法)を教わり、再利用され始めたのではないでしょうかね(石臼や大豆・粉もの・発酵文化など、整合性が大変に高い仮説だと思います)。
日本でゴマが見つかっている最古は、真福寺遺跡(埼玉県)で縄文時代後期(約3,200年前)の土層から、ソバやアズキなどと共にゴマが出土しています。つまり、「出戻り縄文人」が大陸から種子を持ち帰ったのでは?という話しですね。多分ですが、今後で約4,000年前ぐらいの痕跡も見つかるのではないかと思います。
まぁ、「今の中国人の祖先だとゴマ利用は2,300年前。日本国内よりも遅い」というのが確かなのですね。
そして、縄文人はゴマからも油を「石臼・石皿」で採っており、それが漢代での交易・交流で中国に伝わったのではないかと思います。
