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稲作はどこから来たのか?

というのもよく聞く話ですね。
これが現在は「長江から来た」という説が一般的ですが、これがどうもおかしいのです。


運んできた人が居ない

「長江から渡来人が持って来た」と言う説、BC5世紀ぐらいだったのが、いやBC10世紀頃では、と紛糾していますが。
この「長江から渡来人が持って来た」説は、STOPした方がいいとは思います。

人が違う

「稲作を持って来た”渡来人”の遺伝子は何処に?」
持って来た以前に、この問題があるからですね。

BC10世紀以降というと、中国では春秋戦国時代ですね。その頃の勢力予想図は下図のようになります。

Wikipediaより

中国沿岸地域の古層である早期古代文化である、中国文化の祖となるパッケージ文化と縄文系に類似遺伝子を持つ人たちが消えた後、「先史文明は違う民族で現状の中国民族である漢族などとは断絶している」と中国での研究報告にもありますね。BC10世紀以降と言うと、この断絶後の民族になります。すると、「大量の渡来人が日本に来た」とされるBC10世紀以降に来て定住している人達がどういう民族か、これを知る必要があります。

遼河流域(は「北方系+東北アジア系」の地域であり、
・C2:北方狩猟系(ツングース・モンゴル系の祖)
・N1:北東アジア系(シベリア〜満洲系)
・O2:中原からの流入
となっています。BC10〜0世紀の遼河文明(紅山→夏家店→燕)=C2+N1+O2 (後の扶余・高句麗・濊貊の祖型)になりますね。

黄河流域はO2(O2a2b1 / O2-M122 系)が圧倒的多数で、これは後の「漢族コア」になる系統ですね。
・O2:主系統
・Q:少数(北方系の混入)
・R:極少数(西方系の混入)
BC10〜0世紀の黄河文明(殷・周・春秋・戦国)=O2主体ですね。

そして長江流域(江南・楚・呉越・巴蜀)の人達はO1・O2・C1 の混合です。 特に稲作文化の中心とされている人達は O1(O1b1・O1b2)系統が強いですね。
・O1b1 / O1b2:呉越・百越・中国南方系
・O2:北方からの流入
・C1:古い南方系と言われている系統(縄文と近縁?)
BC10〜0世紀の長江文明(良渚→楚→呉越)=O1+O2混合(初期はO1が強いが、戦国以降はO2が増加します)といった構成になります。

私も初め「この呉越の辺りの者達が日本に来たのかな?」と思っていたのですが、調べていく中で海洋技術や当時の人達の遺伝子がない、そして他の伴うはずの文化要素が伴っていない、などから疑問に思ったのですね。


ところで、日本にはO1b1系統もO2系統も殆どありません。「長江から渡来人が稲作を持って来た」説だと絶対に入っているべき遺伝子が、日本には入っていないのですね。

その少ないO2系統も日本に入っているのは、最も近い共通祖先は約11120年前です。日本で比較的多く観察されるO-MF114497/O-SK1702だと、その最も近い共通祖先は今より約12750年前。O2a2a1a1b-MF18110/FGC50625の最も近い共通祖先は約16070年前、更にO-CTS445の最も近い共通祖先は約16,090年前と遥か昔に分枝しており、定説で「渡来人が来た」とされるBC10世紀以降に居るべきO2サブグレードは中国ものは見られません。

O1系統にしても「弥生渡来人説」が未だに強いのですが、例えば白保竿根田原洞穴遺跡では、約27000年前の人骨からO1系統のサブグレードのDNAが検出されており、O1系統は弥生時代よりも2万年以上前に日本に来ている事は証明されています。遺伝子の不可逆性から「O1系統は弥生渡来人」説は矛盾しており、これは研究でも指摘されていますね。

またC1系統も、日本に多いのはC1a系統(C1a1系統)です。
しかし中国に多いのはC1b系統(C1b1b2系統)です。中国にもC1a系統は若干入っていますが、日本にはC1b系統はほとんど入っていません。これは南西諸島から中国に、と言う移動を指している事になります(この、C1系統もサブグレードで説明すると「日本は縄文時代からC1a1系統がある」「C1b系統は大陸人」となり、今よく言われる「C1系統は大陸人」説に都合が悪いから、”C1a””C1b”の説明を隠す「C1系統は」という所までしか説明していないのでしょうかね)。

ちなみに、C1系統で言うと、日本は中国よりヨーロッパ古層(C1a2系統)の方がまだ近いですね。また、C系統と遡れば、日本と中国のC1系統同士より日本と中国のC2系統同士の方がまだ近い系統になります。ただ、C2系統は北方ルートから12000年前ぐらいに日本に入ってくる系統ですので、中国南方である長江は関係がありません。

つまり、BC10世紀以降の中国長江の住民の遺伝子を分類すると、

◆日本と遺伝的関係がある
・O1b2:稲作と関係がある

◆日本と遺伝的関係がほぼない
・O1b1:呉越・百越・中国南方系
・O2:北方からの流入
・C1b:古い南方系と言われている系統

というように分けられます。
判りやすいほどにO1b2系統だけであり、これは縄文時代早期に来た血統ですね。そしてBC10~5世紀に来ていたら入っているはずの「渡来人」の血統(O1b1・O2・C1b)は入ってきていませんね。どちらかと言うと、「中国から日本」はほぼありえ無いが、「日本から中国」はありえる、というのが遺伝子が示す流れです。


では、「長江域から直接渡来人が日本に」ではなく、「長江から山東に、そして遼東、朝鮮半島経由で渡来人が日本に」というルートだとどうか?

こちらはBC10〜0世紀の遼河文明(紅山→夏家店→燕)=C2+N1+O2 (後の扶余・高句麗・濊貊の祖型)ですね。C2・N1系統は確かに日本に入ってきています。氷河期末頃からですが。
そして決定的なのは、入ってきているのは北方周りの日本の北側、北海道からの陸路ルートです。そう、”稲作が入って来た”と言われる九州ではありません。逆に九州・山陽山陰などではほぼ見られない系統ですね。

つまり、「長江から山東に、そして遼東、朝鮮半島経由で渡来人が稲作を日本に」だと、入って来るべきC2・N1・O2が入るべき地域に来ていません。


判りやすいのは、この時代、O2系統である漢民族が北に南にと広がっている事です。もしBC10世紀からの時代に”渡来人”として日本に人が移動していれば、O2系統がしっかりと入るはずなのですが、これが入っていません。


ちなみに、この中国の周や秦というのは日本より小さい範囲の国です。「中国のとても大きい国」と勘違いしやすいですが、そんな事はありません。
周で、本州の山陽山陰から関東まで位の面積ですね。歴史的に言えば、熊襲と蝦夷を征伐する前のヤマトぐらいの面積です。

そして「渡来人説」の時代は春秋戦国時代の小国が数十ほどもあった時代で、その小国群のあった面積が日本と同じぐらいになります。しかし、その東西南北の距離の広がりは日本よりも小さい(南北半分、東西半分ぐらい)です。

遼河・黄河・長江の古代文化というのは、かなり小さい範囲の中で租に点在しているという集まりなんですね。日本全国に広がっていた縄文文化の方が遥かに巨大で密な文化です。
「遼河文明」「黄河文明」「長江文明」と言いますが、点在して存在しており空白地も多く、全土に密に大量に存在する日本に比べるとかなり小さい文化圏でしかないのです。

その様に日本の縄文文化は中国古代文化に比べて遥かに巨大文明圏を作っていたにも関わらず、また個別に興る文化要素もあるにも関わらず、連続性・継続性があり、地域同士の関係性・影響性もしっかりと見えるのが『縄文文明』なんですが、何故か『縄文文化』と一括りに全て話されており、中の多様性を塗り潰して説明される事が大変に多いです。

渡航技術がない

ただ、遺伝子云々の前にもっと決定的なものがありません。
「稲作を持って来た”渡来人”はどうやって来たのか?」
持って来たかどうか以前に、これがないのが”渡来人説”には致命的と言えます。

日本に渡来人が来るには、船での渡航が絶対に必要です。
これが氷河期の時代だと海水面が低く、対馬海峡も河のような数キロ程度の幅。かつ、その先での水の出口も細いので、流れはかなり緩やかだったと推定できます。しかし、それでも渡航技術は必須条件になります。

さらに、この氷河期以降は年に平均2m以上も海水面が上昇します。途端に、対馬海峡間も距離が開いていき、さらに海水の流入が起こるようになり流れも激しくなっていきます。

ところが、沿岸近海か河川で使う平底船は見つかりますが、激しい海洋にを渡航できる船があった記録も無い。遺物も無い(面白い事に、それより古い数千年前の丸太舟の遺物はあります……縄文によく似た文化パッケージと遺伝子が見つかる古層では)。
”渡来人説”と同じ時期になる『史書』などの中国史書を読んでも、沿岸近海程度までは利用していたようですが、遠く東に行けるような船の記述も無く、「東の海の霧の向こう」と神秘の国扱いですね。

この頃の中国の船は、平底船だと言われており、河船が基本であり、遠洋航海の荒波・うねり・風に対応できない船ですね。それどころか、ジャンク船が出来る宋の時代(AD10世紀頃)以降も、そして明・清の時代でも、このジャンク船自体が荒波・うねりに弱い構造なので、沿岸から離れるとよく沈む船でしたね。

中国での研究でも、BC20世紀頃以降に民族が大幅に入れ替わっており、漢族などもその先史文明の跡に反映している事は報告されています。このBC20世紀以降に入れ替わった民族と言うのは、西から来た大陸内陸民ですので、海洋渡航技術を持っていなかった、そして近代の清代末期の西洋船の時代まで満足な造船技術を持っていなかった、と言う事です。
ジャンク船が10世紀頃の宋代からありますが、このジャンク船は波の高さやうねりにかなり弱く、沿岸から離れると途端に沈没遭難が劇的に増える船で、沿岸近海で比較的穏やかな海域を航行する船です。その為、江戸時代などでも日本に来ようと相当な数の船が出ましたが、その多くが引き返し・遭難・難破・沈没となっています。

氷河期以降だと日本はその地理から、徒歩でやってくる事は絶対にできない場所です。実際は氷河期でも対馬海峡は河幅ぐらいで海水がありますし、北周りでも津軽海峡でも河幅ぐらいの海水がありますので、日本本土に上陸するには必ず「水を渡る手段」が必要なのですが。
徒歩で可能だった唯一が、北方周りでサハリンから北海道に入るルートでしょうね。

渡来人説の検討をする以前の段階の検討が必要なはずなのですが、これがなおざりになっていますよね。

青銅器工具・農具が来ていない

既に別で話していますが。

中国の青銅器文化は大体が判っています。


メソポタミア(紀元前4000年)

アファナシエヴォ(紀元前3300〜2500年)

甘粛・青海(斉家文化:紀元前2400〜1900年)

黄河上流

二里頭(紀元前1700年)

殷(紀元前1200〜1000年/殷末〜西周初期)

春秋時代(紀元前770〜476)
楚(長江中流)に入り、次に呉・越(長江下流)が青銅武器を大量生産し始める

戦国時代(紀元前475〜221)
楚の青銅器文化が最盛期で、中原系の技術を取り込みつつ独自化 (長江中流域の青銅器文化の形成と展開が研究されている。)

秦漢期(紀元前221〜後漢)


という具合になっています。
そう、工具や農具に青銅器具を使われている時代ですね。「中国から稲作が来た」ならば青銅製の工具・農具もセットにあるはずなのです。ところが、これが日本に来ていません。
剣や鐘などの礼器(”威信財”といいます)としては、時代から考えると秦より前の時代に入ってきているのですが、農業関係はその「技術」が日本に入ってきていません。

人も居ない、船も無い、道具が無い

単純に「人の移動」という観点で見ても、
・移動した人のDNAの痕跡がない
・移動する手段がそもそもあった痕跡がない
・伴うはずの青銅製の工具や農具がない(あるのは威信財ばかり)
というのに、どうやって「長江から来る」事が出来たか不思議ですよね。

そこで最近は「少数だった」なんて仮説をだしてきたりします、が。
あれ?「大量の渡来人が」とか「90%が渡来人」は何処に消えたのでしょうね?


これらって、「海洋渡航技術がない」に全てが掛かっているのでは?と思います。つまり、中国側から日本に来る手段がそもそもないという事です。

それに対して、日本は古代から海洋渡航技術を持っており、広域海洋交易もしているので、取捨選択的に持ち帰るというのは出来るのです。

ここで「農耕技術など生活インフラ文化に関してはほとんど持ち帰るものがない(縄文文化の方が発展)」と同時に「儀礼的・装飾的な”威信財”文化のものは持ち帰った(趣味嗜好的なものは付加価値があるので持ち帰る)」という当たり前とも言える図式があるのだと思います。

この図式は、別の所でも話していますが、江戸時代というか近代までも続いていたのですね。

通説とは逆で、「生活インフラ文化、つまり文化の基礎部分に関しては、ほぼほぼ日本から中国大陸に伝播」ではないでしょうか。

稲が違う

これも大変におかしいのですね。
「長江から稲がやって来た」これ自体が、おかしいのです。

長江米は交雑種

長江の稲は、RM1-e/hですね。
この稲は、野生種の熱帯ジャポニカと交雑しており、熱帯ジャポニカの形質を少し持つ稲です。
そう、日本でのRM1-a/b/cとは違います。

このような、RM1系統で分類すると中国では8種、朝鮮半島には7種あるのに対して、日本では3種しかないというのは知られていますが。もう少し言うと、中国での8種の分布は、

このようになっています。
このうち、長江域では、下流域のRM1-e/hと中流域のRM1-fの温帯ジャポニカ米の稲種が栽培されています。
そう、「長江から来た」というなら、このRM1-e/hになるはずなのですね。

注意しないといけないのは、「長江」は今でも「中国有数の米処です」が、その栽培の多くはインディカ米だという事です。気候が合わないのでジャポニカ米は少ないんですね。


ちなみに、中国北部にRM1-a/b/cがあるのは、これは近代で日本がその辺りでも稲栽培が出来るように、日本の東北での稲栽培技術を持って来た後で栽培されるようになった、という近代以降(というか20世紀以降)の話です。
実際、考古学でもBC3000年ぐらいの山東地域の稲は、栽培痕跡自体はあるものの、発育不良が目立つというものでしたね(その上、このBC3000年ぐらいと言うと、「BC20世紀頃以降に民族が大幅に入れ替わっており、漢族などもその先史文明の跡に反映している事は報告されています」という、入れ替われる前の先史民族であり、古層に縄文文化と類似の文化遺物と縄文人に類似のDNA遺骨が見つかっている時代です)。


しかし問題は、長江米が「野生種の熱帯ジャポニカと交雑しており、熱帯ジャポニカの形質を少し持つ稲」と言う点です。「稲作は長江から始まった」という説だと、海を渡って日本に来た事になっています。しかし、これらの稲には熱帯ジャポニカの形質がありません。
つまり、「長江の稲から日本の稲というルートは繋がっていない」のです。

長江米は北上もしていない

長江地域の稲が北方の黄河地域の方へ、そしてそれが朝鮮半島を伝って日本に、という北方ルートの説があります。
これは、そもそもが成り立たないのが、寒冷地にも対応させた近代の品種改良まで、山東地域でも米は育っていないのは、米の遺物から分かっています。山東地域にも水田の痕跡があるのですが、米は発育不良している事も確認されています。

そしてそもそもですが、やはり山東周囲での栽培種には熱帯ジャポニカの形質が入っていません。そう、南から入って来た形跡がないのです。
また、この辺りは漢民族がBC10世紀より前の時代から支配している場所です。ここを通るという事は、人の遺伝子にもO2系統が入るという事なのですが、日本人にはこのO2系統はほとんど入っていませんね。
これらの血統が少し日本に入って来るのは、百済(当時は”慕韓”)からの帰化希望人を受け入れた時以降の話なので、西暦4世紀以降の話です。


これは、「長江から北上し、山東から遼東に移動して南下し、それが日本に来た」というのも成り立たない、と言う事です。当時だと人為的な品種改良などではないので、山東地域より南ではないと稲は生育できない(寒冷かつ乾燥しすぎている)のでしょうね。

稲の形質を見ても長江の稲は北上しておらず、人のDNAを見ても日本には来ていない、と言う事です。

そして、稲の形質を見ると、
・南(交雑温帯ジャポニカ)→中央(純粋温帯ジャポニカ)
はありえず、
・中央(純粋温帯ジャポニカ)→南(交雑温帯ジャポニカ)
というならありえますが、稲が見つかる時代が南の方が圧倒的に古いので、この”南→北”も、”北→南”も、「中国と言う範囲で考える」と成り立たないのです。

長江の稲作文化は沿岸から内陸に

これは中国の研究でも言われている事を可視化したものですが、『稲作文化』は”内陸から沿岸”ではなく、”沿岸から内陸”に進んでいます。

例えば、混作の痕跡もある初期稲栽培農作とされている旧石器時代(日本では縄文時代早期~前期ぐらい)の遺跡ですが、11000年前からのまだ今より陸地が広かった時代でも、”沿岸から内陸”に進んでいます。

更にアカホヤの大噴火より後に興っている、やはり混作の痕跡もある旧石器時代(日本では縄文時代中期ぐらい)の遺跡でも、沿岸文化が内陸側に伝播している事が報告されています。

大渓文化は馬家浜文化の影響が見えるのですが、これは明らかに海を移動して上陸して奥地に進んだところなのですね(たぶん、調査すれば上陸した浜の辺り=黄岡市の辺りにその間を繋ぐ古代文化の残滓があると思います、が。ここ、紀元前から要所ですので、現在ある遺構のその下を探さないと駄目でしょうね)。
ここで、よく勘違いするので忘れてはいけないのが、この古代文化が「沿岸や島だった場所」だという事を理解しないといけないという事ですね。現在の地形で見ると、こうなりますので。

どちらの時代でも、沿岸地区の遺跡は、縄文文化に類似の文化・縄文人と類似のDNAが発見されています。BC10世紀の時代の中国住人とは違う民族の人達が定住していた先史文明時代ですね(実際を言うと、土器の縄文には規則性も見られ、最近は『プロト文字』として研究もされています。意味はまだ不明ですので『先史時代』ではなく『原始時代(文字はあるが意味がまだ分からない)』ですが、解読されると『有史時代』になります)。
長江中流域で主に稲作されているRM1-fはRM1-eよりも後であり、やはりこちらには熱帯ジャポニカの形質が見られる温帯ジャポニカですね。ですので、これが北上した形跡もありません。

判りやすい話が「稲を栽培する文化は東から来た」ではないと、この「中国では当たり前にみられる文化の伝播方向」の説明ができないのです(西から来ているなら、影響は西から東になっているはずなので)。

長江域のメインはインディカ米

また、「稲作が盛んだ」と言われますが、長江米のメインはインディカ米です。温帯ジャポニカ米はあまり作られておらず、そして中国における温帯ジャポニカの生産地は長江より北の場所になります。

「稲の生産量」というので見ると長江域は今でも「中国における稲作の中心地」ではありますが、しかし「温帯ジャポニカ米の稲の生産中心地」ではないのですね。
ここがまたよく騙される部分です。

さらに言えば、今でこそ中国は温帯ジャポニカ米をたくさん作っていますが、これは近代のごく最近の話しです。そして、その切っ掛けになったのはやはり日本なんですね。


中国で温帯ジャポニカ米の生産が大きく増えるのは、基本的に近代(特に1980年代以降)です。中国の主流は長くインディカ米で、中国の米生産は長い間、南部中心のインディカ米が主流でした。2000年頃でも、
・インディカ:約60%
・ジャポニカ:約29%
・その他:約11%
という構成です。
温帯ジャポニカの本格拡大は1990年代以降であり、政策的にジャポニカ栽培が増えるのはかなり最近です。例えば温帯ジャポニカ米の生産が多い江蘇省ですが、
・1992年:ジャポニカ比率 50.6%
・2007年:83%
・2012年:89.1%
という急増です。背景は「政策+品種改良」というのがあり、主な理由として、
①政府の作付転換政策
 小麦やインディカからジャポニカへ転換
②北東部(黒竜江など)の開発
 冷害耐性品種、大規模水田
③ハイブリッド品種の普及(1970年代以降)
 袁隆平の研究などで生産性向上
となっていますね。これは黒竜江・吉林・遼寧などの遼河域の話なのですが、北京辺りでも同じようなものです。北京周辺で米が増えるのもやはり近代以降で、北京周辺で米が増える理由は
・灌漑拡張
・品種改良
・近代農業政策
ですが、これも20世紀に入ってからの戦後の話で、1949年以降の農業政策、1970年代のハイブリッド米によって増えたものです。

実際、19世紀の頃は水稲自体が殆ど作られていません。
作られるようになるのは1930年代以降で、日本系品種の稲を持ち込まれ始めてからの話です。

稲作についての検討において、前提自体が間違えているのです。

栽培種が”栽培の証拠”にならない

ここも大事で、野生熱帯ジャポニカ種と交雑している事や、野生種が栽培種に変わっていっている、というのは「栽培の証拠」にはならないのです。これもよく間違えている記載が多く「栽培種があるから、ここから栽培が始まった」という説明ですが、これは大間違いなのですね。

栽培も、最初は他の穀物類と混作が初めにあるのは世界的にも普通です。これは、同時に栽培する事により、例えばある穀物が病気になっても他の穀物は採取できる、という。食料確保を確実にする為の考え方です。
そしてその中で地域に合った穀物種の生育や収穫量が多くなると、それを主に栽培されるようになります。更に長く栽培している中で、穂の実りを落とさず、沢山蓄えるものが残っていきます(単純に「量が多く」なるので種籾になる可能性が高くなりますし、人が恣意的に選別していけば品種改良になりますね)。
こうして、「野生種」が時間を掛けて「栽培種」になっていくものです。

「栽培種だから栽培の始まり」ではなく、「混作栽培している中で栽培しやすさや収穫量などで単一作物農業になり、栽培していく中でその中でも収穫が多い種が年月をかけて変質し栽培種になる」という順番なのだが。長江での稲栽培はその「農作の歴史」の基本が守られていない説が、今の学説ですよね。

また、「現在種は交雑している」なら、片方が外来種の可能性が高くなる。そして、「野生種」の方が「その地に自生していた種」となるのが普通でしょうね。つまり、長江米の場合は「野生種」である熱帯ジャポニカが自生種であり、栽培されたが交雑した温帯ジャポニカが「外来種」となるのが普通な訳です。

北京や山東地域では作られていない

これも検証は出来る。「長江から北上し、北回りで朝鮮半島から渡来人が稲作を持って来た」説の矛盾ですね。これは、中国史書や考古学的なもので確認ができるのです。
必要になるのは「周~秦の時代」での検証です。「渡来人が来た」と言われる時代がこの範囲に当たるからですね。
① 古代文献の作物構成
『詩経』『史記』などでここで出てくる主要穀物は「黍」「稷」「麦」であり、華北の主食構成は一貫して雑穀中心です。
② 稲の扱い
稲(稲作)の記述自体は存在します。ただし、南方・湿潤地域の作物として扱われるものですね。そしてこれですが、19世紀までの生産は主にインディカ米になります。
③ 地理的対応
周~秦の中心地は、北京~山東辺りを支配地域の北部として、そこから南が殆どです。この地域は渭水流域・黄河流域になりますが、乾燥寄り・寒冷寄りで水田稲作に不向きな地域になります。

④ 考古学的状況
華北遺跡だと、粟・黍が圧倒的です。稲はほぼ出ないというレベルです。もし華北で稲作が一般的なら文献の主食記述に反映され、遺跡で大量出土するはずなのですね。

周〜秦の時代、山東〜北京圏で稲作の形跡はほぼない、というレベルです(「ほぼ」なのはスポットな小生産としての可能性はあるのですが、確認はできていないという話しです)。
ちなみに、清代でも米は長江域からの輸入であり、この地域では生産をしていませんね。
つまり、「長江から北部に行き、それが朝鮮半島に渡った」という形跡自体がないのです。


そこで出てくるのが「山東辺りで出る、稲作を試したようだが発育不全だった」や「炭化米」という5000年以上前のものですね。これは「BC20世紀頃から入り始めた内陸大陸人系、つまり今の中国人の祖先にあたる民族の流入・定住」より前の時代であり、「南周りの出戻り縄文人が入って来て試した」のではないでしょうかね。

日本でも古い穀類痕跡がある

現在、日本でも古くから稲があったらしい事が判っています。
・青森でBC145世紀の地層からプラント・オパール
・愛媛でBC100世紀の地層からのプラント・オパールで栽培の可能性
・九州南部でBC100世紀の地層からの陸稲作の可能性
・九州南部でBC80世紀の地層からのプラント・オパールで栽培の可能性
・岡山でBC40世紀の陸稲作遺構
・山陰でBC11世紀の稲作遺構
・九州北部でBC10世紀の水田稲作遺構
ここら辺が出てきていますね。
また、プラントオパールについては、
・コンタミネーションが考えられる
 →広範囲で見られる事により、コンタミネーションでは説明が出来ない
・稲ではなくイヌビエの可能性がある
 →分析技術の向上により、イヌビエでは説明が出来ない事が判明
となっており、今は「稲があった可能性が大変に高く」なっています。
また、この年代というのは、次にある「その時代の地理と気候」とも整合がとれるものです。

米の食べ方が違う

これも大きいとは思います。
「はじめちょろちょろ中ぱっぱ~」っという火を調整しての炊き方、実は日本独特なのです。これは米によるものが大きいですね。

昔あった米の不作による米騒動で「海外米を輸入した時に美味しくない」と評価があったのに繋がっており、これは「米自体が違う、調理方法が違う」からです。

最近の(どちらかというとJAや農水省による人災と言える、米があったのに米値段が吊り上がった米騒動)では海外米が輸入されて、それが以外に悪くない、という評価になっているのは、日本種を基にした温帯ジャポニカ米が世界で生産された(特に中国で)というのがあるからです。
この「近代になって温帯ジャポニカ米を栽培した」というのを、古代農業史に混ぜてはいけません。

また、食べ方ですが、脱穀・籾摺りというのは共通しているのですが、日本だと、
・汚れを洗った後に研ぎ
・吸水
・水加減と火加減で『炊く』
・蒸らして仕上げる
というのが、工程の簡単な説明ですね。
この手法にある「研ぎ」は稲の品種改良や米文化の発展と共に更に進んで味が良くなっていきます。「米が単体で食べる事が出来る、米が主役の文化」ですね。
昔からこの「研ぎ」工程はあり、鎌倉〜室町だと文献にしっかりと書かれています。奈良~平安時代だと「研ぎ」と明確には調理工程としてありませんが、記録に「米を水で扱う工程」「下処理の存在」があり、研ぎをしていたのはほぼ確実であり、それより前の時代から日本では「研ぎ」があったと考えられています。
これは稲種が関係しています。温帯ジャポニカはアミロースが少なめでアミロペクチンが多い種ですので、
・粘りが強い
・もちっとする
・水分を保持しやすい
という特徴が出やすいのですね。洗米+適切な水量+蒸らしと、炊飯で性能が最大化される品種です。
逆に言うと湯取り(デンプンを流す)とは相性が悪い品種でもあります。

ところが、中国で一般的だと、
・汚れを洗う
・たっぷりの水で、”茹でる”に近い『炊く』
・余分な水を「湯取り」して調整
・蒸らして仕上げる
という事をします。
この「湯取り」法というものです。これはインディカ米や熱帯ジャポニカ米に合う調理法です。
米を煮た後の煮汁(米湯)は成分が入っており、デンプンが溶け出しており栄養価が高い(粥に近い)もので、これを飲むという文化もあります(朝鮮半島でも、李氏朝鮮だと茶がない代わりに、この中国式の炊き方であり米湯を飲む文化がやはりあります)。
この手法は粒立ちを良くするものですが、味自体はそれほどよくならず、濃い味の物と合わせるというのが一般的な「米単体で食べられる事はほぼない、米が主役じゃない文化」です。
これも主要な米種が何か?というのが大きく関係しています。
インディカ米はアミロース多め(粘らない)で粒が独立する性質があります。粒が崩れない、水分を過剰に抱えない、油やスープを吸っても分離を保つというのがあり、つまり、混ぜてもベチャっとしないのです。そのため、
● 湯取り飯(捞饭)
 余分なデンプンを流す
 粒立ちを強化
● ピラフ・パエリア系
 油でコーティング
 水分コントロール
● ビリヤニなど
 半茹で+蒸し
 層構造維持
などの「粒を活かす料理」が向いているのですね。これを日本式で炊くと水を抱え込むが粘らず。粒同士がくっつかない、でも水分はあるという中途半端な「おいしくない」状態になります(ちなみに、日本の米をインディカ米の炊き方をしてもやはり「おいしくない」状態になります)。


ここで、少し面白いのが朝鮮半島。
この李氏朝鮮時代までの米の炊き方は「中国式」つまり湯取り型です。これが成立していたのは、ひとえに、扱う米(もち米を除く)は殆どが古代米(有芒種形質を残した温帯ジャポニカ)だという事です。古代米だとアミロースが多めで粘りが薄くなり、中国式の炊き方で問題がないのですね。

日本では同じ古代米でも調理法が違い、吸水時間を長くして炊く手法、というのをとられています。これは「研ぎ」にも関係しますが「水が豊富で、薪となる木々も多い」からこその食べ方です。


このように「中国とは米の食べ方自体が違う」のですが、これは米の種がそもそも違ったからですね。
たぶんですが「中国式の炊き方」は、日本でも縄文時代の前期頃の「稲も含む雑穀」の食べ方なのだとは思います。
ところが、6000年前頃には陸稲単一作物栽培なども日本で行われ始め、米の質の向上と共に調理方法も発展していったものでしょう。ただ、この頃には『出戻り縄文人』が中国大陸沿岸から撤退して来ている時代なので、それ(「米を美味しく食べる為の調理法」)が伝わる事が無かった、という話しだと思います。

地理が違う

そして、よくあるのが「現在の地形で考えている」という大きな間違いです。12000年前までは氷河期であり、また、海水面も低かった事が判っていますね。寒さが厳しい20000年前では、約130mほども海水面が低かったと研究で報告されています。

この時、地形がまるで違いますので気候も随分と変わります。
沿岸の気候も随分と変わり、北方が閉ざされていますので寒流がほぼなく、暖流が流れています。また、渤海や黄海は陸地の平原となっています。

この時代、今の長江域の沿岸でも氷河期の時代には海から500km以上離れた内陸部になり、海洋の影響をほとんど受けない「大陸性気候」となります。降水量は沿岸部より少なくなり、湿度は低くなり乾燥します。簡単に言えば、氷河期と言うのもあり今の中央アジアのような気候だったわけです。温帯ジャポニカには適さない気候ですね。

また、渤海や黄海も海ではなく平原ですので、現在の様に対馬海流からの分枝の黄海海流による暖める要因もなく、今の山東半島や遼東半島、朝鮮半島なども海洋の湿潤影響は得られず、大陸内陸性気候になります。
今よりも寒さが厳しい上に乾燥している地となりますので、草原ステップに疎林があるような環境であったと推定されます。

この「当時だと今とは地形と気候がまるで違う」という事が抜けている説が大変に多いです。

図でも分かるように、太平洋から離れると共に海からの影響は、渤海や黄海が無いという事は東は平原ですのでまったくなく、東南は東シナ海平原の次は武夷山脈系の壁となる為に内陸への海洋影響はほとんどなく、今の長江域とは違いかなり乾燥していた場所だと想像ができます。
この環境は温帯ジャポニカは自生できない環境、どころか熱帯ジャポニカでも自生が出来ない環境ですね。

稲が自生していた場所は限られる

地理と気候が現在とまるで違いますから、当然ながら、ジャポニカ米の稲が異性していた可能性が高い所は限られています。
・湿度があり湿地などもある沿岸沿い
・暖流の恩恵を受ける場所
ここに限られてくるわけです。
すると、「20000年前の氷河期最盛期に稲が自生していたであろう場所」は予想されるのは、

そうすると、
・沈んだ東シナ棚平原(海南周辺)
・沈んだ東シナ棚平原(台湾周辺)
・南西諸島および日本太平洋沿岸部
辺りしかありません。

中国の古代の地形は東シナ平原が広がり海岸線ははるか遠く、今の海岸線の500kmほども東の先になっており、長江域の気候を考えるとかなり内陸になり大陸性気候が強くなります。東シナ海沿岸から、黄海・渤海と全て陸地である事により、海洋性気候は得られない地理ですね。
氷河期と言う時期から気温は下がり、更に大陸性で乾燥が強まる地理になりますので、今とかなり環境が違います。簡単に言えば、今の中央アジアの草原や植生のような場所、となります。
この様な環境の長江地域が「温帯ジャポニカ」発祥なのはおかしいのですね。

渤海・黄海がないので、完全に大陸性気候で北方からの影響が強い環境になる朝鮮半島は論外です。

稲同士は交雑しやすい

ところが、もう1つあり。
「稲同士は交雑しやすい」というのがあります。
長江米が温帯ジャポニカが自生している野生の熱帯ジャポニカと交雑して、その形質を少し持っていますが、東南アジアあたりだと「インディカ米×ジャポニカ米」や「熱帯ジャポニカ×温帯ジャポニカ」という交雑種を多く見掛けます。実際に、
・aus
・aromatic
・boro
・deepwater rice
などの 中間系統が存在しており、これらは多くの場合「ジャポニカ × インディカ」の混合系統です(ただ、インディカ米が出てくるのはもっと遅く、BC2000年頃だと言われています。つまり温暖化が始まってから西からやってきているのですね)。

問題は「交雑しやすい」ということです。
所が、現在まで続く日本・中国北部・朝鮮半島に広がる「ジャポニカ米」は交雑している様子がほぼない純粋種としてあります。これは「長江発祥説」では矛盾してしまう部分です。そう、
・沈んだ東シナ棚平原(海南周辺)
・沈んだ東シナ棚平原(台湾周辺)
あたりだと平原が繋がっているので、こちらに「熱帯ジャポニカ」も「温帯ジャポニカ」も存在していた(気候的にはあり得る)なら、長い間でもっと交雑していないとおかしいのですね。

その「温帯ジャポニカの純粋さ」を考えると、「温帯ジャポニカ」と「熱帯ジャポニカ」は物理的に距離がある、あるいは切り離された場所でそれぞれが生育していた、と考えないとおかしいのです。
それを考えると、
・沈んだ東シナ棚平原(海南周辺)
・沈んだ東シナ棚平原(台湾周辺)
ここら辺は「熱帯ジャポニカの生息地」であり、その熱帯ジャポニカの地域とは海が防壁となり地域的に孤立している、
・南西諸島および日本太平洋沿岸部
こちらに「温帯ジャポニカの生息地」があった。
こう考える方が自然なのです。

また、氷河期も一定の温度ではなく、20000年前をピークにしている形です。「徐々に気温が下がっていく」=「温帯ジャポニカでも寒さに弱い種はやられていく」となり、「残るのは寒さに強いタイプの種」、すなわちRM1-aのような稲になります。
そうすると、「温帯ジャポニカが氷河期を生き延びた地域」というのは大変に限定され、日本の東北地方~北海道の太平洋沿岸部ぐらいになります。
これは、青森で14500年前のプラントオパールが見つかっている事にも整合性が取れます。

考えられる稲の動き

氷河期が終わり温暖化が進む中で、東シナ海・黄海・渤海などが海水面下になります。海が近付いて来て、そして暖流の影響が入って来ると、長江の地域は海洋性気候に移っていく地理に変わっていきます。
そう、「氷河期以降」にならないと、長江域は稲が生息できる地にはならないのです。

熱帯ジャポニカは乾燥耐性を持ち陸稲しやすいですので、いち早く長江域に侵略しやすい稲です。特に、海の海水面が上昇すると共に、西へと生育場所を移していくことが考えられます。

温帯ジャポニカは湿潤を好みますので、海水面が上がり大陸内に水(海)が浸食していかなければ長江で温帯ジャポニカが自生できる環境にはなりません。また、穀物類と言うのは鳥類が食べても果実類ではないので、それにより拡散されるようなものでもありません。

そして、縄文人が縄文文化の混作文化や水利技術を持って、定住する際の食量として栽培する穀物類を持って行く。これがそれぞれの場所に出てくる「稲作の痕跡」というパッケージですね。

これにより、長江域に持ち込んだ稲は、自生していた野生の熱帯ジャポニカと交雑しますが、それ以外の場所では純粋に近い温帯ジャポニカが栽培される、という形になります。
これは、稲的にもこの「縄文人文化とDNAに類似した民族たちが中国沿岸地域に定住した」時期の後に稲が交雑しているようである事も確認されているので、状況証拠的にも合うかとは思います。

もちろん、縄文人は回遊していますので一方的ではなく、若干の現地稲も持ち帰っている様子は、考古学遺物からもあります。若干ですが、熱帯ジャポニカそのものが出土してあるのですね(ほんの僅かですが)。
ただし、広がらなかった、交雑しなかったのは気候がぜんぜん合わなかったのでしょう。

水利技術が原始的

水田稲作が中国から来たか?
これまた「NO」だと思います。
というのも、BC10世紀頃の水利技術、灌漑や治水の技術を比較すると明らかに日本の方が高度な技術を使っているからですね。
技術と言うのは不可逆性ですので、「渡来人が水田技術を持って来た」ならば、それに使う水利技術も「中国≧日本」とならなくてはおかしいのですが、現実は「日本≫中国」と、中国より数世紀~10世紀ほどは先の水利技術を日本は利用していたからです。

治水が整ってあるが連続・継続している

日本の水田稲作と明らかに分かる遺構、板付遺跡などで確認される水利利用の構造は、
・区画水田
・畦による区切り
・給水路
・排水路
・水位調整
・地形造成
などがあります。
これ、同時期の中国と比べると規模こそは小さいですが、機能としては遥かに高度なものを日本では利用しています。更にこの水利利用は、日本では縄文時代早期から始まり連続し継続して積み上げられていた技術である事は、日本全国の遺構の連なりから分かります。
つまり、この「日本の水田稲作に使っている灌漑技術」は、「中国から伝播した文化技術」ではなく「日本の国内で発達してきた文化技術」だという事です。

日本で最初期の「水路(導水)を人工的に掘削して利用した」ことが明確に確認できる縄文遺跡は、縄文草創期〜早期(約13000〜9000年前)に属する一群の水場遺構があります。例えば、

青森県:岩渡小谷(4)遺跡
時期:縄文前期中葉〜後葉(ただし水路構造は草創期〜前期に遡る)
特徴:明確な導水状遺構(人工水路)を伴う最古級の例
沢の上流から流れを分岐させる「導水状遺構」=人工水路が確認されています。貯水部・作業場・木組遺構・木道など複数の水利用施設がセットで存在し、水を引き込み多目的に利用していたと考えられます。
この遺跡は前期主体なのですが、導水構造そのものは縄文草創期〜前期に属する水場遺構の系譜に含まれ、全国20例ほど確認される最古級の水路利用の一つとされています。
つまり、1万年以上前から日本では水利施設を持ちます。

縄文草創期〜早期に遡る水路利用の確実例(人工的な掘削・導水)だと、
栃木県:寺野東遺跡
時期:縄文中期前半〜後半(約4,600〜4,300年前)/後期初頭に水路施設が成立しています。谷の水を利用するため、水を引き込む水路・貯水部を人工的に掘削しており、水路・貯水部・排水部の構造が明確です。
年代は草創期より後だが、人工水路の構造が極めて明瞭で、縄文の水路利用の典型例です。これは良渚文化と同時期ですが、技術としては良渚文化より高度なものですね。
寺野東遺跡(縄文中期)の水路技術の性格(小規模・高精度・加工技術型)
寺野東遺跡では、谷水を人工水路で引き込み、貯水部・排水部をセットで構築し、堅果類のアク抜きにもりようしており化学的処理工程を行っていたものです。

この技術の本質は、
・水量を一定に保つ
・水路・貯水部・排水部が一体化した“工程管理システム”
・木枠・木道・作業場など、複数の機能を統合した複合施設
・微細な水流制御が可能
と高度なもので、日本で水田に使われている機能がこの当時に既に完成しています。

ただし、日本ではこれを「堅果類のアク抜きなどに利用していた」という程度の検討にとどまっています。これは、
「寺野東遺跡の水路が雑穀栽培用の灌漑施設だったとする、圃場構造レベルの直接証拠はない」
「一方で、縄文中期の雑穀栽培を示す植物レベルの栽培痕跡は、同時期・同文化圏で複数確認されており、技術的・文化的には接続可能であり、利用していない方がおかしい」
というものです。「堅果類のアク抜きなどに利用していた」のは確実で、堅果類遺体が残っているからです。

しかし縄文時代の水路は、以下の点で畑作灌漑と同じ技術的要件を満たしています。
・谷水を人工水路で引き込む導水技術
・貯水部による水量調整
・排水部による余剰水の制御
・水質・流量の安定化
これは、水田の灌漑にそのまま使えるレベルの技術であり、「堅果類の灰汁抜きなどに利用していた」としては明らかにオーバースペックなのです。
既に天水田(自然降水+補助水路)と同じ構造ですが、人工天水田は畦畔をほとんど必要としないため、遺構が残りにくい。つまり、「痕跡が残らない」だけで、技術的には完全に可能なレベルの水利利用であり、逆に「人工天水田を作っていた」のでなければ不自然と言えるものです。

また縄文時代の水路は、以下の点で農耕利用と整合します。
・水量調整が精密(アク抜きだけにしては過剰性能)
・水路・貯水部・排水部のセット構造は畑地灌漑と同型
・混作を行っており、穀物利用をしている。
・中期は人口増加期で、食料安定化のための小規模畑作が合理的
つまり、「加工専用」と断定する方がむしろ不自然なレベルの完成度と規模を持ちます。これが中国からきたものではないのは、時代もそうですが、日本(縄文)は「小規模→中規模→複合化」という連続進化という継続性が確認出来るのです。

縄文の水利用技術は、以下のように連続的に進化している。
・草創期(15000~12000年前):自然水場の利用
・早期(12000~6000年前):人工的な導水・排水の萌芽
・前期(6000~5000年前):木組・杭列を伴う水場加工
・中期(5000~4000年前):寺野東遺跡のような導水・貯水・排水の三位一体システム
・後期(4000~3000年前):湿地利用・水管理の高度化
つまり、縄文時代の水利利用は“技術の連続性”があるのですね。これは中国には無い「文化技術の連続性」です。

この「継続した連続性」と「歴史で技術発展した内容」は、「水田稲作が中国から伝播したものではない」という証拠にもなります。

治水は大規模だが原始的で連続していない

良渚文化(BC32~22世紀、上記の日本の寺野東遺跡と重なる時代で縄文中期に当たる)の水利システムは、近年の研究で高・中・低の三段階ダム構造を持つことが判明しています。これは都市防御・洪水制御・都市区画のための巨大土木工事であり、「都市国家的な大規模水利」というので知られています。
これがあるので、「中国発祥だ」と声高々ですね。

良渚文化の水利は最初から巨大・複雑・体系化された姿で現れるパッケージされた技術というのは知られており
・100平方km以上を制御する巨大水利網
・11本以上の堤防群
・3段階のダムシステム(高・中・低)
・草裹泥(植物繊維+泥)という複合工法
・都市区画・防御・輸送を統合した水利都市計画
ただし、良渚の水利は初期段階が存在せず、突然、巨大な国家級水利が出現しています。これは中国考古学でも最大の謎の一つとされています。

しかし、良渚文化の水利システムは下の特徴があります。
・施工は大規模だが、土堤・土ダム中心で構造は単純
・水量調整の精密制御装置(木枠・樋・水門)は確認されない
・用途は都市防御・区画・洪水対策で、加工技術とは無関係
・水質管理・微細な流量調整を必要としない
つまり、良渚の水利は「巨大な土木工事」ではあるのですが、「精密な水利用技術」ではありません。良渚文化(5200~4200年前)の水利技術自体で言えば、縄文早期(12000~6000年前)末のレベルの技術であり、それが大規模化しているものです。


それ以前の水利機構はどのようなものか?
上山遺跡(BC90~65世紀=11000~8500年前)や河姆渡遺跡(BC50~45世紀=7000~6500年前)で見られる水利遺構で見えるのは主に、
・湿地混作(後に稲単一穀物作)
・自然氾濫地利用
・小規模水路
であり、日本の縄文時代に於ける水利技術で言えば草創期~早期初め頃(15000~11000年前)の技術と同等で、縄文時代早期(12000~6000年前)後半以降の技術より低い技術レベルです。
これは、「大規模な人工天水田」と言えるレベルの技術なのですね。

水利技術はずっと「日本>>中国」

紀元前の水利技術を比較すると、

日本(縄文文化)>>古代中国文化

という図式が常にあります。
また日本だと、
・草創期(15000~12000年前):自然水場の利用
・早期(12000~6000年前):人工的な導水・排水の萌芽
・前期(6000~5000年前):木組・杭列を伴う水場加工
・中期(5000~4000年前):導水・貯水・排水の三位一体システム
・後期(4000~3000年前):湿地利用・水管理の高度化
と、技術が順番に発展しているのが遺構でも判るのですが。
中国の場合、それぞれの文化で「突然に変化(進化)した技術を持つ文化が現れる」というのが続くのですね。「技術は出てくるが、連続しておらず、断続という形で現れる謎の文化要素。その間を繋ぐ文化が見つからない」なのです。
それも、日本では個々の技術文化として連続的継続的な歴史が他でもあり、それは並列で別個に存在しているのですが、中国では「パッケージ」とある文化になると突然に整った形で現れます。

BC10世紀の日本の板付遺跡などで確認される水利利用技術は、当時の中国の水利利用技術と比較すると遥かに高度な技術を使われており、その上、この技術も突然に現れる技術ではなく、縄文の長い歴史の中の連続性で説明できるものです。
「中国から水田稲作が来た」というなら、その水利技術は中国の方が高度か同レベルでなければおかしい(技術伝播の不可逆性)のですが、実際はまったくの逆、日本の方が遥かに高い水利利用技術を持ち、その歴史もあり、中国の方が大規模だが原始的な水利利用技術しか持っていない。
これはその後の時代になっても、日本の様な高度な水利利用技術は中国では発展しないのですね。

つまり、中国から日本に来る技術理由がないのです。
そもそも、日本では古くから混作しており、さらに天水田・湿地などの利用は考えられています。そして人工的に水利を利用する技術は、中国より日本の方が高度です。
日本で早くから人工天水田を作っていて、けっしておかしくないのです。

さらに言えば、「中国の稲作技術」は日本の地形では利用できません。日本の水利技術よりも発達しているのは「大規模だ」というただ1点なのですが、しかし、日本ではそこまでの平地は無く、日本に適用できる要素自体が殆ど無いのです。

中国の水利技術の編纂

もう1つあるのが、古代中国の「水田」は、日本で考える「水田」とはかなり違うという事も理解しておく必要があります。どちらかというと「人工湿地」というのが、古代中国の「水田」です。これは、平坦な土地だからこそできたものなので、山岳が大変に多い日本の地形では難しい技術なのですね。
それぞれの時代の「中国の水田」を簡単に書けば、

●〜漢代
・湿地・氾濫原利用
・水は「来るものを使う」
・制御は限定的
という、湿地を人工的に作るというものです。日本で言う「人工天水田」のようなもので、日本では「水田」に入れられないレベルのものです。菜畑遺跡の水田遺構に比べると、明らかに技術レベルが低いものですね。

●六朝〜隋
・灌漑は増えるが、局所的
少し時代が進み灌漑が出てきますが、六朝~隋なのでAD222~618年になりますが、この頃で縄文時代の水利技術の、前期~中期の過度期と同じぐらいのレベルの技術になります。

●唐
・江南開発
・水路整備
・区画化進行
制御性が一気に上がります。この頃で、やっと日本の菜畑遺跡と同じレベルの「水田」が出てきます。それでも水利技術は縄文時代後期レベルですね。

●宋
・水利ネットワーク高度化
・二期作普及
・精密管理
この辺りは日本の指標でも「水田」と明らかに認められるレベルになります。完全に“制御型水田”になった時代ですね。

これを考えると、「隋から唐の時代に急激に技術が進む」というのが見て取れます(縄文時代前期~中期レベルから100年ほどで、縄文時代後期レベルに急に変化していますからね)。これは何かきっかけがあったのでは……?と思い考えてみますと、その時代に唐に何があったかというと「唐の朝鮮半島遠征」です。
この時に、朝鮮半島にあった日本式の水田技術(水利技術)を見て真似をしたのでは?
と推測しています。


思うに、縄文時代早期に中国沿岸に開拓定住した縄文人の技術の遺構で、隋代まで僅かな変化があるだけで「人工湿地農業(日本で言えば人工天水田農業)」が続き。そして朝鮮半島でそれよりも遥かに高度化した日本式の水利技術と整えられた水田を見て、それを真似て唐代からの「水田」ができたのではないかと思います。

日本の農作の痕跡は9,000年前のものもある

9,000年前(縄文時代早期)この時期は温暖化が進み、海水面が上昇し始めた時期です。この年代の痕跡は「自然地形の工学的な管理」の始まりを示しています。
例えば粟津湖底遺跡(第3貝塚)、その他琵琶湖周辺の早期遺構ですと、以下のようなものも見つかっています。

・木杭の列
湿地帯に打ち込まれた大量の木杭。これは居住地の地盤を固めるだけでなく、水の流れを制御する「護岸」や、魚を追い込む「定置漁具(エリ)」の祖形と考えられています。

・水路の祖形
自然の流路に手を入れた形跡。特定のエリアへの給排水を意識した「溝」が確認されています。

・栽培の種子
自然種よりも明らかに大型化したダイズ、アズキ、ヒョウタン。

つまり、9,000年前の時点で、既に「野生植物を採集する」から「特定の区画(畔の原型)を作り、水の流れを管理して植物を育てる」という管理栽培技術の段階へ移行し始めている事が、今の考古学では判ってきています。

たぶんですが、12000前の地形から、現在の地形の中。現在は海に沈んでいる近海の場所に、日本における農業の痕跡が様々にまだまだ残っていると思います。なぜなら、その場所は「とても大きな平原(ただし、日本視点ですが)」であり、農作に適した地形だったからですね。

この仮説に必要なもの

状況証拠は、遺構や気候・地理から農業についても「中国から日本」というのは成立せず、逆に、「日本から中国」という文化伝播です。

BC20世紀以前の文化伝播

氷河期末からBC20世紀ぐらいまでの文化伝播は、縄文文化を発祥として海面上昇と共に周囲に広がっています。

BC20世紀~の中国文化

所が、縄文海進が終わった時期から、海水面が低下していきます。
海洋利用が難しくなり、この縄文系の者達は中国沿岸から撤退していきます。その空いた地域に、今の中国系民族が入って来て定着します。
「渡来人が大量に来て~」となると、その言われている時期(BC10世紀以降)から、中国系民族の遺伝子が結構な割合で日本人に無いとおかしいのですが、それはほぼ入っていません。

この時、一部は日本ではなく更に南下しており、文化を伝播していきます。東南アジアで定住文化が興り土器や稲作の痕跡が見つかっている時期ですね。

必要な発見

仮説を成立させるには、残るはプラントオパールではなく「稲そのもの」が見つかる事だけですね。それ以外の矛盾しない証拠は揃っています。
可能性が高い範囲は、この地域になります(赤い部分が氷河期時代は陸地だった部分です)。

この場所ですが、探すべきは実は陸地ではなく、海の底です。というのも、氷河期時代はそこは海水面が下がっていた平地だからですね。稲は湿地など水が豊富な所で自生しますから、この「昔は平地だった場所」が一番の候補となり、そのなかでも平地が広かった場所が有力な候補になります。
すると、苫小牧沖の近海・帯広と函館の間(内浦湾)・青森の三島沖の近海・仙台湾あたりが候補になるかと思います。

その上でもう少し考えると、可能性が高いのは、その中でも様々な文化要素痕跡が見つかる場所だと思いますので、

・北海道の室蘭から函館の間にある「内浦湾」
・青森の三沢の東側にある近海
この辺りを調査すれば、より情報が出てくるとは思います。
ただ、三沢あたりの沿岸地域となる太平洋側に直に面しており波でかなり動いてしまっているでしょうから、すると最も可能性が高いのは「内浦湾」の調査となります。

現在だと、内浦湾(噴火湾)沿岸は豊かな水産資源を背景に縄文時代前期〜後期(約5000〜4000年前中心)の貝塚や集落跡が集中するエリアとしてありますが、この年代で判るように、これは「海水面が上昇した後の時代の遺跡」になります。
でも、稲の痕跡を探すべきだと、12000年以上前になります。すなわち、湾内の海の底を調査する必要があるわけです。


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