中国からの渡来者の嘘
そう言えば、調べている中で。
「日本は中国の船に全く興味なく、ジャンク船を調べたりせず、沈みまくっている遣唐使の船を使い続けた」
と書いているのを見掛けましたが、これは大嘘ですね。
・ジャンク船が出てくるのがAD11世紀ぐらい。
・遣唐使は7世紀初頭~9世紀末(AD630~894年頃)
で、時代自体がずれています。
和船は外洋航行船
そもそも和船は平底船ではなく、「平材」という部材(洋船におけるキールのような部材)があるが床部は湾曲したU字~V字の形状をした船ですしね。



これも戦後の海洋教育資料で 「洋船=丸底、和船=平底」 と説明されることが多く、これが誤解の主因になっています。しかし実際の構造図を見れば、 大型和船は丸底~V底である事は明白です。日本は近海でも荒波になる事も少なくなく、そこを渡航できる能力があります。
これは日本の地理的な話なので必然で、日本では、短ければ2~3kmで外洋(水深200m以下)になります。
標準的に行っても太平洋側だとおよそ20kmからで、黒潮が流れる付近で一気に深くなります。日本海側だとおよそ30kmからで大陸棚が比較的広く発達している箇所が多いです。
日本ではすぐ先が外洋であり、川船や近海漁の船を除くと、その外洋を渡れる船でないと駄目なのですね。
それに対して東シナ海だとおよそ外洋までの距離は300km以上です。
中国船は河船~沿岸近海の船
うつろ、中国の船は日本の船を基に平底船から丸底船に発展し(唐の時代。だからは朝鮮半島進攻は隋代は陸路で、唐代は黄海横断)、その後、宋代(AD10世紀)になって諸外国の船を参考にして出来たのが隔壁構造のジャンク船です。

しかし、ジャンク船の時代になっても江戸時代やそれ以前の時代に於いても日本にまでジャンク船が来た歴史はほぼなく、難破船などで見られるぐらいです。単純に「日本に来るには、高度な外洋船・渡航技術が必要」であり、現代でも難所と言われる場所が多い海域に囲まれています。そこを渡れるほどではなかった、という事ですね。
和船の構造は外洋のうねりに対して非常に強いもので、ジャンク船のような隔壁構造とは別系統ですが、衝撃を吸収する構造で荒波に対する耐性はむしろ和船の方が高いと評価されることもあります。
また、勘違いしている人を見掛ける「遣唐使の船はよく沈んだ」と言うのですが、成功率75%というのは、同時代の他地域と比較すると“圧倒的に高い”ものです。
■ ヨーロッパ(ヴァイキング以前)
地中海沿岸航海が中心で、大西洋航海は極めて危険。生還率は 50% を切ることも珍しくない。
■ 中国(唐代〜宋代)
沿岸航海が中心で、東シナ海横断の記録は少ない。日本への渡航は失敗率が極めて高い(唐船の遭難記録多数)。
■ 東南アジア
季節風航海は可能だが、外洋航海の成功率は 50〜60% 程度。
と言う具合ですね。
中国から日本へは、近世であっても至難
中国から唐船で日本に来るのだと、成功率が1/6とかであり、和船の1/4~1/5程度の成功率になります。唐代の記録には「日本へ向かった唐船が暴風で沈没」「行方不明」「漂流して朝鮮半島に流れ着く」「日本に到達できず引き返す」などの例が複数あります。
「漂流して朝鮮半島に流れ着く」なんて、東シナ海どころか黄海での話ですから、どれだけ外洋航海能力が低かったかが分かるかと思います。
更に宋代以降のジャンク船でも、日本に来ようとしては沈没しており、日本にたどり着いたジャンク船はほぼありません。
■ 明代:倭寇対策で派遣された官船が暴風で沈没
日本に向かったが、浙江沖・山東沖で沈没しており、日本海域に到達していない。
■ 16世紀:福建・広東の民間ジャンクが日本を目指す
しかし 台湾海峡・東シナ海で難破。日本に到達した例は極めて少ない。
■ 17世紀:海禁政策下で密貿易船が日本を目指す
多くが 台湾・澎湖・浙江沖で沈没。日本近海まで来た例は稀。
さらに言うと「日本近海で難破したジャンク船」は、ほぼ存在していません。日本近海(黒潮域)で沈んだジャンク船の記録はほぼゼロなんですね。理由は明確で、ジャンク船は外洋に出る前に沈んでしまうため、日本近海まで到達できなかったからです(だから日本側の史料にはほとんど残っていません)。
東シナ海だとおよそ外洋までの距離は300km以上ですが、中国の船は宋代以降のジャンク船であっても外洋に出る前に沈んでおり、ジャンク船は沿岸から極近海や河でしか使えないような船なのです。
ちなみに、「運が良ければ風と海流に流されて日本に到着する事」は出来ます。これは江戸時代の250年以上の間で長崎に来た唐船は3046隻(延宝2〜享保13)のジャンク船が長崎に到着していますし、難破遭難で五島列島や九州西海岸に辿り着いた事例があります。また、近代でもジャンク船でのトライもしており、1944年に長江下流から辿り着いた例もあります。
このように辿り着く可能性自体は0ではありませんが、それは遭難者であり、漁業関係者であり、「大量に」というのは可能性が0と言って支障はありません。
これは研究もされており、上海→長崎航路は“外洋ではない”ため、例外的に成功したのだ、というのが最大のポイントです。
上海・福建 → 長崎の航路というのは大陸棚の浅海域で、季節風で一直線に来る事ができ、黒潮の本流を避けられます。つまり、ジャンク船でも“運が良ければ”来られる航路だったのです。
太平洋側・日本海側・九州南部・四国沖・黒潮域には絶対に来られないのですね。だから日本近海にジャンク船の沈没記録がほぼ無いのです。
では、出航数はどれくらいだったのか?というと、史料に直接の数字はありませんが、海洋史研究では次のように推定されています。
・ジャンク船の外洋航海成功率:10〜30%程度
・長崎に到着した船:約3000隻→ これは 成功した船だけ
すると、出航した総数は?というと成功率を20%と仮定すると、
・3000÷0.2=15000隻
つまり、出航した中国船は 1.5万隻前後、沈没・漂流・引き返しは 1.2万隻以上と推定されます。これは海洋史的に極めて妥当な数字です。殆どは沈んだり引き返したりする中で。それでも平均月1隻ぐらいでジャンク船が来たのは、その執念が凄いですね。
さらに、漂着唐船資料(関西大学東西学術研究所)には、帰路で沈没・漂流した唐船の記録が多数あります。
・長崎を出た後、五島沖で沈没
・九州西岸に漂着
・朝鮮半島に漂着
・行方不明
・乗組員だけ救助される
つまり、帰路で沈む唐船は珍しくなかく、江戸時代を通じて数百隻規模の漂着記録があります(これは“帰路の失敗例”が多い)。その為、中国にまで帰り付いたのは、更に半分程度の1500隻前後と考えられています。
成功率1割ですね。
多分、日本の物を持ち帰ることができたら一攫千金ということだったのでしょうね。
明・清の時代のジャンク船でもこんな船事情ですので、古代に「内陸産業を伝える」は可能性として限りなく0に近い話です。そんな難破遭難が多い船に、偶然に内陸に住む者が同乗しており、偶然に漂着し。道具も仲間もいない、言葉も通じるかも怪しい異国の地で0からのスタートになるのですから。
日本から中国へは普通に渡れる
それに対して、数は少ないが唐代以降も日本人は中国を訪れています。
・室町時代(14〜16世紀)の日明貿易(勘合貿易)
・安土桃山〜江戸初期(16〜17世紀)の朱印船貿易
・江戸時代(鎖国期)では公的な渡航はほぼ禁止していましたが、例外として漂流民の送還使節などがあり、この時に使われたのは幕府の御用船や薩摩の大型和船であり、中国沿岸まで行っています。
和船は割と普通に中国大陸と往来できているのです。
ジャンク船(中国)というのは主に沿岸近海や河での航行の船であり、海で使うとしても東シナ海沿海や渤海・黄海の穏やかな海域が中心です。
中国船は外洋航法技術が未発達であり、黒潮・外洋のうねりに不適応な船ですから、日本では近海でも外洋の深さになり海面のうねりも波も高い海洋条件での利用到底ですが出来ない船なので、見向きもしなかった(参考に出来る技術ではなかった)だけですね。
琉球王国のジャンク船
これが沖縄辺りだとジャンク船の冊封使船(中国官船)が来ていましたが、これもしばしば沈没・漂流しています。ただし、沈没地点の多くは沖縄近海ではなく、福建・台湾海峡・東シナ海の沿岸域です。沖縄(琉球王国)から出るジャンク船も沈没率が高かったようです。
それに対して、琉球王国でも和船やハイブリッド和船(和船とジャンク船を合わせた船で”太平山船”などと呼ばれる)ものは沈没が少なかったようです。大平山船は、
・船体はジャンク系
・構造材の組み方は和船的
・操船性が高い
・波切り性能も改善されている
というもので、これらは主に琉球国内航海・鹿児島航路・島間輸送などに使われているものです。そして重要なのは和船や混合型船の沈没記録はジャンク船に比べて圧倒的に少ないという事です。
ジャンク船は過大評価・和船は過小評価
はっきりわかる事は、現在、
・ジャンク船は過大評価
・和船は過小評価
されている、と言う事です。
和船が遠洋まで行かなかったのは、その構造から木造では大型化に限界があり、その為に遠洋渡航が出来る程の積載量は持っていなかった、と言う事です。
ですが中国や東南アジアぐらいなら、室町時代でも普通に往来をしています。
現在の鋼材であれば大型化が出来ますし、現在の大型船舶は肋骨構造の竜骨船よりも外骨格構造の和船の方に構造が近くなっています。

中国から日本に民族や文化が流れるのは無理
「中国から日本」というのは、近世であってもその外洋渡航技術の未熟さから、中国側の意思で行うのは古代から近世に到るまで大変に難しく、出来なかったのですね。通説の「中国から~」というのは、その殆どが前提条件(日本に渡るには必須となる外洋航海技術)から成り立たないのです。
日本が中国に行き文化を伝えるや、日本が交易で中国現地に赴いた際に取捨選択して文化を持ち帰ってきた、という形でしか成立しません。中には和船に同乗しての使者や僧が持ち込んだというのもあるのですが。
結果的に、「弥生時代に日本に入って来た」と言われる渡来人や中国文化と言うのは、大量にというのは海が間にあり外洋航海技術を持っていなければ、古代から近世に至るまで物理的・技術的に不可能な話しです。
あっても、それは日本からの使者が中国大陸に行き手に入れたり、日本の船に同乗して来るといった、大変に限定的かつ取捨選択的な事しか出来ないのです。
日本で高炉は1857年が最初
日本の製鉄は「低温炉」しか存在しません(古代〜江戸末期まで)。日本の古代〜中世〜近世の製鉄は、すべて以下の特徴を持します。
・低温炉
・褐鉄鉱・砂鉄を原料
・鍛鉄(折り返し鍛錬・焼入れ)
・低燐鉄(高性能)
・溶かさない(固相還元)
たたら製鉄も低温炉で、固相還元してているだけで溶かしていません。明らかに中国の製鉄技術である鉄鉱石・高炉・鋳造は日本に入ってきていません。
また高炉は江戸時代末期に日本で作られますが、これにしても中国式ではなく、西洋の文献資料から1857年(安政4年)釜石に洋式高炉が置かれます(これが日本人の怖さで、同じように動力も資料からだけで試作し、たった2馬力ほどだが自力で製作しています)。
つまり、日本の製鉄の歴史に中国製鉄技術はまったくといっていいレベルで入ってきていない、と言う事です。
ちなみに間違えてはいけないのは、青銅器については中国由来の鋳造技術が入ってきています。
これは炉温の関係で、青銅器は日本の低温炉でも溶けるからです。
ただ、日本は青銅器より前に鉄器が入ってきており、中国では青銅器の方が鉄器より優れていたのですが、その中国青銅器よりも日本独自の製鉄技術で作る鉄器は性能が良かったために、青銅器は実用的なものよりも祭祀関連や装飾品などに使われる範囲でしか利用されなかったのです。
終わりに
稲作にしろ、鉄器製造にしろ。
「中国から伝播してきた」という通説は、そのそもそもに「どうやって伝えられるか?渡るか?」、この前提となる海洋渡航技術が中国には無いので無理なんですね。
全て「いや、外洋渡れる船を近代まで持っていなかったのに、どうやって?」と、これに全て集約されます。
ですので、中国と日本の文化の伝播は、
・日本から中国に伝わった
・日本から中国に行った際に持ち帰った
・中国から帰る和船に同乗した
この3つしかありません。
製鉄など、もし仮に中国の技術者が来ていたとしても、鉄鉱石がそもそもないのでどうしようもないですよね。
更に、魏二代の時代まで中国が公的に日本に来た事はなく、戦国時代~魏初代の時代までは日本は「東の海の向こうにある国」であり、戦国時代~秦代だと「仙境(蓬莱)」と寓話になっている国です。
その後も、日本から中国に使者が送られたり交易を行った事は記録にありますが、中国から日本というのは清代の近世まで数えるほどしかありません。
