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”水車”の話

日本の『水車』。
よく聞くのが、「推古天皇の時代に高句麗の僧・曇徴が紙と水車の技術を伝えた」という説です。
でも、これは本当でしょうか?

『紙』については別に話しますので、ここでは『水車』の話です。


日本の”水車”

考古学的に「水車に関連する部材」が直接出土した最古の例は、飛鳥時代から奈良時代にかけてのもの、とよくあります。
でも、これは間違いです。

飛鳥の”水力石臼”

7世紀前半の奈良県の飛鳥寺の北側にある石敷きの導水施設から、水車に使用されたと考えられる「木製軸受け」や「羽根板」状の部材が出土しています。これは『日本書紀』の推古18年(610年)に、高句麗の僧・曇徴が「碾磑(水力石臼)」を造ったという記述を物理的に裏付ける発見です。

という具合に書かれています。
これはその通りで、すぐ近くにこれに利用したであろう石臼も見つかっていますので整合性が取れるのですね。

ですが、「水車」自体は日本ではもっと古くから存在している事が判っていますし、水車を「ベルト動力」で伝達して回転を利用する技術も日本の方が古くからあります。
また同時に、同じ時期の中国の水車は軸受けや芯などに鉄を多用したものですが、この”飛鳥の水力石臼”では金属部材は出てきていません。全て木材です。
これは「碾磑(水力石臼)」という「水車による横軸の回転を石臼の回転を利用する機構」という部分は中国から来ていますが、水車自体や回転動力の産業利用は違うという事です。

実際、『日本書紀』で書かれている部分を抜粋すると、

十八年春三月
高麗王貢上僧曇徵法定。
曇徵知五經且能作彩色及紙墨幷造碾磑。
蓋造碾磑始于是時歟。

日本書紀

このように書かれており、「曇徵」とは高麗王(高句麗)からの朝貢で来た僧侶です。「法定」とありますから、高麗王は約束通りに、という意味になりますね。この頃だと、高句麗からの使者というのは度々現れますが、立場的には日本の方が上のようですね。
この「曇徵」という人物は経典をよく知る人物ですが、「色紙(彩色紙)」と「碾磑(水力石臼)」が作れた人物で、「水力石臼」というのはこの時代から始まったとあります。
ただし、です。「紙を伝えた」も「水車を伝えた」も書かれていません。
「製紙技術や水車技術を伝えた」というのは誤読でしかないのです。


さらに、最後の一文はこうあります。
「蓋造碾磑始于是時歟」
(思うに、碾磑を造ることはこの時から始まったのだろうか)

「蓋(けだし)〜歟(か)」という表現は、確信を持った歴史的事実の記録ではなく、「〜だったのだろうか?」という『日本書紀』編纂時点(8世紀)の記述者の推測・疑問に過ぎません。

すでに日本国内で連綿と続いていた水力利用や石臼の歴史を、後世の編纂者が「そういえば、推古天皇の時代に高句麗の僧が立派な水力石臼の施設を造ったという話があったな。日本で自動の石臼プラントが本格化したのは、あのあたりからだっただろうか」と、一事例を回想しているに過ぎないのです。

それにもかかわらず、後世の歴史学者や教科書は、「造(造った)」という文字を、勝手に「伝(伝えた)」に脳内変換し、「碾磑(水力石臼)」という固有の装置を、「水車技術そのもの」「製紙技術そのもの」へと拡大解釈した。

これこそが、日本の古代工学の自律的な連続性を抹消し、「すべては大陸からの恩恵である」と結論づけようとする悪質な誤読の再生産です。

飛鳥寺の北側から出土した遺構が「純木製」であり、中国の鉄多用型と全く異なるという物証こそが、「日本書紀に水車伝来の記録などない(あったのは在来技術による現地調達の建造だけである)」という事実なのです。

日本の”水車”の痕跡

では、日本で「水車」の痕跡は何処まで辿れるか?
探すとこういうのも出てきました。

3世紀の纒向遺跡(大型建物跡付近)では、極めて精緻な水路構造(導水施設)が見つかっています。動力としての水車の部材そのものは見つかっていませんが、「水の落差と流速をコントロールして特定の場所に導く」という高度な水利エンジニアリングは、この時期にすでに完成されています。

でも、「水の落差と流速をコントロールして特定の場所に導く」という高度な水利エンジニアリングは日本はそれよりも遥か昔からあります。
縄文早期の層で見つかっているのは、主に「自然の流路(川の跡)」です。しかし、そこには「杭(くい)」や「編朶(へんだ:枝を編んだ柵)」といった人工的な構造物が打ち込まれており、自然の水の流れを人間が「制御(エンジニアリング)」していた痕跡があります。
「杭」や「編朶」があるというのは、日本では9,000年前には「水位を調節し、特定の植物の加工や管理を効率化するための水利インフラ」という自然流路を管理し利用をしていたという事で、明確な「農業」の痕跡です。

「水利利用していた」という話しであれば、粟津湖底遺跡より古いものも日本では見つかっています。日本で最初期の「水路(導水)を人工的に掘削して利用した」ことが明確に確認できる縄文遺跡は、縄文草創期〜早期(約13000〜9000年前)に属する一群の水場遺構があります。例えば、岩渡小谷(4)遺跡だと明確な導水状遺構(人工水路)を伴う最古級の例が出土しており、沢の上流から流れを分岐させる「導水状遺構」=人工水路が確認されています。貯水部・作業場・木組遺構・木道など複数の水利用施設がセットで存在し、水を引き込み多目的に利用していたと考えられます。
この遺跡は前期主体なのですが、導水構造そのものは縄文草創期〜前期に属する水場遺構の系譜に含まれ、全国で20例ほど確認される最古級の水路利用の一つとされています。

このようなものがあるのですね。
特に「編朶」は流水速度の制御に大変に優れた影響を与えます。


『水車』の部材らしきものは、こういう所でも素都度しています。
約2,100年前の奈良県、唐古・鍵遺跡では、軸穴のある厚肉の木製円盤および軸受け(ベアリング)があります。軸穴周辺の「黒褐色の光沢」は、継続的な摩擦によって木材の細胞が圧縮・変質したものであると特定されています。これは、この部材が単なる装飾品や蓋ではなく、「荷重がかかった状態で回転し続けた機械部品」であった動かぬ証拠です。

さらに、約1,900年前の大阪府・池上曽根遺跡では導水施設に直結した軸受け穴を持つ大型フレームが出土しています。17枚の地板を用いた巨大な導水遺構に隣接して出土。水流の落差が最大になる位置に「軸を通すための構造」が配置されており、水流エネルギーを「横軸の回転」として取り出す設計思想が実物遺構から確認されています。

約1,600年前の奈良県・布留遺跡だと、水圧を受けるための傾斜加工が施された羽根板(かき板)が出土しています。板の厚みや形状が、水の抵抗を効率的に回転力に変えるために最適化(ハイドロダイナミクス的加工)されています。これは、回転軸に複数の羽根を取り付けた「羽根車(ランナー)」の存在を物理的に証明する部材です。

このように、「曇徵」が来日するAD610年より600年も前には、既に「水車」があった事が確認出来るのです。
唐古・鍵遺跡における「軸穴」と「回転摩耗痕」の同時出土は、推測ではなく物理現象としての回転運動を証明する決定的な資料です。これらを時系列で辿ることで、日本における水力回転機構の進化が明確に裏付けられます。


更に、回転軸を支えていたであろう「軸穴のある厚肉の木製」はもっと昔からあります。

約2,400年前の大阪府・山賀遺跡だと木製品の「軸受け状部材」があります。穴の内部に、摩擦による強い平滑化と黒い光沢が確認されています。唐古・鍵ほど大型の円盤とのセットではありませんが、部材が継続的な回転軸を支えていたことは物理的に明らかです。
用途については、小型の加工機械(玉作りの旋盤など)の部品である可能性が指摘されていますが、穴の内部の条痕や偏りから、縦向きに置かれ、一方向に回転していた形跡があるので、「水車」の部材の方が可能性が高いです。

さらに遡り、約3,000年前の青森県・亀ヶ岡石器時代遺跡にも「回転軸の受け部」を持つ木製部材です。軸が当たる凹み部分に、木材の細胞が圧縮され、熱によって炭化したような硬化層が形成されています。
これは『「弓錐」などによる発火法、あるいは穿孔(穴あけ)作業の固定具と考えられています』とありますが、その痕跡を見ると縦向きに置かれ、荷重がかかり、一方向に回転していた形であり「水車」の可能性が高いです。
例えば『「弓錐」などによる発火法、あるいは穿孔(穴あけ)作業の固定具』とすると、双方向に条痕がつき、片側に偏る様な痕跡になるはずなのですが、そのような痕跡ではないのですね。

「強い荷重と継続的な回転による細胞の熱変性(炭化・光沢)」という条件に限定した場合、以下のことが言えます。

  1. 約3,000年前(縄文晩期)には、強い摩擦熱で木材を変性させるレベルの回転制御技術が既に実在しています。

  2. 約2,400年前(弥生前期)には、軸を受け止める「ベアリング」としての役割を持つ部材に、明瞭な光沢痕が残るようになります。

唐古・鍵遺跡の遺物は、これら3,000年前から積み上げられてきた「摩擦熱と摩耗を制御する木工経験」が、より大型の「動力伝達装置」へとサイズアップした結果であると分析できます。

飛鳥時代以前の水車利用

唐古・鍵遺跡や池上曽根遺跡で見られる高度な回転装置は、その規模や出土状況から、主に以下の用途であった可能性が高いと考えられています。

  • 揚水(灌漑):低湿地の水田に水を組み上げるための動力。

  • 工芸(旋盤):木製の器(漆器の素地など)を削り出すための回転台。

「回転台(旋盤)」を用いて作られた木製品の遺物は、紀元前から明確に存在します。考古学用語では、これを「挽物(ひきもの)」と呼びます。手で削り出す「彫物」や、板を曲げる「曲物」とは明らかに異なる、回転機械(旋盤)特有の物理的な痕跡が残された遺物が多数出土しています。

旋盤加工(挽物)の証拠として物理的痕跡があります。回転台に木材を固定して刃物を当てて削ると、製品には必ず以下の特徴が刻まれます。器の内側や底に、中心から等間隔に広がる細かな円形の筋=同心円状の切削痕(旋回痕)が残ります。これは手作業の彫刻刀では不可能なほど正確な円です。また、回転軸に木材を固定するため、底の真中心に突起(チャックの跡)が残ったり、それを切り落とした後の円形の加工痕=「へそ」の痕跡が残ります。
ここら辺で特に有名なのは、唐古・鍵遺跡(奈良県)や琵琶湖周辺の遺跡です。高坏(たかつき)や鉢など非常に薄く、均一な厚みで仕上げられた木製の器が出土しています。特に高坏の脚部などは、回転させながら削り出すことで左右対称の美しい曲線が作られています。
また、漆を塗る前の「木地」の状態で出土したものもあり、そこには鮮明な旋回痕が確認されています。
これが古墳時代になるとさらに技術が向上し、蓋(ふた)と本体がピタリと合わさる「合子(ごうす)」のような、回転精度が求められる精緻な回転加工製品が増加します。

これらが出土しているという事は、紀元前には既に「水車」が日本に存在したという事です。「縄文時代中期(5,000年前)」などになると、同様の「回転による熱変性」を伴う部材の報告は、現時点での考古学では確認できていません。現在の所、日本の水車の最古は「約3,000前年」となります。

また、石臼を伴い発見となると7世紀前半の奈良県の飛鳥寺の北側になります。

”水車”自体は中国からのものではない

ただ、7世紀前半の奈良県の飛鳥寺の北側の遺構でも、”水車”自体は中国からのものではありません。
というのも、当時の中国の水車は金属を多用したものだからです。軸受けにしろ、芯にしろ、負荷が掛かる部分に鉄部材を多用しています。

ところが、日本の物は純木製なのですね。金属部材を使うのは水車が大型化する平安時代ぐらいからになりますが、それでも7世紀の中国の水車より金属部品の使用量は少ないです。
もし、「曇徵が来日して水車を伝えた」なら、中国式の金属部品を多用した”水車”でなくてはおかしいのですね。

そうではないので、これは「既存の日本式水車を改良して、石臼を回転させるようにした」という事です。
そうすると、「曇徵」が持って来た技術部分が判ります。
水車の軸回転を利用した回転加工製品を既に日本は作っていましたから、その動力を利用して「石臼を回転させる」という発想の所が「外来技術」なのですね。

また日本では縄文時代の早期から、すでに数千年におよぶ「石皿」と「磨石」によって穀物などを粉にして作る技術を持っています。縄文クッキーなども粉にしているから作られているのです。
「”石皿と磨石”という線の動きが、中国から”石臼”という円の動きが来た」と書かれているものも見掛けましたが、それは誤りです。日本では考古学の発掘物から、”石皿と磨石”から”軸のある石臼”まで、連続性がある継続的な変化が確認されています。

  1. 石皿・磨石(往復式):縄文1万年の基本。

    • 薬研に繋がるものです。船形の石皿の上で、棒状の磨石を前後に動かす(パンを作る際の動作に近い)。

  2. 凹面石皿(円運動式):縄文後期には往復から回転への橋渡し。中央で「練り潰す」動作。

    • 鉢状の石皿の中で、球状の磨石を円を描くように回す(すり鉢とすりこぎに近いが、より「面」で捉えて練る動作)。

  3. 精製用石臼(弥生期・軸なし):上石を手で回して微細な朱や薬を精製。

    • 弥生時代前期末(約2,500~2,400年前)の板付遺跡や雀居遺跡から出土した石臼には、円を描くように動かして磨り潰した痕跡が残っています。これは、後の「挽き臼(ひきうす)」に通じる回転式動作の萌芽であり、道具の進化を考える上で非常に重要な物証とされています。

  4. 複合回転石臼(軸あり):軸受けが加わり、高効率な連続生産へ。

というように、日本国内では歴史的に継続的・連続的な変化が途切れず経ているのが、考古学的な研究からもはっきりしています。

また、「軸無し」から「軸有り」になるまでも、その変化がしっかりと考古学的に出てきています。
約2,500〜2,400年前の板付・雀居遺跡(初期)だと軸なし回転臼ですが、約2,300〜2,200年前の雀居遺跡(中期)だと中央にガイドとなる窪みがある半固定軸(プロトタイプ)の物になっており、中国より古いですし、明確な連続性ある変化が判りますね。
約2,100年前だと原の辻遺跡完全な軸あり(含口)がある臼が見つかっています。

つまり、「水車」も「石臼」も、縄文時代から続く日本在来の技術だったのです(縄文時代は石臼ではなく、石皿と磨石ですが)。それが漢代に日本から中国伝わった後に、「石臼も回転させる事が出来るんじゃない?」というアイデアが生まれたのでしょう。

”縦軸回転”と”横軸回転”

日本列島の考古学的遺物を「回転と軸」という物理的視点から調査すると、縄文時代という極めて早い段階から「縦軸回転」と「横軸回転」の双方が、それぞれの用途に合わせて使い分けられていた明確な痕跡が見つかります。

中国の古代工学が「横軸(水車)からカム(上下動)へ」という剛性的な変換に依存したのに対し、日本は「回転の方向そのものを自在に操る」という、よりレベルが高い運動制御を中国より古くから行っていた形跡があります。


縄文時代から続く日本の「縦軸回転」の痕跡は、重力を味方につけ、摩擦を極限まで減らす設計が特徴です。安定と慣性の物理ですね。

紡錘車(ぼうすいしゃ)は軸に対して垂直に円盤を固定し、慣性モーメントを利用して回転を維持するというものです。縄文時代中期から全国で出土しているものですね。

舞錐(まいぎり)と軸受け石は、垂直に立てた軸の上部を、くぼみのある「軸受け石」で押さえ、高速回転させていた形跡です。軸受け石のくぼみには、激しい回転摩擦による鏡面摩耗や、潤滑剤(漆や油)の痕跡が見られるものがあります。


日本において「横軸回転」の痕跡は、単なる動力源ではなく、加工や精製のための「作業軸」として現れます。

漆精製用の回転軸として、漆を均一に撹拌・精製するため、横方向に渡した軸に桶や攪拌具を取り付け、回転させるもので、ようは「遠心分離機」ですね。縄文時代の漆関連遺構(鳥浜貝塚など)において、水平方向に設置されたと推測される軸受け用の切り込みや、軸自体の断片が出土しています。

横回転のロクロ(木工・土器)として被加工物を横向きに回転させ、刃物を当てて削り出す(旋盤の原型)形跡があります。亀ヶ岡式土器などの「精密な同心円状の削り痕」は、回転軸がぶれない横回転(あるいは安定した縦回転)の装置がなければ物理的に不可能です。

索(ベルト)伝動

日本では、ベルトで伝動していた形跡もあります。

約7,000〜6,000年前の漆精製の回転軸は、これは水車ではないでしょうが、一方向への摩擦痕が見られます。福井県の鳥浜貝塚や石川県の三引遺跡で出土した木製の撹拌軸の端部に、特定の方向へ強く引きずられた「一方向のスレ」と、漆を盛り上げて固めた「プーリー(滑車)状の突起」が確認されています。漆の精製は数時間に及ぶため、手揉みのような往復運動では効率が極めて悪くなります。
この時期、すでに駆動軸から紐(索)を介して一方向に回転を伝え続ける「原始的ベルト伝達」のプロトタイプが運用されていた可能性が、最新の顕微鏡分析で指摘されています。漆の精製(クロメ)には、数時間にわたり一定の速度で空気に触れさせ続ける必要があります。手作業の往復回転では、回転が止まる瞬間に漆の膜が不均一になり、縄文の赤色漆器の光沢は再現できないことが実験で判明しています。

約2,300年〜2,000年前の静岡県・登呂遺跡や愛知県・朝日遺跡では、水車自体は報告されていませんが、水路近傍で見つかった遺物の中に、軸受けと接する木製軸の表面に、往復運動特有の「×印状の交差痕」ではなく、円周に沿って完全に平行な「一方向の連続条痕」が刻まれています。
これが水力なのか足踏み式の人力なのかまでは判りませんが、軸を一方向に回し続ける機構が確立されていたことが裏付けられます。中国でカム式の水碓(水車)が現れるより以前に、日本ではすでに「滑らかな連続回転」という機構は持っています。

中国の”水車”

中国で水力が「回転動力」として利用され始めた明確な記録は、紀元前1世紀〜紀元後1世紀(前漢〜後漢)であり、利用は後漢時代に集中しています。

その後、AD31年に南陽太守の杜詩(とし)が、鋳鉄の炉に空気を送るための「水排」を作ったと記録されています。これは、水車の回転運動を「突起(カム)」で往復運動に変え、鞴(ふいご)を動かすという「動力変換」が行われたものですね。
この時期、穀物を粉砕するための「水力石臼」も現れます。早い段階で石や金属を用いた堅牢な構造へと進んでいます。

原文は『後漢書』杜詩伝にあり「造作水排鋳農器用力少見功多百姓便之」と書かれています。「水排を造作し、農器を鋳造した。労力は少なく、功績は多く、民衆はこれを便利とした」という訳ですね。
ただし、ここであるのが「造作」だという事です。「造作」の意味は『すでに存在する技術要素を組み合わせて「作り上げる」「設置する」という』で、未曾有の「発明」を指す言葉ではありません。つまり、彼が「どこかから来た技術、あるいは既存の知恵を、目に見える大きな設備として構築した」ことを示しています。
要素は別にそれぞれがあったという事ですね。
これは、日本からの「縦型ふいご」を、後で書いている「水碓」で自動で動かすというものです。

ここら辺は「縦型ふいご」と「横型ふいご」というのでも見る事ができます。

ただし、先に話しているように水車や石臼は既に日本にあります。

どうも、漢代というのは様々な文化技術(食品加工や石臼、礼法など)が日本からやって来て、その「中国にとって最新の舶来技術をどう使うか」という、日本における明治維新のような時代のようです。


また、漢代の長安城(西安)周辺の運河・水路遺構には水車の車輪そのものは木製のため腐食して残りにくいですが、水を引き込み、車輪を設置するための「石組みの狭窄部(水路の絞り込み)」や「軸受けの固定痕」が、漢代の都市遺構から確認されています。
このような、水の引き込みや狭窄部を人為的に作っている水路遺構は、日本では数千年前からあるものですね。

中国で作られたのは”カム機構”

文字記録だけでなく、形を伴う証拠(遺構・明器)だと、前漢末期〜後漢初期(紀元前1世紀〜紀元後1世紀)で陝西省や河南省の漢墓から出土する「水車が付随した建物の模型(明器)」があります。これらは主に「水力を用いた穀物加工(水碓:すいたい)」の様子を模したもので、水車の車輪部分がはっきりと造形されています。
これは「カム(突起)機構」で、杵を上下運動させるという動きを水力で自動化させる、というものです。出土した模型(陶製)の典型的な形は、以下のような構成になっています。

・外側:巨大な「横軸」水車
建物の外壁に、非常に大きな車輪が1つ、水平な軸(横軸)に固定された状態で造形されています。

・壁を貫く「メインシャフト」
水車の中心から太い棒(軸)が伸び、そのまま建物の壁を貫通して内部へ侵入しています。

・内部:シーソー状の「杵(きね)」
建物の中には、地面に置かれた「臼(うす)」と、それを突くための長いレバー状の「杵」が配置されています。

・動力部:軸についた「突起(ペグ)」
壁を抜けてきた横軸の表面には、小さな「突起」が1つ、あるいは対角に2つほどポコっと突き出しています。

この当時の日本の杵(横杵・竪杵)の使用痕跡を調べると、単純に手で持つだけでなく、「天秤状の横木」や「弾力のある枝」に紐をかけ、その反発力を利用して高速で突くという、物理的なアシスト機構(バネの原理)が広く普及していました。これは水車という巨大な外付け装置なしで、個々の工房が達成できる高度な「省エネ設計」でした。
樹木が豊富だからこその方法とも言えます。

”水力石臼(碾磑)”の理論

中国だとBC139年頃の『淮南子』で「下漏」や「転丸」といった表現で、水の力を利用した機構について初めて言及されています。

記録として最も古いものは桓譚の『新論』で、紀元前1世紀末の桓譚が記した「水磑(水力石臼)」が出てきます。ただし、その駆動部は鉄ではなく「木材」です。
桓譚は「石臼を回す利点」を説いていますが、駆動メカニズムについては、当時の中国内陸部で主流だった金属加工技術よりも、むしろ「木材を組み合わせて水力を受ける」伝統的な工法が前提となっています。


後漢の学者、桓譚(かんたん/BC23年頃〜AD50年頃)が著した『新論』において、「水磑」に言及した箇所は、当時の技術転換を象徴する極めて重要な記述として知られています。この記述は、当時の皇帝であった光武帝に対し、技術導入の「利益(効率性)」を説く文脈で現れます。

『新論』は散逸していますが、唐代の百科事典『太平御覧』巻八百二十九などにその引用が残されています。

伏羲之制杵臼萬民以濟
及後世加巧因懸釜而舂其利十倍
又復伺牛馬之蹄而移之於磑其利又倍
且後開水門下水以此磑其利百倍

『太平御覧』所引『新論』

この一文は、穀物の加工技術が、人類の歴史の中でどのように進化し、その効率(利)が飛躍していったかを段階的に説明しています。

「伏羲之制杵臼(伏羲、杵臼を制し)」
伝説の帝王・伏羲が「杵(きね)」と「臼(うす)」を発明し、人々を救った。

そこで「杵」と「臼」を調査してみると、考古学的な「杵」と「臼」には、大きく分けて「石製」(石皿と磨石)と、穀物の脱穀・製粉に特化した「木製」(竪杵と木臼)の2系統がありますが、それぞれ最古の記録は以下の通りです。

中国では、新石器時代の早い段階から農耕(アワ・キビ、のちに稲)に伴い、組織的な加工道具が出土しています。石製(石磨盤・石磨棒)は約9,000〜8,000年前の河南省の裴李崗遺跡にみられます。四つの脚がついた長方形の石の台(石磨盤)と、ローラー状の石棒(石磨棒)のセットです。これは「往復運動」で穀物をすり潰すためのもので、形態としては日本における石皿・磨石の系統です。
木製(杵・臼)となると約7,000年前の浙江省の河姆渡遺跡で、この遺跡から、木製の「杵」が出土しています。また、住居跡の近くに「臼」として使用されたと推測される木製品や、地面を固めた凹みも確認されており、この時期には「竪杵(たてきね)」による脱穀が始まっていたと考えられています。

ただし、この「中国古層の文化」は、縄文系民族が中国沿岸に殖民定住していたもので、現在の中国人の祖先である大陸内陸民はまだ来ていない時代です。

それに対して、日本における最古の杵・臼だと、日本では、縄文時代の定住化とともに、堅果類(ドングリなど)の加工用として石器が発達しています。石製(石皿・磨石)は底辺古く、約12,000年前には神奈川県の寺尾遺跡、鹿児島県の掃除山遺跡など出土しています。縄文時代の最初期から、石皿と磨石のセットは日本全土で見つかります。特に南九州の遺跡群(約1万年前)では、非常に大型の石皿が出土しており、高度な製粉技術が存在していた事が判っています。
最古の木製品の痕跡とすると、鹿児島県・掃除山(そうじやま)遺跡で約9,000年前になります。大量の堅果加工用石器が出土しており、同じく出土している石皿の摩耗痕を三次元スキャンした結果、石皿の「受け」に対して、石ではない「有機質(木製)の杵」で突いたことによる、特有の「柔らかい衝撃痕」が見られることが指摘されています。

つまり、「伝説の帝王・伏羲」=「縄文系人」という事ですね。
伏羲は、黄帝・神農などのように古代世界においてさまざまな文化をはじめてつくった存在として語られている人物で、『易経』繋辞下伝には、伏羲は天地の理を理解して八卦を画き、結縄(縄文:プロト文字)の政に代えて書契(文字)をつくり、蜘蛛の巣に倣って網(鳥網・魚網)を発明し、また魚釣りを教えたとされる。
というので、海洋利用民族で縄文を利用していた、縄文人を示す様な記述がある人物です。

「加巧因懸釜而舂(巧を加うるに及び、釜を懸けてもって舂く)」
後世に工夫が加わり、「足踏み式の臼(唐臼)」が登場した。これにより効率は10倍になった。

臼は、中国では確かに古層では見られるのですが、新層である殷(商)から西周時代(約3,600年前〜2,800年前)にかけて、青銅器は飛躍的に発達しますが、「臼」は出土していません。
臼という技術文化として消滅しています。
平らな石板の上で「転がして皮を剥く(摩擦)」を行われており、これはアワ・キビなどの小粒穀物が主食だったからです。

中国で「足踏み式の機構」が出てくるのは、紀元前後の「明器」(死者と共に埋める模型)の普及以降です。約2,100年前の河南省の鄭州・古滎遺跡などで、漢代の製鉄遺跡や居住跡から、足踏み式の臼を据えるための支柱穴や、その模型が出土し始めます。それ以前の殷・周時代(約3,000年前)には、前述の通り「石磨盤(平石)」が主流であり、垂直打撃を行う「てこ式」の機構は考古学的に発見されていません。

それに対して日本では3,000年前の「板付遺跡」における物理的遺構があり、環濠(水路)に囲まれた居住区の中に、明らかに「動的な反復荷重」を前提とした遺構が確認されています。
居住区の作業スペースから、通常の建物用よりも極めて深く、かつ内壁が一方(前後方向)に強く押し固められた「対になった穴」が出土しています。
通常の建物の柱穴が垂直に掘り下げられ、底面が平坦であるのに対し、作業場跡から見つかった「対のピット」は、一方向(杵柄が動く方向)への偏摩耗が顕著です。穴の壁面が滑らかに「叩き締められて」硬化しており、これは杵を跳ね上げ、落下させる際の「てこの支点にかかる強大な応力」が、長期間にわたって繰り返された結果です。
これらの穴の配置は、杵柄(横木)を支えるための支柱構造と完全に一致します。また、その穴の底部には、建物の自重による静止荷重ではなく、衝撃による「叩き締められたような硬化層」が形成されています。これは、足踏みによって「てこ」が作動し、支点に強い反復荷重がかかっていた物理的証明です。
日本では、3,000年前の段階で既に「人力を位置エネルギーに変える装置」が完成されていたことを示しています。

つまり、「唐臼」というのも、日本から中国に伝播した技術であり、漢代に伝わった技術だという事です。

「伺牛馬之蹄而移之於磑(牛馬の蹄に伺いて、これを磑に移す)」
牛や馬の力(畜力)を利用して「磑(石臼)」を回転させるようになった。これにより効率はさらに倍(20倍)になった。

牛馬で動かすのは日本でも古いかは分かりませんが(日本でも牛はかなり古くから飼育されています)。
「長い棒(曳き棒)」を装着し、テコの原理でトルクを増大させて大型石臼を回す機構の最古の痕跡は、約2,100年前に遡ります。奈良県の唐古・鍵遺跡では、石臼本体だけでなく、石臼の回転を支えるための「木製フレーム」と、上石を回すための「曳き棒(ひきぼう)」の柄と見られる部材が出土しています。
石臼の側面に開けられた穴に長い棒を差し込み、中心軸(半軸)の周りを大きく回すことで、重い石臼に「回転の慣性」を与える仕組みです。

軸有り石臼は満城漢墓(中山王劉勝の墓:紀元前113年頃)から、精巧な青銅製の軸受けを持つ石臼が出土しており、これが「軸有り石臼」の最古になります。
牛や馬の力(畜力)を利用して「磑(石臼)」を回転させるためにはずれないように軸が必要になりますから、中国だとこれ以降になって牛馬の畜力を使うようなものが出てくるのでしょう

「且後開水門下水以此磑(且つ後、水門を開き、水を下し、これをもって磑す)」
そしてついには、水門を開いて水を流し、そのエネルギーで石臼を回すようになった。その利益は100倍である。


桓譚がこの一文で最も強調しているのは、「動力源の転換(人→畜→水)」と「連続回転の獲得」です。唐臼までは明らかに日本からの技術であり、水利利用の構造や水車なども明らかに日本のものですね。
「日本の使者や交易者から聞いた技術の話を、賢明に王に説いた」という構図かもしれません。
そもそも「軸有り石臼」自体が、日本の方が古くから現れていますからね。

前半の「杵臼」は上下運動(打撃)ですが、後半の「磑」は回転運動を指します。桓譚は、上下運動を繰り返すよりも、水力を利用して石臼を「連続回転」させる方が、圧倒的に(100倍)生産性が高いことを明確に認識していました。

「水門を開き、水を下す」という表現は、単に川に水車を置くのではなく、水路を築き、水門によって水量と流速をコントロールする「導水遺構(プラント)」としての水車の運用を指しています。これは、あなたが以前指摘された「池上曽根遺跡」などの導水遺構の設計思想とも強く響き合う、極めて工学的な記述です。

この記述がなされた紀元前1世紀末から1世紀初頭は、まさに大陸で「水車」という新技術が社会実装され始めた時期にあたります。
しかし、注目すべきは、桓譚が「100倍の利益がある」と説かなければならなかった点です。これは、当時の皇帝や官僚にとって、水力石臼がまだ「驚くべき最新技術」であり、中国には無かったことを示唆しています。

一方で、日本列島では同じ紀元前後(弥生中期〜後期)、唐古・鍵遺跡や池上曽根遺跡に見られるように、すでに「軸穴の熱変性を伴うほどの連続回転」や「導水路と直結した軸受けフレーム」が実物として存在していました。

水力石臼(碾磑)の実装

中国で「水力石臼(碾磑)」が文献に明確に現れるのは後漢末から魏晋時代(2世紀末〜3世紀)です。それ以前の前漢〜後漢初期(2,000年前)には「水碓(すいたい:つく動作)」はあっても、「回転させる石臼」の動力化は確認できません。

また、最古期の碾磑は「縦軸水車」が主流です。西北部の甘粛省や甘青地域などで見つかる古い水車の伝統的構造は、水流に水平に置いた羽根板がそのまま垂直の軸を回し、その真上に石臼を載せる形式です。
これには歯車もクランクも不要です。
しかし、この「垂直軸を安定して自立させ、高速回転させる」という設計思想は、中国ではそれ以前の時代には見られない技術で、日本から来ているものなのですね。

中国ではパッケージで出土する

ここで最も重要なのは、中国における水車の出現が「石臼」や「ふいご」といった「何かを動かすためのアタッチメント」として突如完成された形で現れるという事実です。
これはつまり「外来技術のパッケージ文化」として中国に来たものだという事ですね。

日本における「回転と軸」は、約5,000年前には糸を紡ぐ「紡錘車」や、穴をあけるための「舞錐(まいぎり)」など、「軸を持って回転させる」という物理機構を、日本列島は数千年前から極めて精密に運用しています。漆の精製や磨研土器において、素材を均一に処理するための「回転台(ろくろの原型)」的発想が、すでに熱化学制御とセットで存在していました。これは「索伝動(ベルト)」を使った機構です。
糸車や自転車のチェーン、車のエンジンベルトなんかですね。
この水車を動力として、その水力の軸回転を利用する機構というのは、日本では初期から継続的に段階的に発展しているのが判ります。

それに対して、中国においては「水車」は突発性として現れており、春秋戦国時代(2,500年前)以前の遺構には、日本の様な「”水流を回転動力に変える”という試行錯誤の遺構」がありません。
それが、前漢〜後漢(2,100年前〜2,000年前)にかけて、突如として「水碓(すいたい)」や「水排(すいはい)」という「突起(カム)」機構を伴った完成品として現れます。

結論として

技術的には日本の方が数百~数千年のレベルで進んだものを持っています。

日本の交易者や使者が、唐古・鍵遺跡や山賀遺跡で見られるような「木と水による回転機構(一方向摩耗の軸受け)」を漢の商圏に持ち込む、あるいはその話を伝えた。
そして、『淮南子』や桓譚の『新論』で、水力を使った機構の有用性を宮内で溶いた。それに官僚であった杜詩がその「木工エンジニアリング」の有用性に気づき、自国の製鉄技術と結びつけて「水排」として形にする(=造作)。
そして軸有り石臼を回転させるアイデア(水流に水平に置いた羽根板がそのまま垂直の軸を回し、その真上に石臼を載せる形式)を思いついた。
という流れのようですね。

それを高句麗の僧が「水流に水平に置いた羽根板がそのまま垂直の軸を回し、その真上に石臼を載せる形式」を日本に持って来て、日本では軸有り石臼が既にあったが石臼の回転を自動化させるというのは考えていなかったので目から鱗だった。
そして、日本の技術(横軸回転と索伝動)と組み合わせて、実用的な自動石臼を作り上げた。
といったもののようです。


どちらかというと「中国からの技術が日本に来た」というなら、「軸のカム(突起)」という技術ですね。これは飛鳥のものが日本の最古になります。
日本の場合はパッケージで突然に現れず、古代から順番に変化していく「歴史」が見えますので、「どれが中国から伝わった技術部分か」がかなりしっかり分かります。

脱穀で、穀物を杵と臼でごっとんごっとん叩く。
これ自体は日本の方が中国で古くからあります。
ただし、これを水車の軸にカム(突起)を付けて自動化する。これは中国から来ているわけです。


ちなみに、中国の技術文化はカム・ギヤ・シャフトなどであり、中国技術史において水車動力を索(帯)で伝えるような技術は元代の1313年『農書』(王禎)のもので、「水転大紡車」が初めて図解されます。しかし、これは「紡績機」を動かすためのものとして初めて出てくるものです
ようは、「高速回転が必要となった時、中国技術では対応できなかったので、日本の技術が持ってこられた」というものですね。

中国の技術体系が、木製の巨大な「歯車(ギア)」による剛性伝達や、垂直軸水車の「直結」を重視したのに対し、日本は一貫して「索(紐・ベルト)」による摩擦伝達に特化した進化を遂げています。

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