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”胡椒”を見定める

中国の宋代以前の『胡麻』は、「大麻」の事を言っていたと明らかにしました。

そこで、”胡”繋がりで『胡椒』も調べてみると、やはり宋代以前の『胡椒』は『現代で言う”胡椒”』とは違う事が判りました。


”胡椒”とは?

『胡椒』というのを調べると、このような事が書かれています。

西域から来たスパイスですが、日本に入ってくると「胡(異国)の椒(山椒のようなもの)」と命名されました。山椒とは全く別の植物ですが、感覚的に「辛いスパイス」という共通項だけで「胡+椒」と分類したわけです。

ところが、中国の古い史料を確認すると『胡椒』というのは「南から来た」とも中国の史料にはあります。来る方向がまるで違いますね。

『胡』の意味が違う

そもそも『胡』というのは本来は西域や騎馬遊牧民族を指していません。
『史記』には中国戦国時代の趙の第6代君主(BC325~298年)の武霊王の記録に『胡』とありますが、『東に胡、西に林胡、北に燕』とあります。

当時の地理は上図のようなものですから、「東に胡」というのは斉を指しています。しかし斉は田であり、遊牧騎馬民族ではありません。「西に林胡」は黄河辺りに居た民族を指しますが、こちらは騎馬遊牧民族です。
つまり『胡』とは、元々は「蔑称」か、あるいは他の意味でしかなく、騎馬民族をさしているわけではないのです。
この『胡』が騎馬民族を指す様になるのは、唐代とかその前の時代からになります。

つまり、『胡麻』の時もそうですが、「西域から来た」という自体がそもそもの勘違いなのですね。

日本での「胡椒」の記録と物証

日本で「胡椒」という名称が文献に登場する最古の記録は、8世紀中頃(750年代)の『正倉院文書(天平勝宝年間)』で、天平勝宝8歳(756年)の聖武天皇崩御後に、光明皇后が東大寺の大仏に献納した「国家珍宝帳」の中に、「胡椒」の記載が確認されます。

ただ、「胡椒」という記録はあるのですが、しかし、胡椒自体の物証はこの時代では出てきません。出てくるのは遠く未来の江戸時代、ポルトガル商船が「胡椒」を持ち込んでから利用されています。中国からではないのですね。

中国での「胡椒」の記録と物証

記録としては以下があります。

三国時代の『広志(郭義恭)』で、この書は現存しませんが、唐代に編纂された百科事典『太平御覧』巻972「食貨部」に引用されている記述が最古の学術的参照点となります。

胡椒出南番
其木如棠蔓延周回作実如豌豆
従西域来者色黒而味辣

広志

これを「胡椒は南番(南方の異民族地域)に出づ。其の木は棠(山梨の類)の如く、蔓延して周回し、実を作ること豌豆の如し。西域より来たるものは、色黒くして味辣」と解釈されています。
「豌豆」とはエンドウ豆の事です。

南北朝時代だと『斉民要術(賈思勰)』巻十の「雑説」においては、

胡椒出西域
其木如大豆蔓延作実如豌豆
其味甚辣可供薬用

斉民要術

これは「胡椒は西域より出づ。其の木は大豆の如く蔓延し実を作ること豌豆の如し。其の味甚だ辣く、以て薬用と供すべし」と解釈されています。
『広志』と比較すると、「南蛮」だったのが「西域」とまるで違う方向になっています。木の状態を「棠(山梨)」から「大豆」と表現が変わっています。形態の記述が安定していないことは、これが実物観察に基づく植物誌ではなく、伝聞の集積であると考えられます。
これは、この時代だと『胡』が「異国」ではなく「胡族(西胡)」を指していた為、字面だけで勘違いしたのではないかと思います。

唐代だと『新修本草(蘇敬他・659年)』で、この書は国家レベルで編纂された、現物確認を前提とした薬学知識の集大成です。原文(『本草拾遺』等の引用を経て伝わる記述)では、

胡椒生西戎。
其木如柳子如小児手拳数枚合成一房
実如豌豆黒褐色
唐長安中自西域来者味最辛辣

本草拾遺

と書かれており、「胡椒は西戎に生ず。其の木は柳の如く、子は小児の手拳の如きものが数枚合成して一房となる。実は豌豆の如く、黒褐色なり。…唐の長安中、西域より来たる者は、味が最も辛辣なり」と解釈されています。

しかし、書物に『胡椒』と書かれている時代には、中国では「胡椒」は物証となる遺物として出土していません。

中国におけるコショウ(Piper nigrum)の考古学的物証(実物の出土)は、南宋時代(13世紀中頃)の広東省陽江市沖の南シナ海、「南海1号(Nanhai No.1)」沈没船から見つかった物で、植物考古学者が沈没船の荷物の中から31粒のコショウを発見・同定しているのが最古になります。
これは、宋代のジャンク船による沿海貿易で南から輸入していた、という証拠です。

その他の地域での胡椒の出土

『胡椒』はインド南西部(マラバール海岸)が原産とされています。
2,200年前のインド南西部のケララ州エルナクラム県に位置するパッタナム遺跡で、遺跡の堆積層から出土しています。この地域はマラバール海岸に位置し、ローマ時代の土器(テラ・シギラータ等)と共伴して出土しているため、インドのみならず、対外交易路の結節点としての性格が明確にあります。
インド南東部のポンディシェリ連邦直轄領のポンディシェリ近郊にある約2,200年前のアリカードゥ遺跡でも港湾部および居住区の層位から、胡椒の種子または実の断片的な遺存体が、ローマ時代の土器(アンフォラ等)と共伴して出土しています。

西ガーツ山脈周辺だと、カルナータカ州のベリ・カル湿地周辺で約8,000年前の堆積物からの花粉分析により、胡椒属の花粉が検出されています。他、タミル・ナードゥ州のムダマライ湿地周辺では、約5,000年前の堆積物からの花粉分析により花粉が検出されています(パッタナム遺跡とアリカードゥ遺跡の中間ほどにある山脈です)。しかし、人間がそれを「利用した」ことを示す物理的物証(種子や果実)は、約2,200年前(紀元前2世紀)より古い遺跡からは一つも報告されていません。
また、パッタナムやアリカードゥの遺跡層から胡椒の種子が検出されるのは事実ですが、それらは「交易・輸出のための集荷」を目的とした堆積層からのものであり、「厨房で食用として調理された痕跡(調理容器の残留物や、調理された焦げ、他の食材と混合された調理ゴミなど)」としての出土例は、現時点で報告されていません。

もっとも古いのは、紀元前13世紀(約3,340年前)のエジプト。テーベのラムセス2世のミイラで、ミイラの鼻腔内に充填材として使用されています。このエジプトとインドの間だと、エジプトの紅海沿岸にあるベレニケ遺跡で、約2,000年前のもの。ベレニケは古代エジプトの紅海貿易港であり、ローマ時代の文化層から、大量の黒胡椒の種子が出土しています。 大量出土した胡椒の種子の中には、調理物の廃棄に関連する層からに含まれるものが確認されており、調味料として使用されていたのが判ります。
インドからの海上交易品として、この港を経由し、ナイル川を経てアレクサンドリアやローマへ運ばれていたことを示すものです。
ただ、エジプト紅海沿岸のベレニケ遺跡以外で、この航路上に位置する他の遺跡(アラビア半島沿岸や中継港など)から、紀元前〜紀元後初期の層位において胡椒の種子が出土したという確実なものはありません。

ローマ帝国では、胡椒が広く「調味料」として普及しており、イタリアのカンパニア州にあるポンペイ遺跡(約1,950年前)では厨房や食品加工場の遺構から、胡椒の種子が他の食材(ガルムや穀物など)と共に出土しています。これは調味料として使われていたという事です。
1,600年ほど前の西暦4世紀頃に編纂されたローマの料理本『アピキウス料理書』には、掲載されているレシピの約8割に胡椒が必須の調味料として記載されています。

時代的には中国に来ていてもおかしくありませんが、全て西に輸出されているようです。

ただ、問題としてはやはり「インド発祥」というのは確かそうですが、インドで利用していた形跡が見当たらないという事ですね。
胡椒は積んだ後に「加熱」して「天日干し」する必要があります。つまり、生産・加工はインドで行われていたのは確実なのです。「収穫・加熱・乾燥・選別」という一連の加工処理は、そのほとんどが「輸出」するための人為的な工程という事ですね。現地の人々(インド現地民)が消費するためではなく、外の世界(エジプトやローマ)の市場ニーズに合わせて製造していたと考えられます。
「地元での調理利用の形跡がない」という事実は、この胡椒がインド国内の文化圏における「調味料」ではなく、外からの要求によって生み出され、外へ持ち去られる「外来の産物」として扱われていたという事です。これは、現代的な意味の帝国による領土支配(政治的植民地)とは異なり、古代においては「商業的・経済的植民地」というべき形態ではないかと推測されます。
つまり「香辛料として見つけたのは、西アジアのエジプト人」辺りだと思われ、インドの港(パッタナムなど)を拠点とするエジプトやローマの商人や生産業者が、インド現地住民も使い、インド南端で生産拠点としていた。
という構図が考えられます。

「インド原産」ですが、「インド人発祥」ではなく「エジプト人発祥」なのですね。中国古層文明が「中国という土地の歴史」でも「中国人の歴史」ではなく「日本人の歴史」であるように。

シルクロードの胡椒

シルクロードは、ウィグルまでは綺麗に並ぶ。

シリア・ホムス県で約1,800〜1,900年前の交易都市・パルミラの市場および倉庫(税関管理下)で見つかっています。紀元2世紀の「パルミラ税関法」という碑文により、胡椒が東方(インド)から輸入される課税対象品であったことが記録されており、出土物は当該都市の市場区画および関連する倉庫遺構からのもの。

現在は中国の新疆ウイグル自治区民豊県にある約1,600〜1,900年前のニヤでは、交易商人の邸宅・店舗(倉庫・容器内)から見つかっています。20世紀初頭にオーレル・スタインが発掘しており、カロシュティー語木簡とともに、居住および商業を兼ねた建物内の保管容器から出土したものですね。生活廃棄物(厨房ゴミ)とは異なる管理下での保管状況でありました。

ニヤの東、新疆ウイグル自治区・若羌県にある約1,600〜1,700年前のミラン は隊商ルート上の駐屯・中継拠点です。1906-1907年および後の中国側調査で砦および隊商宿泊施設を含む拠点遺構からの出土しています。ここも食料自給の厨房遺構ではありません。

どうも、貨幣の代わり(交易交換品)としての価値になっているようです。


ところが、このミランより東には、北東・東・南東のどちらにも繋がる『胡椒の痕跡』が見当たりません。

これですが、「シルクロードを西から東に」という思い込みを外せば、判るようになります。逆で、「シルクロードを東から西に」という胡椒の動きです。
その輸入元はインドですね。

インド洋からマラバール海岸に集積された胡椒は、海路でインダス川河口(現パキスタン、カラチ近辺)まで運ばれます。そこから北上するルートがあります。

インダス川沿いの遡上し、タキシラなどの主要都市を経由し、北の山岳地帯へ向かいます。カラコルム山脈の越えで、現在のフンザやギルギット付近の峠を通過します。タリム盆地への到達すると、カラコルム山脈の東側を経由し、ホータン(于闐)を経由してニヤ、さらにはミランへと至る経路、というのがあるのが確認されています。
この経路は、現代の登山家や地理学者が「世界で最も過酷な交易路の一つ」と評する地形です。標高4,000〜5,000メートル級の峠をいくつも越える必要があったため、運ぶ物資は極めて高価で、かつ軽量・高密度のものに限定されました。
このようなコストのかかる山越えを商隊が行う場合、単なる食材(食料)や大きさ・重量物ではでは採算が取れません。そのため、胡椒のような「少量で高価値」かつ「現地で貨幣(決済手段)として機能する」商品が扱われます。
当時の西域の商館倉庫(ニヤ遺跡等)における出土品配置は、「中国産シルク」と「インド産香辛料・宝石」が同一空間で管理されていたことを示しています。これは、商隊がこれらの商品を「セットで西方市場(ペルシア・地中海)へ運ぶ」ために荷揃えしていた、という事を示しています。

これは、当時の社会情勢が関係しているようです。
西暦165年〜180年頃、ローマ帝国全土で「アントニヌスの疫病(Antonine Plague)」が猛威を振るいました。帝国の人口が激減し、経済活動が停滞しました。富裕層の購買力が低下し、高級品(胡椒や絹)に対する旺盛な需要が一時的に後退しました。そのため、莫大な経費がかかる遠隔地交易(紅海ルート)への投資が抑制され、ローマからの直接の商船団の派遣頻度が下がりました。
またインド側の「政変」もあり、インド南西部の胡椒供給地を管理していた勢力に変化が生じています。当時、インド南部の海洋交易を支えていたサーターヴァーナ朝の衰退と、北インドから南下を強めるクシャーナ朝の勢力拡大によるパワーバランスの崩壊です。港湾都市の行政機能が不安定になり、徴税や護送のシステムが混乱しました。これにより、海上の海賊行為が増加し、安定した物流が阻害されました。

海上交易の安全性が脅かされると、商人は高リスクの海路を避け、代替ルートを探すようになります。
ミランやニヤを経由する「シルクロードの陸路」は、国家の力(クシャーナ朝の保護下)で管理されていたため、海上の不安定さに対し、「コストは高いが、確実性(決済の保証)が高い」という利点がありました。
「紅海ルートの海上貿易ルートが難しくなった」ために、「陸路の重要性の再浮上(胡椒の陸路運搬の増加)」として使われるようになった。
つまり「シルクロードを東から西に行く」という方向で胡椒は運ばれたので、中国には来ていないのです。

古代『胡椒』の正体を暴く

「”胡椒”という名称の記録」はあるが「”胡椒”の物証」が出ない。
これは日本でも中国でも一緒です。

中国『胡椒』記録の違和感

原文を読んでいると判るのですが、
・三国時代『広志』
・南北朝時代『斉民要術』
・唐代『新修本草』
このどれもが、その記載内容が『現代で言う”胡椒”』の形状と合いません。

「其木如棠蔓延周回作実如豌豆」とありますが、胡椒は蔓性ですので「棠の木のようだ」というのは合いません。そして実り方は粒が寄り集まる形で実り、「豌豆(エンドウ豆)のようだ」と形状が合いません。エンドウ豆は莢を作り、その中に豆がある形ですよね。
「其木如大豆蔓延作実如豌豆」とありますが、大豆は蔓の様には生っていませんし、「豌豆(エンドウ豆)のようだ」と形状が合いません。

胡椒の実

また、『広志』では「胡椒出南番」と「東南アジアの方から来ている」と書かれているのに、『斉民要術』では「胡椒出西域」と「西域から来ている」と変わっています。

訳し方が間違っている

「其木如棠蔓延周回作実如豌豆」
これを「胡椒は南番(南方の異民族地域)に出づ。其の木は棠(山梨の類)の如く、蔓延して周回し、実を作ること豌豆の如し」と訳しているのが、そもそもの間違いではないかと思います。

実際、まっすぐに読めば

「その木は棠の木のように枝を広げて周囲に広がり、エンドウ豆のような実をつける」

と読める。
この説明を「蔓性の胡椒」を指しているいう思い込みで、その前にある「其木如棠」という文章を無かった事にしてはいけないのです。

2つの「カッシア」

この形状で当てはまり、胡椒の様な辛味がある植物というと限られます。

カッシア」というものですね。
これはマメ科センナ属の落葉低木です。

カッシアの実

ただ、同名の「カッシア」もあり、こちらは、日本でも近隣種が古くからあるもので、所謂「シナモン」、あるいは「桂皮」というものだと馴染みがあるかもしれません。ニッケイ属に属しており極めて多様な種を含み、その分布は東アジアから東南アジア、インド亜大陸、さらにはオーストラリアに至るまで、広範囲に分布しています。

こちらもカッシアの実

「中国南方が原産」と書かれているものを見掛けますが、別に南方が原産ではありません。どちらかというと、氷河期時代に温暖な気候を保持した避難地となっていた、日本の太平洋側から台湾、東南アジアといった地域の方が原産になります。「今は海に沈んでいるが当時は陸地だった東シナ海」なら当てはまり含まれると思います。

氷河期の地形

名前が同じなので、混ざってしまったのだと思いますが、『胡椒』とされていたのはこちらの方でしょうね。こちらは四川の西側・ベトナム北部・台湾南側の内陸部の少し高い位置で生育する種だと実る種子には痺れるような辛味があります。

カッシア(マメ科)は成熟すると黒っぽい紫色の袋状(莢状)になり、その中に種子が入っています。

・木(棠):枝葉の密度や質感が似ている。
・蔓延周回:枝が四方に広がる習性(カッシアの樹冠)。
・作実如豌豆:黒い豆状の果実(カッシアの実)。

というので、当てはまります。
ただ、こちらは古代から現代に至るまで、主に薬用(緩下剤)として利用されていますので食べられません。かつてはCassia属として広範に分類されていましたが、現在はその多くがSenna(センナ属)やChamaecrista(カワラケツメイ属)へと再分類されているものです。

もう1つの「カッシア」は植物学的にはクスノキ科の「ニッケイ属(Cinnamomum)」ですが、貿易および薬材の歴史的呼称として「カッシア」が使われています。
古代ギリシャ・ローマ時代において、ヘロドトスの『歴史』等に登場する「カシア(Kasia)」という名称は、既に芳香を持つ樹皮や香料を指す言葉として定着していました。この時点で、地中海世界に輸入されていたのは「ニッケイ属の樹皮」を主とするものです。これは、「桂の樹皮」が訛ったものだと思います。上古音の発音だと「桂の皮」は「kweɣ・bjiar」になりますからね(「”桂皮”」という単語(桂の実を指す)と「”桂”の”皮”」という説明(桂の皮と伝えたい)の違い。「菖蒲」が「あやめ」と読むと「アヤメ科アヤメ属」ですが、「しょうぶ」と読むと「ショウブ科ショウブ属」になるようなものです)。
これが定着したことで、本来のマメ科植物である「Cassia属(植物名)」と、クスノキ科ニッケイ属の「カッシア(貿易名)」という2つの異なる植物が同じ名称で呼ばれる状況が生まれたのが混乱の元なのでしょうね。

古代中国は実物を知らず、「カッシアの実」を聞いたので「エンドウ豆のように莢に入っている」とマメ科のものを教えられたという事です。実物を見ていたらそのような形状だと書くはずがなく、そしてそれが現在で言う「桂皮」が採取される樹木の「ニッケイ属の実」である事が分かったでしょう。

『広志』郭義恭とは

郭義恭は、4世紀初頭の晋代の人物です。
彼は『広志』において、当時の中国南部、および西南地域(蜀など)の物産を詳細に記録しています。
当該書は、交趾(現在のベトナム北部)や四川(蜀)など、当時の中国から見た「南」や「西南」の珍奇な動植物、農産物(芋、瓜、黍、梅など)を専門的に分類・記述する性格が極めて強い書物です。郭義恭自身が四川の産物(蜀の平蒂甘や蜀の梅など)について非常に詳しい記録を残していることからも、彼が当時の中央政府の知識人でありながら、同時に南方の物産や流通、特に「蜀」の物産に深く関心を持ち、実地的な調査や記録の収集を行っていた人物です。

『広志』は、陳寿が『三国志』で記述した地域よりも、より詳細に西南夷やその周辺の物産を記録しています。当時の知識人の中でも、彼は特に四川周辺の「蜀の産物」を独自に調査・整理する特異な立場にありました。

「胡椒出南番
 其木如棠蔓延周回作実如豌豆」

これは正に「カッシア」を指示しているのですが、二重の「カッシア」間違いをしているのですね。そもそも胡椒ではない、そしてさらに同じ名称の別の植物の種子を言っているという。

「従西域来者色黒而味辣」
これは「(南の中でも)西側のものが黒くて辛い」と書かれているという事です。「西域」とあるのでシルクロードの方を考えやすいのですが、これは「(南番の)西域」という意味です。


ニッケイ属の実は、樹皮よりも精油成分(シンナムアルデヒド)やピネン類を濃縮して蓄積する性質があります。樹皮のようなマイルドな甘さを伴う辛味ではなく、「鋭く、舌を刺すような、胡椒に近い辛味」を直接的に持っています。また、実は樹皮よりもさらに小さく、乾燥させれば非常に長期間の保存が可能で、持ち運びにも適しています。つまり、「胡椒とほぼ同じ物理的特性」を持っています。

また、四川盆地は湿潤ですが、このような山間部では寒暖差が大きく、霧が多い特有の環境があります。植物がこうした環境ストレスを受けると、防御反応として精油成分(シンナムアルデヒド等)や苦味・辛味成分をより強く蓄積する性質があります。
つまり「辛くなる」のですね。

ニッケイ属の実で辛くなるのは地域性があり、四川の西側・ラオス~ベトナム北側・台湾南側の内陸部で標高が少し高くなる場所です。九州南側や南西諸島も内陸部で少し高い所のものは辛くなるのですが、違う辛味のスパイシーなものですね。
西側となると、四川のあたりのものになるでしょう。ただ、ラオス~ベトナム北側の地域の内陸(西)に入ったものは、という聞きかじりの可能性もあります。
どちらにしても、

「(南番の)西域のものは黒くて辛い」

というのが全て当てはまります。

日本でも利用しています

日本でも遺跡に残る遺物から、縄文時代だと古くから「桂の実」が利用されていた事も判っています。ただ、日本の気候では辛味がほとんどないため、本来の渋い実ですので、ドングリや小豆などと一緒で、水にさらしてアクを抜いて食べていたのか、油を採っていたのだと思われます。

日本でニッケイ属自体は古く(20,000年以上前)にも見つかっています。
これは氷河期でも南を日本に沿うように暖流が流れており、寒流は北が塞がれていたので無かったので、他の地域に比べると温暖で「種の避難所」になっていたと考えられます。

東アジアの、古層の本格的な定住文化では、主要な大抵の文化では縄文系遺物がパッケージで発見されます。これは「定住する為の文化」を揃えて持ってくる(知識として持っている)事により、試行錯誤の長い時間が必要なく、いきなり完成した形で定住ができるようになっているのです。
だから「パッケージで現れ、その前の試行錯誤段階の遺物が見つからない」となるのですね。

日本では「かづらの油」は防虫として、江戸時代まで使われています。江戸時代には、全国各地でニッケイ(肉桂)の植栽が記録されています。
幕府や各藩が設置した薬園において、ニッケイは重要な品目でした。特に徳川吉宗が行った「享保の改革」に伴う薬種国産化政策により、全国各地で試験栽培が奨励されました。この際、長崎から輸入された種だけでなく、日本国内の良質な種を増殖させています。

それ以上に一般的だったのは、山林における野生ニッケイ(ヤブニッケイ)の管理・採取です。農村部においてニッケイは「自家用の香料」や「防虫剤」として重宝され、自分の山の木を剥いで乾燥させたり、実を採ったりしています。生活現場において、『かづら』は単なる薬物以上の存在なのですね。
箪笥や長持の隙間にニッケイの皮や実の粉末を入れる、あるいは油を塗布する防虫習慣は、江戸時代の庶民の生活の隅々で見られました。これらは「薬屋から買うもの」ではなく、「家の周りや山にあるものを利用する」という、古来からの技術の延長線上にあるものであり、日本では縄文時代からある知恵なのです。また、髪油や肌に塗る香油として、『かづら』から抽出した油が使われていました。

中国での『胡椒』の記録

文献に残る胡椒についての記述を辿ると、どこで『胡椒』が「カッシア(桂の実)」から「現代で言う”胡椒”」になったかが判ります。

三国時代

『広志(郭義恭)』で、この書は現存しませんが、唐代に編纂された百科事典『太平御覧』巻972「食貨部」に引用されている記述が最古の学術的参照点となります。

胡椒出南番
其木如棠蔓延周回作実如豌豆
従西域来者色黒而味辣

広志

この訳は「その木は棠の木のように枝を広げて周囲に広がり、エンドウ豆のような実をつける」というもので、これは「勘違い”カッシア”」ですね。

南北朝時代

『斉民要術(賈思勰)』巻十の「雑説」においては、

胡椒出西域
其木如大豆蔓延作実如豌豆
其味甚辣可供薬用

斉民要術

この訳は「胡椒は西域原産で、その木は大豆のように広がり、実はエンドウ豆のようで、味は非常に辛く薬用として用いられる」なのだが、これは『広志』と比較すると、
・「南蛮」だったのが「西域」とまるで違う方向になっています。
・木の説明がを「棠」から「大豆」と表現が変わっています。
形態の記述が安定していませんし、大豆は広がりませんので、これが実物観察に基づく植物誌ではなく、伝聞の集積であると考えられます。
これは、この時代だと『胡』が「異国」ではなく「胡族(西胡)」を指していた為、字面(「胡」)だけで「西域からだ」と勘違いしたのではないかと思います。

唐代

『新修本草(蘇敬他・659年)』で、この書は国家レベルで編纂された、現物確認を前提とした薬学知識の集大成です。原文(『本草拾遺』等の引用を経て伝わる記述)では、

胡椒生西戎
其木如柳子如小児手拳数枚合成一房
実如豌豆黒褐色
唐長安中自西域来者味最辛辣

本草拾遺

訳は「胡椒は西域原産である。その木は柳に似ており、実は子供の拳ほどの大きさで、数個が一つにまとまって房となり、豆のような形をした黒褐色の実をつける。唐の長安時代に西域から伝わったものは最も辛味が強い」
とあります。
次は「大豆」ではなく「柳」になっていますので、「現代で言う”胡椒”」とも「”胡椒”と名付けられていた”カッシア”」とも整合しません。これも、実物は知らずに書いているものだとは思います。
しかし、「唐の長安で、西域から来た者は黒いのが一番辛い」と言っていますが、これはミランなどのある所で「現代で言う”胡椒”」を口にした事がある者の言葉だと思います。ただ、中国ではこれを「現代で言う”胡椒”」か「”胡椒”と呼ばれていたカッシア」かは、それは区別がついてないようですね。

五代十国時代

『海薬本草(10世紀前半・李珣)』では、「柳(木)」という記述と、実物観察に基づくと思われる「皮皺(皮の皺)」が混在している過渡期の記録です。

胡椒生西海及波斯
木如柳子如小児手拳数枚合成一房
其子有白有黒色微紅皮皺

『証類本草』巻十二に引用

五代十国時代の南唐の学者である李珣が著した『海薬本草』ですが、この時代には「現在で言う胡椒」が現れ始めているようです。
訳は「胡椒は西海およびペルシャに自生し、その木は柳に似ており、実は子供の拳ほどの大きさで数個が一つにまとまっている。実は白や黒があり、色は淡い赤で、皮に皺がある」とあります。
これは、シルクロード経由で「胡椒」を知ったからなのでしょうね。それ故に「ペルシャの方で作られているらしい」と書かれているわけです。

北宋代初期

『開宝本草(973年・北宋初期)』の記述があります。
ただ、これには問題があり、版により記載が違ったりしています。

胡椒出西域
其木如大豆蔓延
作実如豌豆
其味甚辣可供薬用

胡椒生西域
其木如大豆蔓延
実如豌豆
色黒皮皺

あいも変わらず「実は豌豆(エンドウ豆)」、その後に「実は大豆」と書いているので、実際に生っているのを見た事はないのですね。
ただ、「黒くて皺がある」と『胡椒』を指している言葉が後者にはあります。

調べていくと、北宋の勅撰本草である『開宝本草』において、現在確認できる最も信頼性の高い校訂本(『開宝本草』の輯佚本など)に記されている記述は、

胡椒出西域
其木如大豆蔓延
作実如豌豆
其味甚辣

これが、北宋初期の原本に近い形です。
「其木如大豆」とあるものが『開宝本草』の原文として最も多く引用されている形です。「棠」という植物が当時の編纂者に認識されなくなっており、また誤写によって「棠(タァン)」が音の近い、あるいは字形の似た「大豆(ダイドウ)」、あるいは「如大豆(豆の木のように蔓延する)」といった明らかな誤記・誤解が定着した姿です。

「色黒皮皺」は、実物を輸入あるいは手元で観察した際の外見を、後の「集解」や「注」として付け加えた記述、これを後世に書き替えたものです。
他にも版があるようで、「其木如大豆」がないもの(例:『唐本草』等の旧来の記述に近いもの)などもあるようです。これは『開宝本草』の原文を引用する際に、後世の編集者が「大豆のような木」というあまりに不自然な記述を削り、体裁を整えて引用したものです。

この「色黒皮皺」と書き換えられた時代でやっと本物の「胡椒」が本格的に来るのでしょうね。ですので、この『開宝本草(973年・北宋初期)』の時代はまだ「カッシアの実」が『胡椒』と名付けられていたという事です。

南宋代

『本草衍義(寇宗奭・1116年)』だと唐代以前の「樹木」への言及が消え、実体の「粒」と「外観」に焦点が当てられています。

胡椒生西蕃
其粒圓小於大豆
皮黒而皺中心白
味大辛不可多食能動火

訳は「胡椒は西蕃で育てられており、粒は大豆より小さく丸く、皮は黒くしわがあり、中心は白い。味は非常に辛く、食べ過ぎると体内に熱を生じさせるため、控えめにすべきである。」となります。
宋代の文献で「西蕃」と記される場合、主に現在の青海省・甘粛省西部・四川省北西部からチベット高原にかけての地域を指します。この地域は、かつて強大な帝国であった吐蕃が崩壊した後の割拠地であり、宋にとっては「西の辺境」として認識されています。
四川から来ていると考えると、似たような辣な辛さの実である「桂の実」と「今でいう胡椒」が区別がついていないようです。
実が「皮が黒く皺があり、中は白い」は正に今の黒胡椒と整合します。

元代

元代の医師・栄養学者である忽思慧)が編纂した『飲膳正要(1330年)』には、

其葉如藤纏繞他木実如豌豆…熟則色赤乾則色黒

忽思慧は元朝の宮廷で食医(皇帝の食事を管理する医師)を務めた人物です。この書は、モンゴル帝国による東西交流の最盛期に編纂されたものです。その葉は藤(つる植物)のようで、他の木に巻き付く。実は豌豆(エンドウ豆)のようである。…熟すと色は赤くなり、乾燥すれば色は黒くなる。
これは正に「現代でいう”胡椒”」ですね。
ただ、実がエンドウ豆なままなので、どのように生るのかは実物は見ていないようです。

明代

『本草綱目(李時珍 著、1578年)』では、

弘景曰:
胡椒出南番
其木如棠蔓延周回作
実如豌豆従
西域来者色黒而味辣

ただ『本草綱目』の「集解」部は、多くの場合、先行する医薬書の記述を引用する形式をとっています。この箇所は陶弘景の『本草経集注』の記述を引用しているものです。
陶弘景の『本草経集注』とは南北朝時代の梁(今から約1,500年前だから、「本草綱目」の1,000年ほど前)の本で、南北朝時代の薬学正典です。『広志』等の記述を引用・体系化し、誤った分類を固定化させる源流となったものですね(『桂皮』についても同様です)。
これは「カッシア」の方が整合するものですので、こういうのが混乱させる元になっているのですね。

中国史書で確認した結果

「現代で言う胡椒」は、唐代には商人が現在の新疆ウイグルで「胡椒」自体は出会っているようです。ただ、どういう物かは想像なので「大豆の様な」や「柳のような」と、どんな植物なのかあやふやです。
また、シルクロードの新疆ウイグル自治区で出会うものですから、これを「ペルシャとか西アジアで作られている」と考えているようですね。
それとは別に「桂の実」も利用しており、これが古来で指していた「胡椒」なので混乱しているのが判ります。

結局、中国に本格的に「今でいう”胡椒”」が入って来るのは南宋時代ぐらいですが、やはり「桂の実」と区別がついていないようです。
元代になると、これは確実に「今の胡椒」を指していますが、やはりどんな実を生らすかは実物は知らないようです。

中国の学者は昔の書籍の記録を参照しているのも多いので、ですので「古代の本の”胡椒”」と「今の目の前にある”胡椒”」という2種類の「胡椒」を記録の中に持つ事になり、記載が合わないと議論になるわけです。
これは「胡麻」や「桂皮」の時と一緒なのですが、中国の書籍を見れば「無理矢理に今までの単語の定義を変えている」ものを幾つも見掛けられます。

日本の『胡椒』の記録

日本では、「胡椒」と書かれている文献があります。
ただし、「中国では~」と実物を見ておらず、あくまで「中国書籍にはこう載っている」という紹介でしかありません。

さらに、「桂(ニッキ)」は別の項目としてしっかりとあり、『胡麻』のように「これは桂の実の事である」という事は書かれていません。中国の書籍で言う「胡椒」が「桂の実」である事も気付いていないようです。
日本では縄文時代から「桂の実」を近代まで利用していたので、「桂の実」を「胡椒」と思う事すら無かったわけです。「桂の実」を利用していない、「桂の樹皮」自体が輸入だった中国でしか起こらない勘違いなのです。

江戸時代より前の『胡椒』

『本草和名(918年)』は『新修本草』などの唐代の本草書の知識を日本に翻訳・整理したものです。

胡椒一名浮椒
按陶景云胡椒生西域
其実如豌豆黒褐色味辛

胡椒の別名として「浮椒」を挙げているのみで、和名はありません。
「按陶景云胡椒生西域其実如豌豆黒褐色味辛」(按ずるに、陶弘景が言うには、胡椒は西域に生じ、その実は豌豆の如く、黒褐色で、味は辛い)と記されています。陶弘景とは南北朝時代の梁の人で、書いた『本草経集注』は南北朝時代の薬学正典です。
「中国書籍にこう書いてある」と紹介しているだけですね。

『倭名類聚抄(931~938年)』では、

胡椒本草云
胡椒生西戎
其木如柳子如小児手拳数枚合成一房
実如豌豆黒褐色
唐長安中自西域来者味最辛辣

『倭名類聚抄』は、唐代の『新修本草』の記述そのままで、やはり和名はありません。まったく未知のものとして「書かれているので記録した」というものですね。


日本の『桂』である「かづら」、この自生種の果実はわずかな甘みと強い渋みを感じるもので、中国の南東山岳地帯の「桂の実」のような「強烈な辛味(シンナマルデヒド)」はほとんどありません。樹皮には一定の香気成分が含まれますが、果実には香気成分がほとんど蓄積されず、食用としての価値を持つ辛味成分が極めて希薄ですが、油分はありますので、搾り油を利用されています。
食用には適さず、そして食べても渋いだけなので、全くつながらない「道の食材」として『胡椒』があります。
また、南西諸島原産で九州南部に自生していた(江戸時代では全国で栽培された)ニッケイだと、辛いものもありますが、辣のような辛さではなくスパイシーなものです。

それに対して、四川などの中国南西部の「桂の実」だと、熟した果実は、皮と同様のシンナマルデヒドを豊富に含み、噛むと「強く、舌を刺すような辛味」がします。樹皮と成分的な連続性があり、香辛料として利用可能なレベルの揮発性油を含みます。

つまり、『現代で言う胡椒』も『中国産かづらの実』も来ていないので、日本では「かづらの実」と繋がる事もなく気付いてない、という事です。

江戸時代の『胡椒』

実際に日本が『胡椒』を目にするのは、江戸時代にポルトガル船が持ち込んできたもので、「南蛮からのスパイス・薬種」として認知されています。
よく「高級なもので庶民に手が届かないもの」という具合にいわれますが、これは正確ではありません。長崎の貿易品目録や価格表を追うと、確かに初期は高騰していましたが、中期以降には庶民の手に届く「薬味」の価格帯に安定しています。

江戸時代の百科事典や本草書(『和漢三才図会』など)を見ると、胡椒については既に宋代・明代の中国の書物から、形態(蔓性、粒の皺など)が正確に解説されています。
また、江戸時代の本草学者たちは『本草綱目』が残した「胡椒は大豆の木のようなもの」という記述と、実際に長崎から輸入される「黒い粒」の実物との矛盾を指摘しています。貝原益軒の『大和本草(1709年)』を確認すると、この「古い記述の矛盾」を指摘し、実物に基づく分類を試みています。彼は過去の文献を盲信せず、「古書にはこうあるが、実物を見ると明らかに異なる」という一次的な観察記録を残しています。
貝原益軒が直面したのは、中国の古い本草書が「胡椒(またはそれに類する香辛料)」について書いた「大豆の木のようなもの(あるいはそれに準ずる記述)」という概念と、長崎を通じて輸入される実物との乖離です。
益軒は、単に文献を引用するのではなく、「実物を見よ」という態度を徹底しました。 彼は輸入される現物を観察し、それが古い中国の文献に書かれている植物的特徴と合致しない場合、「古い記述に誤りがある(あるいは別物である)」ことを明言しました。これは、当時の学問において極めて画期的な姿勢でした。
『大和本草(1709年)』は、単なる中国の本草書の翻訳や注釈ではありません。益軒は日本各地の動植物を自らの目で観察し、中国の書物に記載されているものと、日本に存在するもの(あるいは輸入されるもの)を厳密に照合しました。

『桂の実』は『桂の実』として知っていたので惑わされる事がなく、唐代などの中国書籍にある『胡椒』は「中国にはそういうのがあるらしい」という「謎の香辛料」としてずっとあったのですね。
『胡麻』と一緒です。違いは、宋代以前の中国の『胡麻』は『大麻』だと判っていた、という所ですね。

結論として

「中国から胡椒が日本に来た」というのはまったくの誤りです。
中国が『現代で言う”胡椒”』が入って来るのは南宋代であり、それ以前の古書に書かれている『胡椒』は、四川の山中や東南アジアのベトナムなどから入って来る『桂の実(カッシア)』の事です。

唐代の頃だと中央アジア、現在のウィグル地区あたりまで『現代で言う”胡椒”』は来ていますが、これはインドから入って来るもので、西アジアとの交易で使われるもので、東(中国側)には来た様子は見られません。
この中央アジアに故障が入って来るのは、インドの混乱と西アジアの崩壊により、海路が使えなくなった結果です。


日本に入って来るのはポルトガルなどとの南蛮貿易時代で、江戸時代ぐらいからです。初期こそ「高級な香辛料」ですが、次第に落ち着き庶民でも使える値段で市井に広がり使われています。

飛鳥奈良時代も中国書籍で『胡椒』という単語は知っていましたが、これがどのようなものかは知らなかったようです。
また、縄文時代から『桂の実』こと「かづらの実」は油を採る為に使用しており、2,300年前には樹皮を採取しています。
「桂の実」食自体は中国の方が古いものの、それを食べ始めたのは中国古層の縄文系民族文化から始まっています。そして『桂の皮』については中国より日本の方が古くから利用を始めています。特に日本では、「かづら」は防虫として木材や実を利用されていおり、これは明治時代に入るまで続いています。

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