読書:ヘッセ「デミアン」他、芸術作品について
「荒野のおおかみ」から入門して、ヘルマン・ヘッセ作品を読みまくってから明らかに内面が変わってしまった。俺はヘッセの生まれ変わりかよというくらいに、共感しすぎて逆にゾッとするような描写を次々と浴びせかけられて、自分は変態なのだと引け目に感じてたような部分を徐々に受け入れて肯定できるようになってきた。
数年前の神経病寛解期、それこそ「荒野のおおかみ」とか「デミアン」に書かれるような人格のブレイクスルーが起こってからは「普通」にそこまで固執しなくなったと自負していたものの、まだ頑固に残っていて、しかしヘッセの小説とかエッセーを読み込んでると、その頑固汚れのような「世間への見栄」……例えば「絵描きや作家として作品を作って生計を立てるんだ」とか、「有名とは言えないまでも数限られたすばらしい人たちに認められるような人物になるんだ」「ほんとうの芸術作品を作るんだ」みたいな社会的な人格がガラガラと音を立てて崩れ去った。そんなんほんまはどうでもよかったんや。
本当に重要なのは、「内界の神」が「よし」と言うような自我になれるように探究を続けることだけであり、作品を作ることすらもどうでもよかった。作品というのは自己探究の過程でどうしても生み出されてしまうカス、副産物にすぎない。
残滓を見てみんなありがたがる、それを望むと言うのは本当に変な話だ(自分がヘッセ小説を読んでそれに気づくというように、カスも他者にとってはなんらかの価値があることもある、というのもわかるのだけど)。
そして、自分では恥ずかしいとしか思えてなかったところを正々堂々赤裸々に書きまくるヘッセおじさんを見ていると、ああ文学ってこうやるんだ…こうやってもいいんだ…と、小説を書いている自分が想像できるようになってきた。しかし自分はヘッセの生まれ変わりなのでこのノリで書いたらヘッセの下位互換みたいな小説にしかならなそうで怖いが、違う人間である以上は絶対違うものになるに違いないのだから、とにかく書くしかないな。まあそのうち。
以下は「デミアン」の具体的な読書感想文
「デミアン」読書後メモ
借りた日に一気に読んでしまった。とりあえずBL。ノルマ達成。翻訳・解説者のお墨付きである。別にデミアンのセリフをです・ます調に変えなくても余裕でBLなんだが。というかむしろ現状の訳のほうがよっぽどBLなんだが(作者はBLをもっと耽美なものだと考えている??)最初はヘッセであることを隠して発表されたらしいけど、BLのにおいがヘッセすぎてすぐバレるやろって思った。実際、ヘッセじゃね?と言い出した人もちゃんといてわろた。いや、ヘッセやろこんなん。
まあBLは軽く流して。
シンクレアくんの内面がやっぱり自分すぎて膝から崩れ落ちる。シンクレアくんのその後が「荒野のおおかみ」のハリーって感じだな。
「荒野のおおかみ」では後半明らかにわけわからんことが起きまくるので、ハリーの心象世界の冒険だなってわかるけど、「デミアン」では夢は夢と明示され、現実の場面では超常現象はテレパシー以外は起こらないので、ギリ実際に起こった体の話かなと思われるが、これもユング派との出会いの後の作品ということも踏まえると、解説にあったようなユング派精神分析的読み方もできる。
クローマーとクナウアーは『影』、ベアトリーチェとエヴァ夫人は『アニマ』、ピストーリウスとデミアンは『アニムス』。解説ではデミアンが『自己』だと書かれていたが、これら全てを併せた”エーミール・シンクレア”が『自己』のはずだ。一人称のシンクレアくんは自我なのだが。ややこしい。
しかし後半のシンクレアくんはハリーよりもむしろ精神安定してるように見えるのがなんとも。デミアンとエヴァ夫人を既に自己に取り込んだから、絶対的に孤独(いくら一緒に愉快な飲み会とかやったとしても、多くの「アベル」たちと一緒になれない・共感できない・埋没できない)でも寂しくないんだよな。夢や白昼夢で触れ合いまくってるだろうしな。俺じゃん。この作中世界ではテレパシーがマジで実行力を持ってるっぽいのもあるだろうけど、テレパシーとかなくて、デミアン親子が非実在だと解釈したら俺になる。前者だとメルヒェンだけど、後者だと現実。どっちとして読むべきかは確定したくないな。不思議な作品だ。
いやしかし、デミアンのような子ども(デミアンは少年時代から青年時代まで人格が全く変わっていないように見える)ってほんまにおるんかな?と疑問なので、やっぱりユング的架空人物説を推してしまうな。。。唯一デミアンが実行的になんかした出来事としてクローマーの件があるけど、デミアンではない他者がボコボコにしたのかもしれない(その他者はのちに「デミアン」として認知し直され吸収された)し、もしかしたらシンクレアくん自身が覚醒してボコボコに……いやこの線はないか。一番最初に出会ったデミアン(引越し前)だけが実在なのかもしれない。それが一番辻褄は合うな。それにしても不思議な少年ではあるけど。
一番うわあああああああってなったのは、シンクレアくんが理想の女の子を見つけて、その子と仲良くなるんじゃなくて「理想」像を崇拝するために絵を描きはじめ、書いてるうちにデミアンになったりデミアンのママンになったり自分になったりしていくところ。一回本をバタンッて閉じちゃったよ。俺じゃん。
絵を描く動機として一番共感できる人物に出逢っちゃった。ヘッセも絵を描いていたようだけど、どうなんだろう。
絶対シンクレアくんもヘッセも理想を追い求めるうちにえっちな絵をうっかり描いてしまってうわああああああってなってスケッチブックから破りとるけど結局捨てられず隠し場所に保管して溜めてたでしょ。いや、誰のことだとは言わんけど。。。
途中までは共感100%だとして、少し問題になるのはラストスパート。デミアンが語る思想はニーチェの超人思想にはじまり、選民思想的な、戦後の世界を担っていくのはカインの「しるし」を持つ俺たちだ的な、オッと思うことを言い出し、「社会へ溶け込むため」に少尉になって戦争に行き、シンクレアくん自身も戦争ヘ行って爆撃を受けて生き残る。戦争に行く直前は、陶酔のような気分を味わったとさえ書かれているが、ヘッセがものすごい反戦論者であることを踏まえるとちょっとした皮肉に感じるのは解説者に同感。
「しるし」を持つシンクレアくんたちがどう世界を変革していくのかということは重要だと思われるが、この作中では書かれない。
「デミアン」を(ちゃんと)読んでしまった人はカインの「しるし」をつけられてしまったも同然だが、その我々が戦後(戦前!)社会をどう生きていくのかは自分たちで考えなさいということだ。
「デミアン」も「荒野のおおかみ」と一緒に買い直して、一軍の本棚に並べないといけない個人的な…特別な本となった(「車輪の下」「シッダールタ」も良かったけど、特別、ではないかな)。
次は「知と愛(ナルチスとゴルトムント)」を読もうかな。あと残ってる後期作品はヘッセ全集にしか収録されてない「東方巡礼」「ガラス玉演戯」か。
「デミアン」以降の後期ヘッセ長編の方が好きな傾向(ヘッセブーム??が起こったときの日本の風潮とは逆らしいけど。ふるさとや自然の描写は確かに前期作品の方が生き生きとして美しいけど、あれはヘッセの郷愁であって自分のではないんだよな〜)。
