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2-10. まんじゅうの天ぷら三つ夏休み

 池波正太郎は食通としてもその名が通っている。食事だけでなく、飲んだ後の甘いものも好物だったようで、そのうちの一つに揚まんじゅうがあった。特に、神田の老舗甘味処の揚まんじゅうを好んだという。『散歩の時に何か食べたくなって』の中に、「神田・連雀町」という記述があり、

 「ず、〔薮〕で、みんなと待ち合わせる。酒を一、二本というところか。顔がそろうと〔ぼたん〕である。〔寿司長すしちょう〕である。それから〔竹むら〕というふうに、まるで軒から軒へ食べ歩いた。しかるのち、竹むらの名代〔あげまんじゅう〕をおみやげに包んでもらう。このおみやげを殊勝に家族のもとへ持って帰るのかというと、そうではないのだ。これからあとに、われらのしんの目的があるわけで、揚まんじゅうはお白粉しろいにおいのする生きものの口に入ってしまうのである。」

 と、書かれている。この店の栗ぜんざいと共に、揚まんじゅうをよく食べていた。文面では、白粉の匂いのする生きものの口に入ると書いているが、本人は言うまでもなく家族へもちゃんと持って帰ったことがあるのだろう。美味しいと自信を持って言えるからこそ、白粉の匂いのする生きものの口に入れたのである。写真を見ると、素揚げではなく天ぷらのように見える。竹むらは、まだ神田にあるので、今度行って食べてみようと思うが、やはり行列必死の店となっているらしい。

 まんじゅうの天ぷらといえば、信州の蕎麦屋でびっくりしたことがあった。ふらっと入った蕎麦屋で天ぷら蕎麦を頼んだとき、ざるそばの隣にあった皿の上に見慣れた海老や野菜の天ぷらのほかに得体の知れない丸いものがあって、「これは何?」と店の女性に聞くと、「まんじゅうの天ぷらです。」と答えが返ってきたのだった。「こちらでは、結構ありますよ。」と、言葉が続いた。長い間生きてきたが、天ぷら蕎麦の天ぷらにまんじゅうがはいっているのを見たのは初めてだった。その後信州のいくつかの蕎麦屋で天ぷら蕎麦を食べたが、まんじゅうの天ぷらが出てきたことはなかった。調べてみるとまんじゅうの天ぷらも発祥地は長野だとの説が出てきたので、再びびっくりした。お盆のお供えのまんじゅうが硬くなってしまい、それを美味しく食べるのに天ぷらにして見たら、結構美味しかったというのである。信州でも南信と言われる地域のソウルフードと言われていて、今ではお盆前に天ぷら用のまんじゅうがスーパーに並ぶらしい。天ぷらではなく、素揚げされたいわゆる揚げまんじゅうは日本各地で売られていて、和菓子屋の揚げまんじゅうにお目にかかることはよくある。外のカリッとした食感と中の甘い餡の柔らかな食感の対比が面白くて、私の好みの和菓子の一つでもある。しかし、天ぷら蕎麦についているまんじゅうの天ぷらは初めての経験だった。それでも、天ぷら蕎麦を食べた後のまんじゅうの天ぷらは、美味しかったのである。最後に、蕎麦湯を飲むと口の中から甘みが消え、蕎麦つゆの醤油味が再び口に戻り、しあわせな気分になったのである。

 虎屋文庫が編集した『和菓子を愛した人たち』に 「山科言経やましなときつねと揚げ饅頭」という項があって、その文中に家康の知遇を得ていた公家の山科言経が家康を屋敷に招いた時に、「マンチウ・同油アケマンチウ・キントン・茶子・油物」を家康のために取り寄せたとの記述があるので、1600年頃には「油アケマンチウ」なるものがすでにあったようである。当然、山科言経は家康の好みを調べて、周到の上にも周到を重ねて準備したはずだから、家康の甘いもの好きや天ぷら好きを十分承知していたに違いない。とすれば「油アケマンチウ」は素揚げではなく、まんじゅうの天ぷらだったということになる。
 家康の孫に保科正之という人がいるが、家康が亡くなった時にはまだ5歳と小さかった。しかも生い立ちの複雑さから父親の秀忠と会えたのはずいぶん大きくなってからだった。長じた正之に 秀忠もしくは異母兄の家光あたりが「爺さんの家康公は偉い人だった。油アケマンチウが好きだった。」と話した可能性は高い。この保科正之、21歳の時に信州高遠藩の藩主になっている。信州高遠藩はいわゆる南信であり、今でもまんじゅうの天ぷらが食べられている地域でもある。祖父崇拝の気持ちから正之自身が油アケマンチウを広め、まんじゅうの天ぷらとなっていった可能性は否定できない。保科正之は、会津藩主にもなり会津松平家の祖となった人でもある。そして、なんと会津にも天ぷらまんじゅうがあって、今でも会津の名物となっているという。保科正之の前に会津を治めていた加藤明成はいわゆる会津騒動の後、その責により加藤家の改易・取り潰しを命ぜられたが、先代の幕府に対する忠勤によって家名再興を許される。しかし会津四十万石からわずか一万石の石見吉永藩に減封され、息子の明友が加藤家を継いだ。明友は、善政を行いこの地域の殖産をおこなった。吉永藩の領地だった現在の大田市には、加藤明友の起こした漆産業などが今でも根付いているというから、その善政ぶりが偲ばれる。さらに、お祭りには天ぷらまんじゅうが欠かせない街だというのだから、加藤明友が吉永藩に移封されても、保科正之から色々な支援を受けていたと想像することも難くない。家康の好みが、藩主の異動によって広まった傍証と考えれば、まんじゅうの天ぷらもただ美味しいだけではなく奥が深いと言わざるを得ない。
 私がまんじゅうの天ぷらを食べた蕎麦屋は、信州でも東信地域であるが、南信へ行ったならば、どこの蕎麦屋でもまんじゅうの天ぷらが食べられるのだろうか。神田だけでなく、高遠にも行かなくてはならない。

●『散歩の時何か食べたくなって』 池波正太郎 新潮文庫 2020年(初版は1977年平凡社より出版)
●『和菓子を愛した人たち』 虎屋文庫 山川出版 2017年

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