竹島をめぐる証拠の差──日本の記録と韓国の物語
はじめに──日本に積み重なる記録と、韓国でつくられた物語
竹島をめぐる日韓双方の主張を比べると、まず証拠の性質の違いが目につく。
日本側には、江戸時代から現在の竹島を認識し、人が渡り、寄港し、漁猟に利用した記録が残っている。日本人が鬱陵島で朝鮮人と遭遇すると、幕府は鬱陵島への渡海を禁止したが、現在の竹島はその対象としなかった。日本側は両島を区別し、竹島を朝鮮の管轄下にある島とは扱っていなかったのである。
一方、朝鮮側には、現在の竹島へ誰が渡り、何を行い、政府がどのように管理したのかを示す具体的な記録がほとんど存在しない。韓国側の主張は、于山島や石島という古い島名を現在の竹島へ結びつける解釈に大きく依存している。
1905年、日本政府は閣議決定、島根県告示、台帳登録、漁業許可、使用料徴収によって竹島を行政制度へ組み込んだ。韓国側はこれを朝鮮半島侵略の一環と説明するが、その物語が成立するには、まず編入以前に朝鮮王朝・大韓帝国が竹島を領有し、具体的に統治していたことが証明されなければならない。
戦後、韓国は李承晩ラインによって竹島を取り込み、警備要員や施設を配置したうえで、住所や郵便番号、住民登録を付与し、学校教育や「独島は我が領土」(독도는 우리 땅/ドクトヌン ウリ タン)という歌などを通じて、竹島(韓国名「独島」)が韓国領であるという認識を国民に植え付けてきた。
日本側にあるのは、航海、利用、行政、抗議に加え、国際法上の手続きに沿った領土編入と、国際司法裁判所による解決を求める姿勢まで積み重なった証拠の「面」である。韓国側にあるのは、古い島名の同定、侵略の物語、そして戦後に作られた既成事実であり、いずれも日本側の「面」を崩し得ない「点」にすぎない。
本稿では、この二つを同じ基準で比較する。
第1章──日本側に残る具体的な利用と行政の記録
江戸時代、日本では現在の鬱陵島(울릉도/ウルルンド)を竹島または磯竹島、現在の竹島を松島と呼んでいた。名称は今日と異なるが、日本側が両島を別の島として認識していたことは、当時の文書や絵図から確認できる。
幕府の許可を受けた大谷家、村川家などは、鬱陵島方面へ継続的に渡航した。現在の竹島は、その航路上の目標、寄港地、停泊地、漁猟地として利用された。日本側には、実際に渡った者、航路、漁業、あるいは幕府や藩の対応が、紛れもない記録として残っている。
1690年代、日本人が鬱陵島で朝鮮人と遭遇すると、この問題は日朝間の外交案件となった。幕府は1696年、朝鮮との関係を考慮して、現在の鬱陵島への渡海を禁止した。一方、現在の竹島への渡海は禁止されなかった。
朝鮮人の活動が確認された鬱陵島については日本人を引かせ、現在の竹島については従来の利用を続けた。この対応は、日本側が両島を区別し、竹島を朝鮮の管轄下にある島とは認識していなかったことを示している。
日本側には、単なる島の認識にとどまらず、航海、寄港、漁猟と、それを把握した幕府・藩の行政対応が記録として残っている。
第2章──韓国側の根拠は島名の同定から始まる
韓国政府は、朝鮮時代の文献に登場する于山島と、1900年の大韓帝国勅令第41号に記された石島を、いずれも現在の竹島だと主張する。古地図に鬱陵島とは別の島が描かれていることも、朝鮮の領有認識を示す根拠としている。
しかし、于山島は史料によって位置、方角、大きさ、鬱陵島との距離が一定しない。鬱陵島近くの竹嶼を指した可能性や、不正確な地理認識を反映したものだという解釈も成り立つ。石島についても、勅令には緯度・経度や形状、鬱陵島からの距離が記されておらず、現在の竹島と結びつけるには、石島と独島の名称を方言上の呼称によって結びつける推論が必要になる。
韓国側が重視する1877年の日本の太政官指令には、「竹島外一島之儀、本邦関係無之儀ト可相心得事」とある。韓国政府は、ここでいう「竹島」が鬱陵島、「外一島」が現在の竹島であり、明治政府自身が竹島を日本領ではないと判断した証拠だと説明する。
これに対して日本側は、19世紀には西洋製海図の流入などにより、竹島、松島、鬱陵島の名称対応に混乱が生じており、「外一島」が現在の竹島を指すとは確定できないと反論する。太政官指令は重要な資料だが、対象となる島の同定そのものが争点なのである。
さらに、仮に于山島、石島、外一島をすべて現在の竹島とする韓国側の解釈を認めても、それだけで統治の実態が示されるわけではない。朝鮮人がいつ渡島し、何を行ったのか。朝鮮政府が渡航を許可し、課税し、巡検し、遭難者を救助し、日本人の漁猟に抗議したのかという記録が必要になる。
朝鮮王朝は膨大な行政・外交記録を残し、鬱陵島については日朝双方に具体的な記録が存在する。ところが、現在の竹島で朝鮮人が継続的に活動し、朝鮮王朝が具体的に統治したことを直接示す記録は、ほとんど確認できない。
韓国側の主張は、古い島名を現在の竹島へ結びつけるところから始まる。しかし、日本側に見られる人的活動と行政行為の連続性は、そこからは見えてこない。
第3章──1905年編入はいかに「侵略」と物語化されたか
明治期になると、日本人による竹島でのアシカ猟が本格化した。中井養三郎は、事業者間の競争と乱獲を防ぎ、漁業を安定的に管理するため、竹島の領土編入と貸下げを政府へ願い出た。日本政府は1905年1月、閣議決定によって竹島を島根県隠岐島司の所管とし、同年2月の島根県告示、官有地台帳への登録、アシカ猟の許可、国有地使用料の徴収へと進んだ。編入を願い出た人物、その理由、政府の審議、決定、告示、編入後の行政管理までが、一連の記録として残されている。
韓国政府は、この編入が日露戦争中に行われたことから、日本による朝鮮半島侵略の一環だったと説明する。しかし、戦争中に行われたからといって、当時の大韓帝国領を奪った証拠にはならない。日本側は江戸時代以来、現在の竹島を一貫して朝鮮の領域として扱っておらず、幕府が鬱陵島への渡海を禁止した際にも、竹島をその対象にはしなかった。日露戦争という時代背景を利用して、竹島の編入を朝鮮半島侵略の物語へ組み込もうとする意図が透けて見える。
1905年の編入を「大韓帝国領の侵奪」と主張するには、それ以前に大韓帝国が竹島を領有し、具体的に統治していたこと、日本政府が竹島を大韓帝国領と認識しながら編入したこと、さらに編入の主目的が漁業管理ではなく、朝鮮半島への侵略や軍事利用にあったことを示さなければならない。
ところが、関係文書から直接確認できるのは、アシカ猟、貸下げ、漁業管理、行政管轄である。日露戦争という時代背景は編入の動機を検討する材料にはなっても、それ自体が韓国の領有権や日本の侵奪意図を証明するものではない。
韓国側は、竹島を日本による朝鮮半島侵略という大きな物語の中へ配置する。そうしなければ、1905年の編入を「大韓帝国領の侵奪」と説明できず、韓国側の主張そのものが成り立たないからである。しかし、その物語の前提となる、朝鮮王朝から大韓帝国に至る領有と具体的な統治を示す証拠がほとんど存在しない。ここに韓国側の説明の根本的な弱点がある。
第4章──李承晩ラインから始まった実効支配
サンフランシスコ平和条約では、日本が放棄する朝鮮関係の地域として済州島、巨文島、鬱陵島が挙げられたが、竹島は記載されなかった。韓国政府は条約起草過程で竹島を日本の放棄領土へ加えるよう求めたが、その要求は採用されなかった。
その状況で李承晩大統領は1952年1月、平和条約発効前に一方的な海洋境界線、いわゆる李承晩ラインを設定し、その内側へ竹島を含めた。この措置は国際社会から承認されず、米国も国際法上の根拠を認めなかった。日本政府は直ちに抗議した。
韓国はその後、日本漁船328隻を拿捕し、船員3,929人を抑留し、日本人の死傷者は44人に達した。竹島周辺では海上保安庁の巡視船への銃撃も行われ、さらに警備要員や施設を配置して支配を固定化した。
現在の韓国による実効支配は、古くから続いた統治の延長ではない。国際的に承認されなかった李承晩ラインを起点に、日本の抗議を排しながら戦後に形成されたものである。日本は当初から抗議を続けており、韓国の支配を承認も黙認もしていない。したがって、実効支配が長期に及んだという事実だけをもって、韓国の領有権が確立したと説明することはできない。
第5章──実効支配を自明の前提へと変える
韓国は竹島を物理的に占有するだけでなく、行政、教育、大衆文化を通じて、竹島が韓国領であることを、国内で異論を差し挟みにくい自明の前提として定着させてきた。
もともと無人島であり、定住生活には適さない岩礁群に、行政上の住所、地番、郵便番号を設定し、住民登録を行い、警察官、灯台管理者、行政職員を配置した。さらに宿舎、監視・通信設備、ヘリポート、接岸施設を整え、観光客の上陸も管理している。こうした制度と施設の一つひとつが、竹島を韓国の日常的な行政空間として可視化する役割を果たしている。
さらに、幼少期から竹島を「日帝による侵略の象徴」と位置づけ、守るべき韓国領であると繰り返し教育する。専用教材、「独島教育週間」、展示館、映像、体験学習を通じて、竹島の帰属は証拠を比較して考える問題ではなく、国民として共有すべき前提となる。こうして竹島について異論を述べることは、単なる歴史解釈の違いではなく、国家主権や民族の尊厳への否定と受け取られやすくなる。竹島をめぐる韓国内の一致は、行政、教育、文化によって繰り返し再生産される。
しかし、住所、郵便番号、警察、住民、観光、歌、教育は、現在の韓国による実効支配を当然のものとして国民に印象づけることはできても、竹島の領有と統治を証明するものではない。既成事実をいくら積み重ねても、それによって支配開始以前の権原が遡って生まれるわけではない。
第6章──国際司法の判断を求める日本、拒む韓国
日本政府は、竹島問題を司法的に解決するため、1954年、1962年、2012年の三度、国際司法裁判所(ICJ)への付託を韓国政府へ提案したが、韓国はいずれも拒否している。韓国側は、独島は明白な韓国領であり、領土紛争は存在しないため、裁判の対象にする必要はないと説明する。
しかし、日本が領有権を主張し、韓国の支配に抗議している以上、竹島をめぐる対立は現に存在する。「紛争は存在しない」という一方的な宣言によって、その事実が消えるわけではない。
裁判に応じれば、于山島や石島が現在の竹島を指すのか、大韓帝国の住民による竹島の利用や政府による具体的な統治があったのか、1905年の編入を大韓帝国領の侵奪とみなせるのか、李承晩ラインによる支配がどのように始まったのかが、国際法に基づいて審査されることになる。
日本は自国の主張を司法判断に委ねることを求めている。一方、韓国は「明白な自国領」と主張しながら、その根拠を国際司法裁判所に示すことを拒み続けている。法的根拠に十分な自信があるのなら、国際法の場でそれを示せばよいのではないか。「紛争は存在しない」として付託を拒み続ける姿勢は、自国の主張を第三者による法的審査にさらすことを避けていると見られても仕方がない。
むすびに──点と想像では「面」は崩せない
日韓双方の領有権をめぐる根拠を、感情や国民的信念から切り離し、同じ基準で冷静に比較すれば、どちらの主張により正当性があるかは明白である。
日本側の主張を支えるのは、異なる時代の人間活動と国家行為が連続し、互いを補強し合う証拠の「面」だ。江戸期における大谷家や村川家らの往来、航路上の寄港、そして漁猟の実態。これらを幕府や藩が明確に把握し、鬱陵島への渡海を禁止した際にも現在の竹島をその対象外とした歴史的事実。さらに近代に入ってからは、1905年の閣議決定、島根県告示、台帳登録、漁業許可にいたるまで、当時の国際法に厳格に則った領土編入と行政管理が行われた。戦後も一貫して韓国の占拠に抗議し、国際司法裁判所(ICJ)への付託を提案し続けている姿勢も、その「面」の延長線上にある。
対する韓国側の主張は、現在の実効支配という結果から過去へ遡り、正当性を後付けで組み立てるための「点」と「物語」の集合体にすぎない。古地図や文献に現れる古い島名を現在の竹島へと無理に結びつけ、日本側の史料から個別の疑問点を拾い出して反証を試みる。1905年の編入を日本による朝鮮半島侵略という大きな物語へ組み込み、戦後は国際法上の根拠を欠く李承晩ラインによって既成事実を作った。そして行政制度や教育、大衆文化を通じて国内の異論を封じ、支配を自明の前提へと変えてきた。
しかし、歴史的権原(領有の正当な根拠)は、戦後に作られた既成事実や教育によって遡及的に生まれるものではない。いくら韓国側が膨大な解釈と言葉を必要としようとも、個別の資料解釈という「点」、侵略をめぐる「想像」、そして戦後の「占有」だけでは、日本側が積み上げてきた航海、利用、行政、抗議の記録と、それを支える国際法上の根拠によって形成された強固な証拠の「面」を崩すことは決してできないのである。
韓国が国際司法裁判所への付託を拒み続ける姿勢こそが、この日韓の証拠構造における決定的な「差」を、何よりも雄弁に物語っている。
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