見出し画像

プーチンが踏んだ日本領──北方領土はなぜ日本のものなのか

はじめに──「固有の領土」という言葉の空洞

2026年8月13日、ロシアのプーチン大統領が北方領土の択捉島を初めて訪れた。現地では病院や学校、水産加工場を視察し、ロシア大統領府も通常の国内視察と同じ形式でその様子を発表した。ロシアの国家元首が日本領の択捉島を自国領として歩く姿を国内外に示したのである。北方領土問題はすでに決着しており、日本との返還交渉には応じないという意思表示であり、日本に対する露骨な挑発であった。高市首相が強く抗議したのは当然である。

だが、この出来事は日本人にも一つの問いを投げかける。私たちは北方領土を「日本固有の領土」と学校で習い、四島の名前も覚えてきた。しかし、なぜ日本領なのか、なぜ敗戦後に放棄した千島列島に含まれないのかと聞かれると、きちんと説明できる人は多くないのではないか。北方領土は日本領だという結論は知っていても、その根拠までは十分に理解されていないのである。そこで本稿では、1855年、1875年、1945年という三つの時点をたどりながら、北方領土がなぜ日本領なのかを改めて確認したい。

第1章──最初の国境線は択捉島の北にあった

北方領土の帰属を考える出発点は、1855年の日魯通好条約である。これは日本とロシアが初めて正式に国境を定めた条約であり、国境線は択捉島と、その北にある得撫島との間に引かれた。択捉島、国後島、色丹島、歯舞群島は日本側、得撫島以北はロシア側である。重要なのは、この条約によって日本がロシアから北方四島を譲り受けたのではないという点だ。両国が、それまでに自然に成立していた境界を平和的に確認したのである。

外務省の整理によれば、日本は遅くとも19世紀初めには四島の実効的支配を確立し、ロシア側も自国領の南限を得撫島と認識していた。したがって北方四島は、日露戦争の戦果でも、日本の領土拡張によって後から獲得した領土でもない。近代的な日露国境が成立した最初の時点から、日本に属していた領土なのである。

第2章──1875年に得た「千島列島」と北方四島は別である

混同を解く鍵が、1875年の樺太・千島交換条約である。当時、樺太では日露両国民が混住し、帰属が定まっていなかった。そこで日本は樺太に対する権利をロシアへ譲り、その代わりに得撫島から占守島までの18島を受け取った。この18島が、交換条約に列挙された「千島列島」である。北方四島はその20年前から日本領であったため、交換の対象には入っていない。

つまり、北方四島と得撫島以北とでは、日本領になった由来がまったく違う。北方四島は最初の国境確定以前から日本側にあり、得撫島以北の18島は1875年に樺太との交換で加わった。この経緯を整理しないまま両者を「千島列島」として一括りにすると、日本が千島列島を放棄しながら、なぜ北方四島の返還を求めているのかが分からなくなる。日本が放棄したのは1875年に新たに領有した得撫島以北の18島であり、それ以前から日本領だった北方四島ではないのである。

第3章──日本が敗戦で受諾したもの

日本は敗戦によって、帝国として海外へ広げた領土を手放し、領域を本来の範囲へ戻す戦後処理を受け入れた。カイロ宣言は、日本が「暴力及び貪欲」によって略取した地域から追い出されると定め、ポツダム宣言はその履行を求めた。台湾、朝鮮、南樺太などを失ったのは、この大きな戦後処理の中にある。

1951年のサンフランシスコ平和条約で、日本は南樺太と千島列島への権利を放棄した。しかし、そこでいう千島列島は、1875年にロシアから譲り受けた得撫島以北の18島であり、1855年の時点ですでに日本領だった北方四島は含まれない。しかもソ連はこの平和条約への署名を拒否している。日本が千島列島を放棄した事実から、ソ連が北方四島を取得する権利が生まれるわけではないのである。

領土の帰属は、戦争の勝敗で決まるものではない。どこを放棄し、どこを残すのかは、それまでの国境と講和条約によって確定される。日本が放棄した「千島列島」に北方四島は含まれていない。ソ連は日本の降伏後、放棄の対象ではなかった四島へ侵攻し、日本人を追放して自国領に組み込んだ。歴史的な国境にも戦後の条約にも根拠を持たない、武力による領土の略奪だったのである。

第4章──降伏後に始まった侵攻と追放

ソ連は1945年8月9日、当時有効だった日ソ中立条約を一方的に破り、対日参戦した。日本がポツダム宣言を受諾した後も進撃を続け、8月28日から9月5日までに北方四島を占領した。日本が武器を置いた後、その無抵抗につけ込んで境界を越えたのである。

武装したソ連兵は日本人の家へ土足で踏み込み、貴重品や家財、食料を奪った。ソ連兵を恐れた若い女性たちは、山中の防空壕などに身を隠した。やがて住居だけでなく、学校や寺院まで接収され、ソ連からの入植者が送り込まれると、日本人の家は分割され、見知らぬ家族が住み込んだ。銃を携えた占領者によって、島民は家も財産も、長年築いてきた暮らしそのものも奪われていったのである。

さらにソ連は、四島で暮らしていた約1万7000人の日本人に、家屋や船舶、財産の大半を残したまま退去するよう命じ、1948年までに全員を故郷から追放した。ソ連が行ったのは、降伏後の日本領へ侵攻し、財産を奪い、日本人社会を消し去ったうえで領土を自国へ組み込むという、暴力的な領土奪取だったのである。

第5章──プーチンが演じた「既成事実」

今回プーチンは、択捉島の病院や学校、水産加工施設を視察した。しかし、その統治の風景は、日本人住民を追放してつくられた空間の上にある。ロシアの行政が働き、住民が暮らし、大統領が訪れる。そうした日常の映像を積み重ねることで、「ここがロシア領であるのは自然だ」という感覚を内外に定着させようとしているのである。ロシア大統領府が訪問を通常の国内行事として発表したこと自体が、その政治的意図を雄弁に物語っている。

力で現状をつくり、住民を入れ替え、時間の経過によって既成事実へ変え、最後には歴史そのものを書き換える。ウクライナでも見せたロシアの論理は、北方領土でも同じである。しかし、ロシアがどれほど統治の実績を積み重ねても、四島が奪われた歴史は変わらない。1855年に四島までが日本領と確認され、1875年に得撫島以北の18島が別に加わり、1945年にソ連が日本の降伏後に北方四島へ侵攻した。この順序をたどれば、ロシアが今日、自国領として扱う北方四島が、日本から武力で奪った領土であることは明らかである。

むすびに──領土を守るという現実

プーチンが択捉島を歩いても、北方四島が日本領である歴史は変わらない。日本に求められるのは、ロシアによる占領の違法性を正確に理解し、その根拠を示しながら抗議を続けることである。

さらに見過ごせないのは、中国がロシアと歩調を合わせていることだ。プーチン訪問と同じ日、中国とロシアの駐日大使は、第二次世界大戦の結果を変更する動きに反対する共同声明を発表した。中国は尖閣諸島周辺へ海警船をほぼ毎日送り込み、日本の実効支配を切り崩そうとしている。

一度武力で領土を奪われ、住民を入れ替えられれば、取り戻すことは極めて難しい。北方領土の80年が、その現実を示している。国際法に基づく抗議を続けながら、自国領を奪われないための防衛力と意思を備える。プーチンの択捉島訪問は、国防の重要性に改めて思いを致し、日本の領土をどう守るかをリアリズムの観点から考え直す機会なのである。


関連記事

いいなと思ったら応援しよう!