【短編ホラー集】怪忌18.姿見/E地方・伊吹市で発生した33の怪忌とその結末
E地方・伊吹市で発生した33の怪忌とその結末
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18.姿見
大学入学をきっかけに一人暮らしを始めて一週間。ようやく部屋も片付いてきたので、希美は郊外の大型リサイクルショップに買い出しに来ていた。
冷蔵庫や洗濯機などの生活家電は引っ越し時に一通りそろえたので、収納雑貨やインテリア用品などを中心に見ていく。こういった大型のリサイクルショップはテレビ番組やネットの動画配信などでよく特集が組まれており、近年ブームになっている。品ぞろえは豊富だし、リサイクル品とはいえクリーニングはしっかりしているので基本的には奇麗で、値段は断然お得。もちろん、せっかくの新生活なので新品でそろえたいという気持ちはあるのだが、まだバイトも決まっていない学生の身であり、少しでも節約をしようと思ったわけである。
希美は買い物カートを押しながら、店内をいろいろと見て回り、必要なものを選んで行く。
──あ、こういうのがあると、いいかも。
インテリア・家具のコーナーを見ていた希美は、スタンド式の大きな鏡を見つけた。高さは希美の身長より少し低いくらい。いわゆる姿見というヤツである。木枠に入っただけのシンプルなデザインで、かわいらしさもスタイリッシュさも無いが、値段がなんと三百円と格安なのである。
もちろん鏡は洗面所やお風呂場にあるし、卓上鏡やポケットミラーなどもひと通り揃えているが、こういう全身が映る鏡が部屋にあれば何かと便利だろう。もしあまり使わず邪魔になったとしても、三百円なら手放すのに罪悪感もない。かなり大きいものだが、車で来ているし、こんなこともあろうかと荷物運びに妹の乃愛を連れてきたので大丈夫だ。希美はその姿身を買うことにした。
「さて、今日はこんなところでいいかな。ええっと……乃愛はどこ行った?」
必要なものは大体揃ったので、希美は店内にいるはずの乃愛を探す。ホビーコーナーや書籍コーナーなどを探したが見つからない。まさか、また迷子になったのだろうか。子どもの頃から買い物などではぐれたり、方向音痴で道に迷ったりなど、何度も迷子になっては泣いていた乃愛を思い出す。こういうときは係の人に乃愛の年齢や服装などの特徴を伝えてスタッフに探してもらうに限る……などと考えていたら。
「……ちょっとお姉ちゃん、まさか、迷子の放送してもらおうとか思ってないよね?」
不意に後ろから声をかけられ、希美はギクリとして振り返った。すぐ後ろに、乃愛が呆れた顔をして立っていた。
「うわ、乃愛。びっくりさせないでよ。でも良かった。また迷子になって、一人で泣いてるんじゃないかと心配したよ」
「泣くわけないでしょ、あたしもう中二だよ? いつまで甘えん坊で泣き虫の妹だと思ってるのよ、まったく」
「あはは、ごめんごめん」
笑いながら謝るが、希美としてはいつまでたってもワガママで泣き虫の妹なのである。
「買うもの決まった? じゃあ、これもお願いしまーす」
乃愛はそう言うと、古着コーナーから持ってきたグレーのスウェットとピンクのグラデーションロングスカートをカートに入れた。ちゃっかり自分の物も買ってもらおうという腹だ。値段を見ると、二つで千円。まあ今日は荷物を運んでもらうし、これくらいならいいか、乃愛に似合いそうだし、と、希美は買ってあげることにした。しかし、乃愛もおもちゃやマンガじゃなくこういうものを選ぶようになったのか、と、その成長具合に少し驚いた。
姿見などのカートに入らない商品はスタッフにお願いして運んでもらい、レジで精算する。全て合わせて一万三千円ほど。高校生の頃なら血を吐くほどの額だが、一人暮らしを始めてからわずか一週間のあいだに何度かこのくらいの買い物をしており、少し感覚が緩んでいる。この額の買い物を頻繁に行える、それだけで、希美はなんだか大人になった気がした。
レジで精算を済ませ、スタッフが姿見を新聞紙で包んでくれるのを待っている間、希美が何気なく店内を見回していると。
──げげっ。
思わず声が出そうになった。出入口の自動ドアが開き、朱理と歩希が腕を組んで店内に入って来たのだ。マズイ、と思って身を隠そうとしたが一瞬遅く。
「──あれ? 希美じゃん」
朱理がこちらに気づき、いつもの爽やかな笑顔で手を振った。こうなってしまってはもう仕方がない。希美はいま気づいたみたいな顔で「ああ、朱理、歩希」と、こちらも笑顔で手を振り返した。歩希も、「おう」と手を上げる。せめてこっちに来ないでそのまま通り過ぎて、という希美の願いも虚しく、二人は腕を組んだままこちらに向かって来た。終わった……と、希美は絶望する。
朱理は、襟周りの広いクリーム色のワイドVネックニットに、膝上丈のふんわりとした花柄ミニスカートという格好をしていた。春になったばかりでまだ肌寒い日もあるが、朱理らしい肌の露出が多い春ファッションである。
対して希美は、何年も前に買った首周りが少し伸びたネイビーのVネックニットと部屋着の延長のようなワイドパンツという格好だ。
朱理の格好とあまりに差があり過ぎてげんなりする。
特に、朱理のVネックニットが肩を出すために初めからそういうつくりになっているのに対し、希美のVネックは長年着続けて伸びただけ、というのが痛々しい。インナーの肩紐が見えたとしても、それは「あざとさ」と「だらしなさ」という決定的な違いがあるのだ。希美は今日歩希に会うことを想定していなかったとはいえ、これほどだらしない恰好をしてきたことを後悔せずにはいられない。
そんな希美の思いなんて関係なしに二人はやってきて、朱理が、「買い物? あ、そっか、希美、一人暮らしはじめたんだったね?」と言った。
「そうなの。買わなきゃいけないものがたくさんあって、大変だよ」
「あはは、そうなんだ。ねえ、どんな部屋に住んでるの? 今度遊びに行っていい?」
希美は、「うーん」と唸った後、「いいけど、まだ散らかってるから、部屋が片付いてからね」と続けた。ちょっとしたウソをついた。本当はもう人を呼べるくらいには片付いているが、朱理が来るならもっとオシャレでカワイイ部屋にしておきたい。
「そっか、じゃ、また学校で」
朱理は希美のウソを気付いた様子もなく、そう言って手を振った。
「うん。またね」
希美も手を振ると、朱理は歩希と腕を組んだまま、高級ブランドバッグなどを売っているコーナーへ向かった。リサイクル品とはいえそれなりの値段がするはずだが、まさか歩希におねだりでもして買ってもらうつもりだろうか。ふたりはそのまま商品を見ながら、楽しそうに会話をしている。
「……お姉ちゃん、大丈夫?」
朱理と歩希の様子を遠目に見ていたら、あの二人が現れてから息をひそめていた乃愛が、心配そうな声で訊いてきた。
「へ!? え? あ、いや、大丈夫って、なにが?」思わず変な声が出てしまう希美。
「いや、あたしも、まさか歩希お兄ちゃんがお姉ちゃん以外の人とお付き合いするとは思ってなかったから」
裏切り者を見る目……とまではいかないものの、乃愛はそんな微妙な眼差しを歩希たちに向ける。乃愛が言ったことは、実のところ希美自身がいちばんに思っていることであったが。
「マセたこと言わないの。ほら、鏡、運んでちょうだい」
ちょうど姿見の準備ができたので、希美は朱理たちのことはなんでもないような口調で言って、スタッフから姿見を受け取った。二人で駐車場まで運ぶ。車のバックドアを開け、後部座席を倒すと、姿見はきっちり中に収まった。他の荷物も積み込み、二人はリサイクルショップを後にした。
マンションに戻ると、希美と乃愛はまた協力して荷物を運ぶ。姿見は、クローゼットのそばにちょうど良いスペースがあるので、そこに立てることにする。一旦床に置き、包装している新聞紙を取っていると、乃愛のスマホが鳴った。
「──あ、花蓮? いま? お姉ちゃんのマンション。……うん、神花町の辺り……あ、そうなんだ。……うん……うん。判った。もう終わると思うから、一〇分くらいで行けると思う。……うん。はーい、じゃ、後でね」
通話を終えた乃愛が希美を見た。「ねえ、お姉ちゃん。荷物は運んだし、もう大丈夫だよね?」
「うん、まあ大丈夫だけど、どうしたの?」
「花蓮が七海たちと出かけるみたいだから、あたしも行っていい?」
「そうなんだ、いいけど、車で送って行こうか?」
「ううん、大丈夫。七海が近くにいるみたいだから、バスで一緒に行くよ」
あの乃愛が、友達と一緒とはいえバスに乗る……希美は一抹の不安を覚えたが、リサイクルショップで本人が言っていた通り、乃愛ももう中学二年生。バスくらい普通に乗れるだろう。いつまでも甘えん坊で泣き虫の妹という認識では可哀想だ。
「そう。じゃあ、気を付けてね。今日はありがとう、助かったよ」
「うん、じゃ、行くね。服、買ってくれてありがとね」
乃愛はリサイクルショップで買ったスウェットとスカートを顔のそばまで上げてぱちっとウインクすると、靴を履いて玄関のドアを開けた。希美が「車に気を付けるのよ?」と言うと、乃愛は「だから、もう子どもじゃないってば」と、ちょっとうんざりしたような口調で言って、パタパタと走って行った。ふふっと笑ってその姿を見送り、希美は鏡の包装をはがす作業に戻った。新聞紙を破らないよう丁寧にはがすと、姿見の鏡面が見えた。
「────!!」
息を飲んだ。姿見に映る自分の顔が、真っ黒に塗りつぶされていた。絵の具を手に取り、めちゃくちゃに塗りたくったような顔。
だが、そう見えたのは一瞬で、すぐに顔は元に戻っていた。鏡に顔を近づけ、顔を触ってみるが、絵の具の一滴も垂れていない。
──なんか久しぶりだな、今の現象。
そう思った。鏡に映った顔が真っ黒に見えるいまの現象は、高校二年の二学期ごろからずっと続いている。最近は引っ越しの作業と後片付けで忙しかったためか起こっておらず、久しぶりに見たから、ちょっとビックリしただけだった。
希美は姿見を包んでいる新聞紙を全部取り、スタンドを使ってクローゼットの横に立てた。角度を調整すると、きっちりと全身が映った。お、いいね、と、希美はちょっと気取ってポーズを決めてみた。なんだかモデルになったような気分になる。
「────」
しかし、その気分は一瞬で吹き飛んでしまった。朱理のことを思い出してしまったからだ。
高校一年の二学期に転校して来た時、みんなから『モデルのような美少女』と評されていた朱理。その美少女ぶりはいまも健在──いや、最近はさらに大人びてきており、ティーンズファッション誌の読者モデルから大学生向けファッション誌の専属モデルになったような雰囲気である。大学の入学式でも注目の的だったし、講義が始まればさらに注目されるだろう。ひょっとしたら、そのうちミスコンや美少女コンテストなんかに出場して優勝し、芸能活動を始めるかもしれない。そしたら『一三〇〇年に一人の逸材』とか『E地方の奇跡』などというキャッチコピーを付けられ、瞬く間にブレイクするだろう。
──やっぱ歩希も、ああいう綺麗な子がタイプだったのかなぁ……。
そんなことを思う。あの二人が交際を始めてから、ずっと思っていることだ。
朱理と歩希の仲は、高校二年の夏頃から急速に深まっていった。それに対して、希美がなにをしていたかと言えば、何もしていない、と言うしかない。友達の舞や彩愛から心配されても「歩希とはただの幼馴染で、そういうのじゃないから」と、お決まりの言い訳を貫いた。
──高校を卒業し、大学に通うようになれば、歩希とはまた昔の関係に戻れるよ。
内心、希美はそう思っていたのだ。
希美は高校に入学したときから歩希と同じ大学を受けると決めていた。当時の希美の成績では合格するのは微妙なラインであったが、それでも猛勉強をし、学部こそ違うが歩希と同じ大学に合格できた。これで大学では昔の関係に戻れる……そう思っていたのだが、そうはならなかった。朱理もまた、同じ大学に合格したのだ。しかも、彼女は歩希と同じ学部だった。
その上。
大学に合格した二人は、それをきっかけにしたかのように、交際を始めた。告白は歩希の方からだった──希美にとっては死体撃ちとも言えるような事実を、舞や彩愛が教えてくれた。
──あたし、なんのために今の大学に通うんだろう。
ずっと、そんな風に考えている。学校や学部自体にはなんの思い入れもなく、入学後も、卒業後も、なにをしたいかも判らない。ただ歩希と同じ学校に行きたくて選んだだけの大学だ。これでは、あの二人が交際する姿を見せつけられるだけではないか。
気分が重くなってきた。うつむく希美。姿見に映る希美も、同じくうつむく──はずだった。
しかし、視界の隅に映った姿見の自分は、正面を見たままだった。
そして。
──全部、朱理が悪いのよ。
そう囁かれた。
「え?」
慌てて顔を上げる。そこには、姿見に映った希美がいる。
希美は、姿見の自分をじっと見つめる。姿見の希美も、こちらを見つめ返す。左右が反転しただけの自分。特におかしなところは無い。鏡だから当然だ。
──あれ?
鏡をじっと見ていた希美は、顔が微妙に歪んでいることに気がついた。目頭の付近が下がって映っているのだ。おかげで、ちょっと目つきが悪く見える。
「…………」
もちろんそれは、希美の顔つきが変わってしまったという訳ではない。歪んでいるのは鏡の方である。新品なら返品ものだが、三〇〇円のリサイクル品なら仕方ないだろう。姿見だから多少の歪みがあっても全身が映れば問題ないし、顔を見るときは洗面所や卓上の鏡を使えばいい。
ふう、と、希美は胸の内のもやもやした感情を吐き出すように大きく息をついた。朱理と歩希のことは、今さら考えてもしょうがない。希美はそう思い直し、ふたりのことは頭から追い出して、他の買い物の品を整理することにした。
翌朝。
お昼近くに目覚めた希美は、朝寝坊も今日までか、と考えながらベッドの上に身を起こす。明日から大学の講義が始まる。今日はその準備をしなければならない。最大の問題となるのは毎日の服装だ。学校指定の制服でなにも迷うことはなかった中学・高校とは、明らかに違ってくるだろう。
希美はもそもそとベッドから起き出すと、クローゼットを開けた。服は家から持ってきたものばかりだ。どれもお気に入りのものではあるが、買ってからかなり経っているので、大学生らしさに欠けるかもしれない。
そもそも希美は、今まであまりファッションのことを気にしていなかった。女子大生といえば毎日がファッションショーみたいなもので、地味な格好で行くと「なにあの子?」と陰でクスクス笑われ、だからといって目立つ格好で行くと「なにあの子!」と靴に画びょうを入れられたりライーンやツブヤイターなどで悪口を言われたりや誹謗中傷されたりする……というのは考え過ぎだろうが、高校の頃から着ている服──それどころか、ヘタをすれば中学時代の服もある──では、さすがにマズイ気がする。昨日の朱理と自分の服装の違いが、それを如実に表していた。
──あたしも、ちょっとはオシャレをした方がいいのかなぁ。
そう思うが、今の自分に昨日の朱理のような服が似合うとは思えない。ファッションの失敗は目も当てられない。だから、これまでは成功も失敗もない無難な服に留めていたのだ。
大きくため息をつく希美。ダメだ。また気分が落ち込んできた。希美は一度クローゼットを閉じた。
その時、視界の隅に、クローゼットの横でこちらを見ている希美の姿が見えた。
そして。
──SNSに、朱理の悪口書いてやろうよ。
耳元で囁かれた。
「──え!?」
はっとしてそちらを見る。そこにいたのは、昨日買った姿見に映った自分自身で、同じくはっとした表情でこちらを見ている。左右反転しただけの自分自身。そのままじっと見つめているが、なにもおかしいところは無い。
いや、しいて言えば、姿見に映る自分の顔が歪んでいる。それも、その歪みは昨日よりもさらに大きくなっているように思う。目だけでなく口の部分も歪み、片方の口角が上がっている。目つきが悪く映っているのも相まって、なんだが嘲笑しているように見えるのだ。鏡がたわんでいるのだろうか? そう思った希美は、手で鏡面を撫でてみた。しかし、鏡面は平らで、特に違和感はない。
──え? ひょっとして、あたしの顔が歪んでる?
思わず顔を触る。もしこんな意地が悪そうな顔になっているのなら大変だ。すぐにテーブルの上の鏡を取り、顔を映してみる。そこには今まで通りの希美の顔が映っていた。改めて姿見を見ると、こちらは歪んでいる。やっぱり姿見の方がおかしいんだよね、と、胸をなでおろした。
──まあ、せっかく大学に通うんだし、新しい服の一着二着くらい買ってもいいかな。
卓上ミラーを戻した希美は、気分転換も兼ねて今日は大型ショッピングモールに出かけることに決めた。そして、簡単に支度をして、さっそく出かけていった。
「ただいまー」
夕方。一・二着だけ買うつもりが、一人暮らしを始めて気が大きくなったせいか十着以上も買ってしまった希美は、両手に紙袋を下げて部屋に帰ってきた。一応、ほとんどをお安いファストファッションブランドにしたが、三着だけ、ちょっとお高めの服を買った。淡いラベンダーのシアートップスとベージュのキャミソール、そして、ホワイトのマーメイドスカートである。普段希美が買っているファストファッションブランドの三十倍近い値段だったが、大学初日なんだからこれくらい奮発しても構わないだろう。
希美は部屋に紙袋を置き、そのちょっとお高めの服をさっそく着てみることにした。着ている服を手早く脱ぎ、新しい服を着る。なんだかドキドキする。もちろんお店でも試着したが、それでも、どんな自分になっているのかと想像すると、胸の高鳴りが止まらない。希美は着替え終えると、姿見の前に立った。
そこには、昨日までの自分じゃない自分がいた。キャミソールの上に透け感のある薄手のシアートップスは、希美にしてはかなり頑張って肌を出している方だ。スカートはロングのものを選んだが、腰から膝にかけてしなやかな曲線を描くものになっている。自分に似合うかどうか、最初は全く自信が無かったが、店員さんとよーく相談して決めただけあって、ちょっと恥ずかしいけどすごく似合っていると、自分でも思う。
「……えへへ。歩希、どんな顔するかなぁ」
明日大学で歩希に会ったときの様子を想像する。この姿に彼が一瞬でも目を奪われ、カワイイと思ってくれれば、頑張って背伸びした甲斐もあるというものだ。
だが。
──あれ? 希美、その服どうしたの? いつもと違うね? いいじゃん、似合ってるよ。
希美の脳裏に浮かび上がったのは、歩希と腕を組み、服を褒めながらも、どこか希美を下に見るような目をした、あるいは勝ち誇ったような顔をした、朱理の姿だった。
頑張って背伸びをして膨らんだ気持ちが、急激に萎んでくる。姿見に映る自分が、どんどんみすぼらしく思えてきた。仕方がないかもしれない。朱理ほどの美少女の前では、どんなハイブランドの服で着飾ろうとも、全て霞んでしまうだろう。ああ、三万円をドブに捨てたような気分になってきた。心なしか、姿見に映る自分の顔も、ますます歪んでいるように思う。いかんいかん、と、希美は頭をぶんぶん振ってイヤな考えを追い払う。大丈夫。朱理だって、きっと心からカワイイって言ってくれるよ。
服の準備はこれくらいにして、他にも筆記用具とか準備しなきゃ。希美は服を脱ごうとしたが。
視界の隅で、姿見に映る希美は、そのまま立ち尽くしていた。
──躓いたフリをして、朱理の服にコーヒーぶちまけてやればいいのよ。
また、耳元でささやく。
「──ええっ!?」
息を飲んで振り返る。姿見には、左右反転した希美の姿が映っている。ただし、顔はかなり歪んでいる。口角は不自然な角度で頬まで上がり、もはや口が裂けているかのようだ。瞳もさらに吊り上っている。悪意に満ち溢れたような顔だ。
そういえば。
この姿見の歪み方はおかしい──と、希美は気付いた。
姿見に映る自分の姿で歪んでいるのは顔だけだ。それが、姿見のどこに映しても変わらないのである。鏡の上部でも、中央でも、下部でも、同じように歪んで映るのだ。なのに、顔以外の身体は、何ひとつ歪んでいない。鏡が物理的に歪んでいるのであれば、これはあり得ないであろう。
そして、ハッキリと見えたわけではないが、希美と異なる動きをする、鏡の中の自分。希美に邪悪な提案をしてくる、もう一人の自分。
それは、まぎれもない自分自身……なのかもしれない。
──この姿見、買っちゃいけないヤツだったのかも。
そう思った。思えば、いくらリサイクルショップでも三〇〇円は安すぎた。そういう理由があったのだろうか。
「…………」
いやいやいや、と、自分に言い聞かす。変なふうに考えるのはよそう。幽霊の話は幽霊を呼び寄せる、と同じで、悪く考えると事態は悪い方へ進むかもしれない。せっかく始まった新生活、変な怪現象に巻き込まれたくはない。こういうのは気付かないふりをするのがいちばんだ。希美は気にせず、服を脱いでハンガーにかけた。今は楽しいことを考えよう。ふふ、明日、歩希がビックリしてくれるといいな。
「……ただいま……」
翌日の夕方、希美は意気消沈して部屋に帰ってきた。大学の講義初日、希美は昨日買ったばかりの三万円の服を着て、ドキドキしながら大学へ行った。歩希、どんな顔するかな? ビックリするかな? カワイイって思ってくれるかな? ……朱理のことは考えないようにし、ただ歩希の反応だけを考えるようにした。
しかし、結果は、見事に撃沈。
歩希の反応が鈍かったわけではない。ただ、歩希と会えなかったのだ。希美は歩希に会いに行こうとしたのだが、いろいろとタイミングが合わなかった。これは、ただ運が悪かったというだけの話ではない。
希美と歩希は大学こそ同じだが、学部は違う。それは、希美が事前に思っていた以上に距離があることだったのだ。中学や高校で異なるクラスになったのとは、まるで違う。建物の違い、空きコマの違い……それらが、希美の前に立ちはだかる。歩希は同じ敷地内にいるはずなのに、別の空間にいるような感覚。歩希が足を運びそうなところに行ってみたが、結局会えなかった。
なのに。
どういう訳か、朱理には会えてしまったのだ。講義が始まる前の、校門の前で。
朱理は「希美、おはよう。今日から講義だね。お互い、ガンバろうね」とだけ言って、そのまま行ってしまった。希美の服装に関しては全く触れなかった。気付かなかったのか、気付いていたけどあえて何も言わなかったのかは、判らない。
意気消沈して帰宅した希美。ノロノロと部屋に上がると、こんなことなら新しい服なんて買わなきゃよかった、と、クローゼットの前で着替えようとした。
姿見に映る自分が、じっとこちらを見ていた。希美は着替えようとしているにもかかわらず。
しかも、それは視界の隅ではない。希美がその異変に気づき、着替えの手を止めて首だけそちらに向けても、鏡の中の希美は、身体ごとまっすぐ正面を向いている。戸惑う希美に対し、鏡の中の希美は、うっすらと笑みを浮かべている。暗い闇の中に浮かぶような笑み。それが、徐々に歪んでいく。つり上がった目と、頬まで裂けているかのような口。悪意がむき出しになったような顔。
──朱理、絶対希美の服の変化に気づいていたけど、あえて無視したんだよ。
鏡の中の希美が、邪悪な言葉をささやきかける。
──今ごろ、歩希と一緒に笑ってるんじゃない? 「あんなダサい子が着飾っても、痛々しいだけなのにね?」って。
「そんなことない! 朱理は……友達だもん。そんなふうに思ったりしないよ!」
──友達? そんなワケないじゃん。だって、朱理はあなたから歩希を奪ったんだよ? 友達がそんなことする?
「そ……それは……」
──朱理は、あなたの一番大事な歩希を奪って、その上あなたのことを見下してるんだよ? 許せないよね? あんな子、いなくなればいいよね? 消えちゃえばいいよね? 簡単だよ? 例えば、ほら? 明日、台所の包丁を持っていけば──。
「うるさい!」
希美は着ていた服を脱ぎ、姿見に向かって投げた。ちょうど上部に引っかかり、顔が隠れる形になった。それで、もう一人の自分の囁きは聞こえなくなった。
──ダメだ。この姿見、やっぱり買っちゃいけないヤツだった。どうにかしないと。
時計を見ると、まだ七時前。リサイクルショップは開いている。捨てるのはちょっと怖いので、今から売りに行こう。この鏡だけなら、乃愛がいなくてもなんとか一人で運べるだろう。希美はそう決めると、もう一度着替え、姿見に自分の姿が映らないよう、再び新聞紙で厳重に梱包し、それを持って出かけた。リサイクルショップの買い取りカウンターに持っていくと、心なしか店員さんは迷惑そうな顔をしていたが、なんとか十円で買い取ってくれた。
やれやれ、これで一安心だ、と、希美は家路を急ぐ。車に乗り、マンションに帰って、五階の部屋のドアを開けた。
「ただいま」
誰もいないのは判っていても、家にいた頃の習慣でそう言って、部屋に上がると。
「────!!」
部屋が、歪んでいた。
テーブル、クローゼット、ベッド、クッション、テレビ、冷蔵庫、電子レンジ……など、部屋の全てが、大きく歪んでいたのだ。
その全てに、顔がある。
テーブルにある三つの点が、顔に見える。
クローゼットの樹の模様が、顔に見える。
ベッドの上にある布団の皺が、顔に見える。
クッションも、テレビも、冷蔵庫も、電子レンジも……部屋にあるすべての物に、顔がある。その全ての顔が邪悪な笑みを浮かべ、希美を見ている。
そして。
──おかえり。
耳元で、囁かれた。
それは明らかに、自分自身の声。
「…………」
原因はあの姿見じゃなかったか──と、希美は思った。
