何故、note記事は読まれないのか?文章を書くことさえ、メタゲーム化するこの時代に【noteの続け方 / エッセイ / ブログ / 副業ライティング】
「質の高い記事を書けば、きっとみんなに読まれるはず」
noteを始めたばかりの頃、私はどこかでそう思っていました。
自分なりにテーマを考えて、文章を丁寧に書いて、伝えたいことをちゃんと整理して、読みやすく整えていく。
そうすれば、いずれは読んでくれる人が自然に増えてくれるのだと。
質こそが正義なのだと。
でも、続けているうちに、はたと気づいていく。
noteが読まれるかは、記事の良し悪しだけでは決まっていないということに。
記事の中身以前の問題
noteを書き始める以前から、読んでいて疑問に思うことがあったんですよね。
スキやコメントが多い記事であったとしても、必ずしも内容の情報量の濃さや、文章の質が高いとは限らないと。
とは言え、人によって求めることや評価する軸なんて変わりうる。
私の評価基準にズレがあるだけでnoteではこういうのが受けるのかもしれないなと、片づけていました。
それで、この疑問が確信に変わったのは、とある記事を読んだときですね。
そのnoteの本文には、ひらがな一文字しか書かれていなかった。
たったの、一文字です。
それなのに、たくさんのスキとコメントがついていました。
もし、noteを始めたばかりの私が、同じようにひらがな一文字の記事を書いたとして。
同じようにスキが集まるかと言われたら、そうはならない。
つまり、そこでは記事の中身よりも以前の話がある。
内容よりも、「誰が書いたのか」「どういう文脈で書いたのか」「読者との関係がどうあるのか」が問われていたんですよね。
要するに、noteという媒体は、メタゲーム化がかなり進んでいるということです。
noteの「メタゲーム化」とは何なのか
ここで言うメタゲーム化とは、ざっくり言ってしまえば、記事の評価が、記事の外側(文脈)に移動している状態のことです。
読み手は「文章が上手いか」や「内容が役に立つか」という内容で判断しているように見えて、実際にはその前に幾つかの判断材料を持ってる。
その人をどれくらい知っているか、これまでの投稿でどんな印象が積み上がっているか、この人はどんな価値観で書くのかとか、そういった記事外の情報を、持っている。
この状況って、外食することに結構似ているなと感じます。
もちろん料理の味は大事。それは間違いない。
けれど、同じ料理であっても、店の雰囲気の良さだったり、店員の接し方だったり、立地だったりで、その評価って変わったりする。
場合によっては評価が逆転しうることもありますよね。
noteの記事も同じで、「この記事が良いか悪いか」だけで勝負しているように見えて、記事を取り巻く背景が勝敗を決めてたりするわけです。
もちろん、これは個人ブログや他SNSでも同じ傾向があるのですが、noteは特にこの傾向がかなり強い媒体だなと感じます。
記事の外側で起きているメタゲームの代表例
では、noteにおけるメタゲームとは何なのか具体的に考えていくと、多分多くのものが並行して走っていて、人によって恐らく大きく違う。
ここでは代表的なものを挙げていきます。
(1)信頼残高(この人の記事なら読んで大丈夫という感覚)
note記事はタイトルやサムネの影響が大きい。
目に入ったときの印象で「読むかどうか」が決まっていく。
ただ、それ以前のことがあって、それが信頼残高です。
過去に良い記事を書いていたとか、内容に納得できるとか、この人の紡ぐ言葉が好きとか、そういったもの。
フォロワー数が多いから信ぴょう性がありそうとかもそうかもしれませんね。
そういうものが既に積み上がっていると、読み手は記事をクリックしやすくなる。
先に例に出した「ひらがな一文字の記事」も、きっとこれですね。
たった一文字でも評価が成立してしまうのは、これまでに信頼残高が十分に積まれているから。
(2)ソーシャル・キャピタル(交流資本があること)
次はお互いの関係性(ソーシャル・キャピタル)ですね。
これまでに築いた関係性という価値です。
noteはSNS的な要素が大きいので、「関係性」って無視できない。
反応があるかどうかには大きく繋がったりします。
コメントの行き来があったり、DMでやり取りをしていたり。
あるいは投稿者を以前に見かけたりするようなレベルでもそうですね。
そういう関係性がそれなりに構築された状態だと、記事の初速が出やすくなる。
そうすると、noteのアルゴリズム上でさらに人に届きやすくなるわけです。
(3)導線設計(見つけられやすさ)
最後が導線設計です。
文章や内容が良くても、そもそも記事が見つけられないと始まらない。
残酷な部分もありますが、noteは特にそうですよね。
具体的な導線設計としては、投稿タイミングが適切か、タグやタイトルが検索意図に沿っているか、関連記事へのリンクが自然かとか、ですね。
こういう「入口の設計」や「回遊の設計」ってやはり必要になってくる。
「記事の力だけを信じすぎない」ということ
こんなふうにメタゲームで決まってしまう側面がある。
それならば、文章の良し悪しなんて何も関係がないのか、と思うかもしれません。
正直、私もそう思ったりすることがあったりします。
けれど、必ずしもそんなことはなくて。
なぜなら、メタを取れたところで、それは土俵に乗るだけに過ぎないからですね。
メタだけ取っても、内容が伴わなければ、いずれはそれさえ機能しなくなる。
大事なのは、入り口がどうであれ、最後は内容で信頼を取ることだと思うんですよね。
そこで得た信頼が「この人の記事なら読んで大丈夫」という信頼残高になり、次の記事を開く動機になる。
そしてまた内容で納得を重ねて、信頼が増える。
この循環が回り始めた状態が、ひとつの理想形なんじゃないか、と思うわけです。
だから私が思うに、おそらく一番理想系に近いのは、純粋に文章能力が高い人がメタを取れたとき。
ただ、そういう人はメタを取らないことが多い。
純粋に「記事の質」だけで勝負している人が多いからですね。
きっと番外戦術っぽくて、なんか邪道だと感じてしまうのもあるかもしれません。
ただ本当は、文章が書ける人こそ、ほんの少し設計を入れるだけで、状況が変わる余地が大きいなって思います。
まとめ:読まれない原因は、記事の外側にあることが多い
ここまで書いたように、noteが読まれない原因は、必ずしも内容の問題ではないんですよね。
むしろ多くの場合、記事の良し悪し以外のところで決まっていたりする。
入口と関係性を整えるだけで、同じ文章でも届き方が変わる余地がある。
だから、もし今あなたの記事が読まれていないのだとしても、それは必ずしも内容のせいではなくて、構造の問題の可能性があるのです。
そんなことを、私は昔の自分にも伝えたいのかもしれません。
よかったらスキしてくれると嬉しいです。
それではまた。
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