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自給率ゼロの国で家族を養う——限界ニュータウンでできる「最悪シナリオ対策」とは何か

「私たちは皆、同じ船に乗っている。このパンデミックによる混乱、心痛、悲しみにもかかわらず、それが世界に前向きな変化をもたらすことを願っている——再地域化されたコミュニティ、より強い近隣のつながり、そして強靭で能力ある世帯を。」

— デイヴィッド・ホルムグレン、パーマカルチャー共同創始者

「自分の食べ物を育てるために必要な水で、トイレを好きなだけ流せる——これは狂気の沙汰だ。」

— デイヴィッド・ホルムグレン『RetroSuburbia』より

はじめに—「備蓄」の先にある問い

肥料自給率は実質ゼロ。肥料の備蓄は存在しない。

これは「もしもの話」ではない。これは「いま」の日本の話だ。

スーパーの棚が当たり前のように埋まっている日常。その背後にどれだけの人が気づいているだろう。化学肥料は輸入リン鉱石に依存し、そのリン鉱石は特定の数カ国に偏在している。そして日本の備蓄は——ない。

ニュースを追うほど不安になる。しかし何をすればいいのかわからない。「最悪の事態に備える」と「パニックに陥る」の境界線は、どこにあるのか。

多くの人が首を傾げるのではないか。個人でできることなんて、たかが知れている——そう感じるのは無理もない。

しかし、オーストラリアに一人の男がいる。1970年代から「エネルギー下降の時代」を予見し、その中で生き抜くための設計図を半世紀にわたって描き続けてきた人物が。

デイヴィッド・ホルムグレン。パーマカルチャーの共同創始者。

彼の問いは単純だ。スーパーの棚が空になる前に、あなたの庭——あるいはベランダ、あるいは近所の空き地——で何ができるか。そしてその「何か」を、どうやって「持続可能な暮らし」に拡張するか。

鍵は「備蓄」ではない。「生産する能力」そのものだ。

著者と書籍——理論と実践を一致させた稀有な存在

デイヴィッド・ホルムグレン(David Holmgren)。1955年生まれ。1970年代にビル・モリソンとともに「パーマカルチャー」を共同提唱した環境設計理論家である。

デイヴィッド・ホルムグレン

彼の特異性はここにある。理論を語るだけでなく、自ら設計した土地で半世紀近く暮らしているという点だ。オーストラリア・ヴィクトリア州ヘップバーンにある自給農場「メリオドーラ(Melliodora)」——そこで彼は、雨水タンクとコンポストトイレと薪ストーブと家庭菜園だけで回る生活を実践している。理論家でありながら、その理論で「自分の人生を設計した」稀有な存在なのである。

メリオドーラ農場の全景写真

主著に『パーマカルチャー:持続可能性を超える原理と小道』(2002年)、『未来のシナリオ』(2009年)がある。特筆すべきは後者だ。シェル石油が自社の利益を守るために開発したシナリオ・プランニング手法を、ホルムグレンは「市民のレジリエンス設計」に転用した。権力の道具を奪い、別の目的に転用する——この「横取り」の感覚こそが、パーマカルチャーの精神を体現している。

本書『RetroSuburbia』(2020年)は、その延長線上にある「実践マニュアル」である。タイトルは「レトロな郊外」を意味する造語。500ページを超える大著は、COVID-19パンデミックのさなか、「Pay What You Feel(値段はあなたが決めて)」の電子書籍として無料公開された。

前回の記事『エネルギー「崩壊」か「下降」か』で紹介したように、ホルムグレンは4つのエネルギー下降シナリオを描いた。本書はそのシナリオを前提に、「では具体的に何をすればいいのか」を答える一冊である。理論から実践への拡張——これが本書の新規性であり、この記事で扱う核心でもある。

1. なぜ「郊外」なのか——高層マンションではなく

「ほとんどのオーストラリア人が郊外で育った。未来に備える者も、馴染みのある場所でそうすべきだ」

都市計画家の多くは「郊外」を批判する。車依存のエネルギー多消費モデルであり、環境的にも社会的にも失敗だった——その評価は一理ある。しかしホルムグレンの視点は異なる。

既存の郊外住宅こそが、「エネルギー下降」の時代における最も適応可能な居住形態だと彼は主張する。理由は三つある。

第一に、敷地面積だ。オーストラリアの典型的な郊外区画は約1000平方メートル(日本の宅地の5〜10倍)。この広さがあれば、裏庭での食料生産が現実的な選択肢になる。ベランダ菜園ではカロリー生産が不可能だが、この規模なら可能だ。

第二に、既存の建物ストックがある。ゼロからエコハウスを建てるより、既存の家を「レトロフィット(改修)」する方がはるかに安い。しかも失敗の歴史が刻まれている——日当たりが悪い、断熱が足りない、水はけが悪い——そうした「欠点」は、実は改修のヒントの宝庫でもある。

第三に、密度が適度だ。「農村の自給自足」と「都市のコミュニティ」の間のスイートスポット——孤立でもなく過密でもない。隣人と助け合える距離感が、ここにはある。

ホルムグレンはこの議論を「オージー・ストリート(Aussie St)」という架空の物語で描く。1950年代の黄金期から2020年代の大恐慌まで、同じ通りがどう変わっていくかを追う思考実験だ。

日本の読者にとって、「郊外」といえば団地やニュータウンを思い浮かべるだろう。高齢化と空き家問題に直面するその風景は、オーストラリアの郊外よりさらに厳しい。しかし視点を変えれば、「空き家」は「コミュニティ資源」でもある。衰退ではなく、再設計の機会として捉えられないか。

もちろん、「マンション住まいの自分には関係ない」と感じる読者もいるだろう。だが本書の原則——「既存のものを活かす」「隣人と協力する」「日照を最大化する」——は居住形態を超えて応用できる。ベランダでも、屋上でも、共用スペースでも、できることは必ずある。

2. 日照、水、土——住宅選びの「三つの絶対条件」

「太陽光へのアクセスは、すべてのレトロフィットの前提条件である。日陰は植物では作れるが、失われた太陽は取り戻せない」

家を買うとき、不動産屋は「駅からの距離」「築年数」「間取り」を強調する。ホルムグレンが問うのは別の三つだ。日照、水、土。

第一は「日照」。冬に太陽が入るかどうか——これだけで暖房費が劇的に変わる。さらに、野菜や果樹の生育を左右する。

ここで彼の逆説的なアドバイス:「南向きの家を選べ(玄関や道路に面した側)」(日本に適用するなら北向き)。南半球オーストラリアの話だが、そのロジックは日本でも応用できる。なぜ南向きか?北側(日本の場合、南側)の裏庭が広く取れ、パッシブソーラー改修——つまり温室の増設や窓の拡張——がしやすいからだ。南向きのファサードは日照が悪いが、それは裏庭が北向き(南半球では逆)であることを意味する。この「逆転の発想」が、レトロフィッターの目には重要なのである。

第二は「土壌の深さ」。野菜や果樹の根が1メートル以上伸びられるかどうか。深い土壌は、干ばつ時の生存率を決定的に左右する。表土だけが肥沃でも、下層の岩盤や硬盤(農業機械が作り出した圧縮層)が浅ければ、樹木は育たない。

第三は「雨水収集の可能性」。屋根面積×年間降雨量——これが雨水タンクに貯められる最大量だ。気候変動で降雨パターンが激変する中、「水道管に頼らない水」の確保は、食料生産の要となる。

「都市部ではそんな土地は存在しない」——その反論はもっともだ。だがホルムグレンの問いは異なる。「存在しないから諦める」のではなく、「ある場所に移動する」という選択肢を真剣に検討する時期に来ているのではないか。彼の「世帯形態と立地マトリックス」は、そのための意思決定ツールである。

この点は、前回の記事『エネルギー「崩壊」か「下降」か』で詳述したシナリオ分析と連動する。「どこに住むか」の選択は、「どの未来に備えるか」の選択と切り離せない。

3. グレーウォーターとコンポストトイレ——「汚物」を「資源」に変える思考

「下水道に流された栄養分を畑に戻せない文明は、自分自身をゆっくりと毒殺している」

現代の下水道システムは「清潔な飲料水で排泄物を希釈して流す」という方法で動いている。これを「狂気」と呼ぶのは誇張だろうか。

だがホルムグレンはさらに深い問題を指摘する。下水汚泥には重金属が濃縮される——清潔に見える水に微量に含まれる重金属が、膨大な量の汚水の中で排泄物に吸着され、結果として汚泥に集積するのだ(pp.143-144)。この汚泥を農地に還元し続ければ、数十年単位で土壌は重金属で汚染される。つまり現代の下水道システムは、「ゆっくりと自分自身を毒殺する」仕組みでもあるのだ。

ではどうするか。

ホルムグレンの答えは驚くほどシンプルだ。「ピーバケツ(Pee Bucket)」から始めろ。

尿には排泄物中の窒素の90%が含まれている。この窒素は植物にとって最も重要な栄養素の一つだ。尿をそのまま水で10〜20倍に希釈して畑に還元すれば、化学肥料の代替になる。しかも適切に管理すれば、臭いも問題にならない。

ピーバケツ

次に「バケツトイレ」。専用のバケツに乾燥したおがくずを加える——これだけで臭いは吸収され、炭素対窒素のバランスが整い、堆肥化が始まる。定期的にバケツをコンポスト場に空け、数ヶ月間「冷たい堆肥化」を経れば、病原菌は死滅する(p.144)。

重要なのは「認可」よりも「安全性の原則」だ。生の排泄物は決して直接野菜にかけない。数ヶ月間堆肥化した後、果樹や根菜以外の作物に使う。ホルムグレンはこのシステムを30年以上使い続けており、これまでに問題は起きていないという。

日本の読者にとって、「コンポストトイレ」という言葉は抵抗があるかもしれない。衛生観念の問題——「汚い」「みっともない」という感覚は根強い。

だが考えてみてほしい。上下水道が止まった時の「次の日」——その時、あなたのトイレはどうなるか。この問いは、多くの人にとって「非現実的」から「現実的」へと変わりつつある。適切に管理されたコンポストトイレは、フラッシュトイレよりも衛生的ですらある。ホルムグレンの実績がそれを示している。

4. 薪エネルギー——「遅れた技術」ではなく「最も賢い選択」

「オーストラリアには木を燃やすのにこれ以上適した土地はない。にもかかわらず、私たちはそれを原始的で汚いものと見なしている」

スウェーデンでは薪エネルギーが天然ガスを超えて最大のエネルギー源になっている。オーストリアも同様だ。両国とも「環境先進国」として知られるが、そのエネルギー政策の中心に木質バイオマスがあることを、どれだけの人が知っているだろうか(p.109)。

スウェーデンのエネルギー構成比を示すグラフ

適切に管理された森林からの薪は、天然ガスの10分の1の温室効果ガスしか排出しない。しかも持続可能な管理のもとでは、実質的に炭素中立——木が成長過程で吸収したCO2を、燃焼時に放出するだけだからだ(p.111)。

ホルムグレンが推奨するのは、複雑な技術からではなく「金属ドラム式調理ストーブ」から始めることだ。オリーブオイルの空き缶など、20リットル級の金属ドラムを加工するだけで作れる。小さな枝を効率的に燃やし、煙をほとんど出さない。湯を沸かすのが非常に速く、熱を保温瓶に移せば、一度の火で一日分の飲み物が賄える(pp.115-116)。

問題は煙害だ。未乾燥の薪や不完全燃焼が原因であることがほとんどで、適切な技術と習慣があれば大幅に減らせる。ホルムグレンは「火を使いこなす子供を育てることを、食料を育てることと同じくらい基本的な能力と位置づける」(p.123)。

日本の読者からは「ベランダで薪なんて無理」という声が聞こえてきそうだ。だがホルムグレンは「都市林業」の可能性を指摘する——街路樹の剪定枝、解体廃材、庭木の剪定くず。都市は思っている以上に豊かな「薪の森」なのである。また個人では難しくても、「コミュニティの共有薪ストーブ」や「木質ペレット」という選択肢もある。

この点は、過去記事『Grow or Die』で詳述されたサバイバル園芸の原則と補完関係にある。化学肥料なし・電力なしで家族を養う方法——その「熱源」としての薪エネルギーは、単なる「ロマン」ではなく「現実的な選択肢」なのである。

5. 「共有」の設計——フェンスを壊すと何が起こるか

「『良いフェンスは良い隣人を作る』という格言は、中産階級の快適と安全の時代には真実だったかもしれない。しかし『結束すれば立ち、分裂すれば倒れる』——この労働者階級のスローガンは、未来のレトロフィットされた郊外で新たな通貨を得るだろう」

ホルムグレンの最も挑戦的な提案の一つがこれだ。「フェンスを壊せ」

オーストラリアの実例を紹介しよう。隣接する2軒の家の住民が、境界のフェンスを取り払った。結果、片方は家庭菜園を拡張し、もう片方はワークショップを設置した。雨水タンクを共有し、裏庭を統合して、合計でより効率的な土地利用が可能になった(pp.45-47)。

これは「所有権の放棄」ではない。「所有権を超えた協働」である。ホルムグレンはこれを「メンタル・フェンスの除去」と呼ぶ——物理的に壊す前に、頭の中の境界を取り払うことが先決だ(p.189)。

フェンスを撤去して統合された裏庭の事例写真

重要なのは「一度に全部を変えようとしない」ことだ。小さな協力から始めて、信頼を積み重ねる。たとえば:

  • 芝刈り機を隣人と共有する

  • 雨水タンクのオーバーフローを隣の庭に流す

  • 収穫が集中した野菜を交換する

こうした小さな一歩が、やがて「互助ネットワーク」へと発展する。

「日本の隣人は関わりたくない」——その感覚はよくわかる。プライバシーを重視する文化の中で、「隣人と親友になる必要はない」。だがホルムグレンが提案するのは「選択的関与」だ。全ての隣人と親密になる必要はない。雨水タンクの共有や道具の貸し借りという「限定された協力」から始めればよい。

ここでオルロフの崩壊モデルを思い出してほしい。過去記事『いまの日本は「崩壊の五段階」のどこにいるのか』で分析したように、ソ連崩壊を防いだのは「ダーチャ(郊外の小さな農園)」での食料生産と近隣互助だった。本書が提供するのは、その「都市版」設計図なのである。

6. 限界ニュータウンという「贈り物」——日本版レトロサバービアの可能性

「衰退」と呼ばれている場所に、実は「設計図」が眠っている——ただし、それを読める目が必要だ。

多摩、高蔵寺、千里、泉北。1960年代から80年代にかけて、日本は丘陵地を切り開き、核家族のための「理想の住宅地」を大量に造成した。半世紀が過ぎたいま、そこには高齢化、空き家率の上昇、商業施設の撤退、バス路線の縮小という「四重の衰退」が進行している。メディアはこれを「限界ニュータウン」と呼び、失敗の象徴として語る。

だがホルムグレンの目で同じ風景を見ると、まったく別の地図が浮かび上がる。

15年後あなたの住む街は存在する?…「限界ニュータウン」消える街・生き残る街 RSK山陽放送

空き家は「空き地」である

日本の典型的なニュータウン区画は80〜150平方メートル。オーストラリアの1000平方メートルには遠く及ばない。ここで「日本では無理だ」と結論するのは早計だ。

空き家率が20%を超えるニュータウンでは、隣接する空き家を取得——あるいは自治体から借り受け——することで、事実上の「区画統合」が可能になる。2区画で160〜300平方メートル。3区画なら240〜450平方メートル。ホルムグレンが「最低限のカロリー自給」に必要とする面積に近づく。

しかも取得コストは暴落している。首都圏郊外でも数百万円、地方では数十万円で購入可能な物件が珍しくない。「資産価値ゼロ」と嘆かれるその価格こそが、レトロフィッターにとっては参入障壁の低さを意味する。不動産市場の「失敗」が、食料生産基盤への転換コストを劇的に下げているのだ。

なぜ「田舎の空き家」ではなく「限界ニュータウン」なのか

ここで当然の疑問が浮かぶ。食料生産が目的なら、中山間地域の旧農家のほうが条件は良いのではないか。

確かに、農業ポテンシャルだけを見れば田舎が圧倒的に優位だ。数十年から数百年にわたって耕作されてきた深い表土、水路、裏山の薪——先人が何世代もかけて「設計」した農業基盤が、すでに存在している。

しかし農村には別の壁がある。

第一に、アクセスだ。最寄り駅まで20キロ、バスは一日3本——こうした条件では「週末だけ通って土壌づくりを始める」という段階的移行が成り立たない。移住するなら「完全移住」に近い覚悟が要る。これは段階性・重層性を重視する並行社会の原則とは緊張関係にある。

第二に、コミュニティの構造だ。農村集落には農業技術や土地の気象特性といった「暗黙知」の宝庫がある一方、濃密な人間関係、自治会の義務、暗黙のヒエラルキー、「よそ者」への警戒心という壁が立ちはだかる。ボランタリズムの原則——自発的合意に基づく協働——とは相容れない同調圧力が構造的に埋め込まれている。溶け込むのに数年かかるのは珍しくなく、失敗して撤退する事例も多い。

第三に、法的制約だ。農地法の規制により、農業委員会の許可なく農地を取得できず、「農家資格」が求められる自治体も多い。ニュータウンの宅地にはこうした制約がない。庭で何を栽培しようが、基本的に自由だ。

第四に、孤立のリスクだ。災害時の救援の遅れ、医療へのアクセスの悪さ、高齢化した集落の消滅——自給能力が高くても、怪我や急病のとき「隣に誰もいない」状況は致命的になりうる。

限界ニュータウンは、これらの弱点を裏返した強みを持つ。都心から電車で1〜2時間の距離。農地法の制約なし。そして何より、核家族向けに設計された薄い人間関係——これは一見デメリットだが、「白紙から関係を設計できる」というメリットでもある。同志的な数世帯が入居すれば、既存の権力構造に阻まれることなく、自分たちのルールで協働を始められる。並行社会の実践拠点としては、むしろこの「空白」が有利に働く。

もちろんニュータウンにも弱点はある。造成時に表土が剥がされた痩せた人工地盤、小さな区画面積、そして何より中央インフラへの依存——上下水道が止まれば即座に生活が破綻する脆弱性だ。だからこそ、コンポストトイレ、雨水収集、家庭菜園というレトロフィットが「保険」として機能する。第3章から第5章で述べた技術群は、まさにこの脆弱性を補うために設計されている。

インフラの「遺産」を読み替える

限界ニュータウンには、農村にはないものがある。道路、上下水道、電気、集会所、公園、学校跡地——高度成長期に莫大な公共投資で整備されたインフラが、まだ生きている。

これを「維持費がかかる負の遺産」と見るか、「転用可能な共有資産」と見るか。視点の転換が問われる。

たとえば、閉校した小学校。広い校庭は共同農園になりうる。体育館は道具の共有倉庫や加工場に転用できる。家庭科室は共同キッチン——収穫物の保存食加工や発酵食品の製造拠点——として機能する。

集会所は「種子交換会」や「スキルシェア」の場になる。公園の一部を「コミュニティ・フォレスト・ガーデン(食べられる森)」に転換すれば、個人の区画では不可能な果樹栽培が可能になる。

これらはすべて、ホルムグレンが「コモンズ(共有財)の再創造」と呼ぶものだ。私有財産の集積ではなく、共有資源の設計——それが限界ニュータウンでは、ゼロからではなく「既存インフラの読み替え」として実行できる。

土壌の問題——そして解決策

ただし、重大な制約がある。ニュータウンの多くは丘陵地の切り土・盛り土で造成されており、表土が剥がされ、地盤は粘土質や岩盤が露出していることが少なくない。ホルムグレンが重視する「土壌の深さ」という条件を、最初から満たさない土地が多い。

ここで過去記事『No Dig』で紹介したチャールズ・ダウディングの「ノーディグ(不耕起)農法」が活きる。既存の地面を掘り返すのではなく、上にコンポストを重ねて「土壌を作る」手法だ。段ボールを敷き、その上に堆肥を15〜20センチ積み、直接種を蒔く。痩せた造成地であっても、1〜2年で生産可能な菜園に変えられる。

空き家の解体廃材は、レイズドベッド(高床式菜園)の枠材になる。庭木の剪定枝はヒューゲルカルチャー(朽木埋め込み式菜園)の芯材になる。「廃棄物」が「土壌形成の素材」に変わる——これもまた、ホルムグレン的な「読み替え」の実践である。

「移住」ではなく「浸透」——段階的アプローチ

「限界ニュータウンに移住しろ」と言っているのではない。ここで重要なのは、前章で紹介した「選択的関与」の原理と、並行社会の「段階性」「重層性」「相互浸透」という特徴だ。

具体的には、こういう道筋が考えられる。

まず「週末農園」として空き家付き区画を取得する。都市部の住居を維持したまま、週末だけ通って土壌づくりと果樹の植え付けを始める。果樹が実を結ぶまでに3〜5年かかる。この時間差が、心理的にも実務的にも「段階的移行」を可能にする。

次に、同じニュータウン内で同様の志向を持つ2〜3世帯と緩やかにつながる。道具の共有、収穫の交換、技術の伝達——第5章で述べた「限定された協力」だ。

そして危機が深まれば——あるいは準備が整えば——本格的な移行に踏み切る。このとき、すでに土壌は育ち、果樹は実をつけ、近隣との信頼関係は構築されている。「ゼロからの移住」ではなく「熟成された移行」になるのである。

ニュータウンの高齢住民にとっても、この「浸透」は歓迎されうる。庭の手入れができなくなった高齢世帯が、若い「週末農家」に庭の一部を開放する。その代わりに収穫物の一部を受け取る。あるいは、かつて子供を育てた経験から、土地の気候や風向きについての「暗黙知」を伝える。世代間の交換が、ここに生まれる。

なぜ「いま」なのか

限界ニュータウンの空き家は、いま最も安い。しかしこの状態が永続する保証はない。

食料危機やエネルギー価格の高騰が現実化すれば、「土地付き住宅」の価値は再評価される。都市部の高層マンションが「エレベーターの止まった高層監獄」になるリスクが認識されれば、郊外への需要は急増する。そのとき、いま数十万円で買える区画は、もう手に入らない。

ホルムグレンの思想を一言でまとめるなら、こうなる。「危機が来てから動くのでは遅い。危機の前に、静かに、具体的に、準備を始めろ」。

限界ニュータウンは、その準備のための最も現実的な「器」なのである。

結論——あなたの庭が、あなたの「保険」になる

ここまでの議論を振り返ろう。

ホルムグレンが本書で示したのは、「何を買い溜めするか」ではなく「何を変えるか」という問いである。金融バブル崩壊、エネルギー価格高騰、気候変動——この三重の危機は、もはや「もしも」の話ではない。肥料自給率ゼロ、食料自給率38%という日本の数字は、その現実を如実に示している。

だが絶望は早い。

本書の価値は、絶望を「具体的行動」に変換する設計図を提供している点にある。完璧なレトロフィットは必要ない。小さな一歩——ピーバケツを置くこと、窓辺でハーブを育てること、隣人と道具を共有すること——そこから始めればよい。

そしてその一歩が、次の一歩を可能にする。

コンポストトイレを設置すれば、水の自給率が上がる。薪ストーブを導入すれば、ガスと電気への依存が減る。フェンスを壊せば、互助のネットワークが生まれる。これらは独立した「節約術」ではない。相互に強化し合う「システム」なのである。

そして限界ニュータウンは、そのシステムを展開するための「器」として、いま静かに開かれている。空き家という名の空き地、閉校という名の共有拠点、過疎という名の参入機会——「衰退」の裏側に、レトロフィットの条件がすでに揃っている。必要なのは、それを読み替える目と、最初の一歩を踏み出す決断だけだ。

ホルムグレンの言う「エネルギー下降」は、単なる「衰退」ではない。それは「下降するからこそ見える豊かさ」への移行でもある。稼いだ金で買う消費ではなく、自分で作り、隣人と分かち合う「関係の豊かさ」——それがレトロフィットされた郊外のビジョンだ。

もちろん、個人のレトロフィットだけでは構造的問題——肥料依存、金融システム、中央集権的インフラ——は解決しない。しかし個人の行動変容が集積することで、何が起こるのか。

需要の減少は「ユーティリティ・デススパイラル(需要減少→供給コスト上昇→さらに需要減少という悪循環)」を引き起こし、中央システムの再編を迫る。互助ネットワークは「並行経済」の種子となる。限界ニュータウンの「再入植」が一定の密度に達すれば、それ自体が「並行社会の物理的基盤」として機能し始める。個人の備えは「構造を変える」ことの直接的手段ではないが、「構造が変わらざるを得なくなる」状況を作り出すのである。

スーパーの棚が空になる前に、あなたの庭に種を蒔こう。その庭が都心のベランダであれ、限界ニュータウンの空き地であれ、始めることに変わりはない。

それが「備蓄」ではなく「生産」への第一歩だ。そしてその一歩が、あなたの家族と地域を、来るべき不確実な時代から守る——本当の意味での「保険」になるのだから。


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