停戦(仮)後の原油市場考察第一部:地政学プレミアムの解剖。原油、足りてますか?
はじめに:専門家ではないのに分析を試みる
断っておかなければならないことがある。筆者は原油市場の専門家ではない。石油工学も地質学も持ち合わせていないし、産油国の政治力学を現地語で読む能力もない。
ただ、マーケットプレーヤーとしての経験は持っている。証券会社で長年債券市場のプレーヤーとして複数のクレジットサイクルを生き延び、現在もグローバルマクロの視座から市場を眺めている。筆者が分析したいのは原油の物理的な需給そのものではなく、市場がどう折り込み、どこで間違え、そして何を次に折り込もうとしているか、という問いだ。
2026年春、ホルムズ海峡を巡る地政学的緊張は、世界のエネルギー市場に戦後最大級のショックをもたらした。Brentは一時$120近辺まで騰勢を強め、「$150到達」「$200超」という声もマーケットの端に漂った。しかし、ふたを開けてみれば、原油の実質的な供給喪失は当初の想定を大きく下回っていた。迂回ルート、隠密輸送、戦略備蓄の放出、そして中国の輸入減という複数の緩衝材が、市場が怖れたシナリオを静かに吸収していたのだ。
この「恐怖と現実の乖離」こそが、本稿の出発点だ。
停戦が——たとえ「仮」であっても——現実のものとなった後、原油相場はどこへ向かうのか。地政学プレミアムが剥落した後に残るのは何か。供給は過剰に転じるのか。産油国の財政は価格防衛を許すのか。エネルギー安全保障への本気の取り組みは、従来の需要モデルを書き換えるのか。
本稿はその問いに、二部構成で答えを試みる。第一部では地政学プレミアムそのものを解剖し、市場が何を誤読したかを明らかにする。第二部では、それを踏まえて原油価格の中期シナリオとトレード上の論理を検討する。
結論を先に言えば、筆者は「だらだらと下落する原油」を本命シナリオと見ている。ただし、それは一直線の暴落ではない。相場には必ず、最初の急落の後に「戻り」がある。その戻りこそが、売り場だと考えている。
最初の銃声では撃たない。煙が薄れ、誰が弾切れかが見えてから引き金を引く——これが本稿全体を貫く相場観だ。
第一部:地政学プレミアムの解剖
Ⅰ. 市場は何を恐れたか
2026年春、ホルムズ海峡が事実上の封鎖状態に入った瞬間、市場の試算はシンプルだった。世界の原油供給の約20%が通過するこの海峡が閉じれば、日量1,200万〜1,500万bpdの供給が消える。Brentは$120近辺まで急騰し、オプション市場では$150コールの建玉が約2万9,000枚、約30億ドル相当にまで膨らんだ。
その恐怖は間違いではなかった。ただ、過大だった。
Ⅱ. 恐怖と現実の乖離
Goldman Sachsの推計では、第2四半期の実質的な供給不足は500万〜600万bpdにとどまった。当初想定の半分以下だ。差分の700万〜900万bpdは、以下の緩衝材が吸収した。

Brentの$120という価格は、実態の2倍近い供給喪失を織り込んでいた可能性が高い。地政学プレミアムとは、最悪シナリオへの保険料だ。その保険が過剰だったと市場が気づいたとき、価格は剥落する。
Ⅲ. UAEのOPEC離脱——カルテルの静かな崩壊
2026年5月1日、UAEがOPECおよびOPEC+を正式に離脱した。数字で見ると、その理由は明快だ。

UAEにとってのOPECは、低コストで増産できる能力を持ちながらそのポテンシャルを制約する存在だった。離脱後、ADNOCは500万bpdという割当超過の生産能力を、OPEC外から自由に市場へ出せる立場になった。
これが危険なのは、OPECの本質が「余剰供給を誰かが引き受けて価格を守る」仕組みだからだ。低コスト・低財政均衡油価のプレーヤーがOPEC外に出ると、残存加盟国が担う価格防衛コストはより重くなる。規律はいつも最後に死ぬ。そのプロセスが静かに始まっている。
Ⅳ. 産油国財政の矛盾——囚人のジレンマ
「高く売りたい」が「売らないと予算が立たない」。この矛盾を数字で見る。

価格が$90から$70へ落ちるなら、本来は数量を絞るべきだ。しかし財政危機下では逆に「少しでも売る」動機が強まる。UAEのように低財政均衡油価でOPEC外から増産できるプレーヤーが加わると、Saudiの価格防衛はさらに孤立する。全員が同時に「売らないと国が傾く」と感じた瞬間、カルテルの規律は紙の上にしか存在しなくなる。
Ⅴ. エネルギー安全保障の本気——経験則では計測できない変数
今回の危機が残した最大の遺産は、エネルギー安全保障が政治的スローガンから国家戦略の最優先課題へ格上げされたことだ。そしてこれは、従来の需要モデルが想定していない変数だ。

問題は、こうした変化が価格シグナルとは異なる動機で動くことだ。政府は$60の原油でも備蓄を積む。企業は採算度外視でサプライチェーンを多様化する。国家は経済合理性より安全保障上の理由で電源構成を変える。経験則で構築された需要モデルは、この変数を捕捉できない。その方向はほぼ確実に「原油依存の低下」を指している。
本稿は情報提供を目的としたものであり、特定の有価証券の売買を推奨するものではありません。投資判断は各自の責任において行う必要があります。
予告:停戦(仮)後の原油市場考察第二部:原油ペイントレードの論理とデフレ復活の可能性
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