二、私のお母さん⑩
「ああ、女の人なの。ふうん」
電話番号をようやく入手して打診したのも私自身だったのに、万堂の母親は意外そうに目を細めて私を見て、それからふいと視線を外した。
「どこでもいいよ、カウンター、座んな」
「お客さん来ちゃったりしませんかね」
心配そうに訊いた堀くんには、品の良くない発色の口紅を勢いよく曲げて笑って見せた。その表情はなるほど万堂哲人によく似ていた。
「まだのれん出してないし。それに、今うちに来るのって冷やかしの客かマスコミくらいのもんよ。まあ客は客だし、売上立つんならいいかって思って入れてるけどさ」
ヘッと吐き捨てるような笑い声を立てて、彼女は長い指先でタバコを一本つまみ上げた。
「吸うわよ? いいでしょ別に」
挑発的な態度とぶっきらぼうなセリフもとても客商売の女性には見えず、そういうところも哲人を思い出させる。私の言えた義理ではないが、経年劣化による衰えを確かに感じるものの、若い頃はかなりの美貌だったのではないかと想像させる。それこそ万堂哲人を女にしたような奇麗な人だったのかもしれない。
美貌では一段も二段も負けてしまったが、私よりはだいぶ年かさに見えた。実際の年齢はほぼ同世代と言っていいだろうに。
「こちらも録音させていただきますね。いいですよね、別に」
「いいよ。お通しのナムル、悪くなっちゃうから食べなよ。客来ないから減らないのよねえ。あっ、席料はまけとくけど、飲み食いはタダじゃないからね」
「食べることはあっても飲みはしませんね。私たち、仕事で来ているんで」
そう言ったら彼女は煙を豪快に吐き出しながら、あっはっは、と明るく笑った。顔の真ん中にぎゅっと皺を寄せて目を大きく開く笑い方。その表情は今まで哲人には見たことがなかった。
この人、変わってる。
「そら、そうか。まあいいわ。終わったら飲みなよ! で。あんたたちって、あの子の味方? 敵? どっち」
カウンターが五席しかない小さなスナックは単に掃除が行き届いていないのか年季が入っているのか、こ汚い感じがして落ち着かなかった。スナックというくらいだからカラオケでも置いているかと身構えたが、席も少なく狭い店内には椅子と荷物をかける壁フックがあるくらいで、余計なものは何もないという印象を受けた。
よく言えば機能的、悪く言えば貧乏くさくて味気ない。それでいて清潔感がない。
「どちらでもないつもりで、やっております。純粋に彼の情動を理解するのが目的ですから。判断するのは裁判官の仕事なので」
「あっそう。んで。あたしに訊きたいことって、何」
丁寧とは言い難い物腰だが、この人に敵対心はなさそうだと思った。警戒心も哲人に比べたらほぼなしに近い。
見た目は似ているが、中身はまるで違うように見える。とりあえず第一感としては。
「哲人くんの生育環境はだいぶ複雑みたいですね。そのあたりのことを教えていただきたくて」
と言ったあたりでタイミングよく、堀くんが丸めたおしぼりを口に当てながら言葉を挟んだ。
「このナムル、めちゃめちゃおいしいですよ。自家製ですか? 酒に合いそうですね!」
「ああそれ? ナムルがいちばん安いからね。あたしが作ってんの。もやしって仕入れが安いのよね。どう、一杯やってく?」
「いやあ帰りも運転あるんで、怒られちゃいますよ」
誰にとは言わずに頭を掻いてすっと会話を収束させた。堀くんのこういうところは本当に重宝する。いちいち言わなくてもしてほしい仕事をしてくれる。
私はダメ押しで続けた。
「哲人くんは恵利(えり)さんの実子で間違いはないんですよね?」
「うん、そう。あたしが生んだの。十六でね」
「その頃、恵利さんはまだ学生でしたね」
「高校生ね。まあそれでお察しの通り、大変な騒ぎになりましたよ、と」
ふうと吐き出した煙が業務用の換気扇に吸い込まれてゆく。その換気扇も掃除をするのは年に何度だろうか。やたら奇麗だったという万堂の部屋とは、これまただいぶ違って見える。
「産まないという選択肢はなかったんですか?」
「ええ? あんな殺人鬼、中絶しときゃよかったのにって? それはまあ、そうかもねえ。でも……あたしこう見えて、小金持ちのお嬢様だったのよ。今じゃ見る影もないんだけどさ」
哲人のことはともかく、自分の昔のことは話し慣れているのか、ためらいもなく聞き取りやすい話しぶりだった。接客の鉄板ネタにでもしているのだろうかと余計なことが頭をよぎった。
「両親は厳格なクリスチャンだった。もうどっちも死んでるけど。死んでて正解かもね。あたしもこんなんなっちゃったし、孫なんか世間を騒がす連続殺人犯! なんて、とてもじゃないけど耐えられないわよ。頼みの綱のイエス様がどうにかしてくれるとも思えないしさ。さあ、あの人たちがイエス・キリストの御もとにいるかどうかは、ちょっと分かんないわねえ。まあせいぜいレストインピース、アーメンってとこ。ああ、あたしも一応洗礼はしてんだよね。これでもクリスチャンの端くれなんだから。そっちの名前もあんのよ。イサベラっていうんだけど。笑っちゃうでしょ、イサベラ万堂恵利。教会へはもう何年も行ってないわね。だから幽霊会員ならぬ幽霊クリスチャンって感じよ。今さら、懺悔もクソもないけどねえ」
なるほど哲人の母親らしく、よく喋る頭の回転の速い女性だ。この人が水商売をしようと考えるのはなんだか分かるような気がした。
「それで中絶を反対されたというわけですか」
「ま、そういうこと。相手の親は中絶してほしそうにしていたけど、強くは言えないわよねえ。確かうちの父親が圧を掛けて、男親は不明ということにしろって言ったのよ。相手もその方がよかったみたいで。まあ高校生だもんね、そりゃあそうよ。今なら理解もできるんだけど。あたしにも哲人にも一切関わらないかわりに戸籍にも載せないって話がついたわよ。多分、金はいくらか置いてったんじゃないかなあ。手切れ金だか迷惑料だか知らないけど。あれはまあ、悲しかったなあ」
遠い目で吐き出した煙の先に彼女が見ているのは、高校時代の恋人の幻影だろうか。同じ高校生同士というのは私の予想と違っていた。てっきり行きずりの大人か何かが相手だと思っていたのだ。
私たちの若かった頃にはそうやって、よく少女が援助交際という名の売春をしていたから。
「恵利さんは、哲人くんにはお姉さんということにして、接していたんですよね」
「うん。周りの大人は皆気づいていたと思うけどね。あたしもどうやって育てていいやら分かんないしさ。ぜーんぶ親に任せて、あたしはあたしで勝手にしてたの。あたしを外に出すと危ないってんで、ずっと家から出してもらえなくってさ。子どもまで産んで、深窓の令嬢って言ったら笑われるけど、でもほんと、学校もやめちゃったし、買い物ひとつ行けなくてずうっと家でピアノばっか弾いてた。あの頃は父がまだ現役だったから、それで生活できちゃったのよねえ、恐ろしいことに」
「哲人くんはどうしていたんですか」
「あたしの知らないとこで、母が育てたのよ。好きなようにやらせたわ。もともとあの人は、男の子が欲しかったみたいだし、いい親孝行だったんじゃないの」
同じ家の中のことを、知らないとこ、と言い放って自嘲気味に笑う。間違いない。この人も自分の母親に強い憎しみを抱いている。
「恵利さんとお母さんの関係はどうだったんですか。恵利さんが小さい頃には」
「そら最悪でしょうねえ。あたしと哲人もまあまあ険悪だけどもさ、あたしの場合は哲人にほとんど関わっていないわけじゃない? いいこともしてやらないけれども、虐待とかイジメたりとかもしないの。無視よ、無視。自分で産んどいてひどいなあとも思うけどさ。じいさんばあさんに甘やかされて育って、別にそれで哲人は足りてるわけじゃない? 今さらあたしが母親ヅラしたってねえ、ってのは、あるでしょう。あたしはもっと直接、ひどい目に遭ったから、それに比べたら哲人はいい生活してたと思うよ」
ようやくこの人が哲人のことについて私に喋る気になった理由が分かってきた。関係ないのだ。彼女の中で、哲人は自分の子どもという実感がないのだろう。
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