二、私のお母さん⑦
今日は気合を入れたい気分だった。
たぶん重要な話が聞けるはずだと踏んでいる。
私がうまく聞き出すことができれば。
いつものように録音装置をセットして、万堂の入室を待った。
「おはよう、万堂くん。昨日はよく眠れた?」
「……なんだよセンセ、妙に機嫌がいいな。東拘よりこっちの方が施設がいいのかな。そんなに暑くもなくて、快適だと思うよ。まあ、拘置所に比べたらの話だけどな」
何度も面接を繰り返して、いつの間にか雑談くらいは難なくできるようになっていた。
「そう。じゃあ遠慮なく訊かせてもらうわ。今日はあなたのお母さんの話をして欲しいんだけど」
万堂は一瞬で表情を失くしてあの蛇の目で下から睨め上げた。
「あなたのお母さんって、どんな人?」
たっぷり間を取ってから万堂はたった一言「さあ」と答えた。
「お祖母さんじゃなくて、お母さんのことが聞きたいのよ。どんな人? いつまで一緒に暮らしてた?」
「…………」
答えたくないのか分からないのか、万堂は沈黙を通した。私は鼻から息を抜いて机の上で両肘をついて指と指とを絡め合わせた。自然とそこに顔を寄せたら、行儀悪く椅子にもたれかかっている万堂と視線の高さがぴったり合った。
「いいわ。それじゃ私の話をしてあげる。あなたが話さないから、話すのよ。聞きたくなくなったら遠慮なく止めてちょうだい。私はあなたの話の方が興味があるから」
ぴくりと万堂の後ろで、堀くんが肩を揺らした。まあ仕方がない。どうせ録音はしているのだし、彼に聞かれたところで不都合はない。
相手の懐に入るのに自己開示が効くのは、一般人も殺人犯も同じだ。だったら私は羞恥心なんて捨ててしまって、有効な手段を絶好のタイミングで使わせてもらおう。
この歳まで独りで生きて、プライドなんかより仕事の出来栄えの方がよほど大事だ。
「私の母はね、一言で言うとクソみたいな女よ。今も家でクソにまみれて寝ていると思うけどね」
階段を降りてゆくように、私は深く潜り込む。今の私になる前の、若い頃……いいえ小さい頃の私へと。退行する。思い出す。かわいくなかった私の子ども時代まで。
「いわゆる教育ママと言うのかしら。とにかく勉強勉強、そればっかりさせられた。遊んでないで勉強しなさい、あれをやりなさいこれをやりなさい、命令ばかりして支配的な絶対君主だったわ。暴君と言っていいかもしれないわね。言われた通りに勉強をしないと、物置小屋に閉じ込められたわ。小屋に閉じ込めることに何の意味があるのか分からないけど、夜風が冷たくなるまでずっと小屋で震えているしかなくて、そんな夜は決まって夕飯は抜きだった」
日の差す明るい面接室は静まり返っていた。まるで誰も聞いていないみたいに静かだった。私はアリアでも歌うように一人続ける。
「でも別にかまいはしなかった。あの人の作る料理はどれもこれもちっともおいしくなかったから。調味料は醤油だけだった。砂糖は身体に悪いと言い張って、塩やコショウも使わなかった。野菜炒めなんか壊滅的な味で、油ぎって萎びた野菜くずに醤油の味がしみている、そんなのが当たり前だったわね」
そうだあれはひどかった。今も思い出すと身の毛がよだつ。私は幽霊も呪いも怖くなかったけれど、母の作った野菜炒めだけは、なんとも言えず恐ろしかった。
何をどうしたらこんな拷問みたいな料理を作り出せるんだろうと。
どんな野菜を使っても同じだった。油と醤油でかき消されて。特にひどいのは生焼けのナス。油で揚げたりしないから、中が生焼けで表面はしっかり焦げた水っぽいぶよぶよの色の抜けたナス。これは野菜炒めだけじゃなく、たまに味噌汁にもぷかぷか浮いてた。食感が耐えられなくて、水死体でも食ってる気になってくる。なかなかに教育的な料理だった、あれは。麻婆料理はいつも豆腐だった。ぶよぶよのナスよりよほどいいと思うけど、毎度かき混ぜすぎて粉々になった豆腐はほとんど嘔吐したみたいな見た目だった。どちらにせよ、気分のいいもんじゃない。
「ひたすら勉強だけしていればよかった。幸い私は出来の悪い子どもではなかったから、なんとか生き延びていられたんだと思う。この世代では珍しい話だけど、私、中学受験をしているのよ」
本当は女子校になんか行きたくなかった。フランスかぶれの母親が選んだミッションスクールはサン・リュシエンヌ女学院という舌を噛み切りそうな名前の学校で、中学高校の一貫教育をしていた。学校が山のてっぺんに建てられていて、校門に辿り着くまでに二百段以上の階段を毎日毎日登らされた。
屠殺場へ向かう牛かなんかの気分だった。石造りの建物も森のような樹々も重厚で揺るがなくてそれがまた暴力的で。
見上げればいつだってこっちに倒れて来そうに見えた。
実際、先の大地震では倒れて来たのだというけれど。あの学校で「大地震」と言ったら関東大震災だ。大正十二年の。その時改築したという校舎が今も「新校舎」と呼ばれていた。
歴史と伝統に縛られた、そういう教育機関。創立だけなら私の勤めている大学よりも前なのだから恐れ入る。
「フランス語が必修でね。私今でもフランス語だけは大嫌いだわ。二言目にはフランスでは、フランスの、パリの女性は、ってほんと、バカみたいな学校だった。のっぺりした顔の女教師やオカメみたいな子どもたちが、どんなにフランスにかぶれても、ここが極東の島国である事実は変えられやしなかったのに」
私の個人的な話を、万堂哲人は身じろぎもせずに黙って聞いていた。何か喋りたそうな雰囲気は感じなかったが、万堂はじっと私の顔や指先を見つめていた。聴いていた。面白くもない私の話を、聴いているのだ。
「この女の子どもでさえなかったら、こんな学校行かずに済んだのにって思っては階段を登ったわ。登りながら一段一段願掛けをしていたの。あの女が苦しんで死にますように、なるべく痛い目をみて死にますようにって。学校で習ったように万能の神様がいるというのなら、その力を私に貸してよ、そしたらいくらでも信仰してあげるわって、礼拝堂で毎日祈ったわ」
求めよ。さらば、与えられん。
若き日の私は求めていた。あの女を屈服させられるだけの力を。恨みを込めて祈り続けた。
天にましますお父様。願わくは、み名をあがめさせたまえ。み国を来たらせたまえ。みこころのごとくに、あの女に罰を与えたまえ。ありとあらゆる不幸を絶望を恐怖を、どうかあの女に降り注ぎたまえ。
「でも神様なんていやしないのよ。六年間祈り続けても、あの女はピンピンしていたもの。卒業する時に私は決めたわ。絶対にあの女に復讐してやろうって。神があの女を地獄に落とさないなら、私の手でいつか必ず地獄に叩き落とそうって、思ったのよ」
我ながら執念深いとは思う。だけど私はあの女がどうしても許せないのだ。あんな女に支配されて人生を捻じ曲げられて、私は私の人生を生きられた実感が、ない。
ほんとうは私、フランス女性のような自立したオンナになんてなりたくなかった。世界を股にかけて名をあげて活躍なんて望んでなかった。
ねえ私もっと、ふつうでよかったのに。
学区で決められた中学に通って、高校は県内のほどほどのところへ。大学なんか、短大で充分。永遠に失われた、堅実で平凡な私の人生。
私が殺人者に興味を持ったのは、彼らが何もかもから自由に見えたから。倫理とか常識とか法をも超えて、好きなように思いのままにふるまっているから。
規範のない人間を矯正することなんて、できはしない。せいぜいあとから皆の納得するルールに当てはめて罰を与えることくらいしか。
ずるいくらい自由。
できることなら私、あの女を殺して自由になりたかった。
今もそう思ってる。あんな干からびて死にかけた老婆でも。殺せるもんなら殺してやりたい。できるだけ苦しめて、痛みがなるべく長引くような形で。
だって私はこんなに長いこと、あの女に苦しんできたんじゃないの。
これじゃあまるで囚人。ううん、それよりもっとひどい。
そう、拷問だ。
「一度は家を出たけど、父親が死んでからはまたあの女と暮らしているわ。今、あの女は要介護なのよ」
「介護」
万堂がその二文字に反応を示した。
「認知症で、寝たきりというほどでもないけどあまり動けないわね。あの女の生殺与奪、ようやく私が握っているの」
「僕も介護はしたことがありますよ。長い期間ではなかったけれどね」
「お母さんの?」
確か彼の母親は十六で彼を生んだはずだが。そう思った私に万堂が薄く笑った。
「いやいや。祖母ですよ。もっとも、僕は彼女を母さんと呼んではいましたが」
「じゃあ中学生の時に?」
「そういうことになりますね」
中学校からの出欠の乱れはそういう事情なのだろうか。指導要録にそのような記述は、なかったように思うが。
要調査、と私は頭の片隅に小さくメモを取る。
信じないとは言わないが、この男の発言は裏を取った方がいい。
「大変だったでしょう? どういったご病気か分からないけど……」
「うちも認知症でしたね。アルツハイマーで、よく徘徊するもんで僕が探しに行きましたよ」
「そう……お母さんは?」
ようやく万堂が重い口を開いた。
「あの女にはそんなことする暇はありませんね。男漁りに、忙しいものでね」
「お母さんはあなたに何をしてくれた?」
「ピアノを聴かせてくれました」
ほんの少しだけ懐かしそうに、万堂が目をすがめた。
「あの女、ピアノだけは弾けましたからね。しばらくピアノ講師で食っていたくらいです」
「へえ。私も小さい頃、ピアノをやっていたことがあるわ。腕はひどいものだけど。万堂くん、好きな曲はある?」
「そうだなあ、しいて言えば」
ラ・カンパネッラ。
と彼は答えた。かなりの難曲だったので驚いてしまった。机の上に無造作に投げ出された細い指先を思わず見てしまった。
「リストの? 弾けるの、あれ?」
「一応は。でもずっと刑務所に閉じ込められたら、確実に弾けなくなるでしょうね」
繊細そうな指先を閃かせて万堂が囁いた。
「聴きたい? 僕のカンパネッラ」
吸い寄せられるように私は頷く。蛇のような瞳がすっと一瞬三日月型に歪んでみえた。
「庵野さんそろそろ時間なんですが」
せっかく響き始めた対話を断ち切るように、堀くんが腕時計を人差し指で叩きながら声を掛けてきた。
私も慌てて時刻を確認する。
「今日は余計な話で時間食ってしまったわね。話し足りなかったんじゃない?」
「いえ。面白くはなかったけど、興味深くはありましたよ」
クスと無声音で笑って万堂が立ち上がりながら私を見つめた。
「僕にはあなたがなんでその女を憎んでいるのか、さっぱり分からなかったな……そんなに憎いなら殺しゃいい。僕なら迷わずそうする。だって」
そこで一度視線を外してから、ふたたび私の目を見据えてはっきりと告げた。
「それが一番、無駄が少ない」
私が何か答える前に、彼は職員に連れられて部屋を出て行った。
取り残された私に堀くんが何か言いたそうに口を動かして、結局何も言わないままにすっと顔を背けた。
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