四、あなたの声に心はひらく⑤
堀くんが一瞬考えるそぶりを見せた。
「第一、あれが本体だとしたらちょっと活きがよすぎるんじゃありませんか? 現在確認されている症例では主人格はほとんどが大人しくて覇気がないと論文で読みましたが」
「そういう症例もあるのかもしれない。あるいは、本当の万堂哲人は、まだ他にいるのかも」
「創作はやめませんか。あなたの言ってることは科学じゃないです。フロイトはいくらでも自由な解釈がつけられていいわねって嫌味言ってたじゃないですか、律子さん!」
「作り事なら、もっとうまくやっているわよ! そしてそれは彼もね。詐病だったら、どうしてせめて最後の面接であなたもいる時に、言わなかったのよ。私がまた来ることは、彼にとってもイレギュラーだったはず。本当だったらこのバウムテストもしていなくて、あのまま知能遅滞・精神疾患所見なしで終わっていたはずなのよ!」
堀くんは深く溜息を吐いた。
「それが、正解です。律子さん。どう見ても彼は精神病じゃない。俺の診断は、あってパーソナリティ障害です。反社会性の混じった演技性人格障害に見えた。あなたは彼の策略にまんまとはまったんです」
「命が、かかってるのよ。策略でそこまで大胆な賭けに出るかしら」
「出ますね。万堂哲人なら、それくらいやるでしょうよ。あの涙も演技だろう。あなたは間違っているんです。認めてくださいよ」
あの涙も? そうだろうか。
あれは人を赦す人の目だ。
ついに私には出来なかった、母親を赦す子どもの目だった。
母親との間になんの精神的葛藤もない堀くんは読み違えているのだ。
マザコンは、どっちよ!
「ねえもっとフラットに考えてみない?」
「俺は最初から客観的に言っています。あの男は、いけ好かない。どんな理屈があったにせよ、不幸な生い立ちがあったって、自分の意志で人を殺したらもうダメなんですよ。一人でも、殺したらダメです。それがごくごく普通のフラットな意見ですよ」
そのどこが客観だ。私が鼻で笑ったのを見て、堀くんが絞り出すように言った。
「頼みますよ、律子さん。お願いだから、目を覚まして。あなた普段もっと科学的でしょう。これじゃまるで」
恋してるみたいだ、と堀くんは吐き捨てた。
「逆転移の次は恋、か」
いいかもね! と私は笑顔を振りまいた。
「恋したら少しは若返って、皺が減るかもしれないわ。この際だから、鋼の女も返上したいわね!」
「なに自棄になってんですか、ほんともう」
お願いしますと頭まで下げて、堀くんが懇願する。
堀くんの敵意と私の好意と。
どちらが間違っているのか。それともどちらも間違っているのか。
完全に中立な鑑定などできるものだろうか、人間に。
けれど私には自信があった。今まで学んできた人間心理。読んだ論文の数。アメリカでの師匠の教え。裏打ちされた直感。積み重ねた時間と労力。
犯罪者を前に対話した経験が、堀くんとは違う。
まさか解離性同一性障害とは見抜けなかったけれど。それでも、堀くんには負けてない。負けるはずが、ないのだ。
「彼はやってない。少なくとも、万堂哲人はやってない。もしこれで騙されているんなら、私は精神科医をやめます」
大きく目を開いて、それでも堀くんは最後まで納得はしなかった。
「そこまで言うなら、好きにしたらいい。でもはっきり言って失望しました。あんな男の、どこがいいんだ!」
そんなあなたは、見たくなかった。
堀くんは目を合わせてもくれなかったけれど、バウムテストの結果を取り下げろとは言わなかった。
「承知しました。それでもやっぱり、ありがとうと言うわ」
返事のかわりに丸い握り拳に力を込めて、堀くんは奥歯をぎゅうっと噛み締めた。もうそれ以上の言葉は要らなかった。お互いに。
真っ二つに割れた見解。
私はどうしても間違っているとは思えなかった。
プライドなんて、今さら、いらない。
守るべきものは他にある。
無期懲役になった万堂が出て来たら、その身元を引き受けてもいい。
私が彼の人格を統合させる。あの涙が嘘でないなら、あの男はもう二度と人を殺すことはない。彼は人を赦すことを知っているのだ。
最後まで憎しみに凝り固まった私とは、違って。
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