二、私のお母さん②
研究室で資料の読み込みに没頭してしまったので、自宅マンションに帰り着くのが二時間ほど遅くなった。
玄関を開けてムッと立ち込めた臭いに思い切り玄関のドアを閉めてしまいそうになるが、気を持ち直して暗闇をキンと睨みつける。
パチンと音を立ててリビングの電灯をつけたら、奥から苛立った老女の声が聞こえてきた。
「ずいぶんと、遅かったのねえ」
「仕事よ」
なるべく息を吸わないように母の部屋まで行って、いちばん最初にベッドの脇の簡易トイレの始末をした。ビニール袋で二重にしたくらいでは、この臭いは消えることはない。
溜息を吐きたいけれど、その前にまず息を吸いたくない。
「ほんとに仕事かしらねえ。あー、背中が痛い、足がつらい……ああ、苦しい」
この布団、いつ換えたんだっけと考えて、すぐにどうでもよくなる。窓を開けて換気しようとしたら枕を投げつけられた。
「何すんだよ、このふしだら女!」
「だから! 仕事だって、言ってんでしょ!」
「男の臭いがする。男だよ、絶対に男だ。ああ汚らわしい、男臭い、ああ胸が悪くなる! この売女、売女!」
「あんたみたいにクソの臭い撒き散らした老いぼれよりマシだろうが!」
回収したばかりの汚物袋を床に叩きつけて怒鳴ってやったら、母は顔を覆って大仰に泣き真似を始めた。
「ああいやだ、いやだ、もういやだ! どうしてあたしがこんな苦しい思いをしなくちゃならないの、おお、おお、おおおん!」
臭いしうるさいので換気は諦めて、私はクソ袋だけ回収して部屋のドアを思い切り音を立てて閉めた。中から何やら喚き散らす声が聞こえたが、知るもんですか。
私の母親は認知症を患っている。よく認知症になると人格が崩壊して発症前と打って変わった別人に見えるなどと言う人がいるが、あれに関してはもとからこんなもんだった。
お陰様で私と母はもう何十年も前からずうっと折り合いが、悪い。もしかしたら私に自我が芽生えた頃からじゃないかと思っている。
私たちは決定的にウマが合わないのだ。
親子なのに。
それとも……親子、だから?
ザブザブと水音を立てて中性洗剤で両手を洗う。洗っても洗っても、爪の間まであの女の汚物が入り込んでいるような気がするから、細胞のひとつひとつまであの臭いが染みついている気がするから、どんなに泡を立てても満足することがない。
十分あまりも洗い続けてさすがに嫌になったので、私は水道を止めて薄暗い洗面台の鏡を覗き込んだ。
客観的事実として美しいとはとてもではないが言えない中年女が、しみったれた落ち窪んだ目をしてこっちを見ている。
研究者としては実績もまずまずで、将来のある若手扱いされることも少なくはないが、女としては若いという感じはもうしなくなってしまった。完全に盛りを過ぎている。
仕事場ではナルシストの殺人犯、家に帰れば自分勝手な耄碌ババァに付き合って、私の人生が浪費されてゆく。だから当然の帰結として、こんな中年になっても私の婚歴はまっさらなままだ。もちろんとっくに諦めているけど。
私は春につがえなかった小鳥。結婚という椅子取りゲームで座り損ねた余りもの。それならそれで、別の仕事をすればいいだけ。そもそも子育てやなんか、向いているとも思えないし。いまだかつて子どもというものを好きだと感じたことがない。
ふうと湿った息を吐いて、その息がクソの臭いをしていないことに安堵する。
殺人犯と我儘老人、どちらがマシかと言えばそれは明らかに前者だ。万堂が誇らしげに言い切ったように彼が美しいからなどではなくて、単純に観察していて面白いのは殺人犯の方だから。
私は小さい頃からなぜか犯罪者に興味がある。自分にもその傾向があるからなのかは未だに答えを先送りしているが、昔から古今東西の犯罪者の話を読んだり聞いたりするのが大好きだった。
趣味が高じて今では犯罪心理学の研究者にまで辿り着いた。私の経歴はちょっと特殊で、堀くんのように最初から大学にいた人とは違っている。アメリカ留学もしたし、精神科医を経由しているから、ちゃんと医師免許だってある。医務官として臨床経験を積んでコツコツ研究論文を書いて認められ、今は私学で研究室をもらえるようになった。
ここまで来るのにずいぶんと時間と労力がかかってしまったけれど、気がつけば後ろにしっかりと道ができている。そういう他人から見れば華々しいキャリアも、私のまっさらな婚歴の一因だったのかもしれないが。
それならば仕方がない。恋愛よりも私、犯罪の方が好きなんだもの。だからこの歳まで結婚できなかったことを嘆くつもりは一切ない。
その分、仕事ではきちんと結果を出してきたのだから。
今回の仕事も研究室に掛かってきた一本の電話からスタートしている。
精神鑑定を引き受けてくれないか、という電話はいつだって泣き言から始まるのだ。
精神鑑定を進んで引き受ける研究者は稀だから。報酬もたかが知れているし、労力の割に評価につながらない。それどころか、法廷で尋問されてどうでもいいような細かい質問に間違えて恥をかかされることだってよくある。
基本的に検察は犯人が精神障害であっては困るのだ。
刑法第三十九条。心神喪失者の行為は、罰しない。心神耗弱者の行為は、その刑を減軽する。
検察は犯人は犯行時に正常な判断力を有していたのだから罰するべきだと主張するし、弁護側は心神耗弱だから減刑してくれと言ってくる。どのように鑑定したところで、どちらかからは猛烈にバッシングされるのが宿命なのだ。
精神鑑定を引き受ける研究者や医師の間でも、犯人との接見よりも裁判での証言がおっくうだと言う者は多い。口下手のため裁判に関わりたくないからといって、鑑定を断る者も一人や二人ではない。
私だってこれほどまでに犯罪者に興味を持っていなければ、精神鑑定など引き受けなかっただろうと思う。
私は殺人犯と対話をするのが、好きなのだ。
精神鑑定を引き受ければ、アクリル板越しの面会などとは比べ物にならないほど濃密に、殺人犯と対話ができる。彼らの世界に入り込むことができる。
殺人犯の中には明らかに思慮が足りない者、短絡思考の粗忽者なんかも多いが、稀に突出した知性を持った者たちがいる。彼らには彼らの論理があって、殺人に踏み切る。そういう人間と話をするのが、なぜだかたまらなく、楽しいのだ。普通の正常で一般的な感性を持った人間なんかと話すより、はるかに。
普通の感性を育んだ人間はたぶん、人殺しなんかと話して楽しいなんて、きっと思わないのだろう。たとえば堀くんも興味があってこの仕事に就いているはずだけれど、嬉々として殺人鬼と話しているところなんか想像もできない。
どこか壊れているのは私の方だ。私と堀くんよりも、私と殺人鬼たちの方がおそらく、心理的な距離は近いはずだ。
紙一重のところで私は、こちら側にいられているのに過ぎない。
だからこそ、今回の仕事が回ってきたのだろうとも思ってはいるが。
「そういうわけで福山先生からもお断りされてしまったので、もう頼める方が先生しかいないんですよ」
東京ロングヘア殺人の犯人は、好みがうるさい。
どうも一度引き受けた精神鑑定の大家と決裂して、鑑定人の方から降りてしまったということらしい。その後釜というのも気が引けるが、被告は精神鑑定自体には興味を示している、問題は誰が鑑定するかということだ、との話であった。
「そんな大変な役を、私なんかが受けていいんですか」
そりゃあもう庵野先生しかいませんよ、という言葉の半分はリップサービスとしても、あとの半分は本心ではないかと思われた。
あの面倒臭い殺人犯は女が好きなのだ。四人も騙して強姦殺人するくらいには。ひょっとしたらヤツは女鑑定人になら口を開くのではないか、という思惑が透けて見えた。
しかし問題は鑑定人の方だ。いくら第三者がいるところとは言え、密室に連続婦女暴行犯と一緒にいてその精神を鑑定することができるほど、肝の据わった女でないと務まらない。
「なるほどそれで鋼の女の出番というわけですか」
「あ、いえ、そんな……ははは、庵野先生は物怖じなさらない方だから」
「やってみましょう」
と私は答えた。幸い私はロングヘアの女だ。彼のお好みの年齢からはややファウルしてしまったかもしれないが、まだ一応女の数には入るだろう。高齢出産のリスクにさえ目をつぶれば生物学的には充分出産可能。どこから文句が来ても反論できるくらいに、私は女だ。いまのところは。
「いいんですか! ありがとうございます、庵野先生。もうあなたに断られたら後がないと思っていたんですよ。それじゃ早速資料を送らせていただきますね。研究室の部屋番号は何番でしたっけ」
そこからはトントン拍子で話が決まった。
鋼の女などというしょうもないあだ名も、たまには役に立つものである。
「万堂哲人……さあて、どんな男かしらね」
彼に会うのが楽しみだと思っていた。他の殺人者たちと同じように考えていた。私にはあいにく千里眼なんかないのだ。そして情けないことに、女のカンというやつも、まったく。
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