短編小説│星告げと氷の宰相 前編
『今宵、獅子王が死ぬ』
薄いベールの向こう、艶やかな唇が流れるようにその言葉を紡いだ。
シルヴァリオは、不覚にも息を呑んだ。
それほどまでに、その言葉は軽々しく口にしてよいものではない。
この瞬間、一般市民の皮を剥ぎ取り、この国の宰相として、この不届き者に不敬罪を言い渡すこともできる。
だが、シルヴァリオはぐっと唇を引き締めた。
今の自分は、しがない一般市民。
ここにはお忍びで来ている身だ。
シルヴァリオ=アルトーン。
貴族から、『氷双の裁定者』
国民から、『氷の双剣』
呼び名が異なれど、共通して囁かれる評がある。
その氷の刃のような双眸を向けられた者は、すでに逃げ場を失っている。
剣を振るうことなく、理の刃で人を裁つ。
それがシルヴァリオ=アルトーンという男だった。
シルヴァリオは、憶測で語らない。
数多ある情報から真実のみを抜き出し、相手を射竦めるような鋭さで言葉を放つ。
冷えきった灰の瞳は、相手の一切の隙を逃さず、妥協を赦さない。
国王に言わせれば、『脳みそに合理だけを詰め込んだ、堅物』らしいが。
兎にも角にも、シルヴァリオという男は、目に見えるものしか信じない、現実主義者。
周囲は、そう信じきっている。
そんな彼は今、最も縁遠いはずの場所。
いや、相容れぬはずの場所にいた。
王都・星告通り。
占星師に占ってもらっている最中だった。
星告占いは、彼の密かな趣味である。
これが表沙汰になれば、今まで氷の刃と評された自分の立場に、一瞬で亀裂が生じ、粉々に砕け散るだろう。
それだけは、是が非でも避けねばならない。
シルヴァリオは小さく咳払いし、占星師を見据えた。
薄く黒いベールが目元を覆っている。
蝋燭の灯りに照らされた肌は、陶器のように白い。
覗く頬のラインは、流れるように美しい。
形の整った薄い唇は朱に彩られ、今は一直線に結ばれていた。
「…具体的には、何で死ぬというのですか?」
冷たい眼差しを保ったまま、シルヴァリオは問い返す。
彼女の微動だにしない仕草を、一つも見逃さぬよう注意深く見据えながら。
『…王に紅き果樹酒が運ばれる』
『…それは心臓を突き立てる刃』
『…身体は凍えるように冷え切り』
『…そして、二度と動くことは叶わぬ』
(毒…ということか…?)
シルヴァリオは、顎に手を添えた。
「今宵というのは、間違いないのですね?」
『…今宵は星が散る』
『…空が星を喰らう…特別な日…そう――』
「星喰いの日…」
思わず、シルヴァリオはその言葉を口にしていた。
占星師は、言いかけた言葉を飲み込むように静かに口を閉ざし、わずかに頷いた。
「闇に紛れるには…これ以上ない条件ですね…」
シルヴァリオの独り言に、占星師は沈黙を貫いた。
「ちなみに…場所……」
『…獅子を冠した王』
『…眠る場所は、静謐のみに満ちて』
『…王の足元…音もなく絡みつく』
『…二つの舌は、甘い偽りと冷たい真実をもたらす』
『…そして……盃を重ねることはない』
「――星のお告げはここまでです」
予言を告げる声より、やや高い声。
占星師は、そう言葉を締めくくった。
「……ありがとうございました」
礼を述べると、シルヴァリオは席から立った。
占星師もまた、反射的に立ち上がる。
そして歩き出した次の瞬間、かすかな抵抗が足元に伝わった。
シルヴァリオは、迂闊にも占星師のローブの裾を踏みつけていた。
占星師は体勢を崩し、その拍子に、長いベールがふさっと落ちる。
蠟燭の灯火が、大きく揺れた。
シルヴァリオは、咄嗟に彼女を支える。
その瞬間、彼女の素顔が露わになった。
息をするのも忘れ、その黄金色の瞳に魅入られる。
占星師は彼の胸元を強く押し退け、咄嗟に距離を取った。
そして袖で顔を隠しつつ、足元に落ちたベールを拾い上げると、すぐ被り直す。
「し、失礼!」
「……もう、お帰りください」
シルヴァリオが慌てて謝罪するが、彼女の口から発せられたのは、あまりにも冷淡な声音だった。
拒絶。
シルヴァリオは言葉を失い、もう一度、深々と頭を下げる。
そして何も言わぬまま、天幕の外へと姿を消した。
◇ ◇ ◇
「絶対、見られたわ…」
占星師―ルル=アストレイア=ノクターンは、深くため息をついた。
「まだ分からないでしょう」
布を針で縫いつけながら、叔母―カミラが楽観的に言う。
「目が、合ったもの……一瞬だったけれど」
その気休めの言葉を素直に受け取れず、ルルは崩れ落ちるように丸椅子に腰を下ろした。
「この瞳を……見られた……」
思わず俯く。
その瞳は、輝くような黄金色だった。
「…星詠が姿を消して、もう久しいわ」
「でも―」
ルルは、天幕での出来事を思い返す。
「……あの『氷の双剣』なのよ」
貴族からも、市民からも、恐れられるあの宰相が、まさか占いに訪れるなど夢にも思わなかった。
「……最悪だわ」
「私たちは決して罪人ではないわ。 それに宰相様は、理不尽なことで断罪するお方ではないはずよ」
カミラの言葉は、理屈として納得できるものだった。
宰相―シルヴァリオ=アルトーンは、平民であろうと、己より高い身分であろうとも、等しく裁く。
恐れられる一方で、市民からの信頼もまた、確かなものだった。
「――ルル」
名を呼ばれて、ルルは顔を上げる。
「誇りを、忘れては駄目よ」
その言葉に、ルルは自然と背筋を伸ばした。
「もちろん。私たち――星詠の誇りは決して忘れないわ」
強い眼差しで、窓の外を見る。昼間でも星が見えるはずの空は、漆黒に染まっていた。
「――星喰い」
小さく呟いた声は、静かに、夜空へと溶けていった。
◇ ◇ ◇
葡萄酒の入ったカラフェを抱え、女は静かに寝室へ足を踏み入れた。
(現国王の部屋にしては……随分と質素ね)
さり気なく視線を巡らせる。
獅子王と冠される現国王―レオン=レオニス。
太陽のような華やか容貌を持つ王の私室にしては、あまりにも飾り気がない。
「ん? 誰かいるのか」
天蓋もない寝台の上で、気だるげに横になっていたレオンは、のっそりと上体を起こした。
「はい。お休み前のお酒をお持ちしました」
女は艶を含んだ声で、穏やかに告げる。
「そうか」
近くへ来るよう促され、女はしずしずと王のもとへ歩み寄った。
「見ない顔だな。新入りか?」
「はい」
「座ったらどうだ」
「失礼いたします」
物腰柔らかい声音に促され、女はレオンの傍へと腰を下ろした。
雑談を交えながら、女はカラフェを傾け、葡萄酒を硝子の杯へ注ぐ。
小刻みの良い小さな音を立てながら、杯は深い赤に満たされていった。
「硝子製とは、珍しいな」
レオンの何気ない一言に、女の手が一瞬だけ止まる。
内心の動揺を押し隠し、妖艶な微笑みを浮かべる。
「はい……葡萄酒の色合いを、ぜひ楽しんでいただきたく」
「ほう」
杯を受け取ったレオンは、それを燭台の灯りにかざす。
茶を含んだ深い赤が、指先の動きに合わせて静かに揺れる。
「なるほど。お前が見せたくなるのも分かる。いい色合いだ」
「そう言っていただけて……とても光栄ですわ」
満足げに頷くレオンに、女はそう応じた。
そして逞しい胸元へゆっくりと手を這わせながら、女は切り込みの入った薄布の隙間から、すらりとした脚を覗かせる。
蝋燭の灯りに照らされ、滑らかな肌が艶やかに光を帯びた。
「味の方も申し分ございません。どうぞ……召し上がってください」
身を寄せ、耳元で囁く。
「そうだな」
レオンは頷き、硝子の杯を傾けながら、口元へと運んだ。
女は、内心ほくそ笑む。その時。
「――それを、こちらへ」
静寂に溶け込むような、低く静かな声が背後から落ちた。
「……!」
女が、弾かれたように振り返る。
そこに立っていたのは、燭台を手に持ったシルヴァリオだった。
「リオか、どうしたんだ?」
「その杯を、置いていただけませんか」
言われたまま、レオンは寝台脇の卓へと硝子の杯を置いた。
それを確かめると、シルヴァリオは静かに歩み寄る。
燭台を卓に置き、代わりに、そこにあった空の銀杯を手に取った。
女の目が、わずかに見開いた。
それの変化を横目に捉えながら、シルヴァリオは葡萄酒を銀杯へと注いだ。
「――ご覧ください」
そう告げると、再び葡萄酒を元の杯に移し、空になった銀杯を差し出す。
促され、レオンは杯の中を覗き込んだ。
銀の杯は、黒ずんでいた。
「……ほう」
レオンは驚いた様子も見せず、ただ静かに呟いた。
◇ ◇ ◇
「占星師殿。貴女の言葉がなければ、陛下は今頃……感謝いたします」
天幕の中へ入るなり、シルヴァリオは深々と頭を下げた。
「私は、星の導きを詠んだに過ぎません。礼など不要です」
ルルは椅子に腰掛けたまま、視線を向けずに言い放つ。
「それでも、私は礼を言いたかったのです」
「では、その用はもう済んだことでしょう。どうぞ、お帰りください」
あけすけな拒絶を滲ませ、入り口へと視線を移す。
しかし、シルヴァリオは立ち去ろうとはしなかった。
「もう一つ。……先日は失礼いたしました」
その一言で、彼が何を詫びているのか悟る。
「気にしていません」
短く返した、その直後。
「あなたが“星詠”であることは、承知しています」
ルルは思わず、息を吞んだ。
「貴女が星詠の一族であろうと、それは過去のことです。それを理由に、貴女を非難するつもりは毛頭ありません」
その言葉は、ルルにとって思いもよらないものだった。
「それだけお伝えしたかったのです。………では、失礼します」
一礼を残し、シルヴァリオは身を翻した。
声をかけることもできないまま、ルルはその背を見送る。
その時。
あらゆる音が、すっと遠のいた。
まるで不可視の壁に隔たれたように、世界が静まり返る。
研ぎ澄まされた耳が、ひとつの音を拾い上げた。
キィィン……
音叉を打ち鳴らしたような、空気の震え。
星告げが降りる。
「……待って」
制止するその一言に、シルヴァリオは足を止め、振り返った。
◇ ◇ ◇
『…終焉はまだ遠い』
『…闇はなお獅子の足元で蠢く』
書物を捲る手を止め、シルヴァリオは星告げの言葉を反芻した。
まだ、終わっていない。
占星師の星告げを鵜吞みにしたわけではない。
ただ、合理的に否定できないものも含まれていた。
『…今宵、獅子王が死ぬ』
獅子王が、現国王レオン=レオニスを指すことは、即座に理解できた。
あの時に告げられた言葉を繋ぎ合わせれば、導き出されるのは、
「星喰い日、国王は毒によって命を落とす」
という結論だった。
星詠という名が薄れるにつれ、星告げは信憑性を失い、いつしか占いという迷信へと変質していった。
だが、星詠という存在そのものが、消えたわけではない。
占星師の素顔を見た、その瞬間。
金色の瞳を目にして、彼女がその星詠の血を引く者だと確信した。
星詠の中でも、金色の瞳を持つ者は極めて稀であり、他と比して、予言の精度は段違いに高いと伝えられている。
かつての王が星詠の一族の者から妃に迎えた際、選ばれたのもまた金色の瞳を持つ女だった。
表向きの歴史では、その妃の予言はすべて外れたと記されている。
だが、真実は異なる。
シルヴァリオは、再び書物へと視線を落とした。
占星師の星告げを半ば受け流していた彼でさえ、彼女が星詠だと分かった瞬間、その星告げの信憑性を無視できなくなった。
さらに、あの言葉。
『…眠る場所は、静謐のみ満ちて』
現国王は、華やかな容姿に似合わず、実際には質素で倹約家な生活を好む。
それを知る者は、ごく限られていた。
星告げの言葉は、一般的には知られていない王の寝室の在り方と一致していた。
とはいえ、それはあくまで“調べるきっかけ”に過ぎない。
確証を得るため、シルヴァリオは星告げの言葉を手掛かりに調査を進めた。
だが、今回に限っては時間が迫っていた。
本来行うべき綿密な裏取りは、十分とは言えない状態だった。
そのため彼は、他者から受け取ったものを口にしないよう、王に進言した。
結果として、女が運んだ葡萄酒をその場で調べることで、動かぬ証拠を掴み、未然に事を防ぐことができた。
そして、今回の星告げは、女の単独の犯行ではないことを明確に示している。
闇は、なおも蠢いている。
獅子の足元で。
文字を追っていたシルヴァリオの視線が、一点に止まった。
そして綴られたその名を、無意識に指でなぞる。
◇ ◇ ◇
「……」
窓辺の椅子に腰を下ろし、ルルは夜空を見上げていた。
また、星告げが降りた。
再び、王の暗殺を示唆するものだった。
現国王は、国民に重い税を課すことはない。
他国との関係を積極的に築き、貿易に力を注いでいる。
砂漠地帯に位置するこの国は、作物の生産に適していない。
その代わり、石や金属を加工する技術が発展してきた。
自国の産業を、他国に売り込む。
閉鎖的だった国の在り方を変えた現国王の政策は、称賛を集める一方で、保守派から反感も買っていた。
何事にも、光と影はある。
それは、星詠とて同じこと。
かつては、神聖な存在として敬われていた。
だが今では、忌むべきものとして疎まれている。
『貴女が星詠の一族であろうと、それは過去のことです。それを理由に、貴方を非難するつもりは毛頭ありません』
シルヴァリオの言葉が、静かに、ルルの胸に沁み込んだ。
◇ ◇ ◇
翌日。
「あの人に……ひどい態度を取ってしまったの」
ルルは、胸の内をカミラへ打ち明けた。
自分の振る舞いは、あまりにも身勝手だった。
たった一言で、彼への見方が大きく変わった。
あれほど冷たい態度を取っておいて、今さら悔いるなど、あまりにも調子のいい話だ。
「それで、どうしたいの?」
縫い物の手を止め、カミラが穏やかに尋ねる。
「……謝りたい。でも……」
「謝ることは、決して恥じではないわ」
俯いたルルに、カミラは静かに言い聞かせる。
「かつての星詠の民は、気高い誇りを持って人々を導いていた」
カミラは、窓の外へ視線を移し、そのまま言葉を継いだ。
「星の声を聞き、人を導く。それが我々の誇りだった。…いいえ、今の私たちにも、きちんと受け継がれているわ」
一拍、置いて。
「謝ることは、決して我々の誇りを蔑ろにする行為ではない。それをそう思うのは、ただの“思い上がり”よ」
ルルは、はっと顔を上げた。
「私たちは星神ではないの。……時に、道を踏み外すことだってある、ただの人間よ」
「………」
「だから、恐れずに。――自分の考えに従いなさい」
そう言って、カミラは柔らかく微笑んだ。
ルルに小さく頷き、椅子から立ち上がる。
「………カミラ叔母さん、ありがとう」
その言葉を残し、ルルは静かに部屋を後にした。
◇ ◇ ◇
『…過つ星。それはいずれにせよ、流れるもの』
“星預”は、暗がりでそう呟いた。
「どういう意味だ……」
男は、片眉を吊り上げ、低い声で問いただす。
「こうなることは、想定内だった――それだけのこと」
「……次はどうなる」
不服そうに腕を組み直し、男は苛立ちを隠さぬまま、二の腕を指先で小刻みに叩いた。
『…氷の刃、闇に近づく』
「…っ!」
男は息を詰め、忌々しげに名を吐き捨てる。
「……シルヴァリオ=アルトーン!!」
それだけ言い残し、男は早足に部屋を後にした。
『…太陽は、不変の輝き』
星預の言葉は、なおも続く。
『…そして、黄金の星は、変化を望む』
星預は、窓の外へと視線を向ける。
「私は…認めない」
その呟きは、夜の闇に溶けるように消えていった。
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