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僕は僕じゃない 第五話

@Riku

 ディナー前にドリンクの補充を行っていた。ペリエの在庫がなかったので、他部署から分けてもらうことにする。ホテル最上階にあるバーに内線で問い合わせる。対応したのはあの憧れの吉田さんだった。彼はいつもの柔らかい口調で「在庫はかなりあるから取りに来たらいいよ」と了承してくれた。今日も素敵な声だ。

 業員用エレベーターで最上階へ向かう。少し緊張する。吉田さんがいるからだ。制服のポケットから小さな鏡を取り出し、髪型が乱れていないか、アイラインが滲んでいないか、リップは取れていないかをチェックする。とりあえず大丈夫。

 最上階に到着する。バー「グランシャリオ」。夜景が一望出来て、宿泊客以外でも利用可能。敷居はそれほど高くはない。割と気軽に入店できる。

 バーカウンターに吉田さんがいた。他のスタッフは見当たらない。レストランと違って開店時間が遅めだからだろう。二人きり。深呼吸する。まずは明るく挨拶を……。

「お疲れ様」

 吉田さんの方が先に挨拶をしてくれた。いつもの爽やかな笑顔を向けられる。誰に対してもこうだってわかってはいるものの、この笑顔を向けられると心臓が高鳴ってしまう。

「お疲れ様です。すいません。お忙しいところ」

「全然。ちょうど新作のカクテル考えてたとこ」

 カウンターに小さめのカクテルグラスが一つ。淡いオレンジの色のドリンクが注がれている。

 カウンター越しのガラス窓から見える空の太陽も沈みかけていて、同じような淡いオレンジ色の光を放っている。街に静かに注がれゆく光を今まさにカクテルグラスですくったかのようだった。

「きれい。写真撮ってもいいですか」

「いいよ」

 私は制服のポケットからスマホを取り出して、夕焼けの空を背景にそのカクテルを撮影した。夕焼けに溶けていくようなカクテルの姿。我ながらきれいに撮れたと思う。

「よし」

「見せて?」

 吉田さんが私のスマホを覗き込む。彼の額が私の側頭部に軽くぶつかった。

「すいません!」

 思わず謝ってしまう。

「ごめんはこっちだよ。痛くなかった?」

 吉田さんが私の頭に手をのせた。吉田さんが私に触れている。嘘みたいだ。

「だ、だいじょうぶ、です」

「よかった」

 にっこりと微笑んで彼は私の頭を軽く撫で手を離した。

 おそらく私の頬は赤くなっていたと思う。耳まで熱かったから。

 対して吉田さんは平気な顔だ。私の頭に触れた行為も、さり気なくて、慣れている。それなのに、私は動揺して赤面。吉田さんを意識してることが丸わかりだ。恥ずかしくて、今すぐにでも逃げ出したくなった。

「ぺ、ペリエを……」

「ペリエね。1ケースでいい?」

「はい」

「少し重いけど、持っていける?」

「大丈夫です。ありがとうございます」

 吉田さんからペリエを奪うようにして、私はその場を後にした。

 その後、何度も吉田さんの事を思い出し、仕事に身が入らず、同僚のハルカに体調が悪いのかと心配された。それでも何とか仕事を終え退勤した。

 バスの座席に腰を下ろし、スマホに保存されたカクテルの画像をもう一度見直す。吉田さんの笑顔や、声や、頭に触れた手の感触が蘇った。あんなこと、吉田さんにとっては、特別な事ではないんだろう。例え私じゃなくても、同じような事をしただろう。わかっているのに、いまだに動揺が治まらない。なんて罪な男なんだ。吉田さんって。吉田さん?

 バスの窓から歩道を歩いている吉田さんの姿が見えた。彼の隣には誰かがいた。女性だ。知っている。ウエディング課の村本さん。美人でスタイルが良くて、男性スタッフの憧れの的。吉田さんと笑顔で笑いあっている。そして二人は肩を寄せ合い、手を繋いだ。

 お似合いの二人だ。美男美女。まるで、映画のワンシーンを見ているみたい。誰も文句なんて言えない。

 そうだよね。あんなことで浮かれてた私が馬鹿みたいだ。

 自宅に戻り、母の用意してくれた夕食を食べ、入浴をし、ベッドに横になった。吉田さんと村本さんの姿が、頭から離れない。こんな時は読書で現実逃避するに限る。

 Kanataさんと再びどちらが先に読み終わるか勝負をしている「キュレーターの殺人」に手を伸ばす。その前に。

 私はKanataさんにDMを送った。カクテルと夕焼けの画像と共に。

「こんばんは。今日は仕事中に夕焼けの写真を撮ったので送りますね」

 すると、すぐに返信が来た。

「きれいですね。夕焼け色のカクテルも素敵です。仕事中ってことは、Rikuさんはバーテンダーですか?」

 仕事中にカクテルの写真を撮るなんて、バーテンダーだと思われても仕方ない。

「レストランのウェイターですよ。バーもあるので、そこで撮りました。ちなみに、Kanataさんはどんな仕事を?」

「僕は事務職です」

「そうなんですね。実は僕、さきほど、失恋してしまいまして。だから、読書で現実逃避です。『キュレーターの殺人』これから読みまくりますよ」


@Kanata

 夕方、私は夕食の食材を買いに、近所のスーパーへ徒歩で向かった。今朝は朝から雨が降っていたが止んでいた。湿ったアスファルトの匂いがする。昨日から梅雨入りをしたらしい。梅雨が明けたら本格的な夏だ。仕事を辞めたのは冬だった。冬が終わり、春が終わり、夏を迎えようとしている。季節は容赦なく過ぎていく。そう考えると少し焦る。私はいつまでこのままなんだろう。

 湿気を含んだ生ぬるい風が、私の頬を撫でていく。スニーカーの底から聞こえる足音も湿っている。この音を聞くと思い出す。

 去年の梅雨の時期だった。私は当時つきあっていた人がいた。ある休日、二人で外出をした。朝から雨が降っていた。ランチを食べて店を出ると雨は止んでいた。湿ったアスファルトの匂い、湿った生ぬるい風、湿った足音。二人で手を繋いで歩いていたら、彼が急に足を止めた。そして、繋いでいた手を振り払うようにほどいた。彼の顔を覗き込むと青ざめている。目の前に見知らぬ女性。彼女は怒りに震えた表情で私達の行く手を阻むように立ちふさがっている。

「違うんだ。この子は会社の同僚で」

 私はただの同僚だった。彼女だと思っていたのは私だけだった。

 仕事を辞めたのは、彼のせいだけではない。だけど、一時期は彼がいたから、辛い仕事も何とか乗り越えられていたのは確かだった。その日を境にお互いを避けるようになった。仕事に専念しようとすればするほど、空回りする日々が続くようになった。

 嫌な事を思い出してしまった。こんな時は、読書で現実逃避するに限る。早く買い物を済ませて、夕食の準備をして、読書をしよう。

 今日の夕食は「冷やし中華」だ。父が食べたいと言っていたから。我が家の冷やし中華の具材はきゅうり、トマト、玉子焼き、鳥のささみ。たれはゴマだれ。

「これこれ。これ食べると夏が来たって感じするよ」

 父は喜んで食べてくれたので嬉しかった。

 夕食を食べ終わり、入浴を終えてから、私は読書に没頭した。『キュレーターの殺人』である。今回もRikuさんとどちらが読み終わるのが早いか勝負している。おそらく私の方が早いだろう。

 そろそろ眠ろうかと、本を閉じようとした時、RikuさんからDMが届いた。

「こんばんは。今日は仕事中に夕焼けの写真を撮ったので送りますね」

 夕焼けを背景に、オレンジ色のドリンクが入ったグラスが映った写真だった。まるで、夕焼けをグラスですくったよう。溶け込むような色彩が美しかった。

 仕事中に撮ったということは、ここはRikuさんの職場だろうか。つまり、Rikuさんはバーテンダーだろうか。プライベートな質問は今までしたことがなかったが、この写真を送ってくるという事は、職業を明かしても構わないのかもしれない。

「きれいですね。夕焼け色のカクテルも素敵です。仕事中ってことは、Rikuさんはバーテンダーですか?」

 と返信する。

「レストランのウェイターですよ。バーもあるので、そこで撮りました。ちなみに、Kanataさんはどんな仕事を?」

 私だって答えないとフェアじゃないだろうな。しかし、無職とは言えない。

「僕は事務職です」

 無難な答えを送る。

「そうなんですね。実は僕、さきほど、失恋してしまいまして。だから、読書で現実逃避です。『キュレーターの殺人』これから読みまくりますよ」

 失恋?さきほど?一体、何があったんだろう。聞いたら失礼だろうか。いや、大丈夫のような気がする。むしろ、誰かに話したいのでは?話したら気持ちが楽になる事もあるだろうし、聞いてみようか。

「失恋とは?よかったら聞きますよ。無理にとは言いませんが、もし、誰かに話して気が楽になるのであれば」

「まぁ、たいしたことじゃないですよ。僕の気になっている人が、別の人と手を繋いで歩いていたってだけで。美男美女でお似合いの二人なんです。僕は今まで、その人と挨拶するだけでも浮かれてしまっていたので、何だかバカみたいだなって。だから、こういう時は現実逃避っす。読書最高っす」

 文末はお茶らけているものの、実際は落ち込んでいるのだろう。なんて声をかけたらいいものか。少し考えてから返信する。

「実は、僕もちょうど去年のこの時期、失恋しました。彼女だと思っていた人と一緒に歩いていたら、彼女の本命の彼氏が現れまして。僕はただの浮気相手だったってわかりました。それで、今日、不意にその時のこと思い出して。だから、さっきまで読書に没頭して、嫌な記憶を消し去ろうとしてたんですよ。現実逃避っす。マジで読書最高っす」

 嫌な思い出を消したい気持ちはよくわかる。読書で現実逃避。誰かに話すことだって有効。私は今日、その二つが出来てしまった。だから、もう大丈夫。

「Kanataさん。そんな辛いことがあったんですね。嫌な事があったら、読書で現実逃避するのが、僕なりの乗り越え方だったので、Kanataさんもそうだってわかって、何だか嬉しいです。僕達、親友になれそうじゃないですか?って、僕、うざいですかね?もし、そうだったら言ってくださいね。とにかく、ありがとうございます。『キュレーターの殺人』読んで寝ます。おやすみなさい」

 Rikuさんの返信内容を読んで、また笑ってしまった。彼はいつも私の気持ちをほぐしてくれる。

「親友になれそうって、僕も思います。こちらこそ、いつもありがとうございます。おやすみなさい」

 返信して、ふと考えた。親友か。男同士だから、そう言ってくれるのか。だったら、これからもずっと、男と偽っていかなければ、この関係は続いていかないのだろう。それは、嘘をつき続けるという事だ。嘘を。


→第六話

→全編


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