見出し画像

張り詰めた糸はすぐ切れる、そういうことだ 〜『仮面ライダーガヴ』と香村純子論〜

『仮面ライダーガヴ』(2024-2025)は、香村純子という作家の特質を考察する上で、極めて示唆的な作品であると言える。
なぜなら、本作は香村脚本の持つ美質と限界を等価に浮き彫りにし、現代における特撮ドラマの作劇手法について根本的な問いを投げかけているからだ。
従来の香村作品が「コンプレックスを抱えた人物がそれと向き合い、自己を肯定していく壮大な物語」として評価されてきたのに対し、『ガヴ』でもそう言った要素は賞賛されたものの、「積み上げたものが爆発しない」という作劇に批判が集まっていた。
この現象を分析することで、香村純子という脚本家の本質的な作家性、そして現代社会における物語の役割と限界について本記事では包括的に考察したい。
今回は『ガヴ』を単なる作品論として扱うのではなく、現代日本社会が抱える「新たな貧困」の文脈において香村純子の作家性を位置づけ直すことをしたいと考える。
ここでいう「新たな貧困」とは、経済的困窮のみならず、他者への想像力を働かせる精神的余裕の欠如、そして自己の生存を最優先とせざるを得ない社会状況を指している。
香村作品が一貫して描き続けてきた「自己肯定」のテーマは、このような現代的状況への応答として理解されるべきである。

香村純子と「シングルタスク脚本」の美学と病理

シングルタスク性の美点と欠点

『ガヴ』の作劇的特徴として最も顕著なのは、「シングルタスク脚本」と呼ばれる手法である。
これは、物語の複数要素を並行して展開させるのではなく、一つの主題に集中してそれを丁寧に描き込む手法を指す。
この手法は、香村作品全般に通底する特徴でもある。
『動物戦隊ジュウオウジャー』(2016-2017)では、大和の父親との確執、操の身体的コンプレックス、それぞれが個別のエピソードで集中的に描かれ、解決されていく。
『快盗戦隊ルパンレンジャーVS警察戦隊パトレンジャー』(2018-2019)においても、魁利の兄への劣等感と圭一郎の警察官としてのアイデンティティ確立は、それぞれが独立したドラマラインとして機能している。
これらの描写の精緻さは、香村脚本の大きな魅力である。
特に注目すべきは、『ルパンレンジャーVSパトレンジャー』における圭一郎の造形である。
彼は「警察官という職業」ではなく「困っている誰かの力になれる人間」になりたいという内面的動機で行動し、その柔軟性と人間性が魁利の「凍った心」を溶かす役割を果たした。
この圭一郎というキャラクターは、香村純子の理想とする「多様性を素で受け入れる懐の深さ」を体現した存在として機能している。
しかし、『ガヴ』においては、このシングルタスク性が作品全体の構造的問題として露呈した。 
具体的には以下の問題が挙げられる。
まず、ショウマ・絆斗・ラキアの三人の成長ドラマが比較的早期に完了してしまい、終盤に向けての推進力を失った点である。
特に、ラキアの人間への心変わりの過程は丁寧に描かれたものの、それが完了した後の物語展開に新たな緊張感を生み出すことができなかった。
また、絆斗の「ショウマを信じたくても信じきれない気持ちの狭間」での揺れも、一定の解決を見た後は物語の駆動力として機能しなくなった。
こうして、味方サイドは香村純子のテーマの1つである「多様性を受け入れる」ことが出来る素晴らしき人物として描写された一方で、ドラマの力学的には安定してしまい、視聴者に新たな変化や成長を提示することは出来なかった。
次に、敵組織ストマック家の描写が中途半端に終わり、「大ボス組織として登場したにもかかわらず、最後まで本当の脅威として機能することなく、ボッカ大統領とリゼルの登場によってかき消されてしまった」という問題がある。
これは、香村純子が「1人のキャラクターの心情や因縁を丁寧に描写に力を入れる代償に、複数の物事を並行して動かすことができない」という特性の現れでもある。
ランゴとの因縁についても、マスターガヴ初登場回で既に因縁ポイント(?)の大半を消費してしまい、最終盤の展開においては推進力不足に陥った印象は否めない。

シングルタスクの現代的背景

この「シングルタスク脚本」の特性は、香村純子が「今自分が一番やりたいこと以外は興味ないしやりたくない」という姿勢で脚本を執筆していることの現れと考えても良いかもしれない。
しかし、これを単純に作家の欠点として片付けるのは適切ではない。
むしろ、現代社会における認知的負荷の増大と、注意資源の希少化という文脈で理解すべきである。
現代の創作環境では、作家は限られた時間と注意力の中で複雑な物語を構築することを求められる。
その中で、香村純子のシングルタスク的アプローチは、一つの要素を極限まで追求することで、その他の要素を犠牲にするという選択の現れとも見ることができる。
これは、現代的な「選択と集中」の論理であり、同時に現代の創作者が直面する制約の反映でもある。

「因縁」の詩学と現代的孤独の変容

香村作品における「因縁」の構造

香村作品を貫く根本的なテーマは、登場人物間の「因縁」である。
これは単なる対立関係ではなく、互いの存在が相手の内面を照射し、成長を促す関係性を意味する。
ここでの「因縁」は、仏教的な業(カルマ)の概念とも通底する、運命的な結びつきとして機能している。
香村純子がサブライターとして入った『Go!プリンセスプリキュア』(2015-2016)における紅城トワの物語は、この「因縁」の典型例であると思う。
第23話「ず~っと一緒!私たち4人でプリンセスプリキュア!」において元々は敵であったトワは、プリキュアとして仲間になった後も過去の罪悪感に苦悩する。

しかし、彼女ははるかの言葉により、「決して許されないことには違いないが、それも含めて自分だと一種の肯定をする」ことで前に進むことが出来た。
この「贖罪」のテーマは、第46話「美しい…!?さすらうシャットと雪の城!」におけるシャットの救済エピソードにおいても再び書かれ、「温かく大切なものを守る姿」に真の美しさを見出すという価値転換として結実する。

スカーレット「トワイライトも孤独で人の事など考えない人間でしたわ。気高く、尊く、麗しく、ただそれだけで良いと。でも、今の私は違います。温かくて大切な物を沢山頂きましたから」
シャット「温かくて大切な物……?」
スカーレット「それを守るために強く優しくある姿、それが美しさだと今はそう思っています。変わりましょうシャット、私と一緒に……」

香村脚本における「嫉妬」と「贖罪」

『ガヴ』を読み解くにあたり、ショウマは『HUGっと!プリキュア♡』、絆斗は『動物戦隊ジュウオウジャー』、ラキアは『Go!プリンセスプリキュア』に対応させて考えることができる。
ショウマには『映画HUGっと!プリキュア♡ふたりはプリキュア オールスターズメモリーズ』に描かれた、登場人物たちが残酷な現実と向き合いながらも理想を追い求める姿が重なる。
絆斗は、大和と父親の確執を抱えながらも、バドとの縁を通して和解に至る『ジュウオウジャー』の展開と通じる。
そしてラキアは、かつて敵対していたものの仲間となり、罪の意識に苦悩する紅城トワを描いた『Go!プリンセスプリキュア』と共鳴しており、先述した通り、特に香村が担当した第23話と46話にその要素が顕著である。
この「贖罪」のモチーフは、ショウマや絆斗にも部分的に引き継がれている。
そして、香村純子は『プリキュアアラモード』41話「夢はキラ☆ピカ無限大!」でシエルとリオの姉弟の物語を中心に描き、二人が困難を乗り越えて共に好きなスイーツ作りを続けるという結末に導いた。
この物語は後に『ルパパト』の勝利・魁利兄弟に受け継がれ、「別たれた道を選ぶ」という対照的な構図を通じて面白さを生んでいる。
第41話には「贖罪」も描かれており、ここから香村純子が「贖罪による葛藤と償いこそがドラマであり、ヒーローを描くことだ」と考えている節がうかがえる。
実際に『ジュウオウジャー』の操、『Go!プリンセスプリキュア』のトワ、『プリキュアアラモード』のピカリオ、『ルパパト』の怪盗チーム、『ゼンカイジャー』のステイシー、『わんだふるぷりきゅあ!』の猫屋敷まゆ、そして『ガヴ』のラキアなど、彼女の作品において「贖罪」は繰り返し描かれてきた。
さらに「贖罪」を描くためには罪が必要であり、ピカリオや魁利のように「嫉妬」が行動の起点になることも多い。
他にも香村純子が書いた『仮面ライダードライブ』第29と第30話では、メディックへの嫉妬からブレンがハートの元を離れたり、剛がチェイスへの複雑な感情から霧子と向き合えなくなる姿が描かれた。『Go!プリンセスプリキュア』第17話「まぶしすぎる!きらら、夢のランウェイ!」や『キラキラ☆プリキュアアラモード』第19話「天才パティシエ!キラ星シエル!」第22話「やめてジュリオ!憎しみのキラキラル!」第27話「アツ〜いライブバトル! あおいVSミサキ!」第41話『夢はキラ☆ピカ無限大!』でも「嫉妬」がかなり中心に据えられている。
香村純子はこうした「嫉妬」や「罪」を物語の推進力とし、そこから「贖罪」による葛藤を描くことを一貫して行っていると言える。

香村純子が書くフェミニズム

そして、香村純子がメインライターを務めた『ヒーリングっど♡プリキュア』(2020-2021)では、主人公のどかとダルイゼンとの対決が、自己犠牲的な優しさからの解放として描かれる。

近年の「プリキュア」では、敵と和解して彼らを救済する結末が続いてきていたと思うんです。
それは本当にいいことだと思っています。
ただ、時にそれが、今の世にはびこる女の子への社会的圧力や扱い等と合体すると、それは女の子たちを追い詰めてしまうことはあるかもしれない、と。
無意識に「女の子だから優しくしなきゃいけない」という強要にすり替わって、悪いヤツにつけ込まれて酷い目にあったりしないかしらと。
もちろん和解や救済はすばらしいことだと思うんです。でもそれにこだわるあまり、自分の心が死んでしまっては元も子もないのでは……。

『Animage(アニメージュ) 2021年03月号 』P.70より

のどかの「私はあなたの道具じゃない!私の体も心も全部私のものなんだから!」という宣言は、社会が「女の子だから優しくしなきゃいけない」と無意識に強要することへの明確なアンチテーゼとして機能した。

こうしたフェミニズム的文脈から作品を書くことは(以前にも書いたが)『仮面ライダーガヴ』のメインプロデューサーでもある武部直美のフェミニズムをテーマにして書くという作家性と共鳴して『ガヴ』のストーリーや設定が生み出されたのであろう。

香村純子自身が述べるように、「病気のメタファーにした以上、和解は無理」という判断は、安易な和解よりも自己の尊厳を優先する価値観の表明である。

香村 敵を病気のメタファーにした以上、和解は無理ですよね。
現実には、病気を抱えたまま、「病と共生」している方はいっぱいいらっしゃいます。
でもその方たちも、完治できるに越したことはないわけで……。
私はありがたいことに、これまで重い病気にはかからず生きてこられました。
そんな私の立場から、「病気と和解しなさいよ」なんて言える勇気はありませんでした。

同上

香村作品における「因縁」の概念は、現代的な孤独の変質を反映している。
従来の孤独が「社会からの疎外」を意味していたのに対し、現代の孤独は「他者への関心の喪失」という形を取る。
香村女史が描く「孤独だからこそヒーロー」という設定は、この現代的孤独の肯定的な読み替えである取れる。
『機界戦隊ゼンカイジャー』(2021-2022)で提示された「好きな世界を生きればいいじゃない!」という価値観は、この文脈で理解される。
これは、社会からの承認を求めるのではなく、自己の内的な充実を優先するという現代的な生存戦略である。
しかし、このような価値観は、他者との真の意味での関わりを回避する装置として機能する危険性も孕んでいる。

『ガヴ』における因縁の機能不全

『ガヴ』では、この「因縁」の構造が十分に機能しなかった。
ショウマと敵キャラクターたちとの関係性は表面的には丁寧に描かれているものの、それが物語全体を駆動する程の力として結実していない。
特に、ボッカやランゴといった強敵との因縁が「浅い」と指摘される点は、香村脚本の持つ因縁構築能力の限界を示している。
また、「実は生きていたラスボス」というランゴの扱いも、既に消費された因縁を無理やり延命させる試みとして機能し、結果的に物語の弛緩を招いた。
これは、香村脚本が得意とする「一度きりの濃密な因縁」を、連続ドラマの長期的な構造に適応させることの困難を示している。

多様性の政治学──包摂と排除

香村作品における多様性

香村作品のもう一つの重要なテーマは「多様性の受容」である。
『動物戦隊ジュウオウジャー』では異種族間の共存が、『機界戦隊ゼンカイジャー』では機械と人間と個々の世界の協働が描かれた。
これらの作品では、「多様であることが尊い」というメッセージが明確に提示されている。
特に『ゼンカイジャー』における戦隊構成は革命的であった。
(コロナ禍における撮影対策の1つもあるが)人間が一人、機械生命体が四体という構成は、「スーパー戦隊は人間キャストでなくても成立する」という従来の前提を覆し、新たな「戦隊性」の可能性を提示したと言えるし、主人公である介人と機界戦士たちの関係は、互いの凸凹な部分を含めて受け入れる「共存」のモデルケースとして機能している。
しかし、香村女史の描く「多様性」には重要な限界がある。
それは、彼女が受け入れる多様性が「自身が認めたもの」に限定されていることである。
相互理解不能な存在や反省を示さない人物は、一貫して排除される傾向にある。
この選別的な包摂は、現代リベラリズムの抱える根本的な矛盾を反映している。
表面的には「寛容」を謳いながら、実際には「自分とは違うものを排除しようとせず、広い心で受け入れることができる人」というかなり理想的な人間のみを包摂(ケア)するという論理である。
『ジュウオウジャー』のジニス、『ヒーリングっど♡プリキュア』のダルイゼンなど、香村作品の「絶対的な敵」は、この論理の外部に位置づけられる人物として書かれている。
『ガヴ』においては、グラニュートという異種族の存在は多様性のメタファーとして設定されている。
しかし、彼らの背景描写は中途半端に終わり、その「薄さが際立つ」結果となった。
これは、香村女史が真の意味での他者性──理解不可能で、受け入れ難い存在──と向き合うことを回避している現れとも解釈できてしまう。
現代的な多様性の概念は、しばしば「理解可能な差異」の受容に留まり、根本的な他者性との邂逅を避ける傾向にある。
香村作品における「多様性」も、この範疇を超えることは稀である。
『ガヴ』でグラニュートが十分に「他者」として機能しなかったのは、この構造的な限界の現れと考えられる。

現代的貧困と「自己の物語」への収縮

新たな貧困世代と物語構造

香村 そうですね。
女の子は何でも受け止めて何でも許してくれる女神ではありません。
観てくれている小さな女の子たちにも、今まさにダルイゼンみたいな存在がいないとも限りません。
日常の中で、女の子だからとつけ込まれてしまったり……。
そんな時に、「自分を一番大事に思っていいんだよ!それで何か責められたとしても、プリキュアはあなたの味方だよ!」ってそういう事を伝えたくて。
「とにかく、あなたにすこやかに生きていてほしい」という願いを込めて、一年間やってきたんです。

同上

香村作品における「自分を一番大事に思っていいんだよ!」というメッセージは、現代社会の要請に応えたものである。
しかし、これを単純に肯定的に評価するだけでは不十分である。
このメッセージの背景には、現代の若者たちが置かれた構造的な困窮がある。
いわゆる「さとり世代」「草食系男子」「無敵の人」と呼ばれる現代の若者たちは、経済的困窮と将来への不安の中で、他者への想像力を働かせる余裕を奪われている。
『チェンソーマン』のデンジや、『ナンバーワン戦隊ゴジュウジャー』の遠野吠のように、「将来の夢」よりも「明日の飯」が最優先課題となる状況では、他者の立場に立つことは現実的に困難になる。

遠野吠は『チェンソーマン』におけるデンジを受けて作られたキャラクターだと思うのだが……

香村作品が描く「自己肯定」は、このような状況下での生存戦略として理解される必要がある。

『鬼滅の刃』/『呪術廻戦』/『チェンソーマン』の20年代ジャンプ漫画と香村脚本

近年の少年漫画における物語構造の変化は、この現代的貧困の反映として読み取ることができる。『鬼滅の刃』では「敵側にもこうしたやむに止まれぬ事情があり…」という共感的理解が示されていたが、『呪術廻戦』ではその要素はフェードアウトし、主人公達の世界や能力などの設定が語られることに注力され、『チェンソーマン』では主人公であるデンジ(とアキ、パワー)のみの物語に収束していく。
だから、悪魔には全くといいほどドラマは与えられず、敵側はあっさりと描写されて死ぬ。
それが第1部においては展開の速さにも繋がったし、3.11以降のクリエイターに植え付けられた「人は簡単に死ぬ。そこに物語を挟む余地がないほどに」という死のリアリティを獲得していた。
(しかし、第2部ではこうした要素はむしろ悪い方向に働いていると言える)

この系譜において、香村脚本もまた「自己の物語」への集中を示している。
『ガヴ』における主人公ショウマの「存在の肯定」というテーマは重要だが、それが他者との関係性の中で強固に構築されたものではなく、多くはドラマ内ではショウマのモノローグとして語らせることで自己完結的に達成されてしまったことが、物語の緊張感の欠如に繋がったとも言える。
『チェンソーマン』が獲得した「人は簡単に死ぬ。そこに物語を挟む余地がないほどに」という死のリアリティは、3.11以降の日本社会が直面した現実である。
この文脈では、敵キャラクターへの感情移入や背景の掘り下げは、ある種の「贅沢」として映る。
生存が最優先課題となる状況では、他者の事情を慮る余裕は二次的なものとならざるを得ない。
香村作品における敵キャラクターの扱いも、この現実を反映している。
『ガヴ』で敵であるグラニュートたちが「あっさりと描写されて退場する」のは、現代的な物語においては必然的な選択なのかもしれない。

しかし、これは同時に、物語が持つべき「他者への想像力を育む」という社会的機能の放棄してしまった意味も持ち合わせている。

ケアの政治学と物語の社会的機能

フェミニズム的ケアと自己保護の論理

香村作品が提示する「ケア」の概念は、現代フェミニズムの文脈において重要な意味を持つ。
上記でも書いたことだが、『ヒーリングっど♡プリキュア』でのどかが示した「嫌なことには嫌と言うこと」「都合の良い存在じゃない」という態度は、女性に対する社会的期待への批判として機能している。
香村純子自身が語る「女の子は何でも受け止めて何でも許してくれる女神ではありません」という認識は、ジェンダー・ステレオタイプに対する鋭い批判である。
また、「自分を一番大事に思っていいんだよ!それで何か責められたとしても、プリキュアはあなたの味方だよ!」というメッセージは、自己保護の権利の主張として評価できる。
しかし、このような「ケア」の概念には、選別性という問題が内包されている。
香村作品では、「反省する人物は許すけど、しない人物にはとことん厳しい」という二分法的な価値観が散見される。
この論理では、反省する能力や環境に恵まれなかった存在は、自動的にケアの対象から除外される。
この選別性は、現代的な「ケアの政治学」が抱える根本的な問題でもある。
真の多様性の受容とは、理解可能で受け入れやすい差異のみを対象とするものではなく、根本的に理解困難な他者をも包摂することを意味するはずである。
しかし、実際の社会状況では、そのような理想的なケアを実践することは極めて困難である。

物語の社会的機能の変容

物語の社会的機能を考える時、香村脚本は興味深い両義性を示している。
一方では、マイノリティや弱者の立場に寄り添い、彼らの尊厳を守る物語を紡いでいる。
『わんだふるぷりきゅあ!』第31話「にゃんふるエンサーまゆ』では、SNSを通じた友情回復のエピソードで、現代的なコミュニケーション・ツールを肯定も否定もせず、巧みに活用する姿勢を示した。

香村純子は平光ひなたや猫屋敷まゆは明らかにADHDの特性を持つキャラクターとして書いている

他方では、『ジュウオウジャー』の頃からその保護の対象を厳格に選別し、理解不能な他者を排除する論理も内包している様に思える。
この矛盾は、現代社会におけるケアの政治学が抱える根本的な問題でもある。
誰をケアするか、どこまでケアするか、という境界設定の問題は、常に排除の論理を伴う。
しかし、現在のところ香村純子自身もそのことについては明確な答えは出していないと思うので今後の作品に注目する必要がある。

『ガヴ』における「事件」の不在と物語構造

「因縁」と「事件」の二輪

優れた連続ドラマにおける1つの作劇術として「因縁」という前輪と「事件」という後輪を駆動させながら物語に「うねり」を生み出すという方法がある。
「因縁」は登場人物の行動に深みを与える根源的な理由や関係性であり、「事件」は物語を具体的な行動へと押し進めるトリガーである。
両者が有機的に結合することで、観る者を引き込む物語的推進力が生まれる。
香村純子を論じる際によく比較対象として語られる小林靖子の脚本は香村脚本と同じく必要なまでに因縁や人物達の心理とその反応を書く。
そのため、物語における推進力は失われてしまう欠点があるが、小林靖子は「中盤や終盤で物語の根幹に関わる大きな事件を起こした上でさらに深く書いていく」という手法を才能することでこの弱点をカバーしている節がある。
事件が因縁を表面化させ、因縁が新たな事件を呼び起こすという循環構造が、物語に持続的な緊張感と高揚感を与えるためだ。
しかし、『ガヴ』では「因縁ばかりで、事件は出来ていなかった」と指摘される通り、このバランスが崩れている。
ショウマと敵キャラクターたちとの関係性は丁寧に描かれているものの、それが物語全体を駆動する「事件」として昇華されていない。
具体的には、以下の問題が挙げられる。
まず、ストマック家という敵組織が「財界の大物マーゲンを中毒にして操る」という政治的・社会的な脅威として設定されていたにもかかわらず、「怪人化してライダーにぶつける」という瞬間的な脅威に矮小化されてしまった点である。
それはそれで面白い絵面ではあったが、本来であれば社会全体を巻き込む「事件」となるべき設定が、個人的な戦闘に還元されてしまったことを意味する。
次に、主人公ショウマの努力や成長が「進捗感」に繋がらないという構造的問題がある。
これは、明確な「ゴールポスト」の不在に起因している。
「○○を倒せば勝利!」という分かりやすい目標設定がないため、ショウマの行動が物語の前進として認識されにくい。
『ガヴ』の物語構造は「足し算的に進むだけで、シナジーや爆発力が生まれにくい」と評されている。
これは、個々のエピソードや要素が孤立して存在し、相互に影響を与え合うことなく消費されていく構造を指している。
この問題は、現代的なコンテンツ消費の形態とも関連している。
情報過多の時代において、受け手は個々の要素を断片的に消費することに慣れており、それらを統合して大きな物語として理解することが困難になっている。
その影響か『ガヴ』においてもその場その場ではキャラクターが言いそうな台詞や行動が完璧に書かれていたが、あくまでその場限りであり、過去の言動や行動とはあまり一致していない。
香村脚本のシングルタスク性は、このような現代的な受容環境への適応とも解釈できるが、同時に物語の持つ統合的な力を放棄することをも意味している。

タペストリーの美学──細部の精緻さと全体の散漫さ

工芸的完成度と建築的構造の乖離

香村純子の脚本は、「精巧なタペストリー」あるいは「熟練の職人が作る一点物の工芸品」に喩えることができる。
個々の糸(キャラクターやエピソードや設定)は美しい色や模様を持ち、一つ一つは魅力的である。
キャラクターの造形や台詞回し、感情の機微の描写などは、極めて高い水準にある。
『ゼンカイジャー』では、この工芸的完成度が頂点に達した。
キャラクター造形があまりに見事で、視聴者が「このキャラクターならこう言うだろう」と予測するストライクゾーンに毎週剛速球が飛んでくるほど、制作陣と視聴者のキャラクター解釈が一致していた。
この「キャラクターの強度」は、香村脚本の最大の魅力である。
しかし、『ガヴ』では、これらの工芸品を並べて展示するに留まり、それらを組み合わせて一つの壮大な建築物を築き上げるという段階には至らなかった。
この全体性の欠如は、現代的な認知様式の反映でもある。
現代人は、情報を断片化して処理することに長けているが、それらを統合して大きな物語として理解することは苦手になっている。
香村脚本のシングルタスク性は、この現代的認知様式への適応であると同時に、その限界の現れでもあるのかもしれない。

「わかりやすさ」と「ストレスフリー」の逆説

『ガヴ』は「わかりやすさ」や「ストレスフリー」を謳っているが、実際にはシングルタスク路線が間を持たせず、「延々と同じことを繰り返したり、魅力が薄まったキャラだけが残って逆につまらなくしている」という結果を招いた。
これは、「わかりやすさ」の追求が、必ずしも物語的魅力の向上に直結しないことを示している。
現代的な「わかりやすさ」の要求は、しばしば物語の複雑性や両義性を削ぎ落とす結果を招く。
香村脚本が持つ繊細な人間描写の技術も、この「わかりやすさ」の要求によって単純化され、本来の魅力を失う危険性が露呈されたと思う。

香村純子作品における時間性と記憶

過去の清算と未来への投企

香村作品では、過去との関係がキャラクターの成長における重要な要素として位置づけられている。
『Go!プリンセスプリキュア』のトワ、『ルパンレンジャーVSパトレンジャー』の魁利、『ヒーリングっど♡プリキュア』ののどかなど、主要キャラクターたちは皆、過去の出来事や関係性に規定されながらも、それを乗り越えて新たな未来へと歩み出していく。
この時間性における処理に香村女史は独特のアプローチを取る。
過去を完全に否定するのでもなく、美化するのでもなく、「それも含めて自分」として受け入れるという姿勢である。
これは、現代的な自己受容の一つのモデルとして評価できる。
『映画HUGっと!プリキュア♡ふたりはプリキュア オールスターズメモリーズ』では、「思い出こそが希望」であり、未来へ進むための原動力となるというメッセージが提示されている。

ここでの「記憶」は、単なる過去の蓄積ではなく、未来を構想するための資源として機能している。
しかし、『ガヴ』では、この記憶と希望が十分に機能していない。
主人公たちの過去は物語の動機として設定されているものの、それが未来への具体的なビジョンとして結実することは少ない。
これは、現代社会における未来への想像力の枯渇を反映していると考えられる。

時間的圧縮と物語の短縮

現代的なコンテンツ消費においては、時間的な圧縮が常態化している。
視聴者は、長期的な物語展開よりも、即座の満足を求める傾向にある。
『ガヴ』における「キャラクターの関係性や成長がストロングポイントであるが、後半のアラモードくらいでショウマ・絆斗・ラキアの関係性の構築や成長が完了してしまい、キャラクターとしてのエネルギーを使い切ってしまった」という指摘は、この時間的圧縮の結果である。
香村女史の丁寧なキャラクター描写は、本来であれば長期的な物語展開の基盤となるべきものである。
しかし、現代的な消費環境では、そのような長期的視点での物語構築が困難になっている。
結果として、精緻に構築されたキャラクター関係も、一定の解決を見た後は物語の推進力を失ってしまう。

香村純子とジェンダー・パフォーマティヴィティ

ジェンダー規範への挑戦と再生産

香村作品は、一貫してジェンダー規範への挑戦を試みている。
『ヒーリングっど♡プリキュア』での「女の子だから優しくしなきゃいけない」という社会的圧力への批判、『ルパンレンジャーVSパトレンジャー』での圭一郎の「感情的で涙もろい男性」としての造形など、従来のジェンダー・ステレオタイプを意図的に逸脱する試みが見られる。
『ガヴ』においても、主人公ショウマの「お菓子好きな少年」という設定は、男性性の規範への挑戦として読み取れる。
また、絆斗の繊細で内省的な性格も、従来の「熱血少年」像からの逸脱を示している。
しかし、これらのジェンダー規範への挑戦は、しばしば新たな規範の創設という形で回収されてしまう危険性を孕んでいる。
「優しくない女性」や「感情的な男性」も、結局は新たなステレオタイプとして機能する可能性がある。
香村作品において、このパフォーマティヴィティの限界は、キャラクター造形の固定化として現れる。
そして『ゼンカイジャー』においては、キャラクターの「強度」が高すぎて、逆に変化の余地が少なくなってしまった。
これは、香村純子の技術の高さが逆に作品の可能性を限定してしまう逆説的な現象である。

『ガヴ』における男性性の再構築

『ガヴ』では、従来の戦闘的男性性に代わる新たな男性性のモデルが提示されている。
ショウマの「存在の肯定」を中心とした物語は、競争や支配ではなく、自己受容と他者への共感を基盤とした男性性の構築を試みている。
しかし、この新たな男性性も、結局は個人的な領域に留まり、社会的・政治的な変革への展望を持たない。
これは、現代的な「内向化」の傾向と符合するが、同時に物語の射程を狭めるものでもある。

未来への展望──ポスト『ガヴ』の香村純子

シングルタスクからマルチタスクへ

『ガヴ』の経験を通じて、香村純子がシングルタスク脚本の限界を認識し、新たな作劇手法を模索する可能性は十分あると考える。
具体的には、複数の物語要素を並行して展開させながらも、それぞれに香村純子らしい深みを与える手法の開発である。
これは容易なことではないが、香村女史の持つキャラクター造形力と人間洞察力があれば、不可能ではないと思われる。

個人の変革が社会の変革に繋がるか

香村作品の今後の発展において重要なのは、個人的な成長と社会的な変革をいかに架橋するかという点である。
『ガヴ』では、個人的な「存在の肯定」が中心テーマであったが、それが社会全体の変革へと拡張される展望は示されなかった。
今後の香村作品では、個人の自己肯定が社会的な連帯や変革の基盤となるような物語構造の開発が期待される。
これは、現代社会が直面する分断と対立を乗り越えるための重要な文化的実践となる可能性がある。

他者性との真の邂逅

香村作品の最大の課題の一つは、理解可能な範囲の多様性のみを扱い、根本的な他者性との邂逅を回避していることである。
今後の発展においては、この限界を乗り越え、真に理解困難で受け入れ難い存在との対話を描くことが求められる。
これは、香村純子にとって大きな挑戦であるが、同時に彼女の作家性を新たな次元へと押し上げる可能性を秘めている。
現代社会が直面する根本的な対立や分断を、物語の力によって架橋することができれば、香村純子の新たなステージへ移った瞬間であろう。

結論──『ガヴ』が示す現代物語の可能性と限界

『仮面ライダーガヴ』は、香村純子という作家の可能性と限界を同時に示した作品として、現代の物語論において重要な位置を占めている。
本作が抱える諸問題──シングルタスク脚本による構造的制約、因縁中心主義による事件性の不足、選別的包摂による他者性の回避──は、いずれも現代社会が直面する根本的な困難の反映である。
香村純子の作家性は、現代的な「新たな貧困」の状況下での生存戦略として理解される必要がある。他者への想像力を働かせる余裕を奪われた状況下で、「自分を一番大事に思っていい」というメッセージを発信することは、確実に社会的価値を持つ。
しかし、それが他者の存在への無関心や排除の論理と表裏一体である限り、真の意味での社会的変革には結びつかない。
物語が持つべき社会的機能は、単なる慰撫や自己肯定に留まるものではない。
それは、自己と他者、個人と社会、過去と未来を架橋し、新たな共同性の可能性を開示することである。
香村純子という作家が持つ精緻なキャラクター描写力と人間洞察力は、この機能を果たすための重要な能力だ。
『ガヴ』の「未達成の可能性」は、香村女史個人の限界を示すものではなく、現代の物語環境全体が抱える構造的困難の現れである。
この困難を乗り越え、新たな物語の形を創造することは、香村純子のみならず、現代の物語作家全体に課せられた使命なのかもしれない。
最終的に、『仮面ライダーガヴ』は、現代物語論における一つの重要な症例として、我々に多くの示唆を与えたと様に感じられる。
その「積み上げたものが爆発しない」という特性は、現代社会の構造的制約を反映している。
しかし、同時にそれは、新たな物語的可能性への道標でもある。
香村純子という作家の今後の発展と、彼女が示す現代物語の可能性に、我々は注目し続ける必要がある。
物語とは、意識せずとも未来への投企になってしまうことが多い。
『ガヴ』が示した現在の限界を踏まえつつ、それを乗り越える新たな物語の形を模索すること。
それこそが、現代におけるクリエイターに与えられた課題なのかもしれない。

いいなと思ったら応援しよう!

この記事が参加している募集