エドワード・ルトワック「戦争にチャンスを与えよ」を読んで
前から読みたいと思っていた、戦略家、エドワード・ルトワック「戦争にチャンスを与えよ」を読みました。この本は、1999年にルトワック氏によって書かれた戦略に関する有名な論文「Give War A Chance」に加え、日本で数少ない戦略学の奥山真司氏によるルトワック氏へのインタビュー/翻訳で構成され内容です。
https://www.foreignaffairs.com/articles/give-war-chance

1969年のジョン・レノン、オノ・ヨーコの(ベトナム戦争への)反戦歌「平和を我等に (Give Peace A Chance)」との対比によるタイトルかどうかは、わかりません。「戦争にチャンスを与えよ」という、なんとも挑戦的なタイトルで、人によってはこのタイトルを見ただけで嫌悪感を示すかもしれません。しかし、内容は、戦争を決して奨励しているわけではありません。むしろ、彼は、最重要項目として、極力争いは避けろ、と言っています。この本では、戦略とは?ということを、生物としての人間のサガ(性)をベースに捉え、論理的に、リアリズムに即して解説されています。
1)戦争にチャンスを与えよ
ルトワック氏は冒頭でいきなり本質を突いています。
『「戦争は巨悪であるが、大きな役割を果たしている」という事実は、やや見過ごされがちだが、それでも我々が認めたくない真実である。戦争は、政治的な紛争を解決し、平和をもたらすからだ。』
大雑把に言うと、一度戦争が始まった場合、両者が疲弊するまで行うことによって、平和が訪れる、というのが彼の見方です。紛争に国連、NGOのような第三機関が介入することによって、事態を複雑にしたり、中途半端で終わらせたり、「休戦」状態のままにしたりする、このこと自体の問題提起をしています。つまり、Give War A Chance “TO GET PEACE” というわけです。このロジックは、ガチガチのリベラリストには絶対受け入れがたいアイディアですが、ルトワック氏はいくつかの具体的な事例を挙げています。第一次中東戦争、1999年の旧ユーゴ紛争へのNATOの介入、フツ族、ツチ族によるルワンダ内戦、ソマリアの紛争など。特に、この論文が書かれた1999年は、ユーゴ紛争の真っただ中で、この論文を書く動機にもなっているとのことです。

僕は、縁あって旧ユーゴ諸国にはこれまで度々行く機会があり、空爆によって破壊された橋、放送局、国防省なども実際に見てきました。悲惨でした。旧ユーゴ問題は、非常に複雑なので、ここではその経緯を説明しませんが、他国やNATO、広告代理店などが次々に介入してきて、あっという間にユーゴはバラバラにされてしまいました。ルワンダ内戦も、人道的支援の名の下に強大な難民キャンプが作られたことで、逆に長期にわたり紛争に苦しみました。全ての紛争において、戦争が唯一の解決策である、というのは、僕個人としては言い過ぎだとは思いますが、「戦争は絶対悪」とか「この世から全ての武器をなくす」というスローガンは、少なくともこのような過去の事例から、必ずしも「絶対善」ではない、と言えます。「絶対善」を唱えるものは疑ってかかったほうがいいということです。
2)人間のサガ(性)と戦略
ルトワック氏は、戦略を「対立する意思の間にのみ生じる独自の論理」と定義しています。AとBという異なる意思を持った者もしくは組織が生存、利害関係で対立した際に、発生する理論と言い換えることができると思います。ルトワック氏の定義では、この「意思をもった」というところが前提にあります。こちらのアクションに対して、意志を持ってリアクションがある、という状況で戦略は機能する。例えば、パズルを解く、ということだと、パズル自体は、こちらの意図に対して裏をかいてきたりしません。このような場合は、戦略ではなく管理、技術、工学となる、ということです。
彼の戦略論の背景には、アブラハム宗教的概念があると感じます。「人間は放っておけば対立するものである」という根本的な考え方を元に、「この起こってしまう対立による被害を最小限に抑えるためにはどうしたらよいか?」に対する回答が「戦略」だ、ということです。(日本の左翼活動に自虐的な特殊性は、逆に性善説に基づいていると感じます。)
彼は、「戦士の文化」を強調します。本書では、「男は戦いを好み、女は戦士を好む」とまで言い切っています。これは、リベラリストが認めたくない事実である、戦争によって発展してきた社会構造をあからさまに表現しています。平たく言うと、マッチョな文化ということです。
これは、日本で言うところの「武士道」とは少し異なります。武士道は、精神論で自己犠牲や礼節、調和といった「道」としての側面が強く打ち出しています。こう考えると、この考え方もまた、東洋的な循環型思考=「人間は自然の一部だ」という感がからきている、ということがわかります。この自己犠牲や共感(調和)という概念が、現代では特に、アニメ、漫画などで繰り返しテーマと現れて息づいていると言えるでしょう。
3)パラドキシカル・ロジック
さて、このルトワック氏の人間生活をベースとする戦略で、彼が最も強調するのは「パラドキシカル・ロジック(逆説的論理)」です。これは、戦略において、いかなる場合も発生すると言います。簡単な例でいうと「敵をどんどん倒して前進し有利に戦いを進めた結果、敵の陣地内深く入り、自分の陣地から遠く離れ、逆にリスクが高くなる」という現象です。有利が不利になったり、逆になったりすること。戦略において、このことを重々認知し「常識の裏をかく」ことで、パラドキシカル・ロジックを相手に発動させなくする、ということです。
敵に勝つためには、こちらが直線的論理で動いていると常に思わせて、その裏をかくことを続け、圧倒的優位に立ち、相手の意志を使えなくした時に、はじめて、このパラドキシカル・ロジックから解放されます。しかし実際は、当然、敵も裏を読んできます。そうすると、「裏と裏の読み合い」が高度な次元で起こり始め、これを制したものが戦いに勝ちます。
この理論は、僕が関心をもっているタロットでも同様な解釈、相反する意味の二重性が一つの事象に同居します。
例えば、もっとも一般的なタロットデッキで、とてもショッキングなカードの一つである「死神(Death)」は、終焉を表しますが、同時に、再生も表します。ルトワック氏は、人間に限ってこの論理を扱っていますが、自然現象等でも、相反する意味の二重性が一つの事象に集約されている例はあります。例えば、晴れが続くと植物はよく育ちますが、雨も降らず晴天がつつけば枯れてしまします。
このように、なぜか、世界は、シュレディンガーの猫(量子力学の「重ね合わせ」という不思議な状態を説明するための思考実験)的なことで溢れています。
4)理想主義と現実主義(リアリズム)
ジョン・レノンとオノ・ヨーコの「Give Peace A Chance」は、泥沼のベトナム戦争に対して「なんて、バカなことをやっているんだ」という、シンプルな人間の思いを表した反戦歌です。確かに、その当時、僕もそこにいたら「そうだ、そうだ!」と共感していたかもしれません。(この曲を否定する意図は全くないことをことわっておいた上で)、ただ、この現象、この歌が意味するところをよく考えてみると、複雑な現実社会を非常に単純化した「勧善懲悪」「二元論」におとしこもうとしているがわかります。白黒はっきりしたものは、理解しやすいし一般受けもいいです。「きっと、こうやって、こうすれば、世の中が平和になる、なぜ、あなた方はそれをやらないんだ!」という理想主義。現代アメリカで、サンダース氏を支持する人々の感覚も共通点があります。ルトワック氏のパラドキシカル・ロジック的に解釈すると、これは、「俺の言うことは絶対正しい」という、とても強制的な態度になってしまっているということ。このような二元論は、その間の着地点を無視し、思考停止につながる、いわば危険な考え方だと感じ、取り扱いに注意が必要です。
仮に、このロジック「Give Peace A Chance」が唯一の解決方法だと仮定しましょう。そうすると、ルワンダの長引いた紛争やユーゴの解体などをどのように説明できるでしょうか?この典型的な「戦争を排除すれば、全て平和になる」というリベラリズムの考え方の危険性は、100年前にすでにE.H.カーにより指摘されていて、今なお続いています。
かといって、ルトワック氏の考え方で全てを説明できるか、といったら、そうでもない。リベラリズムが提唱してきた国際秩序を保つための様々な工夫によって、紛争になる手前でストップする、ということもあるからです。E.H.カーが指摘したように、理想主義と現実主義のバランス、ということがより重要であるのは明白です。
この戦略論は、国際関係、国際政治で発展してきました。同時に、日常生活の知恵としても、十分応用可能な理論です。私たちは、日常、法の範囲内で個人レベルでも、男女問わず絶えず覇権を争い=競争をしています。このことは誰しも無意識に感じていることだと思います。これは、生物が営む上で、我々にインストールされた最低限、否定しようがない仕組みなのかもしれません。
