見出し画像

鴨川デルタの暗号|第八章 嵐山の観測点

救急車のサイレンは、南禅寺の夜に似合わなかった。

赤煉瓦の水路閣。

暗い木立。

石畳。

その中を、白い光が乱暴に切り裂いていく。

ルイは意識を失っていなかった。

だが、額の傷は浅くない。

救急隊員に担架へ乗せられる直前、彼は澪の手首を掴んだ。

「雨宮さん」

「喋らないで」

「嵐山……」

澪は顔を近づけた。

「嵐山?」

「祖父の資料に……観測点が」

「何の観測点?」

ルイは答えようとした。

だが、言葉になる前に顔を歪めた。

救急隊員が澪を離す。

扉が閉まる。

サイレンが遠ざかっていく。

残されたのは、水の音だけだった。

水路閣の上を、琵琶湖疏水の水が流れている。

見えないのに、確かにそこにある。

京都には、そういうものが多すぎる。

 

「澪」

悠真が低い声で言った。

「警察には?」

「ルイが転倒した、で済ませると思う」

「なんで」

「誰かがそう説明する」

「教授か」

澪は答えなかった。

水路閣の柱に貼られていた紙を見た。

《La vérité dort sous l'eau.》

真実は、水の下で眠る。

そしてルイの言葉。

入口は下じゃない。上です。

「上って、水路閣の上か?」

悠真が見上げる。

暗闇の中、赤煉瓦のアーチが静かに並んでいる。

「たぶん違う」

「なんで?」

「入口というより、視点のこと」

「視点?」

澪はスマホを取り出し、鴨川デルタの動画を開いた。

水面反射。

暗号。

飛び石。

「この暗号は、正面から見ても読めない。水に映して、初めて意味が出る」

「水鏡か」

「うん。なら、南禅寺の暗号も同じかもしれない」

「上から見る?」

「あるいは、別の場所から見る」

悠真は少し考えた。

「それが嵐山の観測点?」

澪は頷いた。

 

翌朝、京都は晴れた。

昨日までの雨が嘘のようだった。

空は薄く青く、町は何も知らない顔で動き出している。

嵐電に乗ると、車内には観光客が多かった。

修学旅行生。

外国人夫婦。

カメラを首から下げた老人。

誰も、地下水路や文化財の話など知らない。

それでいいのかもしれない。

全員が真実を知る必要はない。

けれど、誰かが知っていなければならない真実もある。

澪は窓の外を見た。

町家の屋根。

小さな踏切。

洗濯物。

京都は、観光ポスターの中だけにあるわけではない。

人が住んでいる。

だから秘密も生まれる。

 

嵐山に着くと、人の波が押し寄せていた。

渡月橋の上では、観光客が川を背景に写真を撮っている。

保津川の水は、昨日の雨で少し濁っていた。

山は新緑に包まれている。

その緑の奥に、古い時間が眠っているようだった。

「で、観測点ってどこや」

悠真が地図を開く。

「ルイの資料を見ないと分からない」

「病院に行く?」

「その前に、探す」

「また勘?」

「違う。条件から絞る」

澪は渡月橋を見た。

「水面反射を使うなら、必要なのは三つ。水面、光、見る位置」

「見る位置が観測点」

「うん」

「光は?」

澪は空を見た。

「時間」

悠真が少し笑った。

「また時間か」

「暗号は、場所じゃなくて時間を含んでる」

鴨川デルタもそうだった。

水位。

街灯。

木曜日。

見える条件が揃わなければ、記号は完成しない。

 

二人は川沿いを歩いた。

桂川の水音が近い。

店先では抹茶ソフトが売られ、竹林へ向かう人の列ができている。

そのにぎわいの中で、澪だけが別のものを見ていた。

橋の影。

水面の角度。

石垣の古さ。

山肌の切れ目。

悠真はその横顔を見ていた。

「なあ」

「何?」

「おまえ、怖くないんか」

澪は少し遅れて答えた。

「怖いよ」

「そう見えへん」

「見せてないだけ」

悠真は黙った。

澪は続けた。

「怖いって言うと、止まりそうになるから」

「止まってもええ時はある」

澪は川を見た。

「父は、止まらなかった」

「だから、おまえも?」

「違う」

澪は首を振った。

「父が何を見たのか、私が知りたいだけ」

それは勇気ではない。

執着かもしれない。

でも、人は理屈だけで動けない。

心の奥に刺さった小さな棘が、何年も抜けないことがある。

 

昼過ぎ、悠真のスマホが鳴った。

ルイからだった。

「無事か?」

悠真がすぐに出る。

スピーカーにする。

ルイの声は弱かったが、意識ははっきりしていた。

「すみません。迷惑を」

「それは後でええ。嵐山の観測点って何?」

しばらく沈黙。

ルイは小さく息を吸った。

「祖父の資料に、京都の水路暗号について記述がありました」

「水路暗号?」

澪が聞く。

「正確には、文化財疎開のための位置記録です。紙に場所を残すと危険だから、地形と水面反射を使った」

「つまり、現地に行かないと読めない地図」

「はい」

「嵐山は何を示すの?」

「南禅寺の保管庫の入口条件です」

悠真が眉を寄せる。

「入口条件?」

「入口は常に開くわけじゃない。水位差が必要です」

澪は息を止めた。

水が止まる場所。

閉鎖水路。

水位差。

「嵐山で水位を観測して、南禅寺側の水位を推定する」

ルイが言った。

「古い資料では、渡月橋の影が川面に触れる時刻が基準になっていました」

悠真が川を見た。

「影?」

「午後三時十三分」

澪の頭に、数字がよみがえる。

三一。

一三。

十三。

第5章で見た数字。

上下逆の数字。

「十三じゃない」

澪が呟いた。

「三時十三分」

悠真が顔を上げる。

「そういうことか」

伏線が一つ、音を立ててはまった。

 

午後三時前。

二人は渡月橋の西側へ移動した。

観光客の流れから少し外れた場所。

川面が広く見える。

山の影と橋の影が、ゆっくり水面へ伸びていく。

澪はスマホのカメラを構える。

悠真は水位を確認する。

「あと二分」

水面は揺れている。

風が吹く。

橋の上を人が渡る。

その影が、水の上で細く伸びる。

午後三時十三分。

影が、川面のある一点に触れた。

その瞬間。

水面に映った橋の線と、対岸の石積みの亀裂が重なった。

ただの模様に見えていたものが、形を変える。

矢印。

いや、文字だった。

「水、止、南」

悠真が読み上げる。

「水止南……?」

澪は画面を拡大した。

違う。

三つの漢字ではない。

古い略字だ。

「水止めの南」

「南禅寺の南側?」

「たぶん」

その下に、もう一つ小さな記号が浮かんでいた。

三角形の中央に一本線。

閉鎖水路。

そして、その横に。

《蔵》

 

悠真が息を吐いた。

「つながったな」

「うん」

「鴨川デルタは入口じゃなくて、水位計。嵐山は観測点。南禅寺が保管庫」

澪は頷いた。

だが、心は晴れなかった。

あまりにも整いすぎている。

まるで誰かが、ここまで導いている。

「ねえ、悠真」

「何?」

「この暗号、誰のために作られたんだと思う?」

「文化財を守る人たちやろ」

「うん。でも今、私たちに読ませている人がいる」

悠真は黙った。

帽子の人物。

非通知の声。

匿名メール。

教授。

ルイの嘘。

全員が、少しずつ真実を押したり隠したりしている。

 

その時、澪のスマホが震えた。

知らないアドレス。

本文は一行。

《正しく読めた。だが、教授より先に行け》

添付写真があった。

教授の研究室。

机の上に広げられた古地図。

その横に、南禅寺水路閣の写真。

そして、教授の手元。

古い鍵。

澪は画面を見つめた。

教授は知っている。

入口も。

開け方も。

悠真が低く言った。

「戻るぞ」

「うん」

二人は走り出した。

渡月橋の上で、観光客が驚いて道を開ける。

川の上を風が抜けた。

水面に映った橋の影が、もう崩れている。

暗号は消えていた。

時間が過ぎれば、真実はまた水の下へ沈む。

澪は走りながら思った。

父も同じものを見たのだろうか。

そして同じように、間に合わなかったのだろうか。

京都の空は明るかった。

だが、南禅寺へ向かう道だけが、少し暗く見えた。


いいなと思ったら応援しよう!

kawanonagare 小さな気づきや余韻が残っていたら嬉しいです。応援の気持ちとしてチップをいただけると、創作の原動力になります。