鴨川デルタの暗号|第七章 沈黙する教授
翌朝、澪は南禅寺へ行かなかった。
行きたかった。
だが、行けば何かが動く。
そして動いたものは、もう戻らない。
そういう予感があった。
大学の正門をくぐると、いつものキャンパスが少し違って見えた。学生たちは笑いながら歩いている。カフェの前には列ができ、掲示板には留学説明会のポスターが貼られていた。
平和だった。
平和というものは、そこにある時ほど信用しにくい。
澪のバッグには、昨夜拾った赤い地図が入っている。
南禅寺水路閣。
地下へ向かう一本の線。
そして、端に小さく書かれた文字。
《水が止まる場所》
「雨宮さん」
背後から声がした。
振り返ると、教授が立っていた。
昨日より顔色が悪い。
「少し、研究室へ来なさい」
命令に近い口調だった。
澪は黙って頷いた。
教授の研究室は、古い本の匂いがした。
壁一面の書棚。
机の上には、整理されていない資料の山。
その中に、一枚だけ見覚えのある写真があった。
赤煉瓦の水路。
若い頃の父。
澪は目を止めた。
教授はそれに気づき、すぐに写真を裏返した。
遅かった。
「父と調査していたんですね」
教授は答えなかった。
沈黙は、否定より雄弁な時がある。
「昨日も聞きました。父を知っているんですか」
「知っていた」
「過去形なんですね」
教授の指が、机の上で一度だけ動いた。
苛立ちではない。
迷いだ。
「雨宮さん。君は賢い。だから分かるはずだ。世の中には、掘り返さない方がいいものがある」
「文化財のことですか」
教授は澪を見た。
その目が細くなる。
「どこまで知っている」
「鴨川デルタの暗号。閉鎖水路。戦時中の文化財疎開。南禅寺へ向かう地下ルート」
教授は椅子に深く座った。
一気に老けたように見えた。
「誰に聞いた」
「水が教えてくれました」
教授は苦い笑みを浮かべた。
「君のお父さんと同じことを言う」
その言葉で、澪の胸が小さく痛んだ。
嬉しさではない。
怖さだった。
自分が父に近づいている。
それは真実に近づくことでもあり、父が消えた場所へ近づくことでもある。
「調査をやめなさい」
教授が言った。
「理由を教えてください」
「危険だからだ」
「その言葉は、便利すぎます」
教授は黙った。
澪は続けた。
「危険なのは私ですか。それとも、秘密の方ですか」
教授の顔がわずかに歪んだ。
正解に近い時、人は怒るか、黙る。
教授は後者だった。
「父は、何を見つけたんですか」
「……何も見つけていない」
「嘘です」
「雨宮さん」
「父のノートに同じ記号がありました。南禅寺の写真もあります。教授の研究室にも、同じ写真がある」
澪は机の上の裏返された写真を見た。
「偶然が三つ重なると、偶然じゃありません」
教授は長く息を吐いた。
その時、研究室のドアがノックされた。
悠真だった。
「失礼します」
顔だけ出して、空気を読んだように止まる。
「……取り込み中?」
「入って」
澪が言った。
悠真は研究室へ入り、教授へ軽く頭を下げた。
その手には茶封筒があった。
「澪。これ、図書館の複写室に置かれてた。おまえ宛て」
教授の表情が変わった。
「見せなさい」
「僕に?」
悠真がわざと軽く言った。
「いや、雨宮さんに」
澪は封筒を受け取った。
中には古い地図のコピーが入っていた。
切り取られていたはずの部分。
そこには、細い水路と、小さな四角形が描かれている。
四角形の横に一文字。
——蔵。
悠真が息を呑んだ。
「これ、抜けてた場所やん」
教授は立ち上がった。
「誰がこれを」
「知りません」
澪は地図を見つめた。
四角形の位置は、南禅寺水路閣の近く。
だが正確には寺の敷地内ではない。
疏水の流れから少し外れた場所。
水が流れ込んで、止まる場所。
「保管庫……」
澪が呟く。
教授は目を閉じた。
観念したようにも、祈るようにも見えた。
「君のお父さんは、そこを見つけた」
静かな声だった。
澪は顔を上げた。
「いつですか」
「十五年前だ」
「父が失踪した年」
教授は頷かなかった。
だが否定もしなかった。
「戦時中、京都の一部文化財は極秘に移された。記録は残っていない。いや、残さなかった。空襲だけではない。混乱期の盗難を防ぐためだ」
「その保管庫が、まだ残っている?」
「可能性はある」
「中身は?」
教授は答えなかった。
代わりに、机の引き出しを開けた。
取り出したのは、小さな木箱だった。
箱の中には、古い写真が数枚入っている。
仏像の手。
巻物の一部。
金属製の小さな飾り。
どれも断片だった。
「これは?」
「保管庫から出たものだ」
悠真が身を乗り出す。
「じゃあ本当にあるんですね」
教授は悠真を見た。
「ある。だが、入ってはいけない」
「なぜ」
「水が止まっているからだ」
その言葉に、澪は昨夜の紙片を思い出した。
《水が止まる場所を探せ》
「止まった水は、腐る」
教授は言った。
「空気も悪い。構造も古い。崩落の危険がある」
「それだけですか」
澪が聞いた。
教授の目が、また揺れた。
「それだけだ」
嘘だった。
今度は、はっきり分かった。
研究室を出ると、悠真が廊下で立ち止まった。
「教授、何か隠してるな」
「うん」
「でも全部が嘘ではない」
「うん」
「危険なのも本当や」
澪は窓の外を見た。
中庭では、学生たちが傘を持たずに歩いている。
また雨が降りそうだった。
「だから行くなって言うつもり?」
悠真は困ったように笑った。
「言うだけ無駄やろ」
「よく分かってる」
「でも一人では行くな」
澪は答えなかった。
「返事」
「……分かった」
「今の間、絶対分かってへんやつや」
澪は少し笑った。
悠真も笑った。
だが、その笑いはすぐに消えた。
二人とも分かっていた。
もう、遊びではない。
午後、ルイが姿を見せなかった。
メッセージも既読にならない。
悠真が何度か電話したが、つながらなかった。
「教授に呼ばれたって昨日言ってたよな」
「うん」
「まさか、関係ある?」
澪はルイの顔を思い出した。
フランスの運河図面を見せた時の表情。
祖父の資料と言った時の半拍。
動画の記号を見て「ありえない」と呟いた声。
彼は何かを知っている。
でも、それが敵なのか味方なのかは分からない。
人は秘密を持つ。
悪意がなくても。
守りたい誰かがいれば、嘘をつく。
夕方。
澪のスマホに一通のメッセージが届いた。
差出人はルイ。
本文は短かった。
《すみません。僕は嘘をついていました》
続けて、位置情報。
南禅寺近く。
悠真が画面を見た瞬間、顔色を変えた。
「行くぞ」
「うん」
二人はキャンパスを飛び出した。
空は低く曇っている。
京都の町を、夕方の風が吹き抜けていた。
観光客で賑わう通りを抜ける。
土産物屋の明かり。
自転車のベル。
遠くで鳴る寺の鐘。
その全部が、今はやけに遠い。
地下鉄を降り、南禅寺へ向かう。
水路閣の赤煉瓦が見えた時、澪は足を止めた。
写真で見た場所。
父が立っていた場所。
明治の水が、今も頭上を流れている。
古都の上に、近代が架かっている。
京都は静かに見える。
だがその中では、いくつもの時代が衝突している。
「澪」
悠真が小声で言った。
水路閣の下。
柱の影に、白い紙が貼られていた。
近づく。
そこには見慣れた記号。
三角形の中央に一本線。
そして、その横にフランス語で一文。
澪は読み上げた。
「La vérité dort sous l'eau.」
悠真が聞く。
「意味は?」
澪は紙を見つめた。
「真実は、水の下で眠る」
その時、水路閣の奥から物音がした。
振り返る。
柱の影に、人が倒れていた。
ルイだった。
意識はある。
だが、額から血が流れている。
悠真が駆け寄る。
「ルイ!」
ルイは薄く目を開け、澪を見た。
「……教授を、信じないで」
澪の呼吸が止まる。
ルイは震える指で、水路閣の奥を指した。
「入口は……下じゃない。上です」
その直後。
水路閣の上を、静かに水が流れる音がした。
まるで、長い間眠っていた何かが目を覚ますように。
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