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鴨川デルタの暗号|第六章 失われた文化財

京都の朝は、寺の鐘より先に宅配バイクの音で始まる。

澪はアパートの窓を開けた。

湿った風が入ってくる。

昨夜の雨がまだ街に残っていた。

遠くで鴨川の流れが光っている。

スマホには、深夜の録画映像が表示されたままだった。

左利き。

赤い紐。

地下通路。

そして、父のノートに挟まっていた一文字。

——蔵。

「蔵って、普通に考えたら保管庫だよね」

大学へ向かう途中、悠真が言った。

「うん」

「文化財とか?」

「可能性はある」

「でも、なんで地下水路に隠す必要があるんや」

澪は少し考えた。

「戦争」

悠真が足を止める。

「……ああ」

「空襲から守るため」

京都は大規模空襲を免れた。

だが、戦時中には「もし空襲されたら」という想定はされていた。

寺。

仏像。

古文書。

失えば戻らないもの。

だから人は隠す。

歴史を守るために。


大学へ着くと、キャンパスは妙にざわついていた。

学生たちがスマホを見ながら話している。

「見た?」

「やばくない?」

「マジで地下あるん?」

悠真が眉をひそめた。

「また動画か」

澪もスマホを開いた。

#鴨川デルタの暗号

関連動画はさらに増えている。

その中の一本が、急激に再生数を伸ばしていた。

タイトル。

《京都大学地下に封印された文化財》

「最悪」

悠真が呟く。

動画投稿者は“ハント京都”。

例の配信グループだった。

橋の下の隙間まで映っている。

昨夜、自分たちが見つけた入口だ。

「誰か撮ってたのか」

「たぶん、河原のどこかから」

コメント欄は騒然としていた。

『行ってみたい』

『絶対宝ある』

『行政が隠してる』

『京都怖すぎ』

真実はまだ何も分かっていない。

だが、人は空白を見ると勝手に物語を作る。

それがSNSだった。


「急いだ方がいい」

澪が言った。

「何を?」

「誰かが先に入る前に」


二人は図書館地下資料室へ向かった。

今日はルイもいた。

だが様子がおかしい。

顔色が悪い。

「どうしたの?」

澪が聞く。

ルイは少し迷ってから答えた。

「教授に、調査をやめろと言われました」

「なんで?」

「危険だから、と」

悠真が鼻で笑った。

「便利な言葉やな、“危険”って」

ルイは反応しなかった。

代わりに、鞄から一枚の紙を取り出す。

古い新聞記事のコピーだった。

昭和二十年。

終戦直前。

見出しにはこうある。

《京都文化財 疎開計画》

澪の目が止まる。

「疎開……」

「戦争中、一部の文化財を移動させる計画があったみたいです」

ルイが言った。

「でも、記録が途中で消えている」

悠真が紙を覗き込む。

「どこへ移したか載ってへん」

「そこだけ切れてる」

澪は記事を見つめた。

不自然だった。

まるで誰かが、意図的に場所を消したみたいに。


「蔵」

澪が呟く。

「え?」

「父のノートにあった」

ルイの表情が変わる。

「見せてください」

澪はスマホ写真を見せた。

和紙に書かれた一文字。

——蔵。

ルイはしばらく黙っていた。

「フランスにも似た例があります」

「似た例?」

「戦争中、美術品を地下水路に隠した」

悠真が目を丸くする。

「マジか」

「水路は温度が安定します。湿度も管理しやすい。何より、見つかりにくい」

澪の脳裏で、地下通路の冷たい空気が蘇った。

閉じた水は、記録を腐らせない。

父のメモ。

あれは比喩ではなかった。


資料室の奥へ向かう。

鉄扉の前。

昨日と変わっていない。

だが、床に新しい跡があった。

白い粉。

悠真が指で触れる。

「石灰?」

澪は匂いを嗅いだ。

「違う。漆喰に近い」

「なんでそんなもんが」

「古い蔵によく使う」

悠真が顔を上げる。

「つまり、この先……」

澪は頷いた。

地下水路だけじゃない。

保管施設がある。


その時だった。

階段の方から声がした。

「君たち、何をしている」

三人が振り返る。

教授だった。

考古学研究室の主任。

白髪混じり。

細い眼鏡。

いつも穏やかな人物だ。

だが今は違う。

表情が硬い。


「資料調査です」

澪が答える。

教授は鉄扉を見た。

その一瞬だけ。

ほんの一瞬だけ、目が揺れた。

澪は見逃さなかった。

人は驚く時、まず目が動く。

言葉より先に。

「ここは立入禁止だ」

「知りませんでした」

「今知ったなら、戻りなさい」

悠真が口を開く。

「教授、この扉なんなんですか」

「古い設備だ」

「何の?」

教授は答えない。

代わりに、澪を見た。

「雨宮さん」

「はい」

「君のお父さんは、好奇心が強すぎた」

空気が止まる。

澪の指先がわずかに固くなった。

「父を知ってるんですか」

教授は少し黙った。

「……昔、一緒に調査をした」

「地下水路の?」

「それ以上は聞かない方がいい」

悠真が眉をひそめる。

「なんでです」

教授は答えなかった。

だが、その沈黙が逆に不自然だった。

本当に何も知らない人間は、もっと軽く否定する。


教授が去ったあと、悠真が低い声で言った。

「絶対なんか隠してるやん」

「うん」

澪は鉄扉を見つめた。

教授は“危険”と言った。

だが、本当に怖れているのは別のものだ。

秘密が明るみに出ること。

それを、人は“危険”と呼ぶ。


午後。

三人は再び古地図を広げていた。

現在地図。

戦前地図。

疏水経路図。

それらを重ねていく。

すると、一つだけ妙な点があった。

「ここ」

澪が指差す。

南禅寺方向へ延びる旧水路。

その途中に、小さな空白地帯がある。

「地図が抜けてる?」

悠真が言う。

「いや、違う」

澪は拡大した。

「意図的に塗り潰してる」

ルイが静かに呟く。

「蔵の位置……」

その時だった。

資料室の照明が、一瞬だけ消えた。

暗闇。

数秒。

そして復旧。

だが。

鉄扉の前に、白いものが落ちていた。

誰も気づかなかったはずなのに。

悠真が拾い上げる。

小さな紙片。

古い和紙だった。

そこに墨で一行だけ書かれている。

《次は、水が止まる場所を探せ》

澪の心臓がゆっくり強く打った。

水が止まる場所。

それはつまり。

流れの終点。

あるいは。

“閉じられた水”。


その夜。

澪は一人で鴨川沿いを歩いていた。

川面には、京都の灯りが揺れている。

昔の人間も、同じようにこの水を見ていたのだろうか。

戦争の夜。

文化財を抱えながら。

守りたいものを失わないために。


スマホが震えた。

非通知。

澪は少し迷い、通話を取る。

無音。

そして、あの水音。

低い声。

「……止まれ」

前と同じ男だった。

「あなたは誰」

返事はない。

代わりに、短い呼吸。

その向こうで、金属音がした。

古い扉を閉めるような音。

「父は生きてるの?」

沈黙。

数秒後。

男は初めて、はっきり言った。

「近づけば、お前も消える」

通信が切れた。

澪はしばらく動かなかった。

川風が吹く。

水面が揺れる。

その時だった。

橋の向こう。

街灯の下に、誰かが立っていた。

帽子を深く被った人物。

こちらを見ている。

だが今度は逃げなかった。

ゆっくり腕を上げる。

そして。

白い紙を川へ落とした。

紙は流れていく。

澪は反射的に走った。

河原へ降りる。

手を伸ばす。

冷たい水が袖へ入った。

なんとか紙を掴む。

開く。

そこには、赤いインクで地図が描かれていた。

南禅寺水路閣。

そして、その地下へ向かう一本の線。


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